下向小説一覧

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 鎌倉初期、棟梁相良長頼一族は、蓮華王院家の意向を受けた鎌倉殿(源頼朝)の命により、海辺の遠江国相良荘から盆地の肥後国人吉庄へと下向してきた。しかし当時、当荘には矢瀬主馬佑一族という在地荘官勢力が存在していた。  一つの荘園に二つの領主――この張り詰めた状況が続くわけがなかった。  相良長頼は、鎌倉御家人であったが、その父頼景は馬上の礼を欠いた責任を問われ、下向の数年前に同じ球磨郡内の多良木村に流罪となっていた。そのため長頼は正式な人吉庄地頭職として補任されていたわけではなかった。いっぽうの矢瀬一族は、源頼朝の命を助けた池禅尼の子平頼盛の代官として、頼盛死後も采領人吉庄を支配していた。  遠江から鎮西の地へと、海路、そして肥後芦北湊からは山々を越え、下向地「人吉庄」に無事に入郡することはできた相良主従だった。しかし予想していなかった――平家滅亡後も源氏側に協力し平氏残党を追討し、この地に十数年治績のある――代官勢力の存在により、肝心の荘園の実効支配を始めることができなかった。土地に根を張ってきたこの在地領主に対して、兵員も不足し、地の利もない新興勢力が正攻法で合戦を挑んでも勝てる見込みはなし。偽計による手段を用いらざるを得なかった。  相良主従は、矢瀬庶子の城館へと明け渡しを命じるために兵を押し寄せてはみたものの、戦さうんぬん以前に、まったく相手にされず……。  そんな中、相良の若い家人が米冨名主の娘と昵懇となり、人吉庄内の実状――池禅尼の逸話により領民は矢瀬一族の代官としての正当性を認めてはいるが、慕ってはいない――が分かるようになった。とりわけ村落の指導層である名主一族は矢瀬一族に対し面従腹背といえた。  同じ頃、東隣の荘園を本拠とする豪族平川義高から書状が長頼のもとに届いた。米冨名主館にて、長頼と義高が初めて会うことになった。会談の結果、矢瀬一族を滅ぼすということで、相良、平川、名主――三者の利害が一致した。
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文字数 78,562 最終更新日 2020.05.31 登録日 2020.05.11
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