【完結】初恋のアルファには番がいた—番までの距離—

水樹りと

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第5章 健吾side

第八話

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 電車の単調な振動が、健吾の混乱した思考を静かに揺らしていた。
 隣に座る蛍は何も語らず、ただそっと寄り添っている。問い詰めることも慰めることもせず、ただ存在してくれるその配慮が、今の健吾には何よりもありがたかった。
 尚の言葉が脳裏で反響する。
『番を解消した方がいいんじゃない?』
 最初に聞いた時は本能的な拒絶を感じた。
 七年という歳月が刻んだ絆を、そう簡単に断ち切れるものだろうか。
 しかし冷静になって考えれば、それこそが二人にとって最も理にかなった選択なのかもしれない。

 医師の診断も頭をよぎる。現在の症状は番破棄時の反応に酷似している、と。

 そして、もう一つ気になることがあった。
 蛍のフェロモンを、わずかながら感じ取れるようになっていることだ。
 本来であれば、番の絆で結ばれたアルファは他のオメガのフェロモンを感知できないはずだ。 
 それなのに健吾は蛍の甘い香りを捉えている。これは番の結合が自然に弱まっているということなのだろうか。
 ただし、番の正式な解消はアルファ側からしか申し出られない。
 健吾自身はまだ明確な決断を下していないというのに、なぜ身体がこのような反応を示すのか。疑問は深まるばかりだった。




 
 数日後、健吾は再び医師の診察を受けた。

「前回お見えになった時と比べて、随分と血色が良くなりましたね」
 医師は健吾の顔を見ながら言った。

「お相手の方と話し合いができたのですね」
「はい。率直に気持ちを伝え合うことができました」
「それは何よりです。どのような方向性になったのでしょうか」
 健吾は尚との会話を要約して説明した。彼の長年の苦悩、そして番解消への希望。

「なるほど。お相手の方も、相当にお辛い思いをされていたのですね」
 医師は頷きながらカルテに記録を取った。
「番の解消について、具体的な手続きを教えていただけますでしょうか」
 健吾の問いに、医師の表情が少し厳しくなった。

「正直に申し上げますと、番の解消は決して容易な過程ではありません」
「どのような方法になるのでしょうか」
「主に二つのアプローチがございます。一つは薬物療法による段階的な絆の弱化。もう一つは心理療法を併用した包括的な治療です」
 医師は机の上から資料を取り出し、詳しい説明を始めた。

「最近は後者をとるケースが多いですが、いずれの場合も、数ヶ月から半年程度の期間を要します。そして、完全な成功を保証することはできません」
「そうなんですか」
「はい。最も確実な解消法は、いずれか一方が新たな番を見つけることですが、それは自然な流れに委ねるしかありません」
「リスクについてはいかがでしょうか」
「身体面では、ホルモンバランスの乱れ、持続する疲労感、免疫機能の低下などが考えられます。精神面では、抑うつ症状、不安障害などのリスクがあります」
 健吾は真剣な表情で耳を傾けていた。

「ただし」
 医師は語調を少し和らげた。

「お二人の場合、もともと恋愛感情に基づく結合ではないとのことですので、比較的リスクは軽微である可能性があります」
「それはどういう意味でしょうか」
「番の絆の強度は、心理的な結びつきの深さと比例します。長期間にわたって心理的な距離が存在していたということは、すでに絆が自然に弱化している可能性を示唆します」
 その説明に、健吾は僅かな安堵を覚えた。

「手続きとしては、まず専門医療機関での詳細な検査が必要となります。その結果を踏まえて、お二人の合意のもとで治療計画を策定いたします」
 医師は紹介状を書きながら続けた。

「こちらの医療機関が、この分野では最も豊富な実績を有しています。ただし、最終的な判断は慎重になさってください」
 病院を後にした健吾は、紹介状を胸ポケットに収めながら街を歩いた。
 番解消への具体的な道筋が見えてきた今、残されたのは自分の決断だけだった。

 その夜、健吾は尚にメッセージを送った。

『専門医に相談してきたよ。番解消について詳しい説明を受けた』
 返信は間もなく届いた。
『ありがとう。どんな内容だった?』
 健吾は医師から聞いた情報を丁寧に伝えた。
 治療手法、所要期間、想定されるリスク。
 隠すことなく、すべてを正直に伝えた。

『僕のきいた内容とほぼ同じ。リスクはどうだって?』
『俺たちの場合は比較的軽微で済む可能性が高いらしい』
『うん、それも僕のきいた話と同じ。じゃあ、試してみてもいいのかな』
 尚の返信からは、かすかな希望の光が感じ取れた。

『もう一度会って、詳しく話し合わない?』
『うん。今度は僕がそっちに行くよ』
 一週間後、健吾と尚は大学に程近いカフェで再会した。
 前回の取り乱した様子とは打って変わって、尚の表情には穏やかさが戻っていた。

「体調は大丈夫?」
 健吾が尋ねると、尚は微笑を浮かべた。

「うん、少し気持ちが楽になったみたい。健吾も顔色が良くなったね」
「そうかも」
 二人は医師から提供された資料を共に検討した。
 治療の流れ、予想される期間、必要な費用について詳細に話し合った。
 専門的な内容を一つ一つ確認していく作業は、感情的になりがちな問題に客観的な視点をもたらした。

「本当にこの道を選んでいいのかな」
 尚が不安げに呟いた。資料から顔を上げた瞳に、迷いの色が宿る。

「後悔することはないのかな」


 健吾は尚の目を見つめて答える。言葉を選ぶように、静かに。
「俺は、尚が幸せになることを一番大事だと思ってる。番を解消することで、尚が愛する人と出会えるのなら、それでいい」
「健吾も同じだよ。健吾にも、幸せになる権利がある」
 尚の言葉が胸に響き、健吾は複雑な感情を抱いた。
 自分自身の幸福。
 それについて最近頻繁に考えるようになっていた。蛍の顔がふと脳裏に浮かび、心の奥で何かが静かに動いた。

「決断するか」
 健吾は深く息を吐いて、静かに言った。

「番を解消しよう。お互いの未来のために」
 尚の瞳に涙が滲んだが、それは悲しみではなく、深い安堵の涙のように見えた。
 長い間胸に溜めていた重荷が、ようやく降ろせるのだという安らぎ。

「ありがとう、健吾。七年間、本当にありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとう。尚は俺にとって大切な友人だよ。これからもずっと」
 二人は静かに握手を交わした。

 長きにわたって二人を縛り続けた重い責任から、ついに解放される時が来たのだった。


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