【完結】初恋のアルファには番がいた—番までの距離—

水樹りと

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第6章 健吾side

第四話

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 十一月に入り、キャンパスの木々が色づき始めた頃、健吾は研究室で蛍の個別指導を行っていた。
 番解消の治療も大詰めを迎え、あと数週間で完了予定だった。
 
 夕方の斜光が窓から差し込み、机上の資料を暖かく照らしている。
 蛍は課題図書のノートを開いて、真剣な表情で質問の準備をしていた。
 
「今日はナンシー・フレイザーの『正義の秤』について聞きたいことがあって」
「どの辺りが分からなかった?」
「承認の政治と再分配の政治の関係がいまいち掴めなくて。特に、ジェンダーの問題をどう位置づけるべきなのか」
 健吾はホワイトボードに簡単なメモを引き、ペンの細い音を背に説明を始めた。
 
「フレイザーは分析上は承認と再分配を分けて考えるけど、現実では絡み合って互いを規定し合うって立場なんだ。
で、『正義の秤』ではもう一つ、"代表"の次元を足す。――"そもそも誰が当事者として数えられているか"って話」
 蛍が理解を示すように頷く。
 その集中した表情を見ていると、健吾は胸の奥が温かくなるのを感じた。
 
「じゃあ、オメガの就労問題だと?」
「賃金や雇用の配分に、『オメガは家庭的』みたいな偏見が重なってる。
 さらに、政策や現場の会議に当事者が入れていないなら、そこでも不正が起きる」
「承認と再分配の境界が曖昧になりますね」
「うん。"曖昧"というより相互に絡み合う感じ。フレイザーは『参加の同等性』――同じ土俵で議論・意思決定に関われる条件を整えることを基準にする。対症療法の"とりあえず配慮"じゃなくて、できれば制度側を再設計する手当てを勧めるんだ」
 蛍はさらりと書き込み、顔を上げる。
 その理解の早さに、健吾は改めて彼の聡明さに感心した。
 
「そっか。三つの次元で見たほうが、手がかりが増えるってこと?」
「そう。だからジェンダーはどっちかじゃなく、両面を併せ持つものとして捉えるのがフレイザー流」
 説明がひと区切りつくと、蛍は満足そうに頷いた。
 窓辺の埃が光に舞い、研究室はしばし静寂に包まれる。
 健吾は蛍のフェロモンをかすかに感じていた。
 治療が進むにつれて、その香りはより鮮明になっている。
 甘く、優しく、健吾の神経を静かに安らがせる匂い。
 
「よく分かりました。ありがとうございます」
 資料を片付けながら、蛍が思い出したように言った。
 
「そういえば、健ちゃん、最近映画は見た?」
「あまり時間がなくて。蛍は?」
「サークルで『ムーンライト』の上映会をやったんだけど、見たことある?」
 蛍の表情が明るくなる。
 映画について語る時の彼は、いつも生き生きとしている。
 その変化を見るだけで、健吾の心は自然と軽やかになった。
 
「ああ、公開当時に見たよ。どうだった?」
「すごくよかったよ。少年期・青年期・成人期それぞれで主人公の孤独が繊細に出てて」
 蛍は身を乗り出すようにして続けた。
 熱のこもった語り口に、健吾は彼の感性の豊かさを改めて感じる。
 
「海の場面とか、あの青い光の感じ——周りの期待と自分が何者かのあいだで揺れるのが刺さった」
 その言葉に、健吾の胸が静かに震えた。
 まるで自分の状況を見透かされているような気がして。
 番の絆に縛られた自分、蛍を想う自分、研究者としての自分——どれが本当の姿なのか、健吾自身も模索し続けている。
 
 蛍の瞳に、何か特別な意味が込められているような気がした。
 健吾の現状を、薄々感づいているのだろうか。
 
「今度時間を作ってもう一度見てみようかな」
 夕日が窓から差し込み、蛍の横顔を金色に染めている。
 その美しさに、健吾は息を呑んだ。
 蛍のフェロモンがより強く香り、理性を静かに揺さぶる。
 
「健ちゃん」
 蛍が不意に健吾を見つめた。
 
「なんか、疲れてる? 大丈夫?」
 心配そうな瞳の色に、健吾は胸が締め付けられる思いがした。
 こんなにも真剣に自分を気にかけてくれる人がいる。
 その事実だけで、どれほど救われるかわからない。
 
「ちょっと忙しくて。でも、もう少しで一段落するから」
「そう? 無理しないでね」
 優しい言葉に、健吾はもう少しで本当のことを話してしまいそうになった。
 
「ありがとう。蛍がいてくれるから頑張れる」
 思わず出た本音に、蛍の頬がほんのり赤らんだ。
 その反応が愛おしくて、健吾の心はさらに大きく揺れる。
「むしろ、負担になってない? 俺、質問ばっかり」
「そんなことないよ」
 健吾は蛍をまっすぐ見つめた。
 
「蛍はいつも、俺を支えてくれている」
 二人の間に静寂が流れた。
 夕日が部屋をオレンジ色に染め、時が止まったような感覚に包まれる。
 蛍のフェロモンが健吾を包み、心の奥で何かが静かに響いている。
 このまま時間が止まってくれたらと、健吾は思った。
 
「時間は大丈夫?」
「あ、ごめん」
 健吾が我に返って立ち上がると、蛍も慌てて荷物をまとめた。
 
「今日もありがとうございました」
「こちらこそ。また何か分からないことがあったら、いつでもきてね」
 研究室を出る蛍の後ろ姿を見送りながら、心の中で静かに誓う。
 
 もう少しだ。
 治療が完了したら、きっと——。
 
 廊下に蛍の足音が遠ざかっていく。
 その音が消えても、甘い香りの余韻が健吾の胸に残り続けていた。
 
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