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第6章 健吾side
第一話
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番解消の治療が始まったのは、尚との話し合いから二週間後だった。
専門医療機関は都内の静かな住宅街にあった。
外観は一般的な診療所と変わらないが、受付の奥には最新の医療設備が整っていた。
プライバシーへの配慮か、待合室の椅子は間隔を空けて配置され、患者同士が顔を合わせにくい工夫がされている。
担当となったのは五十代の穏やかな女性医師で、白髪交じりの髪を後ろで束ね、落ち着いた物腰で話す人だった。
これまで数多くの番解消を手がけてきた、この分野の第一人者だという。
「お二人とも、覚悟はできていらっしゃいますね」
医師が最初の面談で確認した。
健吾と尚は診察室の並んだ椅子に座り、緊張した面持ちで同じように頷いた。
七年間の関係を終わらせるという決断の重さが、空気にも宿っているようだった。
「治療は段階的に進めます。まずは詳細な検査から始めて、お二人の絆の現状を正確に把握することから始めましょう」
検査は予想以上に複雑だった。
血液検査、ホルモン値の測定、脳波の測定、心理テスト。
さらには、健吾と尚が同じ部屋にいる時の生理的反応まで計測された。
心拍数、血圧、発汗量――二人の間に存在する見えない絆を、科学的に解析していく作業だった。
「興味深い結果ですね」
一週間後、医師が検査結果を見ながら言った。
グラフや数値が並んだ資料を指差しながら説明する。
「お二人の絆は確かに存在しますが、一般的な番カップルに比べて結合度が低い。これは恋愛感情に基づかない結合の特徴です。治療は比較的スムーズに進むでしょう」
実際の治療は薬物療法から始まった。
フェロモン抑制剤と、番の絆に関わる神経伝達物質を調整する薬を一日三回服用する。
最初の一週間は副作用で軽い頭痛と倦怠感があったが、医師が予告していた通りの反応で、それ以外に大きな問題はなかった。
治療開始から二週間後、健吾は尚と久しぶりに会うことになった。
治療に一緒に通ったのは初回だけで、その後は別々のスケジュールで診察を受けていた。
約束の場所は駅前のチェーンカフェ。
しかし健吾は入口の前で足を止めた。
どんな気持ちになるのか、どんな反応をするのか、自分でも予想がつかない。
ガラス越しに見える店内は、普段と変わらない日常の光景だった。
意を決して店内に入ると、尚は既に奥のテーブルに座っていた。
健吾を見つけて軽く手を上げる。
その表情は以前より穏やかで、頬の色も戻っているように見えた。
「お疲れ様」
「ああ、お疲れ」
向かい合って座った瞬間、健吾は妙な違和感を覚えた。
尚がそこにいる。
でも、以前のような胸の締め付けがない。
尚を心配する衝動も、守らなければという責任感も、明らかに薄れている。
それは奇妙な感覚だった。
七年間慣れ親しんだ感覚が、薄皮を剥がすように失われていく不思議さ。
同じ人物と接しているのに、まるで初対面の人を前にしているような距離感があった。
「体調はどう?」
尚が尋ねる。
声も以前より自然で、緊張の糸が緩んでいるのが分かる。
「悪くないよ。尚は?」
「僕も。少し楽になった気がする」
会話は以前よりもぎこちなかった。
七年間、番としての絆という見えない紐で結ばれていた二人が、その紐が切れていく中でどう関わればいいのか、お互いに探り探りだった。
「なんだか、変な感じだね」
尚が苦笑いした。
「うん。でも、悪い変化じゃない」
「そうだね」
その後の会話は、どこか遠慮がちだった。
以前のような重苦しさはないが、代わりに何を話せばいいのか分からない空白が生まれていた。
まるで、長年使っていた楽器の弦を張り替えた時のような、慣れ親しんだ音色が出ない戸惑いがあった。
一ヶ月が過ぎる頃、健吾は自分の中の明らかな変化を感じ始めていた。
まず、尚のことを考える頻度が劇的に減った。
以前は常に頭の片隅にあった「尚は大丈夫だろうか」という心配が、今では一週間のうちで数回思い出す程度になっている。
あの重い罪悪感も、まるで霧が晴れるように薄れていた。
そして、体調も着実に安定してきた。
あの苦しい息苦しさや動悸はほとんどなくなり、食欲も戻った。
睡眠も深く取れるようになり、朝の目覚めが以前とは比較にならないほど爽やかになった。
「調子はどうですか?」
定期診察で担当医師が聞いた。
「かなり良くなりました。体調面での不安はほぼありません」
「それはよかった。数値も安定していますね」
健吾のカルテを見ながら医師が頷く。
「相手の方との関係はいかがですか?」
健吾は少し考えてから答えた。
「以前のような重苦しさがなくなりました。ただ、どう接していいのか戸惑う部分もあります」
「それは自然な反応です。長年の関係性が変化すれば、新しい距離感を模索する時期が必要です。
焦る必要はありません」
実際、尚との関係は複雑な変化を遂げていた。
重苦しい絆は確実に薄れているが、代わりにどんな関係を築けばいいのか、二人とも手探りの状態が続いている。
治療開始から二ヶ月目のある日、尚との会話で転機が訪れた。
「健吾、正直に言っていい?」
尚が突然、真剣な表情になった。
コーヒーカップを両手で包み込むように持ちながら、まるで勇気を振り絞るように。
「もちろん」
「僕、健吾への執着が薄れてきてるのを感じてる」
その言葉に、健吾は複雑な気持ちになった。
安堵と同時に、わずかな寂しさも感じる。
七年間続いた特別な感情が消えていく、不思議な喪失感。
失うことを望んでいたはずなのに。
「それは良いことだと思う」
「うん。でも同時に、健吾のことが心配じゃなくなってきてるのも事実で」
尚は少し申し訳なさそうに続けた。
「以前は健吾の体調や気持ちが気になって仕方なかったけど、今は普通の友達として心配する程度になってる」
「俺も同じだ」
健吾は正直に答えた。
「尚のことを守らなければっていう気持ちが、ほとんどなくなった」
「そうなんだ」
二人は少し沈黙した。
店内のBGMと、他の客の談笑する声だけが聞こえる。
七年間続いた特別な絆が、確実に変化している。
それは望んでいた変化だが、実際に体験すると不思議な感覚だった。
「でも、これでいいんだよね」
尚が言った。
その声には、長いトンネルを抜けた人のような安堵が込められている。
「うん。お互いに自由になれる」
その会話以降、二人の関係はより自然になっていった。
以前のような緊張や遠慮がなくなり、普通の友人として会話できるようになった。
七年間の重荷を下ろして、ようやく対等な関係を築き始めている。
治療は順調に進んでいた。
そして健吾の心に、新しい可能性への扉が静かに開かれ始めていた。
専門医療機関は都内の静かな住宅街にあった。
外観は一般的な診療所と変わらないが、受付の奥には最新の医療設備が整っていた。
プライバシーへの配慮か、待合室の椅子は間隔を空けて配置され、患者同士が顔を合わせにくい工夫がされている。
担当となったのは五十代の穏やかな女性医師で、白髪交じりの髪を後ろで束ね、落ち着いた物腰で話す人だった。
これまで数多くの番解消を手がけてきた、この分野の第一人者だという。
「お二人とも、覚悟はできていらっしゃいますね」
医師が最初の面談で確認した。
健吾と尚は診察室の並んだ椅子に座り、緊張した面持ちで同じように頷いた。
七年間の関係を終わらせるという決断の重さが、空気にも宿っているようだった。
「治療は段階的に進めます。まずは詳細な検査から始めて、お二人の絆の現状を正確に把握することから始めましょう」
検査は予想以上に複雑だった。
血液検査、ホルモン値の測定、脳波の測定、心理テスト。
さらには、健吾と尚が同じ部屋にいる時の生理的反応まで計測された。
心拍数、血圧、発汗量――二人の間に存在する見えない絆を、科学的に解析していく作業だった。
「興味深い結果ですね」
一週間後、医師が検査結果を見ながら言った。
グラフや数値が並んだ資料を指差しながら説明する。
「お二人の絆は確かに存在しますが、一般的な番カップルに比べて結合度が低い。これは恋愛感情に基づかない結合の特徴です。治療は比較的スムーズに進むでしょう」
実際の治療は薬物療法から始まった。
フェロモン抑制剤と、番の絆に関わる神経伝達物質を調整する薬を一日三回服用する。
最初の一週間は副作用で軽い頭痛と倦怠感があったが、医師が予告していた通りの反応で、それ以外に大きな問題はなかった。
治療開始から二週間後、健吾は尚と久しぶりに会うことになった。
治療に一緒に通ったのは初回だけで、その後は別々のスケジュールで診察を受けていた。
約束の場所は駅前のチェーンカフェ。
しかし健吾は入口の前で足を止めた。
どんな気持ちになるのか、どんな反応をするのか、自分でも予想がつかない。
ガラス越しに見える店内は、普段と変わらない日常の光景だった。
意を決して店内に入ると、尚は既に奥のテーブルに座っていた。
健吾を見つけて軽く手を上げる。
その表情は以前より穏やかで、頬の色も戻っているように見えた。
「お疲れ様」
「ああ、お疲れ」
向かい合って座った瞬間、健吾は妙な違和感を覚えた。
尚がそこにいる。
でも、以前のような胸の締め付けがない。
尚を心配する衝動も、守らなければという責任感も、明らかに薄れている。
それは奇妙な感覚だった。
七年間慣れ親しんだ感覚が、薄皮を剥がすように失われていく不思議さ。
同じ人物と接しているのに、まるで初対面の人を前にしているような距離感があった。
「体調はどう?」
尚が尋ねる。
声も以前より自然で、緊張の糸が緩んでいるのが分かる。
「悪くないよ。尚は?」
「僕も。少し楽になった気がする」
会話は以前よりもぎこちなかった。
七年間、番としての絆という見えない紐で結ばれていた二人が、その紐が切れていく中でどう関わればいいのか、お互いに探り探りだった。
「なんだか、変な感じだね」
尚が苦笑いした。
「うん。でも、悪い変化じゃない」
「そうだね」
その後の会話は、どこか遠慮がちだった。
以前のような重苦しさはないが、代わりに何を話せばいいのか分からない空白が生まれていた。
まるで、長年使っていた楽器の弦を張り替えた時のような、慣れ親しんだ音色が出ない戸惑いがあった。
一ヶ月が過ぎる頃、健吾は自分の中の明らかな変化を感じ始めていた。
まず、尚のことを考える頻度が劇的に減った。
以前は常に頭の片隅にあった「尚は大丈夫だろうか」という心配が、今では一週間のうちで数回思い出す程度になっている。
あの重い罪悪感も、まるで霧が晴れるように薄れていた。
そして、体調も着実に安定してきた。
あの苦しい息苦しさや動悸はほとんどなくなり、食欲も戻った。
睡眠も深く取れるようになり、朝の目覚めが以前とは比較にならないほど爽やかになった。
「調子はどうですか?」
定期診察で担当医師が聞いた。
「かなり良くなりました。体調面での不安はほぼありません」
「それはよかった。数値も安定していますね」
健吾のカルテを見ながら医師が頷く。
「相手の方との関係はいかがですか?」
健吾は少し考えてから答えた。
「以前のような重苦しさがなくなりました。ただ、どう接していいのか戸惑う部分もあります」
「それは自然な反応です。長年の関係性が変化すれば、新しい距離感を模索する時期が必要です。
焦る必要はありません」
実際、尚との関係は複雑な変化を遂げていた。
重苦しい絆は確実に薄れているが、代わりにどんな関係を築けばいいのか、二人とも手探りの状態が続いている。
治療開始から二ヶ月目のある日、尚との会話で転機が訪れた。
「健吾、正直に言っていい?」
尚が突然、真剣な表情になった。
コーヒーカップを両手で包み込むように持ちながら、まるで勇気を振り絞るように。
「もちろん」
「僕、健吾への執着が薄れてきてるのを感じてる」
その言葉に、健吾は複雑な気持ちになった。
安堵と同時に、わずかな寂しさも感じる。
七年間続いた特別な感情が消えていく、不思議な喪失感。
失うことを望んでいたはずなのに。
「それは良いことだと思う」
「うん。でも同時に、健吾のことが心配じゃなくなってきてるのも事実で」
尚は少し申し訳なさそうに続けた。
「以前は健吾の体調や気持ちが気になって仕方なかったけど、今は普通の友達として心配する程度になってる」
「俺も同じだ」
健吾は正直に答えた。
「尚のことを守らなければっていう気持ちが、ほとんどなくなった」
「そうなんだ」
二人は少し沈黙した。
店内のBGMと、他の客の談笑する声だけが聞こえる。
七年間続いた特別な絆が、確実に変化している。
それは望んでいた変化だが、実際に体験すると不思議な感覚だった。
「でも、これでいいんだよね」
尚が言った。
その声には、長いトンネルを抜けた人のような安堵が込められている。
「うん。お互いに自由になれる」
その会話以降、二人の関係はより自然になっていった。
以前のような緊張や遠慮がなくなり、普通の友人として会話できるようになった。
七年間の重荷を下ろして、ようやく対等な関係を築き始めている。
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