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3巻
3-1
しおりを挟む1 激突
静寂が支配する聖堂で、二人の男が睨み合う。
野生の狼のごとき鋭い眼光を湛えるのは、『影を穿つ者』の異名を持つSランク冒険者、ラエサル・バルーディン。
対するのは黒衣を身に纏った獅子とも言うべき隻眼の男――公爵の親衛隊の隊長、デュラン・ローエンディールである。
バルドルース公爵による王位継承を阻止せんとするラエサルは、公爵のもとに潜入している密偵であるロランと、この聖堂で情報交換をしていた。
しかし、そこに現れたデュランの凶刃によって、ロランは今や瀕死の重傷を負っている。
密偵として優れた実力を持つロランをも一刀のもとに切り伏せた黒衣の男を前に、ラエサルの剣を握る手に力が入る。
まるで二人の闘気がその場に満ちていくかのように、酷く刺々しい空気だった。
妖しく輝く漆黒の剣を持つ隻眼の男の動きが、ラエサルをジリジリと後退させる。
気がつけば戦いの場は、聖堂の中央から、崩れかけた祭壇の前の開けたスペースに移っていた。
ラエサルが誘ったのか、それともデュランの威圧感がそうさせるのか。
静寂の中で、張りつめた空気が極限のバランスを保っている。
僅かなきっかけでそれが崩れれば、静けさは一気に打ち破られるだろう。
そんな中、二人の戦いを神が望むかのように、ひび割れた柱から小さな瓦礫が一つ、聖堂の床に落ちて音を立てた。
その刹那――
ギィイイイイイイイイン!!
金属を激しく打ち合わせる音が響き渡る。
隻眼の剣士とSランクの冒険者が剣を交えていた。
今の動きを目視することができる者が、このフェロルクの町に何人いるだろうか。
それほど一瞬の出来事であった。
ステンドグラスから差す荘厳な光の中、二人の男は激しく鍔迫り合いを繰り広げる。
間合いを詰めた一瞬の動き、そして力の膠着。
静と動の極みがそこにある。
命を削る戦いを楽しむかのように隻眼の剣士は笑った。
「ほう、俺の太刀筋が見えるのか? 流石だな。だが狼は獅子には勝てん、決してな」
デュランの剣が少しずつラエサルの剣を押していく。
一撃の重さではデュランが上回るらしい。
首筋に迫る漆黒の刃を辛うじて受け流して、ラエサルは鮮やかに後方に舞う。
手にしていた剣はいつの間にか腰の鞘におさまり、代わりに両手の指先にはそれぞれ数本のナイフが挟まれていた。
地面に着地する瞬間、左右に振るった両手からナイフが放たれる。
銀色の光跡を残す刃が、一斉にデュランに襲い掛かった。
――いや、正確に言えば、彼の足元に伸びる影に。
『影を穿つ者』と呼ばれる男が投げた刃。その中の一本でも隻眼の剣士の影を貫けば、勝負は決する。
いや、すでに勝利はラエサルの手中にあるのか――戦いを見守る神がいたのならば、そう思ったであろう、まさにその瞬間。
「愚かな、このようなもの、子供だましに過ぎん!」
デュランの銀色の瞳は迫る刃の全てを捉えており、手にした漆黒の剣で弾き返していた。
何という恐るべき技量の持ち主。
だが――
ナイフを投げるのと同時に、ラエサルは地面を蹴っていた。
「何!?」
疾風と化して迫る影に、デュランは思わず身構える。
(この男、速い! 先程のスピードが限界ではないのか!?)
まるでこの瞬間を狙っていたかのように加速するラエサル。すでに彼は、ナイフを弾くために僅かに体勢を崩していた隻眼の剣士の懐に入り込んでいた。
ラエサルが右手に握ったナイフが、一直線にデュランの首筋を狙う。
「ぐぅううう!!」
一瞬たじろいだものの、何とかそれを受け流したデュランは、再び口元に不敵な笑みを浮かべる。
だが……その笑みはすぐに凍り付いた。
丁度ラエサルの体に隠れてデュランから死角になる左手には、もう一本のナイフが握られていた。
先程、全てのナイフを投げたわけではなかったのだ。
ラエサルの体がコマのように回転し、左手に隠し持った刃がデュランの喉笛を掻き切らんと弧を描く。
思わずたたらを踏むデュラン。
ヒュン!!
ナイフが風を切る音が聖堂に響いた。
反応するのが一瞬でも遅ければ、隻眼の剣士の命はなかったであろう。
彼の頬に、深い傷が刻まれていた。
「おのれ……」
たまらず後退して距離を取ると、デュランは慌てて身構える。
もしも親衛隊の人間が彼のこんな姿を見れば、驚愕を禁じ得ないだろう。
デュランの瞳には、二本の刃を手にしたラエサルが映っている。
聖堂に差し込む光が、そのシルエットを鮮やかに浮かび上がらせていた。
鋭い二つの牙を持つ狼を。
「覚えておくんだな。獅子を食らう牙を持つ狼がいるということを」
「貴様……」
瞳を怒りに染めたデュランは、ジリジリと距離をはかりながら、右手で漆黒の剣を構える。
そして、左手で己の頬の傷をなぞった。
聖堂に、隻眼の剣士の殺気が色濃く満ちていく。
それを見て、ラエサルは言い放った。
「お前は自分のことを獅子と言ったが、俺は本物の獅子を知っている。そう呼ぶに相応しい男をな」
彼は思い出していた。
燃え上がる炎のごとき真紅の髪を靡かせて、自分の前に現れた剣士のことを。
その横顔は雄々しく、まるで王の中の王のように、誰よりも逞しかった。
ラエサルの体から気迫が迸る。
その目は静かに前を見ていた。
己に剣を教えた男がそうであったように。
師である男に恥じぬ、堂々たる姿であった。
その瞳を見て、隻眼の剣士の闘気にほんの僅かな乱れが生じる。
次の瞬間――
恐るべき技量を持つ男たちは、切り結んでいた。
凄まじい速さで踏み込んだ両者が、すれ違いざまに繰り出した剣撃。
常人であればその姿を追うことは不可能だったであろう。
まさに刹那の絶技。
一瞬交差した二つの影はすぐさま左右に分かれ、再び聖堂が静寂で満たされる。
両手に刃を持つ男と漆黒の剣を振るった男が、互いに背を向けて静かに佇んでいた。
ラエサルの頬にうっすらと赤い線が走る。
そして、革製の肩当てがゆっくりと割れて地面に落ちた。
勝ったのはデュランか。
だが――
デュランの顔に浮かんだのは勝利を確信した笑みではなく、苦悶の表情だった。
「ぐぬぅうううう!!」
男の利き腕にパックリと深い傷が生じた。
あまりにも鮮やかな切り口だったせいで、斬られた本人ですら気がつかなかったのであろう。
彼は左手でその傷口を押さえると、ラエサルを見て歯噛みした。
充血したその目は、怒りに満ちている。
公爵の命を受けて数多くの人間の血を吸ったであろう漆黒の剣に、腕を伝い、己の血が流れ落ちていた。
剣士が利き腕を負傷した以上、これで勝負は決した――誰もがそう思うはずだ。
しかし、静まり返った聖堂に、低い笑い声が響いた。
これほどの拮抗した技量を持つ者同士の戦で、利き腕の負傷は致命的だ。
それなのに、敗北したはずの男が、なぜ笑っているのか。
「それで俺に勝ったつもりか? 甘い男だ」
そう言って、隻眼の剣士は、左目を覆っていた眼帯をゆっくりと外した。
露わになった瞳の色は赤。
まるで、この男が手にかけてきた者たちの返り血で濡れているかのようだった。
妖気さえ感じられるほどである。
眼帯が聖堂の床に投げ捨てられると、異様な気が辺りに満ち始める。
その目に反応したのか、デュランが手にする漆黒の剣から黒い瘴気が生じた。
「まさか、これを使うことになるとはな……。ラエサル・バルーディン、貴様は楽には死ねんぞ」
何ということか、切り裂かれたはずのデュランの利き腕の深い傷が、立ちどころに治っていく。
漆黒の剣から生じた黒い瘴気が、それを可能にしているのか。
(これは、一体!?)
ラエサルは目の前の男から溢れ出る、先程とは比較にならない闘気に身構えた。
そして理解する。
これは回復をしているのではない。
『別の何か』に変貌を遂げているのだ。
剣を握る手は節くれだち、爪が獣のように伸びていく。
一回り太くなった腕と胸板。
肥大化した上半身に耐えきれず、黒い軍服が音を立てて破れていった。
ステンドグラス越しの光が、床にその生き物の影を映し出す。
先程まで人であったその生き物の影を。
肌の色は黒く変わり、黒く染まった髪は伸びて、鬣のように逆立っている。
さながら、人の姿をした黒い獅子だった。
その口が大きく開き、凄まじい咆哮が放たれる。
あまりの威圧感に、ラエサルは先程よりもこの聖堂を狭く感じていた。
崩れかけた祭壇を背に立つデュランの体を、漆黒の剣が放つ瘴気が包み込む。
その異様な姿は、人というより、もはや魔人と呼ぶ方が相応しい。
一回り大きくなった漆黒の体でただ一点、爛々と赤く光る左目が、ラエサルを睥睨していた。
「魔剣か……」
ラエサルは静かに息を吐いた。
恐るべき力を秘めているが故に、魔剣と呼ばれる剣。
それは使用者に大きな力を与えるが、相応の代償を求める、呪われた武具である。
常人であれば手にしただけで正気を保つことなど不可能だという。
だとしたら、今までそれを振るっていたという事実だけで、この男の力が尋常でないという証拠になる。
「くくく、魔剣だと? それは使いこなせぬ者が付けた名に過ぎん」
デュランは漆黒の剣を一閃し、祭壇の近くにある石造りの柱を斬りつける。
音も立てず、それは静かに斜めに両断されていた。
少し間を置いた後、石柱が音を立てて崩落する。
恐るべき膂力と、刃の切れ味。
己の力に酔いしれたかのような表情で、デュランが哄笑する。
「見よこの力! これまでは使う機会などなかったが、貴様相手なら存分に楽しめる。この剣の本当の力をな!!」
彼が床に投げ捨てた眼帯の裏には、複雑な魔法陣が描かれている。恐らく、魔剣の力を抑えるための魔具だったのだろう。
ラエサルはしばし目の前の男の姿を黙って眺めた後、二本のナイフを構える。
そして目の前の魔人に言い放った。
「やはり、お前は獅子などではない」
「何だと?」
その言葉を聞いて、デュランの顔が歪む。
まるで魔剣から立ち上る瘴気に侵食されるように、銀色に光る右側の目も血走り、赤く染まっていく。
「ほざきおってぇええ! この力が分からんか!!」
魔剣を手にした男は、怒号とともに凄まじい速さで踏み込む。
そのままラエサルの体を縦に一閃。
恐るべき力を前に、微塵の抵抗もなく両断された相手を見て、黒い魔人の顔に勝利の笑みが浮かぶ。
だが、それも束の間のことであった。
己が切り裂いた影が、目の前から掻き消えたのだ。
ラエサルの姿は美しく宙を舞い、デュランの後方に降り立った。
着地した瞬間、ラエサルの体が霞むように動く。
後方からの気配を察知したデュランが首を巡らせると、姿勢を低くして突き進んでくる男の姿が視界に入った。
「おのれ! 馬鹿な! こんなことが!!」
漆黒の魔人は吠えるような声を上げ、振り向きざまにラエサルの体を横薙ぎにする。
「死ねぇええええええいい!!」
再び交錯する二つの影。
その瞬間――!
魔人の剣をかわしたラエサルの影は、まるで狼が獲物の喉を噛み切るがごとく、鮮やかに相手の喉笛を切り裂いた。
鮮血が辺りに飛び散る。
左手で喉を押さえ、後ずさるデュラン。
両の眼は真紅に染まり、あたかも、血に飢えた魔物かのよう。
「ぐぅうう! なぜだ! 貴様、なぜそれほど強く……」
デュランは傷を庇いながら呻くが、黒い瘴気――あるいは魔人の闘気は、瞬時にその傷を塞いでいく。
だが、ラエサルの方もすでに追撃の構えに入っていた。
「気がついていないのか? デュラン。俺が強くなったのではない、お前が弱くなったのだ。己を失い、ただ魔剣に使役される魔物と化した、その時点でな」
「使役されているだと? 俺がこの力を使いこなしているのだ! 見ろ、貴様が与えた傷などもう塞がっておるわ!!」
魔剣の瘴気で塞がっていく傷を押さえながら、デュランは血走った目で咆哮する。
その瞬間、魔人が持つ黒い剣から溢れる瘴気が、さらに勢いを増した。
ミシミシと骨と肉が軋む音がして、デュランの体がまた一回り大きくなっていく。
その口からは牙が生え、黒い瘴気が吐き出されている。
体中から溢れ出る瘴気は、それ自体が意思を持つ無数の大蛇のごとく形を成し、鎌首をもたげてラエサルに襲い掛かった。
魔剣の中に封じられている『何か』が解放されたようだ。
「コロス! 貴様ヲ!!」
理性を失ったデュランの瞳は真紅に燃え、その顔はもはや人の面影を残してはいない。
黒い獅子の顔をした魔獣だ。
ラエサルは、牙を剥いて襲い来る瘴気の群れを、鮮やかな身のこなしでかわしていく。そして地を蹴ると、デュランの頭上に舞った。
しなやかな野生の狼の動き。
美しいとすら思わせるその跳躍に、魔剣に支配されている男も思わず見惚れた。
ラエサルの手にはいつの間にか、何本もの投げナイフが握られている。
放たれた刃は、銀の光を放ちながら凄まじい速さで、魔獣の足元に突き刺さった。
これで勝負は決した。
しかし――
「グゥオオオオオオオオン!!」
影を貫かれて吠える巨大な魔獣。
恐るべきことにその体は、呪縛を破ろうとジリジリと前に動いている。
禍々しいまでの執念と、その身を包む黒い闘気。
黒き魔獣の傍に着地したラエサルの右手には、先程敵の喉笛を切り裂いた長いナイフが握られている。
ナイフを持つ右手に、左手を軽く添える。
両手からナイフに込められた闘気が、バチバチと音を立てて具現化した。
さながら刃が青い雷を帯びたかのようである。
次の瞬間、青い牙を持った狼が大地を蹴った。
魔獣はそれを血走った目で睨むと、再び咆哮を放つ。
恐るべき力で、穿たれた影の呪縛を打ち破ろうとしたまさにその時――ラエサルのナイフは黒い魔獣の心臓を貫いていた。
それは、数々の魔物を倒してきたラエサルのユニークスキル、その秘奥義だ。
影を穿ち、狼の牙が敵を貫く。
「狼牙滅砕!!」
青い闘気が波紋になって魔獣の体に伝わっていく。
ビクン!! と魔獣の巨躯が痙攣した。
「バカ……ナ……コノ……オレガ……グゥオオオオオ!」
断末魔の叫びが聖堂を揺らす。
黒い影はゆっくりと崩れ落ち、魔剣が音を立てて床に転がった。
やがて、魔獣と化したデュランの肉体を覆っていた黒い瘴気が、音もなく魔剣に吸い込まれていく。
聖堂の中に静けさが戻った。
すでに絶命したデュランを見下ろすラエサルが、ゆっくりと口を開く。
「馬鹿な野郎だ……。デュラン、お前は強かった。そんな魔剣になど頼らずともな」
そう呟き、彼はその場にガクリと膝をついた。
敵を倒したとはいえ、かなりの力を注ぎ込んだのだろう。顔には疲労が色濃く浮かんでいた。
そこへ、聖堂の入り口の方から一人の男が、ヨロヨロと近づいてきた。
王弟であるバルドルース公爵を監視する密偵、ロランである。
「ラエ……サル」
デュランに傷を負わされた彼は、ラエサルに歩み寄ると崩れ落ちた。
「ロラン」
ロランの体を支えるラエサルの手に、ベッタリと血がついた。
致命傷ではないが、手足など体のいたるところに傷を負わされている。
戦いの前にデュラン自身が言っていたように、ロランを生かしておいて、後で情報を聞き出すつもりだったのだろう。
意識を取り戻したロランは、どうやら自力で歩いてきたらしい。入り口からここまで、床に点々と赤い血の跡が続いている。
ロランは、祭壇の傍に倒れるデュランを見つめながら言った。
「……まさか、この男を倒すとは。ラエサル、お前は一体」
「俺に剣を教えてくれた男は、もっと強かった。こんな紛い物ではなく、赤い髪を靡かせた本物の獅子のようにな。ただそれだけのことだ」
それを聞いて、ロランはハッと息を呑む。
「お前に剣を教えたというのは、もしや……」
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