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(10)あの夜のこと、後悔してる?
しおりを挟むホストの仕事は、クリスマスから年末年始にかけてイベント続きの繁忙期だそうだ。
「年内で会えるのは今日が最後かも」
澪にそう告げられたのは、クリスマス数日前の昼間のことだった。
「あーつらすぎ。少しでも時間作れたら会いたいんだけど、でも難しそう。あぁでも……」
澪はリビングのソファに寝転び、未練がましく自分のスケジュールを何度も確認していた。
青山君はいれたばかりのコーヒーをソファの前のローテーブルに置いてやる。
「ありがと」
その頃には青山君は、澪の部屋のコーヒーメーカーの使い方を覚えていた。
勝手に澪の充電器を借りてスマホの充電をすることもある。そういう日常の積み重ねを、澪はとても喜んだ。
それにしても、しどけなくソファに寝そべる澪の美しさときたら。
澪には冬の晴れ間の淡い日差しがよく似合う。
色素の薄い髪や睫毛、ミルク色の肌が透き通るようだ。光が入ると澪の瞳は琥珀色に見える。
目と眉が近く、幅の広い平行二重と細く整った鼻筋、シャープなフェイスライン。
一部の隙もない完璧な美形の顔立ちの中、唇だけが少しあどけない。そこにまだ少年期の面影が残っているようで、妙にコケティッシュな趣きがあった。澪があと二歳ほど年を取り、男として完成されたら消えるであろう儚げな隙。
今日の澪はオーバーサイズのニットと細身のパンツを身に着けていて、いつもよりユニセックスな雰囲気だった。
柔らかそうなニットからわずかに確認できる腰のラインがやけに艶めかしい。
……なんだこの可愛い生き物は。
澪の、あの薄桃色の唇の奥にある舌の薄さや熱さを知っている。
先日、青山君はこの可愛い生き物と、舌を絡め合うような濃厚なキスをした。キス以上の触れ合いも。
というか、澪に一方的に蹂躙された。光の下にいる澪はとても儚く見えるのに、薄暗い寝室にいたときの彼は、怯える青山君を片腕であっさり押さえ込んだ。
了承はしたが、望んではいない行為だった。
最後まではしない、という約束は守られたけれど。
それでも青山君は、男の欲望に晒される恐怖と快感を身体に刻み込まれた。ただ寝っ転がっているだけで絵画のように美しいこの男に。青山君は白昼夢を見ているような気分になる。
青山君の胸中なんて知る由もない澪は、眠たそうな顔でソファから身体を起こし、あくびをしていた。午睡の後の仔猫みたいに。
もう食事だけ、部屋に来るだけで金をもらうのはやめていた。青山君が辞退したからだ。
金をもらうのは、恋人同士でしかできないことをするときだけ。
このルール変更に関しては結構揉めた。
しかし青山君は絶対に意見を曲げず、最後は澪が惚れた弱みで折れてくれた。
いくら澪が稼いでいるからといって、彼は大学の学費も自分で払っているのだ。
来年、澪は大学三年生になる。就活がはじまるので、きっとホストのバイトも今ほど多くは入れない。
青山君には金が必要だけど、澪にも自分で稼いだ金を大切にしてほしかった。矛盾しているのはわかっている。
「飯なんて友達同士でも普通に行くじゃん。それぐらいならもうお金いらないよ」
「俺は圭吾さんと友達になりたくない……」
澪の負担を減らしたいのに、結局澪を傷つけてしまう。
もう澪への親愛の情を隠すのはやめた。だけど、どうしても恋にはできない。
青山君は、たとえば、澪の結婚式に呼ばれる友人の立場になりたかった。そういう立ち位置から澪を愛し、彼の幸せを願いたかった。
それが澪にとってどんなに残酷なことなのかを知りながら。
「あ、充電器はそこにあるやつ使って。いつものは店に置いてきちゃった」
「あーありがとう」
「なんかさ、こういうやりとり、一緒に住んでるみたいじゃない?」
青山君がいれたコーヒーをふぅふぅと冷ましながら、澪が言う。
「一緒に住んじゃえば忙しくても毎日かならず会えるのに」
「……俺もお前に会えないの結構寂しい」
なるべくなんでもないような態度で、わざと淡々とした口調で、青山君はつぶやく。
一瞬、澪は時が止まったような表情になる。そして次の瞬間、首筋まで真っ赤になった。
「あ、あの俺ッ、俺も、すごく寂しい……。あーもう、圭吾さん大好き。やっぱ俺クリスマス会いたい。当日じゃなくても、一時間でもいいから」
「無理するなよ」
「するよ!今しないでどうすんだよ!」
自分の一言で一喜一憂する澪はやはり可愛い。
こんなに可愛い澪に、どうしてセックスさせてやれないのだろう。
この前の寝室でのできごとは、青山君の心の中でいまだに深く尾を引いている。
それはときには胸に重くのしかかる恐怖の記憶として、ときには背徳感を伴う甘い思い出として、青山君の脳裏に何度も再生された。
正直に白状すると、一度だけあの記憶をネタに一人で抜こうとしたことがある。
だけど、あのとき服越しに感じた澪の硬いものの感触を思い出すと、青山君のささやかな欲望はあっというまに萎んでしまう。
ずいぶんと自惚れた話だけど、てっきりクリスマスも正月も澪と過ごすものだと勝手に思い込んでいた。
澪はどうにかして時間を作ると言っているけど、おそらく難しいだろう。
寂しい反面、ほっとしている自分もいる。
もしかしたらクリスマスに、最後まで求められるのではないかと思っていたから。
「あっ、圭吾さん、もしかして年末実家帰ったりする?」
「実家はもうないんだ」
そういえば澪にはまだ母を亡くしたことを話していなかった。
「ごめん……」
澪がハッと姿勢を正して謝る。
「いいよべつに」
少し考えてから、青山君は言葉を重ねる。
「お前のおかげで、母さんの仏壇に花を飾れるようになった。ありがとう」
澪の援助がなかったら、母の形見の指輪すら売ってしまっていたと思う。
澪は雨に打たれたような表情になる。そして、うん、と小さくうなずいた。
「俺は本気でルームシェアもアリだと思ってるよ」
澪はコーヒーを飲みながら言う。こちらを見ずに、あえて軽い口調で。
青山君はそれを聞こえなかったふりでやりすごした。
魅力的な提案だから余計に危険だった。
最近の青山君の話し相手といえば澪だけだ。
澪からの突然の誘いで、バイトを何度か当日欠勤したこともある。
稼げる額を天秤にかけて、澪を選んだだけ。そんな言い訳をするには、彼の隣は居心地が良すぎた。
青山君は澪に依存しはじめている自分に気づいている。
これ以上進んではいけない。本能がそう警告していた。
「圭吾さん、来年はもっと出かけようよ」
「たとえば?」
「んー……動物園とか、水族館とか」
澪は首をかしげながら答える。意外と純情なデートプランに笑ってしまう。
「いいよ。どっちにする?」
青山君の問いに対して、澪はさらに意外な返答をした。
「俺、どっちも行ったことないんだ」
なんでもないことのように言うのが、余計に青山君の胸を打った。
動物園にも水族館にも行ったことがない幼少期、というのは、どんなものだろう。
単に生き物が苦手な親だった可能性もあるけれど……。
澪は青山君の話を聞きたがるばかりで、あまり自分のことは話さない。
澪は時折、愛情に飢えた子供みたいな態度を見せる。明るいのにどこか醒めていて、人の感情の機微を読みすぎるのも澪の癖だ。そういうところから、青山君は少なからず澪の子供時代の不遇を察していた。
おそらく澪には、現在のきらびやかな姿からは想像もつかないような過去がある。
「両方行こう」
青山君が言うと、澪は花が咲いたような笑顔になった。
「嬉しいー。俺の動物園ヴァージンと水族館ヴァージンもらってー」
「変な言い方をするな」
澪はソファに寝転んでケラケラ笑っている。
「そうだ、ゲーセンも行こうよ。圭吾さんとプリクラ撮りたい」
絶世の美男子である澪と並んでプリクラなんて。公開処刑でしかない。
きっと澪は、青山君が学生時代にゲームセンターでバイトしていた話を覚えていたからそう言ったのだろう。
「俺がバイトしてたゲーセンはもう潰れちゃったけど、良さげなところ探しておくよ」
「良さげなプリクラが撮れるところ?」
「知らねえよ、そんなの。俺プリクラなんて一回しか撮ったことないし」
バイト先に来ていた小学生の女の子。おそらくはネグレクト児童で、いつも寂しそうだったあの子。
あの子は動物園や水族館に一度でも連れて行ってもらったことがあるだろうか。勝手に想像した澪の幼少期と、あの子の姿が重なる。
「誰と撮ったの?」
澪が目を輝かせながら食いつく。
「バイト先に来てた小さい女の子だよ」
「ふぅん……その子、可愛かった?」
「可愛かった」
痩せっぽちで薄汚れた姿だったけど、けなげで綺麗な子だった。
あの子が今も生きていて、誰かに愛されていることを願う。
「そっか……」
子供とはいえ澪の前で別の相手を褒めたのだから、拗ねるかと思いきや。なぜか澪は上機嫌だった。
昼間に澪と会うときは、部屋で映画を見たり、近所で食事をしたり、軽い接触だけで終わることが多い。
だけど今日は、遮光カーテンに閉ざされた暗い寝室に連れ込まれた。澪は青山君の肩口に顔を埋めながらつぶやく。
「こんな昼間からごめん。俺がっついてて本当ダサい。圭吾さん、こないだのことまだ怖いよね。でも、ゆっくり会えるのは年内だと今日が最後だから……」
先日のできごとが脳裏をかすめた。
また、あれ、をされる。
顔を上げた澪の目は、日の当たるリビングにいたときとは違う色をしていた。
「圭吾さんはあの夜のこと、後悔してる?」
泣き叫ぶほど怖くて、善かった、あの日のこと。
「……金受け取って納得してるよ」
青山君はわざとそんな言い方をした。自分のプライドを守るために、そういう言い方しかできなかった。
ただ、視線だけは正直だったかもしれない。澪の唇から目をそらさなかった。見つめ続けていると、あどけない唇がふとほほえむ。
「そういう契約だもんね、俺たち」
澪は青山君の狡さに乗ってくれた。
お互いの呼吸の音が聞こえるほどの沈黙。その数秒後に、青山君は澪に両手首をつかまれ壁に押しつけられる。
手を振り払おうとしてもビクともしないことに、青山君は少し救われた気分になった。これから起きることの責任すら奪ってくれる澪の腕の力強さ。
つかまれた手首が熱い。はじめて澪の部屋に来たときの、エレベーターの中の浮遊感を思い出していた。自分が堕ちていく感覚。
澪は演技めいた強引さで青山君の唇をふさぐ。
俺は今日も金に捻じ伏せられただけ。
効果のないおまじないみたいな言葉を頭の中で繰り返しながら、澪と舌を絡め合うのに夢中だった。
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