【完結】初恋のアルファには番がいた—番までの距離—

水樹りと

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第2章

第六話

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 期待していた夏休みだったが、すぐに現実を突き付けられることとなった。
 夏休みの間、蛍は何度か健吾にメッセージを送った。
 映画の感想や勧められた本の話題。
 返事はきちんと来るが、「学会準備でバタバタしてる」「実家にも顔を出していて、また落ち着いたら」といった短いものばかりで、予定が合う日は一度もなかった。
(やっぱり脈がないのかな)
 それでも蛍は、健吾が勧めてくれた本を読み続けた。
 経済学の入門書から始まり、統計手法の解説書なども読んだ。
 難解な部分は図書館やインターネットで調べ、わからない専門用語はノートに書き出して整理した。
 健吾とのメッセージのやり取りが途絶えがちでも、学問を通じて彼の思考に触れているような気がした。


 九月の中旬、映像研究会の活動で久しぶりに智也と会った時、彼は蛍の手元を見て目を丸くした。
「何読んでるの?」
「夏休みの宿題」
「嘘つけ。宿題なんかないだろ」
「まあね。ちょっと興味があって」
「ああ、芦原先生のおすすめね」
 智也の観察眼は相変わらず鋭い。蛍はそれきり黙った。
 夜風にまだ昼の熱が残る九月の終わり、学内のサイトに後期のシラバスが公開になり、蝉の声が薄くなっていく。
 連絡先を交換できた喜びも、すっかり日常に薄められていた。
 長い休みは静かに背中を押すように終わりへ向かっていた。

 十月に入り、後期の講義が始まる。蛍は迷った末に、ジェンダー経済学の講義を履修することに決めていた。
「本当に取るの? 結構大変だって聞いたよ」
 真帆が履修登録の画面を覗き込みながら言う。
「うん、興味があるから」
「芦原さんの影響?」
「……それもあるけど」
 確かに健吾の存在は背中を押した。
 けれど、夏の間に関連書を何冊か読み、データで社会の歪みを照らす手法そのものに惹かれたのも事実だ。
 特に、オメガが直面する課題を数量的に捉え、構造として描く方法論に強く心が動いた。
「でも健吾さん、後期もTAやるのかな?」
「さあ、どうだろう」
 それは蛍も気になっていた。
 夏の間、直接会ったのは、結局映画館での一度きりだった。

「そういえば」
 真帆が思い出したように声を落とす。
「昨日、経済学部の先輩と話してたんだけど」
「何の話?」
「芦原さんのこと。結構有名人らしいよ」
「有名?」
「ジェンダー経済学では期待の若手研究者なんだって。学会でも注目されてるらしい」
 胸のどこかが温かくなる。研究者として評価されていることが、素直に嬉しかった。
「でも」
 真帆がさらに声を潜める。
「その先輩が言うには、健吾さんには恋人がいるらしい」
 恋人という言葉に心臓が一瞬、止まる。
「恋人?」
「うん。関西の大学にいる人で、すごく美人な女性らしい」
「……そうなんだ」
 高校の時から、状況は何も変わっていないのかもしれない。

 番について詳しい話を聞いたことはなかったが、おそらくその女性が番なのだろう。

「遠距離恋愛中らしいけど、もうすぐこっちに来るって話もあるって」
「こっちに?」
「大学院に進学するとかで。同じ分野の研究をしてる人らしいよ」

 言葉が喉に引っかかった。

 学問まで共有できる相手。

 それに比べて自分は、学部一年で、まだ入口に立ったばかりだ。

「蛍、大丈夫?」
「うん、大丈夫」
 作り笑いが、頬の筋肉にぎこちなく貼りつく。
「別に期待してたわけじゃないから」
(嘘だ)
 本当は、少しだけ期待していた。
 再会してから、胸の奥で小さく灯った「もしかしたら」という火を、自分でも消しきれていなかった。
「でも噂だからね。真実は分からないよ」
「そうだね」



 講義初日、蛍は少し早めに教室へ向かった。
 教室にはすでに何人かの学生が集まっている。
 蛍は中央やや前の席に腰を下ろし、ノートを開いた。
 やがて教授が入室し、その後ろから健吾が続く。
「今期のTAを紹介します。芦原健吾君です」
 胸の奥で、小さく安堵した。健吾だけだ。噂の「恋人らしき女性」の姿はない。
「芦原です。今期もよろしくお願いします」
 挨拶に、教室がざわめく。相変わらずの人気だ。

 講義が始まると、健吾は手際よく資料を配り、教授の補助に回る。
 学生からの質問にも簡潔に、的確に答えていた。

 蛍は講義に集中しようと努めたが、どうしても噂のことが頭をよぎる。
 本当に恋人がいるのか。
 本当にこちらへ来るのか。

 番がいることは知っていても、第三者から具体的な話を聞くと、急に現実味を帯びて恐ろしくなる。

「今日の講義はここまでです」
 終了の声に、教室が一斉にざわつく。
「芦原さん、質問があります」
 数人の女子学生が健吾の周りに集まった。蛍はその様子を横目で見ながら、静かに荷物をまとめる。

 ふと、視線が合った。
 人だかりの向こうで、健吾が軽く手を振る。蛍も小さく手を上げて応える。


 廊下に出ると、秋の涼しい風が頬を撫でた。噂は噂のまま。確かめられないことは、今の自分には多すぎる。
(まずは、学ばないと)
 蛍はあらためて心に決めた。

 まずは経済学をきちんと身につけること。

 今できる最良の選択は、それだ。

 もし本当に恋人がこちらへ来るのなら、そのとき真実は自然と明らかになる。
 それまでは、自分の手の届く場所を、一歩ずつ確かに進むしかない。
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