【完結】初恋のアルファには番がいた—番までの距離—

水樹りと

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第1章

第五話

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 そんなある日の放課後、蛍は偶然、健吾が一人で中庭のベンチに座っているのを見つけた。
 珍しく一人でいる健吾に、蛍は声をかけた。
「健ちゃん、お疲れさま」
「蛍か。どうしたの?」
「健ちゃんこそ、どうしたの? 一人で」
「ちょっと考え事してて」
 健吾は隣の席を空けてくれた。蛍は嬉しくて、すぐに座る。
「何考えてたの?」
「実習のこと。もうすぐ終わりだなって」
「寂しい?」
「うん、寂しいよ。みんないい子だし」
 健吾は遠くを見つめながら答えた。
「俺も寂しい」
「蛍も?」
「健ちゃんがいなくなるの、すごく寂しい」
 蛍の素直な言葉に、健吾が振り返った。二人の視線が合う。
 健吾の瞳に、何か複雑な感情が宿っているのが見えた。
「蛍……」
「何?」
「俺も、蛍と離れるのは寂しいよ」
 健吾の言葉に、蛍の心臓が激しく鼓動した。
(それって、生徒として?)
 でも次の瞬間、健吾は立ち上がった。
「もう帰らないと。蛍も気をつけて帰れよ」
「うん」
 健吾の背中を見送りながら、蛍は自分の気持ちがもう抑えきれないところまで来ていることを自覚した。
 残りわずかな時間で、この想いをどうしたらいいのだろう。


 教育実習最後の週、蛍の心は揺れ続けていた。
 健吾への想いを伝えるべきか、このまま胸の奥に仕舞っておくべきか。毎日悩んでいるうちに、時間だけが過ぎていく。



 最後の授業の日、健吾は普段よりも丁寧に授業を進めていた。
 まるで一瞬一瞬を大切にするように。
 蛍はその姿を見つめながら、胸が締め付けられるような思いでいた。

「それでは、今日で私の授業は最後になります」

 健吾の言葉に、教室がざわめいた。特に女子生徒たちからは惜しむ声が上がる。

「短い間でしたが、皆さんと過ごした時間は私にとって貴重な経験でした。ありがとうございました」

 健吾が深く頭を下げると、教室は大きな拍手に包まれた。


 授業後、いつものように健吾の周りに生徒たちが集まった。
 連絡先を聞く子、写真を撮りたがる子、様々だった。
 蛍は席に座ったまま、その光景を見ていた。

「写真撮りましょうよ!」
「先生、絶対忘れないでくださいね」

 賑やかな声が教室に響く。

 やがて生徒たちも帰り始め、教室は静かになった。健吾は黒板を消しながら、振り返った。
「蛍、まだいたのか」
「うん」
「何か用事?」
 蛍は立ち上がった。

 今しかない。

「健ちゃん、話がある」
「何?」
 健吾の表情が少し緊張したように見えた。

「俺……健ちゃんのこと」
 言いかけて、蛍は言葉に詰まった。健吾がじっと見つめている。

「健ちゃんのこと、好き」

 やっと言えた。

 教室に蛍の声だけが響く。

 健吾の表情が変わった。驚き、困惑、そして悲しみが混じったような複雑な表情だった。

「蛍……」
「昔からずっと好きだった。幼馴染として、じゃなくて」
 一度言い始めると、言葉が止まらなくなった。

「健ちゃんが教育実習に来てくれて、すごく嬉しかった。でも同時に苦しかった。健ちゃんが他の子と話してるのを見ると胸が痛くて」

「蛍、落ち着いて」

 健吾が優しく声をかけた。でも蛍にはもう止められなかった。

「俺がオメガだから? だから健ちゃんは俺を避けるの?」
「そうじゃない」
「じゃあ何? 俺の何がだめなの?」

 蛍の声が震えていた。
 健吾は深いため息をついた。

「蛍は何も悪くない」
「でも——」
「俺は教育実習生、蛍は生徒だ」

 健吾は言葉を区切った。

「蛍は今、感情的になってる。偶然、再開して勘違いしちゃったんだ。時間が経てば、きっと違う考えになる」

「ならない」

「なる」

「健ちゃんは俺の気持ちを分かってない」

 二人の間に沈黙が流れた。夕日が教室を赤く染めている。

「蛍」
 健吾がゆっくりと口を開いた。
「蛍は大切な存在だ。幼い頃からずっと」
 蛍の心臓が跳ね上がる。
「でも、今は立場が違う。それに……」
 健吾は躊躇うように一瞬止まった。


「俺には番がいる」


 健吾の言葉に、蛍の世界が一瞬で崩れ落ちた。

「番?」

 蛍の声は掠れていた。

「そんな……」
 蛍は立っていることができなくなり、机に手をついた。番がいる。
 健吾にはもう相手がいる。
 それも、自分と同じオメガの。

「だから、蛍の気持ちには応えられない」
「でも昔は……昔は俺のこと」
「昔は昔だ」
 健吾の言葉が冷たく響いた。
「嘘だ」
 蛍が呟く。
「健ちゃんは俺を避けてた。俺がオメガだから」
「それは……」
 健吾が言いよどんだ。

「教育実習生として適切じゃないと思ったからだ」
「本当に?」

 健吾は答えなかった。その沈黙が、蛍には答えのように思えた。

「俺、ずっと健ちゃんのこと考えてた」
 涙が頬を伝った。
「高校に入ってからも、ずっと。まさかもう一度会えるとは思わなかった。運命かと思った」
「蛍……」
「でも健ちゃんにはもう番がいるんだ」

 健吾は苦しそうな表情を浮かべていた。

「ごめん」
「謝らないで」
 蛍は涙を拭った。
「健ちゃんが幸せなら、それでいい」
 教室に夕日が差し込んで、二人の影を長く伸ばしていた。
「蛍はきっと素晴らしい人に出会える」
「健ちゃんより?」
「うん、俺より。蛍は優しくて、賢くて……誰かを大切に思える人だ」
 健吾の言葉が、かえって蛍の胸を締め付けた。
「健ちゃんを大切に思いたかった」
 蛍の声は小さかった。
「俺、健ちゃんの番になりたかった」
「蛍」
 健吾が一歩近づこうとした時、蛍は後ずさりした。
「もう大丈夫」
 蛍は笑おうとしたが、うまくいかなかった。

「健ちゃん、お疲れさまでした。お幸せに」

 蛍は荷物を掴んで教室を出ようとした。

「蛍、待って」

 健吾の声が後ろから聞こえたが、蛍は振り返らなかった。振り返ったら、きっとまた崩れてしまう。

 廊下を歩きながら、蛍は健吾との幼い頃の記憶を思い出していた。
 優しい匂い、温かい手、穏やかな笑顔。全部が今は遠い思い出になってしまった。

 昇降口を出ると、夕暮れの空が広がっていた。蛍は空を見上げながら、深く息を吸った。
 これで終わり。初恋は、こうして終わるのだ。
 そうして、健吾は学校を去った。





 それから数日間、蛍は抜け殻のようだった。授業中もぼんやりしていて、友達の話も上の空だった。
「大丈夫?」
 智也が心配そうに声をかけてくれた。
「うん、大丈夫」
 蛍は作り笑いを浮かべた。

 でも夜になると、涙が止まらなかった。枕に顔を埋めて、声を殺して泣いた。
 健吾への想いが胸の奥で渦巻いていて、それをどう処理していいのか分からなかった。
 一週間が経った頃、蛍は決心した。

 もう健吾のことは諦めよう。
 健吾には番がいる。

 自分の入り込む余地なんてない。

 番の関係は、結婚で結ばれる関係よりも強いとされる。
 精神と肉体で結ばれる、この世で唯一の関係。
 互いのフェロモンしか感じられなくなり、世界でただ一人の相手となれる。


 健吾はもう番を見つけている。


 それは蛍ではない。

 蛍ではないのだ。
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