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第5章 健吾side
第五話
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ここ数日、活字が目に入っても意味を結ばない。
統計ソフトのプロットでカーソルが止まる。
胸の奥に小さな砂粒が入ったまま研磨し続けているみたいに、息苦しさだけが増していく。
尚からの返信が途切れていることに気づいたのは、そんな不調が続いて十日目の夜だった。
駅で別れた直後はいつも通りだったのに、体調を気遣うメッセージに返ってきたのは短い素っ気ない文面。
その後は既読すらつかない。
健吾は何度かメッセージを送ろうとして、やめた。しつこくするのも良くない。尚にも都合があるだろう。
しかし、一週間が過ぎても連絡がないことに気づいた時、健吾は心配になり始めた。
十日目になって、健吾はついにメッセージを送った。
『その後、体調は大丈夫?』
既読はすぐについた。でも、返信は来なかった。
翌日、健吾は再びメッセージを送った。
『何かあったら連絡して』
今度は既読もつかない。
健吾の不安は日に日に大きくなった。
番として結ばれている相手の状況が全く分からないのは、異常なことだった。
研究室で論文を読んでいても、集中できない日が続いた。
指導教授に「最近、調子が悪そうだね」と指摘されることもあった。
「無理しないように。しっかり休息を取ることも大切だ」
二週間目に入って、ようやく短い返信が来た。
『忙しくて。元気です。しばらく連絡控えます』
健吾は画面を見つめながら困惑した。尚らしくない、素っ気ない文面。
健吾は返信を打とうとして、何度も消した。何と言えばいいのか分からない。
結局、『分かった。体調に気をつけて』とだけ送った。
それから数日後、健吾は奇妙な症状を感じるようになった。
理由もなく不安になる。心臓がドキドキして、息苦しくなる。食事が喉を通らない日がある。夜中に突然目が覚めて、汗をかいている。
不思議なことに、蛍が研究室を訪れた時だけは、これらの症状が和らいだ。
彼がいる間は呼吸が楽になり、胸の重苦しさが軽減される。
しかし蛍が去ると、再び不調が戻ってくる。
最初は研究のストレスだと思っていた。でも、症状は日に日にひどくなった。
保健センターで相談してみたが、身体的な異常は見つからなかった。
「ストレスが原因かもしれません。もしくはフェロモン関係の可能性も。アルファ専門の外来を受診してください」
健吾は数年来お世話になっているアルファ専門医の予約を取った。
この医師は健吾と尚の事情も把握している。
診察室は乾いた薬品の匂いと紙の匂いがした。医師は問診の後、簡易フェロモン検査を行い、カルテに静かにペンを走らせる。
「保健センターの見立て通り、番関係の影響が出ている可能性が高いですね。ただ、連絡が途絶えたから即座にこうなった、というわけではありません」
「どういうことでしょうか?」
「番の絆って、物理的な距離よりも心の距離の方が大事なんです。芦原さんは今まで遠距離でも平気だったでしょう?」
健吾は頷いた。
確かに数百キロ離れた場所にいても、連絡が滞ることがあっても、これまで体調に影響はなかった。
「つまり、お互いの信頼関係が安定していれば問題ない。でも、それが揺らぐと体に症状が出る。不安、動悸、食欲不振、不眠……検査値を見ても、フェロモンバランスが不安定になってますね」
思い当たる節が胸に降りた。最後に会った時の尚の顔色、短い返信、それきりの沈黙。
「あの、人と話していると楽になるんですが、これは何か関係あるでしょうか?」
「誰と話してても楽になりますか?」
「ある程度はそうですが、特定の人だと特に楽になります」
「ああ、それはありますね。人と話すと気が紛れるというのもあるし、特に安心できる相手だと自律神経が落ち着くんです。別に恋愛感情とは関係なく、フェロモンの相性で体が反応することもありますから」
医師は少し表情を改めて続けた。
「番の破棄は基本的にアルファからしかできないんです。でも、オメガ側が長期間拒否し続けると、体は破棄されたのと似た反応を起こすことがあります。今回の症状は、それに近いかもしれません」
「破棄……ですか」
「正式な破棄じゃないですよ。でも体の反応としては似ている。相手の方にも同じような症状が出ている可能性が高いです。むしろオメガの方が症状は強く出やすいとされてますから」
健吾の胸が締め付けられた。
「最後に会った時、相手の体調が悪そうでした」
「もうその時点で症状が出始めていたのかもしれませんね。放っておくと、お二人とも本当に体を壊してしまいます」
医師は処方箋を書きながら続けた。
「とにかく相手の方と話し合うことです。関係を整理するなり、改善するなり。このままじゃ危険ですから。とりあえず症状を抑える薬を出しますので、よく寝て、水分も摂って、あまり刺激の強い環境は避けてください」
処方箋と検査結果のコピーが手渡される。
白い紙は軽いのに、その意味はやけに重たかった。
「相手の方にも受診を勧めてくださいね。お二人の体調は連動してますから」
医師はペンを置いて、少し優しい表情になった。
「芦原さん、今回の件も、相手のためでもありますが、あなた自身のためでもあるんですよ」
病院を出ると、夕暮れの風が頬に触れ、少しだけ呼吸が楽になる気がした。
健吾は歩きながら決意を固めた。
週末、直接会いに行こう。
言葉を尽くす以外の選択肢は、もうない。
統計ソフトのプロットでカーソルが止まる。
胸の奥に小さな砂粒が入ったまま研磨し続けているみたいに、息苦しさだけが増していく。
尚からの返信が途切れていることに気づいたのは、そんな不調が続いて十日目の夜だった。
駅で別れた直後はいつも通りだったのに、体調を気遣うメッセージに返ってきたのは短い素っ気ない文面。
その後は既読すらつかない。
健吾は何度かメッセージを送ろうとして、やめた。しつこくするのも良くない。尚にも都合があるだろう。
しかし、一週間が過ぎても連絡がないことに気づいた時、健吾は心配になり始めた。
十日目になって、健吾はついにメッセージを送った。
『その後、体調は大丈夫?』
既読はすぐについた。でも、返信は来なかった。
翌日、健吾は再びメッセージを送った。
『何かあったら連絡して』
今度は既読もつかない。
健吾の不安は日に日に大きくなった。
番として結ばれている相手の状況が全く分からないのは、異常なことだった。
研究室で論文を読んでいても、集中できない日が続いた。
指導教授に「最近、調子が悪そうだね」と指摘されることもあった。
「無理しないように。しっかり休息を取ることも大切だ」
二週間目に入って、ようやく短い返信が来た。
『忙しくて。元気です。しばらく連絡控えます』
健吾は画面を見つめながら困惑した。尚らしくない、素っ気ない文面。
健吾は返信を打とうとして、何度も消した。何と言えばいいのか分からない。
結局、『分かった。体調に気をつけて』とだけ送った。
それから数日後、健吾は奇妙な症状を感じるようになった。
理由もなく不安になる。心臓がドキドキして、息苦しくなる。食事が喉を通らない日がある。夜中に突然目が覚めて、汗をかいている。
不思議なことに、蛍が研究室を訪れた時だけは、これらの症状が和らいだ。
彼がいる間は呼吸が楽になり、胸の重苦しさが軽減される。
しかし蛍が去ると、再び不調が戻ってくる。
最初は研究のストレスだと思っていた。でも、症状は日に日にひどくなった。
保健センターで相談してみたが、身体的な異常は見つからなかった。
「ストレスが原因かもしれません。もしくはフェロモン関係の可能性も。アルファ専門の外来を受診してください」
健吾は数年来お世話になっているアルファ専門医の予約を取った。
この医師は健吾と尚の事情も把握している。
診察室は乾いた薬品の匂いと紙の匂いがした。医師は問診の後、簡易フェロモン検査を行い、カルテに静かにペンを走らせる。
「保健センターの見立て通り、番関係の影響が出ている可能性が高いですね。ただ、連絡が途絶えたから即座にこうなった、というわけではありません」
「どういうことでしょうか?」
「番の絆って、物理的な距離よりも心の距離の方が大事なんです。芦原さんは今まで遠距離でも平気だったでしょう?」
健吾は頷いた。
確かに数百キロ離れた場所にいても、連絡が滞ることがあっても、これまで体調に影響はなかった。
「つまり、お互いの信頼関係が安定していれば問題ない。でも、それが揺らぐと体に症状が出る。不安、動悸、食欲不振、不眠……検査値を見ても、フェロモンバランスが不安定になってますね」
思い当たる節が胸に降りた。最後に会った時の尚の顔色、短い返信、それきりの沈黙。
「あの、人と話していると楽になるんですが、これは何か関係あるでしょうか?」
「誰と話してても楽になりますか?」
「ある程度はそうですが、特定の人だと特に楽になります」
「ああ、それはありますね。人と話すと気が紛れるというのもあるし、特に安心できる相手だと自律神経が落ち着くんです。別に恋愛感情とは関係なく、フェロモンの相性で体が反応することもありますから」
医師は少し表情を改めて続けた。
「番の破棄は基本的にアルファからしかできないんです。でも、オメガ側が長期間拒否し続けると、体は破棄されたのと似た反応を起こすことがあります。今回の症状は、それに近いかもしれません」
「破棄……ですか」
「正式な破棄じゃないですよ。でも体の反応としては似ている。相手の方にも同じような症状が出ている可能性が高いです。むしろオメガの方が症状は強く出やすいとされてますから」
健吾の胸が締め付けられた。
「最後に会った時、相手の体調が悪そうでした」
「もうその時点で症状が出始めていたのかもしれませんね。放っておくと、お二人とも本当に体を壊してしまいます」
医師は処方箋を書きながら続けた。
「とにかく相手の方と話し合うことです。関係を整理するなり、改善するなり。このままじゃ危険ですから。とりあえず症状を抑える薬を出しますので、よく寝て、水分も摂って、あまり刺激の強い環境は避けてください」
処方箋と検査結果のコピーが手渡される。
白い紙は軽いのに、その意味はやけに重たかった。
「相手の方にも受診を勧めてくださいね。お二人の体調は連動してますから」
医師はペンを置いて、少し優しい表情になった。
「芦原さん、今回の件も、相手のためでもありますが、あなた自身のためでもあるんですよ」
病院を出ると、夕暮れの風が頬に触れ、少しだけ呼吸が楽になる気がした。
健吾は歩きながら決意を固めた。
週末、直接会いに行こう。
言葉を尽くす以外の選択肢は、もうない。
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