9 / 13
第八話「愛とは奇跡のようなもの」
しおりを挟む
エゼキエルは一人、ウィンチェスター・ムーアの森の中を走っていた。森の中は薄暗く、霧が立ち込めていて視界が悪い。下草に足を取られてときおり躓きそうになりながら、エゼキエルは早足で森の中を彷徨う。
これは夢の中だということにはすでに気づいていた。エゼキエルは夢の中で、何かから逃げるために森の中を走っている。エゼキエルを追ってくるものの正体には気づいていた。霧の向こうから姿を見せぬまま、それでも確実にエゼキエルに迫ってくるのは、ウィンチェスター・ムーアの領主、ヘンリー・ウィンチェスターだ。ヘンリーが湿った草を踏みしめる音が霧の中からかすかに聞こえてくる。姿は見えないが、手に猟銃を持っていることはなぜかわかっていた。
エゼキエルは目に見えぬ射手から逃げ惑っているが、早く走り抜けて森の外へ出ればいいのに、少し走っては木の陰に隠れ、ヘンリーの足音を聞いてまた少し走っては隠れと、なかなか距離を取ろうとしない。夢の中だからうまく逃げられないのだろうか。それとも、ヘンリーから隠れながらも、彼に見つかることをどこかで期待しているのだろうか。彼に見つかったらどうなるのだろう。手にした猟銃で撃ち抜かれるのか、それとも……
エゼキエルは一本の木の陰に隠れた。木は細く、身を隠すには心許ない。心臓は早鐘のように打ち、湿った空気をせわしなく吸っては吐き出した。呼吸の音すら聞かれてしまいそうなほど静かな森だ。ヘンリーの足音がゆっくりと近づいてくる。姿はまだ見えない。逃げるべきなのに、エゼキエルはそこから動かなかった。
ふと、足音が消えた。エゼキエルを追うのを諦めて去っていったのか。エゼキエルは安堵して、乱れた呼吸を整えた。元きた道を戻ろうと、木から体を離そうとしたその時。二本の腕が木の後ろからエゼキエルの体を掴んだ。木に押し付けるように、強い力で背後からエゼキエルを抱き締める。自らを拘束する手をエゼキエルは見下ろす。ウィンチェスター家の紋章の指輪をはめた指、これはまちがいなくヘンリーのものだ。息ができないほど強く羽交い締めにされて苦しい。服と皮膚をひきむしって肉に食い込むのではないかと思うほど強くヘンリーはエゼキエルの体に爪を立てる。苦しさと恐怖が極限に達した瞬間、エゼキエルは小さく悲鳴をあげながら目を覚ました。
目を開けると、いつも寝起きしている客間の天井が見えた。朝日がのぼったばかりで、まだ窓の外は薄暗い。走ったあとのように呼吸は荒く、心臓は痛いほど脈打っている。胸を抑えながらエゼキエルはゆっくりと起き上がる。これが夢であったことに安堵した。それと同時に、なぜあのような形でヘンリーが夢に出てきたのかわからず戸惑った。強くかき抱くようにエゼキエルを拘束した腕。逃げ惑うエゼキエルの心には、恐怖と緊迫のなかにわずかながらに期待感があった。いったい自分は何を期待していたのか。ヘンリー・ウィンチェスターという男は、自分の中で一体どのような存在になりつつあるのか。
エゼキエルは呼吸を整えながら、寝台のそばに置いたロザリオを手に取り、縋るように握りしめた。
夜になり、真っ暗な礼拝堂の中で、エゼキエルは祭壇の両脇に揃えて並べられた赤い蝋燭に一つずつ火を灯した。すべて灯しきると暗い礼拝堂のなかは暖かい光で満たされた。微細に揺れる炎が祭壇を美しく照らす。エゼキエルはロザリオを握りしめながら、その輝きを見下ろした。
昨夜の約束通り、ヘンリーはこの礼拝堂を訪れるだろうか。人嫌いの陰鬱な男だが、約束を違えるような不義理はしないだろうという確信がなぜかあった。背後で重い靴音がして、振り返ると礼拝堂の戸口のそばにヘンリーが立っていた。赤い蝋燭の無数の光の前に立つエゼキエルを、ヘンリーはじっと見つめていた。
ヘンリーはゆっくりと礼拝堂の中を歩いてきて、祭壇の前の椅子に座った。
「私は約束を違えることはしない。今宵はここへ懺悔をしにきた。エゼキエル司祭、私の改悛を聞き遂げてくれるか。」
エゼキエルは頷いた。
「……ええ。あなたの嘘偽りない悔い改めを神は望んでおられます。私があなたの懺悔を聞き届け、神に祈り、神の許しを願いましょう。」
「真実だけを話すと、聖典に誓おう」
宣誓の儀を済ませ、エゼキエルはヘンリーに尋ねた。
「どのような懺悔をなさりたいのですか?」
ヘンリーは少しだけ考えてから答えた。
「……私の頑なさと、愚かさについて。自らの意思で遠く捨て去ったものを、いまさら想わずにいられない未練について。私の迷いと恐れのせいで、深く傷つけた者たちについて神に告白しよう。」
そう言い置いてから、ヘンリーは彼の過去について静かに語り始めた。
ヘンリーの父は酒浸りだった。物心ついてから、父が死ぬまで、酒を飲んでいる姿しか見たことがない。ヘンリーの母はそんな夫をひどく嫌っていた。醜い振る舞いをやめない夫への憎しみと鬱屈が溜まり、よく侍女や使用人を怒鳴りつけては鬱憤を晴らしていた。
父はヘンリーによく言っていた。この家の命運は塔に住む妖魔に握られているのだと。ならば自分が何をしたところで無駄でしかないのだと。ウィンチェスター家の当主はただ墓守のように塔を守ることだけを運命付けられたとも言っていた。実際、父は土地にも事業にもほとんど関心を示さなかったが、不思議と家の財政は安定していた。これも塔の妖魔がもたらす加護と呪いの現れなのだろうか。
ヘンリーが十五になった年に母が出ていった。もともとウィンチェスターの家名への憧れだけで嫁いだ母に、父への愛情はなかった。母が出ていった日の夜も父は酒を飲んでいたが、その横顔はなぜかいつもより寂しそうに見えた。父はヘンリーに言った。「これで良いのだ」と。「妖魔にわざわざ喰わせるようなことをせずに済んだ」と。
その時は何のことを言っているのかわからなかった。しかしヘンリーが成人する直前、父がウィンチェスター家が代々守り通してきた秘密である、塔の呪いについての全容をヘンリーに語って聞かせた。
──ウィンチェスター家は塔によって生かされ、繁栄をもたらされ、支配され、そして呪われている。
──当主が誰かを愛し、愛され、その想いが通じ合ったとき、最も愛を受けた者が塔に囚われる……
ヘンリーはこの時、父がただの迷信に怯えていたわけではないということを知った。そしてこうも思った。ほんとうに父と母の間に愛情はなかったのかと。もしかしたら父は、わざと母を愛さなかったのではないかと。ヘンリーが成人してすぐ、待っていたかのように父は死に、父の本当の思いを聞く日はついぞ来なかった。
ヘンリーが父から教わったことなどほとんどない。あるとすれば、当主はただ隠者のように静かに、塔を守り続けなければならないということ、そして、塔の妖魔に誰かを愛する心を利用されたくないのなら、この家に決して愛を持ち込んではならないということだ。
しかし、誰も愛さずに生きることなどできるのだろうか。それは生きながらにして死んでいることとどう違うのか。誰とも心を通わせず、石のように頑なに生きるなどと──
当主の義務にしたがって、ヘンリーは妻を娶った。妻には何の関心もなかった。いや、何の関心も抱かないようにしていた、かつて父がそうしていたように。妻とはほとんど口を聞かず、家を空け、妻がなかなか身籠らないことをいいことに外に愛人を作った。こんな自分を妻が嫌うことを望んでいたのだ。そうすれば自分も妻も誰も犠牲になることはなく、この家の存続だけが保たれるだろうから。そのうちに妖魔が人の愛という生贄をもとめて荒れ狂い出すかもしれないが、幸いにも塔は沈黙したままだ。自分の代か、何代か先くらいまでは切り抜けられるかもしれない。いくら家の中が冷え切り、陰鬱で冷酷な一族になろうとも。
ヘンリーは冷たい目で妻を一瞥するたび、愛人の家から深夜に帰宅するたび、妻が嫌悪と軽蔑の目で自分を睨むことを期待した。かつて母がそうだったように。しかし妻はそうしなかった。ろくに口も聞かない、妻に対して礼も尽くさないヘンリーを、それでも夫として尊重し、関係を保とうと努力していた。
夫に奉仕するよう教え育てられた旧弊な女だからだとか、彼女は気が弱く、侯爵である夫に遠慮しているのだと思おうとした。しかしどうしてもそうは見えなかった。彼女は呪われた家の当主であるヘンリーと夫婦になる覚悟を持ち、重苦しい運命の中にあっても毅然として愛を持ち続けようとしているように見えた。
それに気づいてしまうと、彼女に惹かれていく心が止められなくなった。父の愛も母の愛も得られず、両親の夫婦としての美しい愛情すら感じることのできなかった孤独と悲しみを、すべて彼女の前にさらけだして、救いを求めたくなった。けれど彼女が、美しく毅然として、慈愛に満ち、凛とした女性であればあるほど、自らの愛で彼女を犠牲にしたくないという気持ちが強くなっていった。彼女に対する愛が深まれば深まるほど、この呪われた手で決して触れてはいけないのだと思うようになった。この思いを吐露すれば、慈悲深い彼女はきっと理解を示し、夫をさらに愛そうと努力するだろう。しかしそれはあってはならないのだ。彼女を塔の生贄に捧げたくなかったし、自分が塔に飲み込まれて妻を寡婦にするのも、そのどちらも避けたかったからだ。だからやはり彼女を遠ざけ続けるしかないと自分に言い聞かせた。
妻はなかなか妊娠しなかった。子を成せないのであれば、それを理由に離縁ができる。彼女を失いたくなかったし、悲しませるのも忍びなかったが、離縁すれば彼女はこの家と自分から解放され、新しい人生を歩むこともできるのだ。いっそ離縁してしまおうかと何度も考えた。しかし彼女がこの屋敷から去り、鬱屈とした薄寒い屋敷の中で一人で暮らすことを考えるとぞっとするほど恐ろしかった。ヘンリーは決断することから逃げ続けた。そうこうしているうちに、彼女が身籠ったことを侍女から聞かされた。
何年も子ができなかったから、安全に子を産める保障はなかった。それでも腹の子は順調に育ち、妻の体調も問題はないように見えた。
もうひと月もすれば第一子が生まれようかというある日の深夜、屋敷の扉が叩かれた。扉を開けると、一人の女が眠っている幼子を抱き抱えて屋敷の前に立っていた。その女は、愛人として数年前まで付き合いのあった女だ。ヘンリーの足が遠のいている間、知らぬ間に女は子を身籠り、産み育てていたのだ。
女はある実業家と縁談がまとまり、結婚することになったのだと言う。しかし私生児がいることを未来の夫には知らせていない。ヘンリーとの間の子供がいたままではその男と結婚できない。ウィンチェスター家の後継者の一人としてこの家で育ててやってくれと、女はヘンリーに訴えた。
ヘンリーは断らなかった。断る権利などないと思った。彼女もまた、ヘンリーの頑なな心と愚かな選択に巻き込まれた者の一人だ。その彼女がヘンリーとの関係を清算して、新しい人生を歩もうというなら、そのためにヘンリーにできることがあるなら、せめてもの償いになるはずだ。ヘンリーは彼女の腕に抱かれた子を引き取り、子の養育にかかった費用の補填として金を支払うことを彼女に約束した。
愛人との間に子がいたこと、そしてその子を引き取ったことは、妻には包み隠さず伝えた。ヘンリーが予想していた通り、妻はその子を自分の子として育てたいと言った。しかし引き取った子は男児だった。この家の子として育てれば、第一後継者となる。庶子である身でそれは許されないことだ。ヘンリーは妻の願いを退け、森番の夫婦に愛人との間の子──ノアを預けた。
妻との間の子は無事に生まれ、名をアレクシスと名付けた。健康だった妻も、適齢期を過ぎての出産はかなりの重荷だったようで、アレクシスを産んでからは伏せがちになってしまった。きっとアレクシスに弟や妹は生まれないだろう。だからアレクシスが物事の分別がわかるようになってきた頃には、森番の息子として育てられているノアがアレクシスの腹違いの兄なのだということを正直に告げたし、アレクシスがノアと親交を持つことも止めなかった。きっとアレクシスも、自分と同じように、愛を知らずに生きていくのだ。だからこそ、心を許せる男兄弟すら取り上げるのはしのびなかったのだ。
呪いを遠ざけ、犠牲を出さないようにとヘンリーなりに考え選択してきたことは、実は何もかも無駄だったのかもしれない。アレクシスが八つになった歳、妻が病で世を去った。
呪いさえ避けていれば安泰に暮らせると、なぜ思い込んでいたのだろう。呪いなどなくてもさまざまな理由で人は不幸になるし、命を落としもする。棺の中に横たわり、眠ったように静かに目を閉じている妻の顔を見ながら、これまでの何もかもが自分の過ちで、罪だったのだとヘンリーは思わずにいられなかった。どうせこんな結末になるのなら、妻と愛を交わしていればよかった。そうでなくても、優しい言葉の一つもかけていれば、彼女の短い人生はもっと彩りあるものになっていたかもしれないのに。
いや、これもまた呪いなのかもしれない。妻と情を交わさないよう、妻への愛が塔の妖魔に気づかれないよう必死に隠していたが、実はとうに気づかれていて、妖魔は音もなく呪いの茨をこの屋敷に張り巡らし、妻を連れ去ったのかもしれない。
呪いから逃れるための努力も無駄になったと知り、無理やり凍らせていた心は溶けることなく砕け散ってしまった。母の死を嘆き悲しむアレクシスは父親を必要とするだろうが、息子の心を慰め、父性をもって彼を一人前に育てあげるなど、とてもできそうになかった。それにもしかしたら、次に妖魔が狙うのはアレクシスかもしれないのだ。ヘンリーはアレクシスを国外に留学に出して、この家から遠ざけることを決めた。アレクシスは拒もうとしたが、絶対に聞き入れなかった。彼は異国の地で孤独を味わい、父を恨むだろうが、愛する妻を守れず一人息子からも憎まれることが、愚かな自分にはふさわしい罰だと思った。
長い告解を終えて、ヘンリーは祭壇の前に立つエゼキエルを見上げた。エゼキエルは告解が終わっても、しばらく言葉を紡ぐことができなかった。ヘンリーの人生と何十年も抱えてきた思いは、あまりに大き過ぎてすぐには受け止められそうにもなかった。
「これが私の懺悔だ。エゼキエル司祭。愛を求めながら自らそれを捨て、生涯を無駄にした愚かな男の話だ」
エゼキエルはほとんど独り言のように、小さく呟いた。
「……愛とは奇跡のようなもの……望んでも手に入るとはかぎらない」
ヘンリーは疲れたように目を瞑り、数度頷いた。
「ああ。君の言う通りだ。このように私はもう何もかも手遅れで、いまさら神の許しを得るのもおこがましいが、君が神へ祈り、私の罪がすこしでも許されるなら──それが我が息子アレクシスを守ることになるだろう」
エゼキエルは震える手でロザリオを掲げ、十字を切った。
「神はあなたを許します。あなたの偽りない告白と懺悔によって」
「……ありがとう。おいぼれた心もこれで少しは慰められた。」
そういってヘンリーは立ち上がり、エゼキエルへと近づいた。エゼキエルは思わず後ずさる。
「実は、今日この場所にきたのは告解のためだけではないのだ」
「……え?」
ヘンリーはそのままエゼキエルの横を通り過ぎて、祭壇に祀られた聖像の足元にある、ウィンチェスター家の家紋を模った金属のレリーフを手に取った。それをエゼキエルの後ろにある説教壇のくぼみに嵌める。すると錠が落ちるような、枷が外れるような音が説教壇の中から聞こえた。ヘンリーが説教壇を押すと壇は横に動き、周囲の床と違う色の平たい石のタイルが壇のあった場所に現れた。
石のタイルには丸い窪みが彫られていて、取手のようなものが取り付けられていた。それを引くとタイルが持ち上がり、床下に収められている箱が姿を現した。ヘンリーは箱を取り出して説教壇の上に置く。胸ポケットから鍵を取り出し、箱の錠を解除した。
「今宵はこれを君に見せるためにここへ来たのだ」
箱の蓋を開けると、中には一枚の石板がおさめられていた。石板には、彫ったような焼いたような不思議な方法で文字が刻まれていた。
石板には、こう刻まれていた。
“我が名はユリウス・ウィンチェスター。
此の塔にて契りしは、愛と引き換えの繁栄なり。
その呪いによりて我が一族は栄え続けん。
我が子孫よ、忘るるなかれ。
愛する者を供物とせよ、さもなくば己が身と愛と共に塔の妖魔へ捧げよ。
されど、もしも一族の栄えを捨て、
己が身を投げ打ち愛に殉ずることを選びし時、その呪いは終わりを告げる。
塔は静かにその役目を終えるだろう。”
「これは……」
「我が先祖、ユリウス・ウィンチェスターが残した石板だ。彼が塔に住む妖魔と契約を交わし、呪いと一族の繁栄について記したこの石板を残したと言われている」
呪いは迷信ではなく、本物なのだ。ヘンリーも、ヘンリーの父も、おそらくその父も、一族の繁栄と引き換えにこの呪いに縛られ続けてきたのだ。
ヘンリーは石板を元に戻し、再び説教壇の下に隠した。
「君にこれを見せたのは、私の改悛が本物であることを証明するためだ。……いや、この家がまやかしの繁栄に取り憑かれた愚かな一族であることを君に明かしたかったのかもしれない」
ヘンリーは祭壇から下り、礼拝堂の出口へと向かって数歩進んで、立ち止まった。
「この石板の存在は教会へ報告しても構わないし、君の胸の中にしまっておいてくれてもいい。しかし無闇に触れれば危険があるかもしれない。この礼拝堂に誰も入れないようにしていたのはそのためだ」
「……このことは……秘密にしておきましょう。その方がいいような気がするのです」
ヘンリーは体を傾けて振り返り、「そうだな」と言って笑った。
「老体の世迷いごとを聞いてくれて感謝する。もう休むといい」
「ええ……」
ヘンリーはそのまま礼拝堂を出て行ったが、エゼキエルはその場から動けなかった。
ヘンリーがエゼキエルに見せてきた、猜疑心と自己嫌悪、孤独に苛まれるような態度。それは愛を知らぬからこその孤独なのだと思っていた。エゼキエルと同じように。けれど違った。ヘンリーはかつて、誰にも告げられない、言葉にすらできないほどの深い愛を持っていた。そして今でも。孤児院のなかで、誰にも心を開かず生きてきたエゼキエルとちがって。
エゼキエルの脳裏に、かつての自分の姿が突然よみがえってきた。神から特別に愛される方法を神父にたずねた時の幼い自分。それを咎められて鞭打たれたときの痛み。聖典や書物にかじりつき、神からの特別な愛を求め続けた自分。日課の祈りの中で、神の愛を求め続けていたが、いつの日からかやめてしまったことを。
思い出してしまった。自分がかつて何を求めていたのかを。かつて求め、そしていつからか諦めてしまっていたものを。
エゼキエルは小さな声で呟いた。
「愛とは奇跡のようなもの……望んでも手に入らない……」
エゼキエルの目から大粒の涙が零れ落ちた。それは止まることなく何度も流れ落ち、エゼキエルの頬に涙の筋を作った。
「わたしは、その奇跡に値しない……」
涙を流しながらそう呟くエゼキエルの姿を、祭壇の物言わぬ聖像だけが静かに見下ろしていた。
これは夢の中だということにはすでに気づいていた。エゼキエルは夢の中で、何かから逃げるために森の中を走っている。エゼキエルを追ってくるものの正体には気づいていた。霧の向こうから姿を見せぬまま、それでも確実にエゼキエルに迫ってくるのは、ウィンチェスター・ムーアの領主、ヘンリー・ウィンチェスターだ。ヘンリーが湿った草を踏みしめる音が霧の中からかすかに聞こえてくる。姿は見えないが、手に猟銃を持っていることはなぜかわかっていた。
エゼキエルは目に見えぬ射手から逃げ惑っているが、早く走り抜けて森の外へ出ればいいのに、少し走っては木の陰に隠れ、ヘンリーの足音を聞いてまた少し走っては隠れと、なかなか距離を取ろうとしない。夢の中だからうまく逃げられないのだろうか。それとも、ヘンリーから隠れながらも、彼に見つかることをどこかで期待しているのだろうか。彼に見つかったらどうなるのだろう。手にした猟銃で撃ち抜かれるのか、それとも……
エゼキエルは一本の木の陰に隠れた。木は細く、身を隠すには心許ない。心臓は早鐘のように打ち、湿った空気をせわしなく吸っては吐き出した。呼吸の音すら聞かれてしまいそうなほど静かな森だ。ヘンリーの足音がゆっくりと近づいてくる。姿はまだ見えない。逃げるべきなのに、エゼキエルはそこから動かなかった。
ふと、足音が消えた。エゼキエルを追うのを諦めて去っていったのか。エゼキエルは安堵して、乱れた呼吸を整えた。元きた道を戻ろうと、木から体を離そうとしたその時。二本の腕が木の後ろからエゼキエルの体を掴んだ。木に押し付けるように、強い力で背後からエゼキエルを抱き締める。自らを拘束する手をエゼキエルは見下ろす。ウィンチェスター家の紋章の指輪をはめた指、これはまちがいなくヘンリーのものだ。息ができないほど強く羽交い締めにされて苦しい。服と皮膚をひきむしって肉に食い込むのではないかと思うほど強くヘンリーはエゼキエルの体に爪を立てる。苦しさと恐怖が極限に達した瞬間、エゼキエルは小さく悲鳴をあげながら目を覚ました。
目を開けると、いつも寝起きしている客間の天井が見えた。朝日がのぼったばかりで、まだ窓の外は薄暗い。走ったあとのように呼吸は荒く、心臓は痛いほど脈打っている。胸を抑えながらエゼキエルはゆっくりと起き上がる。これが夢であったことに安堵した。それと同時に、なぜあのような形でヘンリーが夢に出てきたのかわからず戸惑った。強くかき抱くようにエゼキエルを拘束した腕。逃げ惑うエゼキエルの心には、恐怖と緊迫のなかにわずかながらに期待感があった。いったい自分は何を期待していたのか。ヘンリー・ウィンチェスターという男は、自分の中で一体どのような存在になりつつあるのか。
エゼキエルは呼吸を整えながら、寝台のそばに置いたロザリオを手に取り、縋るように握りしめた。
夜になり、真っ暗な礼拝堂の中で、エゼキエルは祭壇の両脇に揃えて並べられた赤い蝋燭に一つずつ火を灯した。すべて灯しきると暗い礼拝堂のなかは暖かい光で満たされた。微細に揺れる炎が祭壇を美しく照らす。エゼキエルはロザリオを握りしめながら、その輝きを見下ろした。
昨夜の約束通り、ヘンリーはこの礼拝堂を訪れるだろうか。人嫌いの陰鬱な男だが、約束を違えるような不義理はしないだろうという確信がなぜかあった。背後で重い靴音がして、振り返ると礼拝堂の戸口のそばにヘンリーが立っていた。赤い蝋燭の無数の光の前に立つエゼキエルを、ヘンリーはじっと見つめていた。
ヘンリーはゆっくりと礼拝堂の中を歩いてきて、祭壇の前の椅子に座った。
「私は約束を違えることはしない。今宵はここへ懺悔をしにきた。エゼキエル司祭、私の改悛を聞き遂げてくれるか。」
エゼキエルは頷いた。
「……ええ。あなたの嘘偽りない悔い改めを神は望んでおられます。私があなたの懺悔を聞き届け、神に祈り、神の許しを願いましょう。」
「真実だけを話すと、聖典に誓おう」
宣誓の儀を済ませ、エゼキエルはヘンリーに尋ねた。
「どのような懺悔をなさりたいのですか?」
ヘンリーは少しだけ考えてから答えた。
「……私の頑なさと、愚かさについて。自らの意思で遠く捨て去ったものを、いまさら想わずにいられない未練について。私の迷いと恐れのせいで、深く傷つけた者たちについて神に告白しよう。」
そう言い置いてから、ヘンリーは彼の過去について静かに語り始めた。
ヘンリーの父は酒浸りだった。物心ついてから、父が死ぬまで、酒を飲んでいる姿しか見たことがない。ヘンリーの母はそんな夫をひどく嫌っていた。醜い振る舞いをやめない夫への憎しみと鬱屈が溜まり、よく侍女や使用人を怒鳴りつけては鬱憤を晴らしていた。
父はヘンリーによく言っていた。この家の命運は塔に住む妖魔に握られているのだと。ならば自分が何をしたところで無駄でしかないのだと。ウィンチェスター家の当主はただ墓守のように塔を守ることだけを運命付けられたとも言っていた。実際、父は土地にも事業にもほとんど関心を示さなかったが、不思議と家の財政は安定していた。これも塔の妖魔がもたらす加護と呪いの現れなのだろうか。
ヘンリーが十五になった年に母が出ていった。もともとウィンチェスターの家名への憧れだけで嫁いだ母に、父への愛情はなかった。母が出ていった日の夜も父は酒を飲んでいたが、その横顔はなぜかいつもより寂しそうに見えた。父はヘンリーに言った。「これで良いのだ」と。「妖魔にわざわざ喰わせるようなことをせずに済んだ」と。
その時は何のことを言っているのかわからなかった。しかしヘンリーが成人する直前、父がウィンチェスター家が代々守り通してきた秘密である、塔の呪いについての全容をヘンリーに語って聞かせた。
──ウィンチェスター家は塔によって生かされ、繁栄をもたらされ、支配され、そして呪われている。
──当主が誰かを愛し、愛され、その想いが通じ合ったとき、最も愛を受けた者が塔に囚われる……
ヘンリーはこの時、父がただの迷信に怯えていたわけではないということを知った。そしてこうも思った。ほんとうに父と母の間に愛情はなかったのかと。もしかしたら父は、わざと母を愛さなかったのではないかと。ヘンリーが成人してすぐ、待っていたかのように父は死に、父の本当の思いを聞く日はついぞ来なかった。
ヘンリーが父から教わったことなどほとんどない。あるとすれば、当主はただ隠者のように静かに、塔を守り続けなければならないということ、そして、塔の妖魔に誰かを愛する心を利用されたくないのなら、この家に決して愛を持ち込んではならないということだ。
しかし、誰も愛さずに生きることなどできるのだろうか。それは生きながらにして死んでいることとどう違うのか。誰とも心を通わせず、石のように頑なに生きるなどと──
当主の義務にしたがって、ヘンリーは妻を娶った。妻には何の関心もなかった。いや、何の関心も抱かないようにしていた、かつて父がそうしていたように。妻とはほとんど口を聞かず、家を空け、妻がなかなか身籠らないことをいいことに外に愛人を作った。こんな自分を妻が嫌うことを望んでいたのだ。そうすれば自分も妻も誰も犠牲になることはなく、この家の存続だけが保たれるだろうから。そのうちに妖魔が人の愛という生贄をもとめて荒れ狂い出すかもしれないが、幸いにも塔は沈黙したままだ。自分の代か、何代か先くらいまでは切り抜けられるかもしれない。いくら家の中が冷え切り、陰鬱で冷酷な一族になろうとも。
ヘンリーは冷たい目で妻を一瞥するたび、愛人の家から深夜に帰宅するたび、妻が嫌悪と軽蔑の目で自分を睨むことを期待した。かつて母がそうだったように。しかし妻はそうしなかった。ろくに口も聞かない、妻に対して礼も尽くさないヘンリーを、それでも夫として尊重し、関係を保とうと努力していた。
夫に奉仕するよう教え育てられた旧弊な女だからだとか、彼女は気が弱く、侯爵である夫に遠慮しているのだと思おうとした。しかしどうしてもそうは見えなかった。彼女は呪われた家の当主であるヘンリーと夫婦になる覚悟を持ち、重苦しい運命の中にあっても毅然として愛を持ち続けようとしているように見えた。
それに気づいてしまうと、彼女に惹かれていく心が止められなくなった。父の愛も母の愛も得られず、両親の夫婦としての美しい愛情すら感じることのできなかった孤独と悲しみを、すべて彼女の前にさらけだして、救いを求めたくなった。けれど彼女が、美しく毅然として、慈愛に満ち、凛とした女性であればあるほど、自らの愛で彼女を犠牲にしたくないという気持ちが強くなっていった。彼女に対する愛が深まれば深まるほど、この呪われた手で決して触れてはいけないのだと思うようになった。この思いを吐露すれば、慈悲深い彼女はきっと理解を示し、夫をさらに愛そうと努力するだろう。しかしそれはあってはならないのだ。彼女を塔の生贄に捧げたくなかったし、自分が塔に飲み込まれて妻を寡婦にするのも、そのどちらも避けたかったからだ。だからやはり彼女を遠ざけ続けるしかないと自分に言い聞かせた。
妻はなかなか妊娠しなかった。子を成せないのであれば、それを理由に離縁ができる。彼女を失いたくなかったし、悲しませるのも忍びなかったが、離縁すれば彼女はこの家と自分から解放され、新しい人生を歩むこともできるのだ。いっそ離縁してしまおうかと何度も考えた。しかし彼女がこの屋敷から去り、鬱屈とした薄寒い屋敷の中で一人で暮らすことを考えるとぞっとするほど恐ろしかった。ヘンリーは決断することから逃げ続けた。そうこうしているうちに、彼女が身籠ったことを侍女から聞かされた。
何年も子ができなかったから、安全に子を産める保障はなかった。それでも腹の子は順調に育ち、妻の体調も問題はないように見えた。
もうひと月もすれば第一子が生まれようかというある日の深夜、屋敷の扉が叩かれた。扉を開けると、一人の女が眠っている幼子を抱き抱えて屋敷の前に立っていた。その女は、愛人として数年前まで付き合いのあった女だ。ヘンリーの足が遠のいている間、知らぬ間に女は子を身籠り、産み育てていたのだ。
女はある実業家と縁談がまとまり、結婚することになったのだと言う。しかし私生児がいることを未来の夫には知らせていない。ヘンリーとの間の子供がいたままではその男と結婚できない。ウィンチェスター家の後継者の一人としてこの家で育ててやってくれと、女はヘンリーに訴えた。
ヘンリーは断らなかった。断る権利などないと思った。彼女もまた、ヘンリーの頑なな心と愚かな選択に巻き込まれた者の一人だ。その彼女がヘンリーとの関係を清算して、新しい人生を歩もうというなら、そのためにヘンリーにできることがあるなら、せめてもの償いになるはずだ。ヘンリーは彼女の腕に抱かれた子を引き取り、子の養育にかかった費用の補填として金を支払うことを彼女に約束した。
愛人との間に子がいたこと、そしてその子を引き取ったことは、妻には包み隠さず伝えた。ヘンリーが予想していた通り、妻はその子を自分の子として育てたいと言った。しかし引き取った子は男児だった。この家の子として育てれば、第一後継者となる。庶子である身でそれは許されないことだ。ヘンリーは妻の願いを退け、森番の夫婦に愛人との間の子──ノアを預けた。
妻との間の子は無事に生まれ、名をアレクシスと名付けた。健康だった妻も、適齢期を過ぎての出産はかなりの重荷だったようで、アレクシスを産んでからは伏せがちになってしまった。きっとアレクシスに弟や妹は生まれないだろう。だからアレクシスが物事の分別がわかるようになってきた頃には、森番の息子として育てられているノアがアレクシスの腹違いの兄なのだということを正直に告げたし、アレクシスがノアと親交を持つことも止めなかった。きっとアレクシスも、自分と同じように、愛を知らずに生きていくのだ。だからこそ、心を許せる男兄弟すら取り上げるのはしのびなかったのだ。
呪いを遠ざけ、犠牲を出さないようにとヘンリーなりに考え選択してきたことは、実は何もかも無駄だったのかもしれない。アレクシスが八つになった歳、妻が病で世を去った。
呪いさえ避けていれば安泰に暮らせると、なぜ思い込んでいたのだろう。呪いなどなくてもさまざまな理由で人は不幸になるし、命を落としもする。棺の中に横たわり、眠ったように静かに目を閉じている妻の顔を見ながら、これまでの何もかもが自分の過ちで、罪だったのだとヘンリーは思わずにいられなかった。どうせこんな結末になるのなら、妻と愛を交わしていればよかった。そうでなくても、優しい言葉の一つもかけていれば、彼女の短い人生はもっと彩りあるものになっていたかもしれないのに。
いや、これもまた呪いなのかもしれない。妻と情を交わさないよう、妻への愛が塔の妖魔に気づかれないよう必死に隠していたが、実はとうに気づかれていて、妖魔は音もなく呪いの茨をこの屋敷に張り巡らし、妻を連れ去ったのかもしれない。
呪いから逃れるための努力も無駄になったと知り、無理やり凍らせていた心は溶けることなく砕け散ってしまった。母の死を嘆き悲しむアレクシスは父親を必要とするだろうが、息子の心を慰め、父性をもって彼を一人前に育てあげるなど、とてもできそうになかった。それにもしかしたら、次に妖魔が狙うのはアレクシスかもしれないのだ。ヘンリーはアレクシスを国外に留学に出して、この家から遠ざけることを決めた。アレクシスは拒もうとしたが、絶対に聞き入れなかった。彼は異国の地で孤独を味わい、父を恨むだろうが、愛する妻を守れず一人息子からも憎まれることが、愚かな自分にはふさわしい罰だと思った。
長い告解を終えて、ヘンリーは祭壇の前に立つエゼキエルを見上げた。エゼキエルは告解が終わっても、しばらく言葉を紡ぐことができなかった。ヘンリーの人生と何十年も抱えてきた思いは、あまりに大き過ぎてすぐには受け止められそうにもなかった。
「これが私の懺悔だ。エゼキエル司祭。愛を求めながら自らそれを捨て、生涯を無駄にした愚かな男の話だ」
エゼキエルはほとんど独り言のように、小さく呟いた。
「……愛とは奇跡のようなもの……望んでも手に入るとはかぎらない」
ヘンリーは疲れたように目を瞑り、数度頷いた。
「ああ。君の言う通りだ。このように私はもう何もかも手遅れで、いまさら神の許しを得るのもおこがましいが、君が神へ祈り、私の罪がすこしでも許されるなら──それが我が息子アレクシスを守ることになるだろう」
エゼキエルは震える手でロザリオを掲げ、十字を切った。
「神はあなたを許します。あなたの偽りない告白と懺悔によって」
「……ありがとう。おいぼれた心もこれで少しは慰められた。」
そういってヘンリーは立ち上がり、エゼキエルへと近づいた。エゼキエルは思わず後ずさる。
「実は、今日この場所にきたのは告解のためだけではないのだ」
「……え?」
ヘンリーはそのままエゼキエルの横を通り過ぎて、祭壇に祀られた聖像の足元にある、ウィンチェスター家の家紋を模った金属のレリーフを手に取った。それをエゼキエルの後ろにある説教壇のくぼみに嵌める。すると錠が落ちるような、枷が外れるような音が説教壇の中から聞こえた。ヘンリーが説教壇を押すと壇は横に動き、周囲の床と違う色の平たい石のタイルが壇のあった場所に現れた。
石のタイルには丸い窪みが彫られていて、取手のようなものが取り付けられていた。それを引くとタイルが持ち上がり、床下に収められている箱が姿を現した。ヘンリーは箱を取り出して説教壇の上に置く。胸ポケットから鍵を取り出し、箱の錠を解除した。
「今宵はこれを君に見せるためにここへ来たのだ」
箱の蓋を開けると、中には一枚の石板がおさめられていた。石板には、彫ったような焼いたような不思議な方法で文字が刻まれていた。
石板には、こう刻まれていた。
“我が名はユリウス・ウィンチェスター。
此の塔にて契りしは、愛と引き換えの繁栄なり。
その呪いによりて我が一族は栄え続けん。
我が子孫よ、忘るるなかれ。
愛する者を供物とせよ、さもなくば己が身と愛と共に塔の妖魔へ捧げよ。
されど、もしも一族の栄えを捨て、
己が身を投げ打ち愛に殉ずることを選びし時、その呪いは終わりを告げる。
塔は静かにその役目を終えるだろう。”
「これは……」
「我が先祖、ユリウス・ウィンチェスターが残した石板だ。彼が塔に住む妖魔と契約を交わし、呪いと一族の繁栄について記したこの石板を残したと言われている」
呪いは迷信ではなく、本物なのだ。ヘンリーも、ヘンリーの父も、おそらくその父も、一族の繁栄と引き換えにこの呪いに縛られ続けてきたのだ。
ヘンリーは石板を元に戻し、再び説教壇の下に隠した。
「君にこれを見せたのは、私の改悛が本物であることを証明するためだ。……いや、この家がまやかしの繁栄に取り憑かれた愚かな一族であることを君に明かしたかったのかもしれない」
ヘンリーは祭壇から下り、礼拝堂の出口へと向かって数歩進んで、立ち止まった。
「この石板の存在は教会へ報告しても構わないし、君の胸の中にしまっておいてくれてもいい。しかし無闇に触れれば危険があるかもしれない。この礼拝堂に誰も入れないようにしていたのはそのためだ」
「……このことは……秘密にしておきましょう。その方がいいような気がするのです」
ヘンリーは体を傾けて振り返り、「そうだな」と言って笑った。
「老体の世迷いごとを聞いてくれて感謝する。もう休むといい」
「ええ……」
ヘンリーはそのまま礼拝堂を出て行ったが、エゼキエルはその場から動けなかった。
ヘンリーがエゼキエルに見せてきた、猜疑心と自己嫌悪、孤独に苛まれるような態度。それは愛を知らぬからこその孤独なのだと思っていた。エゼキエルと同じように。けれど違った。ヘンリーはかつて、誰にも告げられない、言葉にすらできないほどの深い愛を持っていた。そして今でも。孤児院のなかで、誰にも心を開かず生きてきたエゼキエルとちがって。
エゼキエルの脳裏に、かつての自分の姿が突然よみがえってきた。神から特別に愛される方法を神父にたずねた時の幼い自分。それを咎められて鞭打たれたときの痛み。聖典や書物にかじりつき、神からの特別な愛を求め続けた自分。日課の祈りの中で、神の愛を求め続けていたが、いつの日からかやめてしまったことを。
思い出してしまった。自分がかつて何を求めていたのかを。かつて求め、そしていつからか諦めてしまっていたものを。
エゼキエルは小さな声で呟いた。
「愛とは奇跡のようなもの……望んでも手に入らない……」
エゼキエルの目から大粒の涙が零れ落ちた。それは止まることなく何度も流れ落ち、エゼキエルの頬に涙の筋を作った。
「わたしは、その奇跡に値しない……」
涙を流しながらそう呟くエゼキエルの姿を、祭壇の物言わぬ聖像だけが静かに見下ろしていた。
0
あなたにおすすめの小説
転生したら魔王の息子だった。しかも出来損ないの方の…
月乃
BL
あぁ、やっとあの地獄から抜け出せた…
転生したと気づいてそう思った。
今世は周りの人も優しく友達もできた。
それもこれも弟があの日動いてくれたからだ。
前世と違ってとても優しく、俺のことを大切にしてくれる弟。
前世と違って…?いいや、前世はひとりぼっちだった。仲良くなれたと思ったらいつの間にかいなくなってしまった。俺に近づいたら消える、そんな噂がたって近づいてくる人は誰もいなかった。
しかも、両親は高校生の頃に亡くなっていた。
俺はこの幸せをなくならせたくない。
そう思っていた…
神父様に捧げるセレナーデ
石月煤子
BL
「ところで、そろそろ厳重に閉じられたその足を開いてくれるか」
「足を開くのですか?」
「股開かないと始められないだろうが」
「そ、そうですね、その通りです」
「魔物狩りの報酬はお前自身、そうだろう?」
「…………」
■俺様最強旅人×健気美人♂神父■
【完結済】あの日、王子の隣を去った俺は、いまもあなたを想っている
キノア9g
BL
かつて、誰よりも大切だった人と別れた――それが、すべての始まりだった。
今はただ、冒険者として任務をこなす日々。けれどある日、思いがけず「彼」と再び顔を合わせることになる。
魔法と剣が支配するリオセルト大陸。
平和を取り戻しつつあるこの世界で、心に火種を抱えたふたりが、交差する。
過去を捨てたはずの男と、捨てきれなかった男。
すれ違った時間の中に、まだ消えていない想いがある。
――これは、「終わったはずの恋」に、もう一度立ち向かう物語。
切なくも温かい、“再会”から始まるファンタジーBL。
全8話
お題『復縁/元恋人と3年後に再会/主人公は冒険者/身を引いた形』設定担当AI /c
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
【本編完結】おもてなしに性接待はアリですか?
チョロケロ
BL
旅人など滅多に来ない超ド田舎な村にモンスターが現れた。慌てふためいた村民たちはギルドに依頼し冒険者を手配した。数日後、村にやって来た冒険者があまりにも男前なので度肝を抜かれる村民たち。
モンスターを討伐するには数日かかるらしい。それまで冒険者はこの村に滞在してくれる。
こんなド田舎な村にわざわざ来てくれた冒険者に感謝し、おもてなしがしたいと思った村民たち。
ワシらに出来ることはなにかないだろうか? と考えた。そこで村民たちは、性接待を思い付いたのだ!性接待を行うのは、村で唯一の若者、ネリル。本当は若いおなごの方がよいのかもしれんが、まあ仕方ないな。などと思いながらすぐに実行に移す。はたして冒険者は村民渾身の性接待を喜んでくれるのだろうか?
※不定期更新です。
※ムーンライトノベルズ様でも投稿しています。
※よろしくお願いします。
ふたなり治験棟
ほたる
BL
ふたなりとして生を受けた柊は、16歳の年に国の義務により、ふたなり治験棟に入所する事になる。
男として育ってきた為、子供を孕み産むふたなりに成り下がりたくないと抗うが…?!
フェイク・ハニー ~御曹司の擬似恋人になったのは、お金のため! だのに僕、本気になってる……!?~
大波小波
BL
夏目 都(なつめ みやこ)は、大学二年生の苦労人オメガだ。
弟たちを養うために、学生相手に便利屋を始めた。
次第にエスカレートして、ついには体を売ることも辞さなくなった、都。
そんな彼の元へ現れたのは、富豪の御曹司アルファ・神谷 雄翔(かみや ゆうと)だ。
雄翔は都に、自分専属の便利屋になって、疑似恋人を演じて欲しいと願い出た……!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる