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第1章
第一話
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蛍が「運命だ」と感じた瞬間は、人生で三度ある。
たった三度というのか、三度もあるというのか。
それでも、その三度があったからこそ、今の自分が形づくられているとさえ思う。
一回目はまだ庭木より背の低かった幼い日。
近所の優しいあの子。
大好きなお兄さん。
夏祭りの綿あめよりも甘くて、母の腕の中よりも安心できる匂いだった。
その匂いに運命と名付けたのはずいぶん後のことだった。
二回目は、初恋の人が教育実習生としてやってきたとき。
高校二年の夏だった。教壇に立った彼を見た瞬間、蛍の心臓は早鐘を打った。
三回目は、好きな人と大学で再会した時――。
もう二度と会うことはないと思っていたからこそ、やはり運命なのではないかと思った。
「来週のゼミ、どんな内容だっけ?」
大学一年の夏。相沢真帆は頬杖を突きながら、声をかけてきた。
一年生の前期は、研究室を回って専攻への理解を深めるという入門講座があった。真帆と蛍は同じグループだったため、自然と行動を共にすることが増えていた。
「マクロ経済」
「あ、面白そうな研究やってるところだよね」
「え、そう? 経済成長とか言われても俺、よくわかんないけど」
「経済学部性がそれ言っちゃだめでしょ」
真帆が大きな口をあけて笑いながら言う。
「その次が、ジェンダー経済学のところか」
思い出したように真帆が言う。
「第二性のことも絡めて研究してる研究室ってまだ珍しいらしいね」
「そうなんだ」
蛍はオメガだ。大きな瞳に、白い肌。
男性にしては華奢なほうで、体のラインの出にくい服を着ていると女性と間違えられることもある。
真帆には早い段階でオメガだということを打ち明けていた。
第二性は公にするものではないが、トラブルを避けるためにも蛍は近しい人間には伝えるようにしていた。
これまでに打ち明けたことのある友人の多くと同じく、真帆は大きな驚きもなくそれを受け入れてくれた。
「あれ、ジェンダー経済学があるからこの大学受けたのかと思ったけれど、違った?」
「うん。特にやりたいこともなくて、経済学だったらつぶしが効くかなと思ったから」
「あらドライ」
「真帆は熱い理由でもあるの?」
「いや、私も似たようなもの。でも、ジェンダー経済学には興味あるよ。まあ、私の場合は第二性というより第一性のほうだけれど」
「ふうん」
「興味なさそう」
「ないことはないけど」
「まあ、私もだけれど、早く興味のあるものを見つけないとだね。来年にはゼミを決めないといけないし」
「ジェンダー経済学じゃないの?」
「うーん、興味はあるけれど……、そこまでではない」
真帆はそう言って、伸びをした。
窓から差し込む夏の日差しが、教室の床に四角い光を落としている。
蛍は窓の外に目をやった。
キャンパスの中庭では、学生たちが思い思いに昼休みを過ごしている。平凡で、穏やかな大学生活。高校を卒業してから、蛍の日常はこんなふうに淡々と過ぎていった。
あっという間に数週間がたち、ジェンダー経済学の研究室へ行く日がやってきた。
教室に入ると、既に数人の学生が席についていた。
「今日のTAはどんな人かな」
真帆が期待を込めて呟く。マクロ経済のTA――ティーチングアシスタントは博士課程の学生だった。
教授が入ってきて、その後ろから一人の青年が続いた。
「今日から二週間、君たちの指導補助をしてもらう、芦原健吾君だ。大学院の修士課程で——」
教授の声が急に遠くなった。
蛍の視界が一瞬、白く染まる。心臓が大きく跳ね、血流が耳の奥で音を立てた。
「芦原です。よろしくお願いします」
健吾が軽く頭を下げる。
その視線が教室をゆっくりと見渡していく。
蛍と目が合った瞬間、健吾の表情がかすかに変わった。
驚き、そして——何か複雑な感情が一瞬だけその瞳をよぎる。
だが次の瞬間には、他の学生たちと同じように、穏やかな笑みを向けるだけだった。
まるで蛍が特別な存在ではないかのように。
「ねえ、見た?」
真帆が小声で騒ぎ始めた。
「TAの人、めっちゃイケメンじゃない?」
「そうかな」
蛍は黙って机の上のノートを見つめた。
「では、早速ですが」
健吾の声が響いて、教室が静まり返った。
「ジェンダー経済学の基礎について、簡単に説明していきます」
健吾は流暢に話し始めた。
第一性、第二性による賃金格差、オメガの社会進出における課題、番制度が経済に与える影響。
その声は落ち着いていて、聞き取りやすい。
蛍は健吾の横顔を見つめながら、高校時代のことを思い出していた。
あの時も、健吾はこんなふうに話をしていた。
たった三度というのか、三度もあるというのか。
それでも、その三度があったからこそ、今の自分が形づくられているとさえ思う。
一回目はまだ庭木より背の低かった幼い日。
近所の優しいあの子。
大好きなお兄さん。
夏祭りの綿あめよりも甘くて、母の腕の中よりも安心できる匂いだった。
その匂いに運命と名付けたのはずいぶん後のことだった。
二回目は、初恋の人が教育実習生としてやってきたとき。
高校二年の夏だった。教壇に立った彼を見た瞬間、蛍の心臓は早鐘を打った。
三回目は、好きな人と大学で再会した時――。
もう二度と会うことはないと思っていたからこそ、やはり運命なのではないかと思った。
「来週のゼミ、どんな内容だっけ?」
大学一年の夏。相沢真帆は頬杖を突きながら、声をかけてきた。
一年生の前期は、研究室を回って専攻への理解を深めるという入門講座があった。真帆と蛍は同じグループだったため、自然と行動を共にすることが増えていた。
「マクロ経済」
「あ、面白そうな研究やってるところだよね」
「え、そう? 経済成長とか言われても俺、よくわかんないけど」
「経済学部性がそれ言っちゃだめでしょ」
真帆が大きな口をあけて笑いながら言う。
「その次が、ジェンダー経済学のところか」
思い出したように真帆が言う。
「第二性のことも絡めて研究してる研究室ってまだ珍しいらしいね」
「そうなんだ」
蛍はオメガだ。大きな瞳に、白い肌。
男性にしては華奢なほうで、体のラインの出にくい服を着ていると女性と間違えられることもある。
真帆には早い段階でオメガだということを打ち明けていた。
第二性は公にするものではないが、トラブルを避けるためにも蛍は近しい人間には伝えるようにしていた。
これまでに打ち明けたことのある友人の多くと同じく、真帆は大きな驚きもなくそれを受け入れてくれた。
「あれ、ジェンダー経済学があるからこの大学受けたのかと思ったけれど、違った?」
「うん。特にやりたいこともなくて、経済学だったらつぶしが効くかなと思ったから」
「あらドライ」
「真帆は熱い理由でもあるの?」
「いや、私も似たようなもの。でも、ジェンダー経済学には興味あるよ。まあ、私の場合は第二性というより第一性のほうだけれど」
「ふうん」
「興味なさそう」
「ないことはないけど」
「まあ、私もだけれど、早く興味のあるものを見つけないとだね。来年にはゼミを決めないといけないし」
「ジェンダー経済学じゃないの?」
「うーん、興味はあるけれど……、そこまでではない」
真帆はそう言って、伸びをした。
窓から差し込む夏の日差しが、教室の床に四角い光を落としている。
蛍は窓の外に目をやった。
キャンパスの中庭では、学生たちが思い思いに昼休みを過ごしている。平凡で、穏やかな大学生活。高校を卒業してから、蛍の日常はこんなふうに淡々と過ぎていった。
あっという間に数週間がたち、ジェンダー経済学の研究室へ行く日がやってきた。
教室に入ると、既に数人の学生が席についていた。
「今日のTAはどんな人かな」
真帆が期待を込めて呟く。マクロ経済のTA――ティーチングアシスタントは博士課程の学生だった。
教授が入ってきて、その後ろから一人の青年が続いた。
「今日から二週間、君たちの指導補助をしてもらう、芦原健吾君だ。大学院の修士課程で——」
教授の声が急に遠くなった。
蛍の視界が一瞬、白く染まる。心臓が大きく跳ね、血流が耳の奥で音を立てた。
「芦原です。よろしくお願いします」
健吾が軽く頭を下げる。
その視線が教室をゆっくりと見渡していく。
蛍と目が合った瞬間、健吾の表情がかすかに変わった。
驚き、そして——何か複雑な感情が一瞬だけその瞳をよぎる。
だが次の瞬間には、他の学生たちと同じように、穏やかな笑みを向けるだけだった。
まるで蛍が特別な存在ではないかのように。
「ねえ、見た?」
真帆が小声で騒ぎ始めた。
「TAの人、めっちゃイケメンじゃない?」
「そうかな」
蛍は黙って机の上のノートを見つめた。
「では、早速ですが」
健吾の声が響いて、教室が静まり返った。
「ジェンダー経済学の基礎について、簡単に説明していきます」
健吾は流暢に話し始めた。
第一性、第二性による賃金格差、オメガの社会進出における課題、番制度が経済に与える影響。
その声は落ち着いていて、聞き取りやすい。
蛍は健吾の横顔を見つめながら、高校時代のことを思い出していた。
あの時も、健吾はこんなふうに話をしていた。
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