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第5章 健吾side
第四話
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時計に目を落とすと、午後三時を過ぎていた。
そろそろ蛍が研究室を訪れる時間かもしれない。
最近の蛍は、授業の合間や放課後に頻繁に顔を出すようになっていた。
研究に関する質問、進路相談、時には他愛もない雑談のために。
健吾はふと窓の外に視線を向けた。
中庭に並んで座る二つの人影が目に留まる。
蛍と桜庭だった。
二人は何やら熱心に話し込んでいる。蛍の表情は穏やかで、時折笑みがこぼれる。
熱心に語る蛍に対し、桜庭が相槌を打つ様子が見て取れた。
蛍の大きな瞳が桜庭を見つめるたび、健吾の胸に鈍い痛みが走る。
もはや蛍の香りを思い出そうとしても、記憶は曖昧になっている。
あの甘やかな芳香。
桜庭は蛍の匂いを感知できるのだろうか。
蛍が真帆と交際しているのではという推測を抱いた時は安堵した。しかし桜庭との関係を想像すると、胸の奥がざわめく。
健吾は深く息を吐き出した。
やがて研究室のドアがノックされた。
「芦原さん、いますか?」
蛍の声だった。健吾は慌てて応答する。
「入って」
顔を覗かせた蛍の表情は、いつものように穏やかだった。
先ほど桜庭と会話していた時と同様の、自然な笑顔を湛えている。
「今、時間大丈夫?」
「いや、大丈夫。どうした?」
蛍が椅子に腰を下ろすと、健吾は不思議な感覚に包まれた。
先ほどまで感じていた胸の重苦しさが、静かに和らいでいく。
「くだらない話でもいい?」
「いいよ、何?」
蛍の言葉に健吾は微笑む。
「健ちゃんって映画は撮ったことある?」
「いや、ないよ。蛍はあるの?」
「ううん。でも、今度、サークルでちょっとした映像を撮ってみようかって話になって」
蛍は少し照れたような表情を見せた。
「面白そうじゃない。どんな映像を作るつもり?」
「まだ何も決まってない。でも、短編で何かストーリーのあるものを作りたいって」
「蛍は何を担当するの?」
「それもまだ。みんなで話し合って決めるけど」
健吾は蛍の話に耳を傾けながら、高校時代の尚との会話を思い起こしていた。あの頃もよく映画について語り合ったものだ。
「そういえば、最近何か面白い映画見た?」
健吾が尋ねると、蛍は少し考えてから答えた。
「先輩にすすめられて『ザ・トライブ』を見に行ったよ」
「そうなんだ、一人で行ったの?」
「ううん、智也と」
「どうだった? けっこう評判いいよね」
蛍の表情が真剣になった。
「サイレント映画って初めてだったし、退屈なんじゃないかなって思ったけれど全然そんなことなかった」
その言葉に、健吾は何かを感じた。
「あとはレンタルだけれど『ゼロ・グラビティ』も観たよ」
「ああ、あれ面白かった。映画館に見に行ったよ」
「そうなんだ。俺も映画館で見たかったなぁ」
「うん、映画館向きだよね」
「健ちゃんは最近、何か見た?」
「最近はあまり時間がなくて」
健吾は苦笑いした。実際、尚との関係のこと、研究のことで頭がいっぱいで、映画を見る余裕もなかった。
「蛍と話してたら、久しぶりに映画が見たくなった」
「最近、見てないの? 一緒に見に行こうよ」
蛍の表情が明るくなった。その提案に、健吾の心が軽やかになった。
「そうだね。今度、何か面白そうな作品があったら教えて」
「うん」
蛍は嬉しそうに頷いた。その笑顔を見ていると、健吾は久しぶりに心から安らいだ気持ちになった。
しかし、そんな穏やかな時間も長くは続かなかった。蛍がふと眉を寄せた。
「健ちゃん、なんか今日、疲れてる?」
健吾は驚いた。自分では隠しているつもりだったが、蛍には分かってしまうのか。
「そんなことないよ」
健吾は無理に笑顔を作ろうとしたが、蛍の心配そうな表情は変わらなかった。
「でも、なんだか元気がないような気がして」
研究室の窓から差し込む西日が、蛍の横顔を柔らかく照らしている。
その光の中で、彼の瞳には本当に心配している色が浮かんでいた。
健吾の胸に、温かいものが広がった。こんなに真剣に自分のことを気にかけてくれる人がいる。それだけで、どれほど救われる思いか。
「色々とあってね。でも、大丈夫」
健吾がそう答えると、蛍は少し身を乗り出した。
「無理しないでね」
その言葉に込められた優しさに、健吾は胸が締め付けられるような思いがした。尚との関係で感じている罪悪感や責任の重さが、蛍の前では不思議と軽くなる。
「健ちゃんは、いつも周りのことを気にしすぎるから」
蛍が続けた。
「でも、健ちゃんが幸せじゃなかったら、周りの人も心配になっちゃう」
その言葉が、健吾の心の奥深くに響いた。蛍は何も知らないはずなのに、まるで健吾の状況を見透かしているようだった。
研究室の外から、学生たちの談笑する声が聞こえてくる。平和な日常の音が、二人の間に流れる静寂と対照的だった。
「蛍……」
健吾が何かを言いかけた時、蛍がそっと微笑んだ。
蛍の真摯な眼差しを受けて、健吾は自分の中で何かが変わっていくのを感じた。
この人といると、なぜこんなにも心が安らぐのだろう。なぜこんなにも自然でいられるのだろう。
尚との間にある重圧や複雑さとは対照的に、蛍との時間は穏やかで自然だった。
「ありがとう。蛍がそう言ってくれるだけで、すごく楽になる」
健吾は本心からそう言った。
窓の外では、夕方の光がキャンパスの木々を金色に染めている。
一日の終わりを告げる美しい光景の中で、健吾は静かに自分の心と向き合っていた。
蛍の存在が、健吾にとって一筋の光のように思えた
そろそろ蛍が研究室を訪れる時間かもしれない。
最近の蛍は、授業の合間や放課後に頻繁に顔を出すようになっていた。
研究に関する質問、進路相談、時には他愛もない雑談のために。
健吾はふと窓の外に視線を向けた。
中庭に並んで座る二つの人影が目に留まる。
蛍と桜庭だった。
二人は何やら熱心に話し込んでいる。蛍の表情は穏やかで、時折笑みがこぼれる。
熱心に語る蛍に対し、桜庭が相槌を打つ様子が見て取れた。
蛍の大きな瞳が桜庭を見つめるたび、健吾の胸に鈍い痛みが走る。
もはや蛍の香りを思い出そうとしても、記憶は曖昧になっている。
あの甘やかな芳香。
桜庭は蛍の匂いを感知できるのだろうか。
蛍が真帆と交際しているのではという推測を抱いた時は安堵した。しかし桜庭との関係を想像すると、胸の奥がざわめく。
健吾は深く息を吐き出した。
やがて研究室のドアがノックされた。
「芦原さん、いますか?」
蛍の声だった。健吾は慌てて応答する。
「入って」
顔を覗かせた蛍の表情は、いつものように穏やかだった。
先ほど桜庭と会話していた時と同様の、自然な笑顔を湛えている。
「今、時間大丈夫?」
「いや、大丈夫。どうした?」
蛍が椅子に腰を下ろすと、健吾は不思議な感覚に包まれた。
先ほどまで感じていた胸の重苦しさが、静かに和らいでいく。
「くだらない話でもいい?」
「いいよ、何?」
蛍の言葉に健吾は微笑む。
「健ちゃんって映画は撮ったことある?」
「いや、ないよ。蛍はあるの?」
「ううん。でも、今度、サークルでちょっとした映像を撮ってみようかって話になって」
蛍は少し照れたような表情を見せた。
「面白そうじゃない。どんな映像を作るつもり?」
「まだ何も決まってない。でも、短編で何かストーリーのあるものを作りたいって」
「蛍は何を担当するの?」
「それもまだ。みんなで話し合って決めるけど」
健吾は蛍の話に耳を傾けながら、高校時代の尚との会話を思い起こしていた。あの頃もよく映画について語り合ったものだ。
「そういえば、最近何か面白い映画見た?」
健吾が尋ねると、蛍は少し考えてから答えた。
「先輩にすすめられて『ザ・トライブ』を見に行ったよ」
「そうなんだ、一人で行ったの?」
「ううん、智也と」
「どうだった? けっこう評判いいよね」
蛍の表情が真剣になった。
「サイレント映画って初めてだったし、退屈なんじゃないかなって思ったけれど全然そんなことなかった」
その言葉に、健吾は何かを感じた。
「あとはレンタルだけれど『ゼロ・グラビティ』も観たよ」
「ああ、あれ面白かった。映画館に見に行ったよ」
「そうなんだ。俺も映画館で見たかったなぁ」
「うん、映画館向きだよね」
「健ちゃんは最近、何か見た?」
「最近はあまり時間がなくて」
健吾は苦笑いした。実際、尚との関係のこと、研究のことで頭がいっぱいで、映画を見る余裕もなかった。
「蛍と話してたら、久しぶりに映画が見たくなった」
「最近、見てないの? 一緒に見に行こうよ」
蛍の表情が明るくなった。その提案に、健吾の心が軽やかになった。
「そうだね。今度、何か面白そうな作品があったら教えて」
「うん」
蛍は嬉しそうに頷いた。その笑顔を見ていると、健吾は久しぶりに心から安らいだ気持ちになった。
しかし、そんな穏やかな時間も長くは続かなかった。蛍がふと眉を寄せた。
「健ちゃん、なんか今日、疲れてる?」
健吾は驚いた。自分では隠しているつもりだったが、蛍には分かってしまうのか。
「そんなことないよ」
健吾は無理に笑顔を作ろうとしたが、蛍の心配そうな表情は変わらなかった。
「でも、なんだか元気がないような気がして」
研究室の窓から差し込む西日が、蛍の横顔を柔らかく照らしている。
その光の中で、彼の瞳には本当に心配している色が浮かんでいた。
健吾の胸に、温かいものが広がった。こんなに真剣に自分のことを気にかけてくれる人がいる。それだけで、どれほど救われる思いか。
「色々とあってね。でも、大丈夫」
健吾がそう答えると、蛍は少し身を乗り出した。
「無理しないでね」
その言葉に込められた優しさに、健吾は胸が締め付けられるような思いがした。尚との関係で感じている罪悪感や責任の重さが、蛍の前では不思議と軽くなる。
「健ちゃんは、いつも周りのことを気にしすぎるから」
蛍が続けた。
「でも、健ちゃんが幸せじゃなかったら、周りの人も心配になっちゃう」
その言葉が、健吾の心の奥深くに響いた。蛍は何も知らないはずなのに、まるで健吾の状況を見透かしているようだった。
研究室の外から、学生たちの談笑する声が聞こえてくる。平和な日常の音が、二人の間に流れる静寂と対照的だった。
「蛍……」
健吾が何かを言いかけた時、蛍がそっと微笑んだ。
蛍の真摯な眼差しを受けて、健吾は自分の中で何かが変わっていくのを感じた。
この人といると、なぜこんなにも心が安らぐのだろう。なぜこんなにも自然でいられるのだろう。
尚との間にある重圧や複雑さとは対照的に、蛍との時間は穏やかで自然だった。
「ありがとう。蛍がそう言ってくれるだけで、すごく楽になる」
健吾は本心からそう言った。
窓の外では、夕方の光がキャンパスの木々を金色に染めている。
一日の終わりを告げる美しい光景の中で、健吾は静かに自分の心と向き合っていた。
蛍の存在が、健吾にとって一筋の光のように思えた
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