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第1章
第三話
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健吾とは朝と夕方のホームルームで顔を合わせる。
だが、授業は週に一回だったため、関わり自体は多くない。
数日後の昼休み、廊下の自販機の前で偶然出くわした。
「まだここの購買パン人気あるの?」
「うん、でも並ぶから滅多に買えないよ」
「そっか。俺、高校のときはよく食べてたな」
そんな他愛もない会話でさえ、胸の奥を温める。
「健ちゃ……芦原先生はなんのパンが好きだったの?」
「俺は焼きそばパン、蛍は?」
「メロンパン」
「蛍は昔から甘いものが好きだな」
けれど会話が終われば、健吾は他の生徒からも気軽に声をかけられ、あっという間に人の輪に紛れていく。
蛍だけが特別ではない現実を、否応なく突きつけられる。
「先輩が、芦原先生はアルファじゃないって言ってた」
教室で女生徒が会話してるのが耳に入る。
「え、そうなの? アルファっぽいのに」
「うん、匂いがしないって言ってた」
三年生に女性オメガがいると言うのは蛍も聞いたことがあった。
先輩というのはその女性のことなのだろうか。
「あーあ、ベータかあ。彼女いるのかなあ?」
「そりゃいるでしょ。今は関西の大学らしいからプチ遠距離中なのかなー」
女生徒たちの妄想にも近い会話は続いていく。
「なに、気になんの?」
正面で弁当を広げていた智也が蛍を見る。
「ちょっと」
「ふーん。芦原先生がアルファかどうかって重要かねー」
「さあねえ」
智也の言うことは理にかなっている。
ベータ女性にとって、相手がアルファ男性なのかベータ男性なのかは重要ではないはずだ。
なんなら、オメガにとってもそれほど重要ではないとされる。
抑制剤の発達した現代では、アルファとオメガが結ばれるケースより、第二性関係なく第一性の性別のみで結ばれることが多いからだ。
「あー、俺も彼女ほしいわー」
智也はそう言って窓の外に視線を向ける。
「この前言ってた二組の子はどうなったの?」
少し声を潜めて蛍は尋ねる。
「全然ダメ、脈なし」
「そりゃ残念」
蛍は智也の恋愛話を聞きながらも、頭の片隅では健吾のことを考えていた。
アルファではないという噂。
それが本当なら、幼い頃に感じたあの甘い匂いは何だったのだろう。
記憶違いだったのか、それとも——。
「でもさ、芦原先生って何か謎めいてない?」
智也が急に話題を変えた。
「謎めいてるって?」
「なんていうか、距離感が絶妙なんだよね。フレンドリーだけど、一歩引いてるというか」
智也の指摘は的を射ていた。
健吾は誰に対しても優しく接するが、どこか線を引いているような印象があった。
放課後、蛍は図書館で勉強していた。
テスト期間が近づいていたからだ。
静かな館内で、ページをめくる音だけが響いている。
「勉強熱心だね」
突然の声に顔を上げると、健吾が立っていた。
「健ちゃん。お疲れさま」
「こちらこそ。一人?」
「うん。テスト勉強」
健吾は蛍の向かいの席に座った。
近くで見ると、少し疲れているようにも見える。
「実習って大変?」
「慣れないことばかりで。でも、楽しいよ」
健吾は微笑んだが、その笑顔はどこか寂しげだった。
図書館が閉まる時間になり、二人は一緒に外に出た。
夕暮れの校庭を歩きながら、健吾が口を開いた。
「蛍、困ってることない?」
突然の言葉に、蛍は立ち止まった。
「え?」
「いろいろ……大変なこともあるだろ」
「ああ、俺がオメガだから?」
「まあ、そうかな……大丈夫?」
蛍の態度に健吾は面食らったようだった。
蛍は頷いた。否定する理由もなかった。
「大変じゃない? 高校生活」
「そんなことないよ。抑制剤があるし」
「そっか。蛍は……アルファが分かる?」
「ううん、薬を飲むようになってから全然わかんない。健ちゃんの匂いも分かんなくなっちゃった」
「そっか、まあ、散々言われてるだろうけど、気をつけろよ。蛍は可愛いから」
健吾の言葉に、蛍の頬が熱くなった。
可愛いと言われたことよりも、健吾が自分を心配してくれていることが嬉しかった。
「ありがとう。でも大丈夫だよ」
「そうだね、蛍は昔から賢かったから」
「俺の事賢いっていうの健ちゃんくらい」
「そりゃ、周りの見る目がない」
健吾が笑う姿が眩しい。
「健ちゃんはいつもそうやって俺のこと褒めてくれる」
「本当のことだから」
健吾の優しい声に、蛍の胸がきゅっと締まる。
こんなに近くにいるのに、触れることはできない。幼い頃のように手を繋ぐこともできない。
「大学、関西なんでしょ?」
「うん。今年、卒業予定」
「そっか」
また遠くに行ってしまう。蛍はそれが寂しくて仕方なかった。
校門まで来ると、健吾が足を止めた。
「じゃあ、また明日」
「うん」
健吾が去ろうとした時、蛍は思わず声をかけていた。
「健ちゃん」
「ん?」
「また昔みたいに、一緒にいられたらいいのに」
健吾の表情が一瞬、柔らかくなった。でもすぐに困ったような顔になる。
「蛍......」
「ごめん、変なこと言った」
「いや、俺も......」
健吾は言いかけて、首を振った。
「また明日な」
健吾の背中が小さくなっていくのを見ながら、蛍は胸の奥が熱くなるのを感じていた。
好きだ。
昔よりもずっと、強く。
健吾の笑顔を見ていると息ができなくなりそうになる。
健吾が自分の名前を呼ぶ声を聞いていると、胸が痛いほど幸せになる。
でも同時に、健吾の困ったような表情も忘れられない。
自分がオメガだから。
それが二人の間にある、見えない壁なのだ。
だが、授業は週に一回だったため、関わり自体は多くない。
数日後の昼休み、廊下の自販機の前で偶然出くわした。
「まだここの購買パン人気あるの?」
「うん、でも並ぶから滅多に買えないよ」
「そっか。俺、高校のときはよく食べてたな」
そんな他愛もない会話でさえ、胸の奥を温める。
「健ちゃ……芦原先生はなんのパンが好きだったの?」
「俺は焼きそばパン、蛍は?」
「メロンパン」
「蛍は昔から甘いものが好きだな」
けれど会話が終われば、健吾は他の生徒からも気軽に声をかけられ、あっという間に人の輪に紛れていく。
蛍だけが特別ではない現実を、否応なく突きつけられる。
「先輩が、芦原先生はアルファじゃないって言ってた」
教室で女生徒が会話してるのが耳に入る。
「え、そうなの? アルファっぽいのに」
「うん、匂いがしないって言ってた」
三年生に女性オメガがいると言うのは蛍も聞いたことがあった。
先輩というのはその女性のことなのだろうか。
「あーあ、ベータかあ。彼女いるのかなあ?」
「そりゃいるでしょ。今は関西の大学らしいからプチ遠距離中なのかなー」
女生徒たちの妄想にも近い会話は続いていく。
「なに、気になんの?」
正面で弁当を広げていた智也が蛍を見る。
「ちょっと」
「ふーん。芦原先生がアルファかどうかって重要かねー」
「さあねえ」
智也の言うことは理にかなっている。
ベータ女性にとって、相手がアルファ男性なのかベータ男性なのかは重要ではないはずだ。
なんなら、オメガにとってもそれほど重要ではないとされる。
抑制剤の発達した現代では、アルファとオメガが結ばれるケースより、第二性関係なく第一性の性別のみで結ばれることが多いからだ。
「あー、俺も彼女ほしいわー」
智也はそう言って窓の外に視線を向ける。
「この前言ってた二組の子はどうなったの?」
少し声を潜めて蛍は尋ねる。
「全然ダメ、脈なし」
「そりゃ残念」
蛍は智也の恋愛話を聞きながらも、頭の片隅では健吾のことを考えていた。
アルファではないという噂。
それが本当なら、幼い頃に感じたあの甘い匂いは何だったのだろう。
記憶違いだったのか、それとも——。
「でもさ、芦原先生って何か謎めいてない?」
智也が急に話題を変えた。
「謎めいてるって?」
「なんていうか、距離感が絶妙なんだよね。フレンドリーだけど、一歩引いてるというか」
智也の指摘は的を射ていた。
健吾は誰に対しても優しく接するが、どこか線を引いているような印象があった。
放課後、蛍は図書館で勉強していた。
テスト期間が近づいていたからだ。
静かな館内で、ページをめくる音だけが響いている。
「勉強熱心だね」
突然の声に顔を上げると、健吾が立っていた。
「健ちゃん。お疲れさま」
「こちらこそ。一人?」
「うん。テスト勉強」
健吾は蛍の向かいの席に座った。
近くで見ると、少し疲れているようにも見える。
「実習って大変?」
「慣れないことばかりで。でも、楽しいよ」
健吾は微笑んだが、その笑顔はどこか寂しげだった。
図書館が閉まる時間になり、二人は一緒に外に出た。
夕暮れの校庭を歩きながら、健吾が口を開いた。
「蛍、困ってることない?」
突然の言葉に、蛍は立ち止まった。
「え?」
「いろいろ……大変なこともあるだろ」
「ああ、俺がオメガだから?」
「まあ、そうかな……大丈夫?」
蛍の態度に健吾は面食らったようだった。
蛍は頷いた。否定する理由もなかった。
「大変じゃない? 高校生活」
「そんなことないよ。抑制剤があるし」
「そっか。蛍は……アルファが分かる?」
「ううん、薬を飲むようになってから全然わかんない。健ちゃんの匂いも分かんなくなっちゃった」
「そっか、まあ、散々言われてるだろうけど、気をつけろよ。蛍は可愛いから」
健吾の言葉に、蛍の頬が熱くなった。
可愛いと言われたことよりも、健吾が自分を心配してくれていることが嬉しかった。
「ありがとう。でも大丈夫だよ」
「そうだね、蛍は昔から賢かったから」
「俺の事賢いっていうの健ちゃんくらい」
「そりゃ、周りの見る目がない」
健吾が笑う姿が眩しい。
「健ちゃんはいつもそうやって俺のこと褒めてくれる」
「本当のことだから」
健吾の優しい声に、蛍の胸がきゅっと締まる。
こんなに近くにいるのに、触れることはできない。幼い頃のように手を繋ぐこともできない。
「大学、関西なんでしょ?」
「うん。今年、卒業予定」
「そっか」
また遠くに行ってしまう。蛍はそれが寂しくて仕方なかった。
校門まで来ると、健吾が足を止めた。
「じゃあ、また明日」
「うん」
健吾が去ろうとした時、蛍は思わず声をかけていた。
「健ちゃん」
「ん?」
「また昔みたいに、一緒にいられたらいいのに」
健吾の表情が一瞬、柔らかくなった。でもすぐに困ったような顔になる。
「蛍......」
「ごめん、変なこと言った」
「いや、俺も......」
健吾は言いかけて、首を振った。
「また明日な」
健吾の背中が小さくなっていくのを見ながら、蛍は胸の奥が熱くなるのを感じていた。
好きだ。
昔よりもずっと、強く。
健吾の笑顔を見ていると息ができなくなりそうになる。
健吾が自分の名前を呼ぶ声を聞いていると、胸が痛いほど幸せになる。
でも同時に、健吾の困ったような表情も忘れられない。
自分がオメガだから。
それが二人の間にある、見えない壁なのだ。
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