11 / 44
第2章
第六話
しおりを挟む
期待していた夏休みだったが、すぐに現実を突き付けられることとなった。
夏休みの間、蛍は何度か健吾にメッセージを送った。
映画の感想や勧められた本の話題。
返事はきちんと来るが、「学会準備でバタバタしてる」「実家にも顔を出していて、また落ち着いたら」といった短いものばかりで、予定が合う日は一度もなかった。
(やっぱり脈がないのかな)
それでも蛍は、健吾が勧めてくれた本を読み続けた。
経済学の入門書から始まり、統計手法の解説書なども読んだ。
難解な部分は図書館やインターネットで調べ、わからない専門用語はノートに書き出して整理した。
健吾とのメッセージのやり取りが途絶えがちでも、学問を通じて彼の思考に触れているような気がした。
九月の中旬、映像研究会の活動で久しぶりに智也と会った時、彼は蛍の手元を見て目を丸くした。
「何読んでるの?」
「夏休みの宿題」
「嘘つけ。宿題なんかないだろ」
「まあね。ちょっと興味があって」
「ああ、芦原先生のおすすめね」
智也の観察眼は相変わらず鋭い。蛍はそれきり黙った。
夜風にまだ昼の熱が残る九月の終わり、学内のサイトに後期のシラバスが公開になり、蝉の声が薄くなっていく。
連絡先を交換できた喜びも、すっかり日常に薄められていた。
長い休みは静かに背中を押すように終わりへ向かっていた。
十月に入り、後期の講義が始まる。蛍は迷った末に、ジェンダー経済学の講義を履修することに決めていた。
「本当に取るの? 結構大変だって聞いたよ」
真帆が履修登録の画面を覗き込みながら言う。
「うん、興味があるから」
「芦原さんの影響?」
「……それもあるけど」
確かに健吾の存在は背中を押した。
けれど、夏の間に関連書を何冊か読み、データで社会の歪みを照らす手法そのものに惹かれたのも事実だ。
特に、オメガが直面する課題を数量的に捉え、構造として描く方法論に強く心が動いた。
「でも健吾さん、後期もTAやるのかな?」
「さあ、どうだろう」
それは蛍も気になっていた。
夏の間、直接会ったのは、結局映画館での一度きりだった。
「そういえば」
真帆が思い出したように声を落とす。
「昨日、経済学部の先輩と話してたんだけど」
「何の話?」
「芦原さんのこと。結構有名人らしいよ」
「有名?」
「ジェンダー経済学では期待の若手研究者なんだって。学会でも注目されてるらしい」
胸のどこかが温かくなる。研究者として評価されていることが、素直に嬉しかった。
「でも」
真帆がさらに声を潜める。
「その先輩が言うには、健吾さんには恋人がいるらしい」
恋人という言葉に心臓が一瞬、止まる。
「恋人?」
「うん。関西の大学にいる人で、すごく美人な女性らしい」
「……そうなんだ」
高校の時から、状況は何も変わっていないのかもしれない。
番について詳しい話を聞いたことはなかったが、おそらくその女性が番なのだろう。
「遠距離恋愛中らしいけど、もうすぐこっちに来るって話もあるって」
「こっちに?」
「大学院に進学するとかで。同じ分野の研究をしてる人らしいよ」
言葉が喉に引っかかった。
学問まで共有できる相手。
それに比べて自分は、学部一年で、まだ入口に立ったばかりだ。
「蛍、大丈夫?」
「うん、大丈夫」
作り笑いが、頬の筋肉にぎこちなく貼りつく。
「別に期待してたわけじゃないから」
(嘘だ)
本当は、少しだけ期待していた。
再会してから、胸の奥で小さく灯った「もしかしたら」という火を、自分でも消しきれていなかった。
「でも噂だからね。真実は分からないよ」
「そうだね」
講義初日、蛍は少し早めに教室へ向かった。
教室にはすでに何人かの学生が集まっている。
蛍は中央やや前の席に腰を下ろし、ノートを開いた。
やがて教授が入室し、その後ろから健吾が続く。
「今期のTAを紹介します。芦原健吾君です」
胸の奥で、小さく安堵した。健吾だけだ。噂の「恋人らしき女性」の姿はない。
「芦原です。今期もよろしくお願いします」
挨拶に、教室がざわめく。相変わらずの人気だ。
講義が始まると、健吾は手際よく資料を配り、教授の補助に回る。
学生からの質問にも簡潔に、的確に答えていた。
蛍は講義に集中しようと努めたが、どうしても噂のことが頭をよぎる。
本当に恋人がいるのか。
本当にこちらへ来るのか。
番がいることは知っていても、第三者から具体的な話を聞くと、急に現実味を帯びて恐ろしくなる。
「今日の講義はここまでです」
終了の声に、教室が一斉にざわつく。
「芦原さん、質問があります」
数人の女子学生が健吾の周りに集まった。蛍はその様子を横目で見ながら、静かに荷物をまとめる。
ふと、視線が合った。
人だかりの向こうで、健吾が軽く手を振る。蛍も小さく手を上げて応える。
廊下に出ると、秋の涼しい風が頬を撫でた。噂は噂のまま。確かめられないことは、今の自分には多すぎる。
(まずは、学ばないと)
蛍はあらためて心に決めた。
まずは経済学をきちんと身につけること。
今できる最良の選択は、それだ。
もし本当に恋人がこちらへ来るのなら、そのとき真実は自然と明らかになる。
それまでは、自分の手の届く場所を、一歩ずつ確かに進むしかない。
夏休みの間、蛍は何度か健吾にメッセージを送った。
映画の感想や勧められた本の話題。
返事はきちんと来るが、「学会準備でバタバタしてる」「実家にも顔を出していて、また落ち着いたら」といった短いものばかりで、予定が合う日は一度もなかった。
(やっぱり脈がないのかな)
それでも蛍は、健吾が勧めてくれた本を読み続けた。
経済学の入門書から始まり、統計手法の解説書なども読んだ。
難解な部分は図書館やインターネットで調べ、わからない専門用語はノートに書き出して整理した。
健吾とのメッセージのやり取りが途絶えがちでも、学問を通じて彼の思考に触れているような気がした。
九月の中旬、映像研究会の活動で久しぶりに智也と会った時、彼は蛍の手元を見て目を丸くした。
「何読んでるの?」
「夏休みの宿題」
「嘘つけ。宿題なんかないだろ」
「まあね。ちょっと興味があって」
「ああ、芦原先生のおすすめね」
智也の観察眼は相変わらず鋭い。蛍はそれきり黙った。
夜風にまだ昼の熱が残る九月の終わり、学内のサイトに後期のシラバスが公開になり、蝉の声が薄くなっていく。
連絡先を交換できた喜びも、すっかり日常に薄められていた。
長い休みは静かに背中を押すように終わりへ向かっていた。
十月に入り、後期の講義が始まる。蛍は迷った末に、ジェンダー経済学の講義を履修することに決めていた。
「本当に取るの? 結構大変だって聞いたよ」
真帆が履修登録の画面を覗き込みながら言う。
「うん、興味があるから」
「芦原さんの影響?」
「……それもあるけど」
確かに健吾の存在は背中を押した。
けれど、夏の間に関連書を何冊か読み、データで社会の歪みを照らす手法そのものに惹かれたのも事実だ。
特に、オメガが直面する課題を数量的に捉え、構造として描く方法論に強く心が動いた。
「でも健吾さん、後期もTAやるのかな?」
「さあ、どうだろう」
それは蛍も気になっていた。
夏の間、直接会ったのは、結局映画館での一度きりだった。
「そういえば」
真帆が思い出したように声を落とす。
「昨日、経済学部の先輩と話してたんだけど」
「何の話?」
「芦原さんのこと。結構有名人らしいよ」
「有名?」
「ジェンダー経済学では期待の若手研究者なんだって。学会でも注目されてるらしい」
胸のどこかが温かくなる。研究者として評価されていることが、素直に嬉しかった。
「でも」
真帆がさらに声を潜める。
「その先輩が言うには、健吾さんには恋人がいるらしい」
恋人という言葉に心臓が一瞬、止まる。
「恋人?」
「うん。関西の大学にいる人で、すごく美人な女性らしい」
「……そうなんだ」
高校の時から、状況は何も変わっていないのかもしれない。
番について詳しい話を聞いたことはなかったが、おそらくその女性が番なのだろう。
「遠距離恋愛中らしいけど、もうすぐこっちに来るって話もあるって」
「こっちに?」
「大学院に進学するとかで。同じ分野の研究をしてる人らしいよ」
言葉が喉に引っかかった。
学問まで共有できる相手。
それに比べて自分は、学部一年で、まだ入口に立ったばかりだ。
「蛍、大丈夫?」
「うん、大丈夫」
作り笑いが、頬の筋肉にぎこちなく貼りつく。
「別に期待してたわけじゃないから」
(嘘だ)
本当は、少しだけ期待していた。
再会してから、胸の奥で小さく灯った「もしかしたら」という火を、自分でも消しきれていなかった。
「でも噂だからね。真実は分からないよ」
「そうだね」
講義初日、蛍は少し早めに教室へ向かった。
教室にはすでに何人かの学生が集まっている。
蛍は中央やや前の席に腰を下ろし、ノートを開いた。
やがて教授が入室し、その後ろから健吾が続く。
「今期のTAを紹介します。芦原健吾君です」
胸の奥で、小さく安堵した。健吾だけだ。噂の「恋人らしき女性」の姿はない。
「芦原です。今期もよろしくお願いします」
挨拶に、教室がざわめく。相変わらずの人気だ。
講義が始まると、健吾は手際よく資料を配り、教授の補助に回る。
学生からの質問にも簡潔に、的確に答えていた。
蛍は講義に集中しようと努めたが、どうしても噂のことが頭をよぎる。
本当に恋人がいるのか。
本当にこちらへ来るのか。
番がいることは知っていても、第三者から具体的な話を聞くと、急に現実味を帯びて恐ろしくなる。
「今日の講義はここまでです」
終了の声に、教室が一斉にざわつく。
「芦原さん、質問があります」
数人の女子学生が健吾の周りに集まった。蛍はその様子を横目で見ながら、静かに荷物をまとめる。
ふと、視線が合った。
人だかりの向こうで、健吾が軽く手を振る。蛍も小さく手を上げて応える。
廊下に出ると、秋の涼しい風が頬を撫でた。噂は噂のまま。確かめられないことは、今の自分には多すぎる。
(まずは、学ばないと)
蛍はあらためて心に決めた。
まずは経済学をきちんと身につけること。
今できる最良の選択は、それだ。
もし本当に恋人がこちらへ来るのなら、そのとき真実は自然と明らかになる。
それまでは、自分の手の届く場所を、一歩ずつ確かに進むしかない。
302
あなたにおすすめの小説
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
僕たちの世界は、こんなにも眩しかったんだね
舞々
BL
「お前以外にも番がいるんだ」
Ωである花村蒼汰(はなむらそうた)は、よりにもよって二十歳の誕生日に恋人からそう告げられる。一人になることに強い不安を感じたものの、「αのたった一人の番」になりたいと願う蒼汰は、恋人との別れを決意した。
恋人を失った悲しみから、蒼汰はカーテンを閉め切り、自分の殻へと引き籠ってしまう。そんな彼の前に、ある日突然イケメンのαが押しかけてきた。彼の名前は神木怜音(かみきれお)。
蒼汰と怜音は幼い頃に「お互いが二十歳の誕生日を迎えたら番になろう」と約束をしていたのだった。
そんな怜音に溺愛され、少しずつ失恋から立ち直っていく蒼汰。いつからか、優しくて頼りになる怜音に惹かれていくが、引きこもり生活からはなかなか抜け出せないでいて…。
流れる星、どうかお願い
ハル
BL
羽水 結弦(うすい ゆずる)
オメガで高校中退の彼は国内の財閥の一つ、羽水本家の次男、羽水要と番になって約8年
高層マンションに住み、気兼ねなくスーパーで買い物をして好きな料理を食べられる。同じ性の人からすれば恵まれた生活をしている彼
そんな彼が夜、空を眺めて流れ星に祈る願いはただ一つ
”要が幸せになりますように”
オメガバースの世界を舞台にしたアルファ×オメガ
王道な関係の二人が織りなすラブストーリーをお楽しみに!
一応、更新していきますが、修正が入ることは多いので
ちょっと読みづらくなったら申し訳ないですが
お付き合いください!
「自由に生きていい」と言われたので冒険者になりましたが、なぜか旦那様が激怒して連れ戻しに来ました。
キノア9g
BL
「君に義務は求めない」=ニート生活推奨!? ポジティブ転生者と、言葉足らずで愛が重い氷の伯爵様の、全力すれ違い新婚ラブコメディ!
あらすじ
「君に求める義務はない。屋敷で自由に過ごしていい」
貧乏男爵家の次男・ルシアン(前世は男子高校生)は、政略結婚した若き天才当主・オルドリンからそう告げられた。
冷徹で無表情な旦那様の言葉を、「俺に興味がないんだな! ラッキー、衣食住保証付きのニート生活だ!」とポジティブに解釈したルシアン。
彼はこっそり屋敷を抜け出し、偽名を使って憧れの冒険者ライフを満喫し始める。
「旦那様は俺に無関心」
そう信じて、半年間ものんきに遊び回っていたルシアンだったが、ある日クエスト中に怪我をしてしまう。
バレたら怒られるかな……とビクビクしていた彼の元に現れたのは、顔面蒼白で息を切らした旦那様で――!?
「君が怪我をしたと聞いて、気が狂いそうだった……!」
怒鳴られるかと思いきや、折れるほど強く抱きしめられて困惑。
えっ、放置してたんじゃなかったの? なんでそんなに必死なの?
実は旦那様は冷徹なのではなく、ルシアンが好きすぎて「嫌われないように」と身を引いていただけの、超・奥手な心配性スパダリだった!
「君を守れるなら、森ごと消し飛ばすが?」
「過保護すぎて冒険になりません!!」
Fランク冒険者ののんきな妻(夫)×国宝級魔法使いの激重旦那様。
すれ違っていた二人が、甘々な「週末冒険者夫婦」になるまでの、勘違いと溺愛のハッピーエンドBL。
好きな人の待ち受け画像は僕ではありませんでした
鳥居之イチ
BL
————————————————————
受:久遠 酵汰《くおん こうた》
攻:金城 桜花《かねしろ おうか》
————————————————————
あることがきっかけで好きな人である金城の待ち受け画像を見てしまった久遠。
その待ち受け画像は久遠ではなく、クラスの別の男子でした。
上北学園高等学校では、今SNSを中心に広がっているお呪いがある。
それは消しゴムに好きな人の前を書いて、使い切ると両想いになれるというお呪いの現代版。
お呪いのルールはたったの二つ。
■待ち受けを好きな人の写真にして3ヶ月間好きな人にそのことをバレてはいけないこと。
■待ち受けにする写真は自分しか持っていない写真であること。
つまりそれは、金城は久遠ではなく、そのクラスの別の男子のことが好きであることを意味していた。
久遠は落ち込むも、金城のためにできることを考えた結果、
金城が金城の待ち受けと付き合えるように、協力を持ちかけることになるが…
————————————————————
この作品は他サイトでも投稿しております。
六年目の恋、もう一度手をつなぐ
高穂もか
BL
幼なじみで恋人のつむぎと渉は互いにオメガ・アルファの親公認のカップルだ。
順調な交際も六年目――最近の渉はデートもしないし、手もつながなくなった。
「もう、おればっかりが好きなんやろか?」
馴ればっかりの関係に、寂しさを覚えるつむぎ。
そのうえ、渉は二人の通う高校にやってきた美貌の転校生・沙也にかまってばかりで。他のオメガには、優しく甘く接する恋人にもやもやしてしまう。
嫉妬をしても、「友達なんやから面倒なこというなって」と笑われ、遂にはお泊りまでしたと聞き……
「そっちがその気なら、もういい!」
堪忍袋の緒が切れたつむぎは、別れを切り出す。すると、渉は意外な反応を……?
倦怠期を乗り越えて、もう一度恋をする。幼なじみオメガバースBLです♡
悪役令息(Ω)に転生した俺、破滅回避のためΩ隠してαを装ってたら、冷徹α第一王子に婚約者にされて溺愛されてます!?
水凪しおん
BL
前世の記憶を持つ俺、リオネルは、BL小説の悪役令息に転生していた。
断罪される運命を回避するため、本来希少なΩである性を隠し、出来損ないのαとして目立たず生きてきた。
しかし、突然、原作のヒーローである冷徹な第一王子アシュレイの婚約者にされてしまう。
これは破滅フラグに違いないと絶望する俺だが、アシュレイの態度は原作とどこか違っていて……?
そばにいてほしい。
15
BL
僕の恋人には、幼馴染がいる。
そんな幼馴染が彼はよっぽど大切らしい。
──だけど、今日だけは僕のそばにいて欲しかった。
幼馴染を優先する攻め×口に出せない受け
安心してください、ハピエンです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる