孤独なオッサンと、無邪気な少女のスローライフ冒険譚

Mr.Six

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第18話 濃霧の湿原と待ちきれない相棒

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 ファリダット町の空がまだ薄暗い早朝、アルスは無言で支度を整えていた。湿原に向かうための装備はいつも以上に念入りだ。くるぶしまで浸かる水、滑りやすい地面、そして視界を奪う濃霧――ネーベル湿原はアルスにとっても、油断すれば命取りになる危険な場所だった。

 革のブーツをしっかりと履き直し、剣の柄を確認して玄関に向かう。扉を開け、ひとつ息を吐いて外へ出ようとしたその時――。

「アルスおじさん!」

 元気な声が後ろから響いた。振り返ると、マルタが玄関に立っていた。両手でダグラスの店で買った小さなナイフを握りしめ、目を輝かせている。その姿は、まるで「連れて行って」と言わんばかりだ。

 アルスは眉間に皺を寄せ、ため息をついた。

「……今回は危険だから家でおとなしく待ってるんだぞ?」

「何も言ってないもん!」

 マルタはむくれた顔でそっぽを向くが、手に握られたナイフはしっかりと彼女の意思を物語っている。足元では小刻みに体を揺らし、どうしても出発を待っているのが丸わかりだ。

 アルスは静かに彼女を見下ろし、目を細めた。

「……自分の命は自分で守るんだ。俺は勝手に出ていく」

「……!」

 その一言にマルタの顔がぱっと明るくなる。アルスがそれ以上何も言わず背を向けると、彼女は待ってましたとばかりに後をついてくる。

「ちゃんとおとなしくするもん! ……邪魔しないから!」

「……その言葉、毎回聞いてる気がするな」

 アルスは呆れながらも、もうマルタを引き止める気はなかった。彼女は言い出したら聞かない性格だし、どうせ置いて行ったとしても追いかけてくるのは目に見えている。せめて自分の目の届く範囲に置いておく方が、まだ安全だ。

「歩くのが遅いと置いていくぞ」

「わかってる!」

 マルタは嬉しそうに小さなナイフを腰にぶら下げて、アルスの後ろをちょこちょことついて歩く。そんな彼女の姿に、アルスは再びため息をつきながらも、その歩みを緩めることはなかった。

 数時間の旅を経て、アルスとマルタはネーベル湿原にほど近い小さな村に到着した。湿原の近くに位置するこの村は、常に湿った空気に覆われている。家々の屋根には苔が生え、地面には細い水路がいくつも流れていた。村人たちは水と霧の中で生きる知恵を持っているのだろうが、その表情にはどこか不安の色が滲んでいる。

「……この村に、何かあるの?」

 マルタが周囲をきょろきょろと見回しながら尋ねる。アルスは「情報収集だ」とだけ短く答え、村の中央にある小さな広場へと向かった。

 村人の一人がアルスを見つけ、驚いた顔で駆け寄ってくる。

「お、お前さん……冒険者か?」

「ああ。湿原に出た霧蛙の討伐依頼を受けた」

「そうか……! 頼む、あの化け物をどうにかしてくれ!」

 村人はそう言いながら周囲を見回し、声を潜めて話し始めた。

「ここ数日、ネーベル湿原に入ったまま戻ってこない者が何人もいるんだ。霧の中に引きずり込まれたとか、真っ暗になるほど巨大な化け物を見たとか、噂ばかりが広がっている」

「霧蛙……か」

 アルスは眉をひそめ、村人の話を黙って聞いていた。

「人を丸のみにするほど巨大だって話だ。見た者は恐怖のあまり足がすくんで逃げ出したらしいが……本当に恐ろしい姿だったそうだ」

 マルタはその話を聞いて、青ざめた顔でアルスを見上げた。

「……ねえ、それ、本当に戦うの?」

「ああ。討伐依頼だからな」

 アルスは淡々と答えると、村人にさらに尋ねた。

「湿原の霧はどうだ? 視界はどれほどのものだ」

「いつも以上に濃い。まるで目の前に壁があるみたいだ。太陽の光が届かないほどだよ。霧が光を乱反射して、どこがどこだかわからなくなる」

「湿原にいるモンスターは?」

「普段はスライムや水棲の魔物が多い。だが、最近は何かがおかしい。霧蛙のせいなのか、湿原全体がいつもと違う気がする」

 アルスは村人の話を聞き終えると、静かに頷いた。

「わかった。霧蛙の討伐は俺がやる」

「本当に頼むよ……!」

 村人が深々と頭を下げる。その光景を見て、マルタは少し不安げな顔でアルスの袖を引っ張った。

「ねえ、アルスおじさん。本当に大丈夫なの?」

「ああ。心配するな」

 アルスはそう言いながら村の外れに目を向けた。湿原の方角にはすでに濃い霧が漂っており、太陽の光すらも白くぼやけて見える。湿った風が頬を撫で、湿原から漂う異様な空気が彼の肌にまとわりつく。

「準備を整えたら行くぞ。お前は村で待っていてもいいんだぞ」

 アルスがそう言うと、マルタは即座に首を横に振った。

「待つなんて嫌だ! ちゃんとおとなしくするから、一緒に行く!」

 その強い意志を感じ取り、アルスはもう何も言わなかった。彼女の隣で戦わせるつもりはないが、それでも彼女がついてくるなら、せめて目の届く範囲に置くしかない。

「……勝手にしろ。ただし、危なくなったらすぐに逃げろ」

「わかってる!」

 マルタは笑顔で頷き、小さなナイフをしっかりと握りしめる。その姿を見ながら、アルスは静かに湿原の方角を見つめた。

「……行くぞ」

 彼の声が低く響き、二人はネーベル湿原へと足を踏み出す。視界を奪う霧の中には、未知の恐怖と危険が潜んでいる。その先に待ち受けるのは、噂される巨大な霧蛙――アルスは剣の柄を確かめながら、決意とともに一歩を踏み出した。
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