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第8話 数字と祈りのあいだで、差し出した右手
しおりを挟む一週間なんて、あっという間だと思っていた。
実際には——数字とにらめっこを続けた七日間は、やけに長くて、息苦しかった。
◇◇◇
ユリウスとの約束の日。
私は王都中心部にある王城付属庁舎——財務省の建物の前に立っていた。
白い石造りの壁に、高いアーチの窓。
神殿とは違う意味で、「外の人間を寄せつけない」雰囲気がある。
「……帰っていいって言われても、今さら戻れないんですよね」
誰にともなくつぶやいて、深呼吸を一つ。
手に持っているのは、ギルドから借りた簡易の帳簿と、自分なりにまとめた“試験導入案”の紙束。
文字だらけのそれは、見ているだけで頭が痛くなりそうだ。
「大丈夫。宿代の計算よりは、まだマシ」
そう自分に言い聞かせて、庁舎の中へ足を踏み入れた。
◇◇◇
案内されたのは、前と同じ小さな会議室だった。
丸テーブルと椅子が数脚。
窓から差し込む光が、机の上の埃をきらきらと浮かび上がらせている。
「来たか」
ユリウスは、既に席に着いていた。
相変わらずきっちりとした服装に、整った姿勢。
けれど前に会ったときより、ほんの少しだけ肩の力が抜けているようにも見えた。
「お待たせしました」
「時間通りだ。座ってくれ」
促されて席に着くと、すぐに書類の束を差し出した。
「これが、この一週間でまとめた“試験導入案”です。
ギルドでの治療記録と、“保険を適用した場合の仮の差額”……それから、私の魔力量と回復速度を踏まえた“現実的な人数”の試算も入れました」
ユリウスは黙って頷き、紙束を受け取る。
灰色の目が、文字の上を滑っていく。
そのたびに、私の心臓がぴくりぴくりと跳ねた。
「ふむ……」
彼の喉から、小さく感心とも納得ともつかない声が漏れる。
やがて、最初の一枚を机の上に置いて、指でとん、と軽く叩いた。
「まず、前提として確認したい。
君の案では、“試験導入”の対象は兵士全員ではなく、“前線に出る小隊”に絞る、とある」
「はい」
「人数にして、三十人」
「今の私の魔力量で、“最悪全員が一度に大怪我をした場合”を想定したら、その人数が限界だと判断しました」
あのロアンたちの一件を思い出す。
「もちろん、その状況そのものが起きないようにすべきですが……最悪を見ておかないと、取り返しがつかなくなります」
「良い姿勢だ」
ユリウスの口元が、わずかにゆるむ。
「さらに、“軽傷はポーションや自己治癒力に任せ、中傷と重傷を優先する”とある」
「全部を完璧に引き受けるとは言えません。
ですから、“どこまで責任を負えるか”を、最初に数字と条件で区切りたかったんです」
神殿時代、上層部はよく「すべては神の御心のままに」と言って責任の範囲を曖昧にした。
そのやり方が、私はどうしても好きになれなかった。
「……“神の御心”より、よほど具体的だな」
ユリウスがぼそりと呟く。
「え?」
「いや、独り言だ」
彼は咳払いひとつで誤魔化し、次の紙へ目を移した。
「ここ、『保険料を兵士個人ではなく“駐屯地全体の予算”から支払う』とあるが——これは?」
「兵士個人にとって、“今月の給金から銀貨一枚減らす”のは、大きな負担になります。
一方で、駐屯地全体から見れば、“全員分をまとめて払う”ほうが管理もしやすいはずです」
私は、自分の考えを言葉にする。
「個人に全部背負わせると、“保険に入れなかった兵士”が生まれます。
そういう人ほど、“怪我をしたら終わり”という不安で無茶をしやすい。
だから、“あくまで駐屯地単位の仕組み”として導入したいんです」
ユリウスはしばし沈黙し、ペン先で紙をとん、と叩いた。
「兵士個人の選択ではなく、“部隊の方針”として運用するわけか」
「はい」
「……君は本当に、“現場のこと”をよく見ているな」
「現場のことは、ほとんど想像ですけど」
苦笑すると、ユリウスは「それでもだ」と返した。
「私の机の上には、“平均負傷率”や“死亡率”の数字はあっても、“この兵士がどんな気持ちで戦っているか”なんて項目はない」
その言い方は、少しだけ悔しそうだった。
「だから、君のような視点は貴重だ」
胸の奥が、じん、と熱くなる。
◇◇◇
ユリウスは、一通り書類に目を通すと、ペンを置いた。
「総じて、よく練れている。
少なくとも、“思いつきの夢物語”ではない」
「ありがとう……ございます」
思わず、ほっと息が漏れる。
「だが」
すぐに、低い声が続いた。
「一つ、大きな問題がある」
胸がきゅっと縮む。
「ど、どんな問題でしょう」
「ここだ」
ユリウスが指さしたのは、“万一君が戦闘中に倒れた場合の対応”と書かれた欄だった。
『契約者への優先的な治療を、私以外の回復士が引き継げるよう、術式の共有を進める』
「“進める”じゃない。“進めたい”だ」
ユリウスの声が、わずかに厳しくなる。
「今現在、“君以外にこの癒やし保険を運用できる人間”は何人いる?」
「……いません」
喉がひゅっと鳴った。
「神殿にいた頃、一緒に学んだ人たちはいました。でも、今どこにいるかは……」
「つまり、“今は君しかいない”」
「はい」
それは、自分でも一番痛いところだとわかっていた。
「君が魔力切れで倒れたら、契約はどうなる?
“契約者を優先的に治療する”という約束は、どうやって守る?」
「……それは」
答えが詰まる。
一番考えたくない事態だったからこそ、“今後の課題”として曖昧に書いてしまっていた。
ユリウスは、少しだけ目を細める。
「責めているわけではない。
だが、“人の命を預かる仕組み”は、“今はまだできていませんが、そのうち何とかします”では許されない」
その言葉は、重く、でも正しかった。
神殿時代、上層部の曖昧さに苛立っていた自分が、今まさに同じことをしようとしていたのだ。
「……すみません」
絞り出すように謝ると、ユリウスは首を振った。
「謝る必要はない。
完璧な案など存在しない。重要なのは、“欠点を認めて、それでもどうするか考える”ことだ」
「どうするか……」
「私は提案したい」
ユリウスは、テーブルの向こうで指を組んだ。
「試験導入は、“兵士三十人”ではなく、“兵士十五人+ギルド所属の冒険者十五人”に分けないか」
「え?」
「君の負担を分散させるためだ。
兵士と冒険者を合わせて三十人。
だが、戦場とダンジョンでは、怪我の質も頻度も違う。その両方のデータを取ることで、より実用的な数値が出る」
「……確かに」
数字の上での話だけではない。
「兵士の駐屯地と、ギルド。
二つの“現場”に仕組みをまたがせることで、君一人がどちらかに常駐しなくても済む。
最悪、どちらかの現場で君が倒れたとき、もう片方の現場は“通常の治療体制”に任せる選択ができる」
まさか財務官から、“私の身を案じる提案”が出てくるとは思っていなかった。
「……兵士だけじゃなく、冒険者も含めることで、“ひとりの回復士にすべてを任せない”ってことですか」
「そうだ。
それに、“兵士側の制度”を作るとき、ギルドという民間の成功事例があると、説得力が増す」
やっぱり、ちゃんと数字の裏側も計算している。
それでも——。
「君の案の延長線上にある話だ。
決して君の努力を否定しているわけではない」
「いえ、否定されても仕方のない部分です」
私は、小さく息を吐いた。
「“自分ひとりで全部抱え込まない”って、昨日決めたばかりなのに。
まだどこかで、“全部背負わなきゃ”って思っていたみたいです」
ギルドでマリナに言われたことを思い出す。
“あんた、自分のためのわがままを言いなさいよ”
その言葉が、今になってじわじわと効いてくる。
「……わかりました。
“兵士十五人+冒険者十五人”の案で、改めて組み直します」
「それでいい」
ユリウスが頷いたとき、会議室の扉がノックされた。
「グレンフィード殿、失礼します」
顔を出したのは、茶色の髪を後ろで束ねた若い兵士だった。
胸には王国軍の徽章。
「例の“保険導入の件”、駐屯地の隊長が“話を聞きたい”と。
今、お時間よろしいでしょうか」
ユリウスの目が、ちらりとこちらを見る。
「……どうする?」
「行きます」
迷いは、意外なほど少なかった。
ここで逃げたら、きっと一生後悔する。
それだけは、もう嫌だった。
◇◇◇
王都近郊の駐屯地は、思っていたよりも質素だった。
木と石で組まれた高い柵に、見張り台。
中では、鎧姿の兵士たちが訓練をしている。木剣の打ち合う音、号令の声。
汗と土と、鉄の匂い。
「……神殿とは、全然違う匂いですね」
思わずこぼすと、隣を歩くユリウスが小さく笑った。
「祈りの代わりに、掛け声と罵声が飛び交う場所だからな」
奥の天幕前で待っていた隊長は、頑丈そうな中年の男だった。
日焼けした顔に刻まれた皺。
「財務省の人間が、“負傷兵の費用を減らす”なんて話を持ってくるとはな」
開口一番の言葉がそれだった。
「減らすだけなら、簡単です」
ユリウスが即座に返す。
「治療をやめればいい。しかし、それでは兵の士気が死ぬ。
だから、“命を守りつつ、無駄を減らしたい”」
その言葉に、隊長はふん、と鼻を鳴らした。
「それで、“保険”とやらか」
「はい」
私は一歩前に出た。
「リゼル・アルマリアと申します。
ギルドで“癒やし保険”を試験導入している者です」
私の名乗りに、隊長の目がじろりと動く。
「噂は聞いてる。“追放された聖女”ってやつだろ?」
「……はい。否定はしません」
「神殿に嫌われた聖女が、“兵士を守る仕組み”を作りたいと?」
嘲りとも皮肉ともつかない声音。
「おかしな話だ」
「私もそう思います」
素直に返すと、隊長は一瞬だけ目を丸くし、その後でがははと笑った。
「お前、案外面白い女だな」
「ありがとうございます……?」
褒められているのかどうか、判断に困る。
「話は聞く。
ただし、“机上の空論”だったら、その場で切り捨てるぞ」
「かまいません」
胸の奥の光の糸をぎゅっと握りしめるような気持ちで、私は頷いた。
机の上に、用意してきた紙を広げる。
兵士十五人分の治療費の平均。
現在のポーション使用量。
そこに“保険”をあてはめた場合の試算。
数字の羅列が、今度は不思議と、そこまで怖くなかった。
——その向こうに、汗まみれの兵士たちの顔が見えるから。
「“兵士百人分の命に値札をつける”ことはできません。
でも、“怪我一回あたりの費用を減らす仕組み”なら、作れるかもしれません」
隊長の目が、真剣な色に変わる。
「俺は、部下を捨て石にはしたくない。
だが現実には、予算の都合で“治療を諦めなきゃならない場面”もある」
その告白は、苦いものだった。
「お前の仕組みで、その数が少しでも減るなら——やってみる価値はある」
短く、重い言葉。
「ただし、条件がある」
「条件?」
「“失敗したら素直にやめる”こと。
兵士の命を守るための制度が、逆に兵士を縛ることになったら、本末転倒だからな」
「……約束します」
その条件なら、私も同じことを望む。
「もうひとつ」
隊長は、私をじっと見た。
「お前、自分が倒れたときのことを、ちゃんと考えてるか」
図星を刺されて、思わず目をそらしそうになる。
「考えています。
だから、“冒険者と兵士で三十人”に分けました。
そして……」
胸元に手を当てる。
「“私以外にも、この仕組みを扱える人間を増やす”つもりです」
「増やす?」
「神殿にいた頃、同じように“外の世界を見てみたい”と言っていた子たちがいます。
その人たちを、この“癒やし保険”に巻き込みたい」
神殿の壁の中にいる聖女たち。
もちろん全員がそうではないだろうけれど、“行き場のない力”を抱えている人は、きっといるはずだ。
「“兵士百人分の命を預かる”なんて、私ひとりでは無理です。
でも、“十人ずつ分け合う仲間”がいれば——」
隊長は、しばらく黙って私を見ていた。
やがて、深く息を吐く。
「……面倒くさい女だな」
「えっ」
「だが、嫌いじゃない」
さっきのマリナと、同じようなことを言われた気がする。
「いいだろう。
“兵士十五人の試験導入”、許可する。ただし、あくまで“試し”だ。
お前が倒れたら、その時点で中止する。それでも構わないか?」
「はい」
それは、覚悟していた条件だった。
「よし」
隊長はユリウスのほうを向く。
「グレンフィード。お前も、それでいいな」
「ああ。
——リゼル」
ユリウスが、私に向き直る。
「これで、本当に“始まる”」
「はい」
自分の声が、少し震えているのがわかった。
でも、その震えは、恐怖だけではない。
期待と、責任と、ほんの少しの高揚感。
「“数字の上でも人を救える仕組み”を、一緒に作れるといいですね」
そう言うと、ユリウスは珍しく、はっきりと笑った。
「君がそう言うなら、私も少しは信じてみよう。
数字に祈りを乗せる、というやり方をな」
“祈り”という言葉に、胸の奥が温かくなる。
——信仰心が足りないと追放された私が。
今、数字に祈りを乗せようとしている。
なんて、不格好で、でも少しだけ誇らしい矛盾だろう。
「……よろしくお願いします、ユリウスさん」
差し出した右手を、彼は一瞬だけ見つめ、それからしっかりと握り返した。
その握手は、契約の魔法よりずっと不器用で、人間くさかった。
そしてこの瞬間から——“癒やし保険”は、ギルドの片隅の小さな試みではなくなった。
王都の財務官と、駐屯地の隊長と、追放聖女が結んだ、新しい約束になったのだ。
胸の中の光の糸が、いつもより強く脈打つ。
——神様。もし本当にあなたがいるなら。
どうか、数字と祈りのあいだで迷い続ける私たちの、不器用な契約を、見守っていてください。
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