【完結】初恋のアルファには番がいた—番までの距離—

水樹りと

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第6章 健吾side

第五話

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 十一月下旬の金曜日、健吾は専門医療機関で最後の診察を受けていた。
 待合室の窓から見える街路樹は、すっかり葉を落として冬の準備を始めている。
 裸の枝が灰色の空に繊細な線を描き、季節の移ろいと同じように、自分の人生にも新しい季節が訪れることを静かに告げているようだった。
 
「芦原さん、お疲れさまでした」
 診察室で、担当医師が完了証明書を手渡しながら言った。
 治療の間、見守り続けてくれた穏やかな表情に、満足の色が浮かんでいる。
「すべての検査結果が正常範囲に戻っています。番の解消は完全に成功しました」
 健吾は書類を受け取りながら、込み上げる安堵感を噛みしめていた。

 五ヶ月間に及ぶ治療が、ついに終わった。
 体調の不安定さ、尚への罪悪感、そして未来への不透明感——長い間肩にのしかかっていたすべての重荷が、今この瞬間に過去のものになろうとしている。
 
「今後は、一般の方と同様に自由に恋愛関係を築くことができます。副作用や後遺症の心配もありません」
 医師の言葉が、健吾の心に深く響いた。
 自由に恋愛関係を築くこと。
 七年間、自分には許されていなかった選択肢が、ようやく手の届く場所に戻ってきた。
 
「ありがとうございました」
 健吾は深く頭を下げた。
 長い道のりだったが、ようやく自分の人生を取り戻せた。
 七年間続いた責任という名の重荷から、完全に解放される瞬間だった。
 胸の奥で、何かが静かに解けていくのを感じる。
 
 医療機関を出ると、健吾はスマートフォンを取り出した。
 冷たい晩秋の風が頬を撫でるが、その冷たささえも心地よく感じられる。
 尚にメッセージを送る。
 
『治療が完了した』
 返信はすぐに来た。
『お疲れさま。僕も来週に最終検査予定』
『体調は平気?』
『うん。こちらも終わったら連絡するね』
 短いやり取りだったが、そこには以前のような緊張や重苦しさは微塵もなかった。
 ただの友人同士の、自然な気遣いがあるだけだった。
 


 二週間後、健吾と尚はいつものカフェで会った。
 二人とも、これまでで最も明るい表情をしている。
 長い治療を乗り越えた安堵と、新しい人生への期待が、その顔に刻まれていた。
 
「本当に終わったんだね」
 尚がコーヒーカップを両手で包みながら言った。
 その声には、長いトンネルを抜けた人だけが持つ、晴れやかな響きがあった。
 
「うん。体調は? オメガの方が負担が大きいって言われてるけれど」
「カウンセリングが手厚かったからかな。思ったより全然平気だった。むしろ、治療前より調子がいい」
 尚の表情には、もう痛みの影はない。
 代わりに、解放された人だけが持つ軽やかさと、未来への希望が宿っていた。
 
「よかった。長かったな」
「長かったし、大変だったけれど、僕は正しい選択だったと思ってるよ」
 尚はカップをテーブルに置き、率直な眼差しで健吾を見た。
 
「健吾のことは好きだけれど、結婚して家庭を築くようなイメージはどうしても持てなかった。でも今は、健吾の友人として応援したいって心から思える」
 尚の率直な言葉に、健吾は深い安心を覚えた。
 お互いに同じ気持ちだったのだと、ようやく確認できた。
 そして何より、こんな風に素直に話せる関係になれたことが嬉しかった。
 
「うん。俺もそうだ」
 健吾の言葉には、以前のような複雑さは一切なかった。
 純粋に、友人の言葉として受け止めている。
 責任感という濁った感情のフィルターが取り除かれ、クリアな気持ちで尚と向き合えている。
 
「健吾は? 例の人に告白したの?」
「してないよ」
 健吾は自然な笑みを浮かべた。
「え、なんで? もうデートとかしてるんじゃないの?」
「ちゃんと治療が終わってからと思って。デートっていうか、映画を見に行ったくらい」
「あら、健全」
 尚が茶化すように笑う。
 その笑い声に、七年前の友人だった頃の尚が蘇る。
「そうかな」
「僕ら、すっかり恋愛下手になっちゃったのかなぁ。ブランクが長すぎる」
「それはあるかもね」
 二人は声を立てて笑った。
 七年間の重い時間を経て、ようやくこんな風に笑い合える関係に戻れた。
 友人として、対等な立場で。
 罪悪感も責任感もない、純粋な友情がそこにあった。
 

 カフェを出て、別れ際に尚が振り返った。
「健吾、ありがとう。また会おうね」
「うん。今度は気軽に」
「次はダブルデートできるように頑張ろう」
「ダブルデートなんてこの年じゃしないんじゃない?」
 健吾が苦笑すると、尚は目を丸くした。
「え、そうなの?」
「たぶんね」
「じゃあ、普通に四人でお食事会とか」
「それなら、まあ、あるのかな」
 尚の後ろ姿が人波に消えていくのを見送りながら、健吾は新しい人生への扉が開かれたのを実感していた。
 責任から解放され、愛のために生きることができる。
 そんな未来が、手の届く場所に確実に見えていた。
 
 夕暮れの街を歩きながら、健吾は蛍のことを考えた。
 研究室で真剣に質問する表情、廊下で偶然出会った時の少し照れたような笑顔、自分の話を一生懸命聞いてくれる姿。
 もう何も自分を縛るものはない。
 今度こそ、自分の本当の気持ちを伝えよう。
 
 街灯が一つずつ灯り始める中、健吾の心の奥で、新しい物語が静かに始まろうとしていた。
 七年間封印されていた感情が、ようやく自由になれる時が来た。
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