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3巻
3-2
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ラエサルは何も応えず、黙って立ち上がりロランに肩を貸した。
ロランは自分を支える男の横顔を見る。
「そうか。お前のその眼差し……確かにどこか陛下に似ている」
そう言うと、ロランは何かを思い出したように笑った。
「陛下には王子殿下がおられぬ。陛下ほどの腕があれば、お伝えになりたいこともあったのではないかと思っていたが……。口さがない侍女たちがあることないこと噂するのを聞いて、陛下が笑っておられたのを思い出すな」
「レオンが?」
ラエサルの問いに、ロランは頷いた。
「ああ、レオンリート陛下は笑いながら仰られた。伝えるべき者にはもう伝えたと、だからもう良いのだと。あの時は、それが誰のことなのかは分からなかったが」
ロランは、ラエサルの体に寄り掛かるようにして続けた。
「陛下は良い弟子を持たれた……」
力なく自分に身を預ける男の声は、酷く弱々しい。
見ると、その手には腰の鞘から抜いた短刀が握られており、ロラン自身の腹部に深々と突き立てられていた。
「ロラン、お前!」
「ラエサル、俺を置いていけ……恐らく周りは囲まれている。俺は足手まといにしかならん」
ロランの言う通りだろう。
ロランに気取られぬよう、聖堂にやって来たのがデュラン一人であったとしても、ここにいるという合図は仲間に送ったはずだ。
周囲は包囲されているに違いない。
ラエサルだけならともかく、傷を負った自分を連れては逃げきれぬ――ロランはそう判断した上で自害を決意したに違いない。
そして、もしもこの男が自分の主の弟子ならば、自分が生きている限りは決して見捨てぬということも理由の一つだ。
ロランが自ら裂いた深い傷を見て、ラエサルは黙って友の体を下ろし、聖堂の柱の一つにもたせかけるように座らせた。
密偵の宿命とでも言うべきか、恐らくは自ら命を絶たねばならぬ時のために、その刃には毒が仕込んであったのだろう。
ロランが深く息を吐く。
震える唇にはもう血の気がない。
虚ろな目で、彼はただうわごとのように言葉を発していた。
「ラエサル、陛下を頼む……薔薇を……もう一つの薔薇、王女殿下を……」
その言葉に、ラエサルの眉がぴくりと動く。
「ロラン、どういうことだ? もう一つの薔薇とは、王女殿下とは一体!?」
そう問いかけてはみたものの、ラエサルはもはやそれが無意味であることを察した。
死してなお真っすぐに前を見つめながら、ロランはすでに事切れていた。
「もういい、ロラン。眠れ、疲れただろう……」
ラエサルは、しっかりと短刀を握って放そうとしないロランの手を解き、それを外した。
そして、強い意志を象徴する目を、右手でゆっくりと閉じる。
しばしの間、彼はただ静かに、友の手を握りしめていた。
聖堂には、死者を弔う静寂が満ちている。
そこに、まるで鈴の音のような美しい女の声が響いた。
「『もう一つの薔薇』、どうやら探る価値はあったようですね」
ラエサルはとっさに声の方を振り返る。
そこには女が立っていた。
聖堂の入り口に佇むその姿。
もしも正体を知らぬ者であれば、この女ほどこの場所に相応しい存在はいないと感じるであろう。
月光のような輝きを放つ髪、銀色の瞳、そして清楚な唇。
神に仕える聖女と呼ぶに相応しい。
たおやかなウエストラインは、清楚さの中にも男を虜にする妖艶な色気を漂わせている。
デュランとの戦いで酷く消耗しているとはいえ、ラエサルに気配すら感じさせずに現れるあたり、ただ者ではない。
「アンリーゼ、どうしてお前が……」
女は美しい笑みを浮かべる。
「その鼠を泳がせるようにデュランに命じたのは、私です。白王の薔薇を奪おうとする者、その正体を暴くためでしたが。残念ですラエサル、お前だったのですね」
白王の薔薇とは、どんな病も治す奇跡の薔薇で、病床に伏した現王レオンリートを救うために必要な品である。しかし、次期王座を狙う公爵は、この薔薇の探索を妨害しているという。
アンリーゼは目の前の男を恐れる素振りすら見せず、ゆっくりと聖堂の中へと歩を進める。
「ですが、それだけの価値はあった。もう一つの薔薇――まさか、国王陛下に王女殿下がおいでになるとは。敬愛する兄君のご息女です、公爵閣下もさぞやお会いしたいと望まれることでしょう」
(王女だと? 馬鹿な、レオンリートに子はいないはずだ。だが、確かにロランも王女殿下と)
まるで、女神のような笑みを浮かべる女。
しかし、彼女の正体を知っている者が見れば、瞳の奥にある冷酷さに気づくだろう。
そして、この言葉が本心からのものではないことも明らかだ。
アンリーゼは、魔獣と化して息絶えているデュランを見た。
「デュランには、私が行くまでその間者を生かしておくように言っておいたのですが。これでは余計な手間が増えたというもの。魔剣まで与えて今日まで飼ってきたというのに……存外使えぬ男でしたね」
女は床に転がる漆黒の剣に目をやり、事もなげにそう言った。
密偵と接触する者を捕らえる――デュランもこの女の指示に従っていただけに違いない。
ラエサルは視線を巡らせて女の動きを警戒した。
(アンリーゼ・リア・エルゼスト、デュランに魔剣を与えたのはこの女か)
恐らく、あの眼帯も。
「ここからはもう、逃げられませんよ」
油断のないラエサルの視線を受けて、アンリーゼは静かにそう言った。
ロランが危惧した通り、もはや周囲は包囲されているのだろう。
彼女はラエサルの傍で息を引き取ったロランを、冷たい目で眺めている。
そして、嘲笑うかのように言った。
「愚かですね、ラエサル。いずれ公爵閣下が国王となるのはもう決まっていること。こんな薄汚いドブネズミと運命をともにするとは」
「黙れ!」
その言葉が終わる前に、ラエサルの体は霞むような速さで動いた。
両手にナイフを構え、アンリーゼに向かって走るラエサル。
彼の目は抑えがたい怒りに満ちている。
しかし、銀色の髪の聖女はまるで動じず、すっと右手を上げる。
その手のひらから白い稲妻のような光が放たれた。
凄まじい速さでアンリーゼに迫るラエサルを迎撃すべく、白い雷が瞬く。
束の間、その光が美しいシルエットを浮かび上がらせた。
しかし、そこにはもうラエサルはいない。
「貰ったぞ! アンリーゼ!!」
聖堂の床を蹴り、ラエサルはアンリーゼの頭上に舞っていた。
挑発されたと見せかけて、彼はいたって冷静だった。正面から突っ込むフリをしたのは、迎撃の稲妻を誘うためだ。
それをかわし、頭上から女自身が作り上げた影を穿つ。
アンリーゼの白い雷、その閃光が生み出す一瞬の影を。
闘気を込めたナイフは、すでにアンリーゼに放たれていた。
彼女が作り出した閃光が、聖堂の床に長い影を落とす。
ナイフはその伸び切った先を正確に狙っていた。
(この女に勝つには、これしかない)
『殺せずの聖女』――たとえ正面からナイフで切り裂いたとしても、この女は一瞬で致命傷を治癒することだろう。
同時に、ラエサルはアンリーゼの雷の餌食とされる。
かといって、普通に影を狙ってもこの女には通じない。
油断が生じるとしたら、女自身が作り出す影。
それは、自らが作り出したが故に死角になる。
ナイフが、長く伸びた影を貫いたかに見えた。
しかし、ラエサルの目の前で、それは消えていた。
その時、彼は見た。
自分を見上げて笑みを浮かべる女の顔を。
凄まじい稲光が聖堂の中、全体に生じる。
周囲に溢れる光が、突き刺さるはずだった影を消し去った。
どれほどの魔力があればそんなことが可能なのだろうか。
雷を受けた祭壇が崩れ、衝撃で割れたステンドグラスの破片が飛び散る。
「ぐぅううううう!!」
床に激しく打ちつけられて転がるラエサルの口から、苦悶の声が漏れる。
あらぬ方向からの衝撃で、受け身を取ることもままならない。
彼は何とか上体を起こし、状況を確認する。
見ると、聖女と呼ばれる女の両目には、魔法陣が浮かんでいた。
あの雷は、魔法陣によって作り出したものなのか。
聖女の白いローブと銀色の髪が、バチバチと音を立てて白く帯電している。
その姿は、まるで雷帝。
「ふふ、私にこの瞳を使わせるとは……このまま殺すには惜しい。ラエサル、お前にはもう一度機会を与えてあげましょう」
そう言った女の微笑みは、人を闇に誘う悪魔のように邪悪で、美しかった。
2 切れた革紐
俺、結城川英志は、目指していた高校の合格通知を手にしたその日、思わぬ事故で死んでしまった。
だが、ふとしたきっかけで時の女神メルティを救い、そのお礼として加護を貰って、異世界に転生することになった。
新しい世界、エディーファ。
そこで俺が辿り着いたのは、迷宮の町フェロルクだった。
人よりも十倍速く成長する能力と、時魔術と呼ばれる力を頼りに、何とか冒険者として生計を立てようとした俺は、冒険者ギルドで二人の少女に出会った。
勝気な赤毛の魔法使いエリス、そして清楚で可憐な治療魔道士のリアナ。
二人の美少女の依頼を受けて、俺は一緒に迷宮に入ってレベル上げをすることになったのだが……そこで、マーキスとギリアムという悪質で残忍な二人組の冒険者に絡まれてしまった。
そのマーキスが公爵家の息子だということを、俺は後でラエサルさんから聞かされた。おまけに、公爵や、マーキスに仕える『殺せずの聖女』と呼ばれるアンリーゼに自分が狙われているということも。
俺はラエサルさんの協力を得て、仲間や自分を守るために修業をすることに決めた。
そんな中、ラエサルさんの紹介でやって来たのが、ダークエルフの少女アンジェ。
ちょっとしたいざこざもあって手合わせをしたりもしたけど、結局彼女も俺たちの仲間になってくれたんだ。
アンジェと和解した後、俺はお世話になっている武器屋の家の奥で休んでいた彼女を連れて食卓へと向かっていた。
「あ……」
俺が扉を閉めた時、後ろでアンジェが小さく声を出した。
振り返ると、廊下に出た彼女は足を止め、短剣をしまう鞘の革紐に視線を落としていた。
腰のベルトに鞘を括り付けるためのものだ。
どうやら、切れてしまったようである。
「この鞘、気に入ってたのに。ラエサルがくれた大切な剣と鞘なんだから」
「はは、さっきの戦いは激しかったからな。安心しろよ、後で親父さんと一緒に直してやるから」
鍛冶の作業場には革で作る装備品の修復材や、そのための道具らしきものも置いてあったからな。
食事が終わったら、ロイの親父さんに頼んでみよう。
アンジェは切れてしまった革の紐をジッと見ている。
「もう、縁起でもない」
どうやら、この世界でも縁起や験を気にするようだ。
分からなくもないよな。
冒険者にとって、装備品は命を繋ぐための大切なものだ。それが破損したら、不吉に思う人がいてもおかしくない。
俺は、少ししょんぼりしてるアンジェに言う。
「それにしてもさ、アンジェはラエサルさんのことがよっぽど好きなんだな」
ラエサルさんに貰った剣だってことが、彼女にとっては大事なのだろう。
俺にとっても、親父さんやフィアーナさんに貰った装備は宝物だ。アンジェの気持ちはよく分かる。
彼女は長い耳をピクンと動かし、可憐な顔をツンと澄まして言った。
「別に、変な意味はないんだから。……私、お父さんのことを知らないし。ラエサルがあの人のことを、いつかお母さんって呼びたいって言った時、思ったの」
「ん?」
アンジェは、食卓がある部屋の方をちらりと見る。
あの人っていうのは、フィアーナさんのことだろう。
そして俯くと、そっと呟いた。
「私もいつかラエサルのことを、お父さんって……そんな風に呼べたらいいなって」
そっか、そうなんだな。
ラエサルさんの背中。
あまり多くのことは語らないけど、頼りになる背中だった。
容姿はまるで違うが、ラエサルさんはどこか親父さんに似ている。
俺が思わず笑みを浮かべると、アンジェがこちらを睨んだ。
「何よ、おかしい? ラエサルはまだ若いけど、頼りになるもの!」
少し頬を膨らますアンジェは可愛い。
戦っている時は大人びているけど、こうして見ると、年相応の少女だ。
「いや、よく分かるよ。ラエサルさんだって、嬉しいと思うぜ。アンジェみたいな可愛い娘がいたらさ」
俺の言葉に、アンジェの顔が赤くなった。
そして、口を尖らせて、ブツブツと抗議する。
「あ、貴方って誰にでもそんなこと言うの? 部屋を出る前にも綺麗だとか、いきなり」
「誰にでもってわけじゃないさ。けど、思ったことをそのまま言っただけだろ?」
俺がそう言うと、アンジェは俺をジッと見て黙り込む。
ああ、また失敗したか。
恋愛経験が少ない俺は、どうもこの辺の加減が下手らしい。
ラエサルさんのことを慕っているアンジェに対して、素直に感想を言っただけなんだけどな。
「だって、パーティメンバーだって、二人とも女の子じゃない」
「いや、別に下心があってパーティ組んでるわけじゃないって! 最初はあの二人から依頼を受けて、たまたまさ」
全く下心がないかって言われたら……そりゃあ俺だって男だからさ。
エリスやリアナは人目を惹くほど可愛いし、一緒にパーティを組めるのは嬉しい。
でも本当に大事なのは、あの二人が信用できる相手だってことだ。
そうじゃなかったら、ずっとパーティを組もうなんて思わない。
アンジェは少し疑わしそうな顔で俺を見ている。
「でもあの赤毛の子、エイジのことを必死に応援してた。ねえ、もしかしてあの子、エイジの恋人?」
「はは、面白い冗談だな……」
どこをどう見たら、俺とエリスが恋人同士だと思うんだ?
むしろ下僕……いやいや、エリスが言うようにナイトぐらいにしておこう。自分が惨めになる。
「ふ~ん、そうなんだ」
アンジェは少し悪戯っぽい目で俺を見た。
「何だよ? ふ~ん、って」
まるで妖精のように軽やかに、アンジェは身を翻す。
しなやかなその仕草に、健康的な小麦色の肌が良く映えた。
「別に! 何でもないわ」
そう言って廊下を歩き始める。その様子はどこか楽しげに見える。
まったく、何だっていうんだよ……。
俺は肩をすくめると、先を行くアンジェに続いた。
食卓がある部屋に入ると、エリスやリアナ、そしてフィアーナさんが料理を用意してくれていた。
親父さんもすでにテーブルに着いている。
ふと、アンジェの軽やかな足取りが止まった。
「遠慮してないで、こっちにおいで」
フィアーナさんが手招きしながら声をかける。
それでもアンジェが動かないので、立ち上がってアンジェの手を引き、自分の隣の席に座らせた。
「おかしな子だね。訪ねてきた時はあんなに威勢が良かったじゃないか」
アンジェとしては、偉そうに喧嘩を売った手前、気まずいのだろう。
自分が世間では忌み嫌われているダークエルフだっていうことも、気にしているのかもしれない。
そんなアンジェの様子を見て、親父さんが豪快に笑う。
「そうだぜ、ラエサルの弟子なんだろうが? 弟子って言えば、娘も同然だ。あいつの娘なら、俺たちにとっちゃあ孫みたいなもんよ!」
はは、孫か。親父さんらしいな。
二人はアンジェがダークエルフであることを気にする様子もない。
ラエサルさんの弟子っていうだけで、迎え入れるには十分なのだろう。
フィアーナさんは、アンジェに微笑む。
「アンジェ、私のことはフィアーナって呼んでおくれ」
親父さんとフィアーナさんのお蔭で、場の雰囲気が和む。
それで勇気づけられたのか、アンジェは自己紹介を始めた。
「私はアンジェ・ラファーリス。ラエサルと一緒に暮らしてるわ」
ある意味大胆な発言で、一瞬食卓が静まり返った。
俺は、アンジェが、ラエサルさんのことを父親みたいに思っていると知ってるけど、みんなは知らないもんな。
ロランは自分を支える男の横顔を見る。
「そうか。お前のその眼差し……確かにどこか陛下に似ている」
そう言うと、ロランは何かを思い出したように笑った。
「陛下には王子殿下がおられぬ。陛下ほどの腕があれば、お伝えになりたいこともあったのではないかと思っていたが……。口さがない侍女たちがあることないこと噂するのを聞いて、陛下が笑っておられたのを思い出すな」
「レオンが?」
ラエサルの問いに、ロランは頷いた。
「ああ、レオンリート陛下は笑いながら仰られた。伝えるべき者にはもう伝えたと、だからもう良いのだと。あの時は、それが誰のことなのかは分からなかったが」
ロランは、ラエサルの体に寄り掛かるようにして続けた。
「陛下は良い弟子を持たれた……」
力なく自分に身を預ける男の声は、酷く弱々しい。
見ると、その手には腰の鞘から抜いた短刀が握られており、ロラン自身の腹部に深々と突き立てられていた。
「ロラン、お前!」
「ラエサル、俺を置いていけ……恐らく周りは囲まれている。俺は足手まといにしかならん」
ロランの言う通りだろう。
ロランに気取られぬよう、聖堂にやって来たのがデュラン一人であったとしても、ここにいるという合図は仲間に送ったはずだ。
周囲は包囲されているに違いない。
ラエサルだけならともかく、傷を負った自分を連れては逃げきれぬ――ロランはそう判断した上で自害を決意したに違いない。
そして、もしもこの男が自分の主の弟子ならば、自分が生きている限りは決して見捨てぬということも理由の一つだ。
ロランが自ら裂いた深い傷を見て、ラエサルは黙って友の体を下ろし、聖堂の柱の一つにもたせかけるように座らせた。
密偵の宿命とでも言うべきか、恐らくは自ら命を絶たねばならぬ時のために、その刃には毒が仕込んであったのだろう。
ロランが深く息を吐く。
震える唇にはもう血の気がない。
虚ろな目で、彼はただうわごとのように言葉を発していた。
「ラエサル、陛下を頼む……薔薇を……もう一つの薔薇、王女殿下を……」
その言葉に、ラエサルの眉がぴくりと動く。
「ロラン、どういうことだ? もう一つの薔薇とは、王女殿下とは一体!?」
そう問いかけてはみたものの、ラエサルはもはやそれが無意味であることを察した。
死してなお真っすぐに前を見つめながら、ロランはすでに事切れていた。
「もういい、ロラン。眠れ、疲れただろう……」
ラエサルは、しっかりと短刀を握って放そうとしないロランの手を解き、それを外した。
そして、強い意志を象徴する目を、右手でゆっくりと閉じる。
しばしの間、彼はただ静かに、友の手を握りしめていた。
聖堂には、死者を弔う静寂が満ちている。
そこに、まるで鈴の音のような美しい女の声が響いた。
「『もう一つの薔薇』、どうやら探る価値はあったようですね」
ラエサルはとっさに声の方を振り返る。
そこには女が立っていた。
聖堂の入り口に佇むその姿。
もしも正体を知らぬ者であれば、この女ほどこの場所に相応しい存在はいないと感じるであろう。
月光のような輝きを放つ髪、銀色の瞳、そして清楚な唇。
神に仕える聖女と呼ぶに相応しい。
たおやかなウエストラインは、清楚さの中にも男を虜にする妖艶な色気を漂わせている。
デュランとの戦いで酷く消耗しているとはいえ、ラエサルに気配すら感じさせずに現れるあたり、ただ者ではない。
「アンリーゼ、どうしてお前が……」
女は美しい笑みを浮かべる。
「その鼠を泳がせるようにデュランに命じたのは、私です。白王の薔薇を奪おうとする者、その正体を暴くためでしたが。残念ですラエサル、お前だったのですね」
白王の薔薇とは、どんな病も治す奇跡の薔薇で、病床に伏した現王レオンリートを救うために必要な品である。しかし、次期王座を狙う公爵は、この薔薇の探索を妨害しているという。
アンリーゼは目の前の男を恐れる素振りすら見せず、ゆっくりと聖堂の中へと歩を進める。
「ですが、それだけの価値はあった。もう一つの薔薇――まさか、国王陛下に王女殿下がおいでになるとは。敬愛する兄君のご息女です、公爵閣下もさぞやお会いしたいと望まれることでしょう」
(王女だと? 馬鹿な、レオンリートに子はいないはずだ。だが、確かにロランも王女殿下と)
まるで、女神のような笑みを浮かべる女。
しかし、彼女の正体を知っている者が見れば、瞳の奥にある冷酷さに気づくだろう。
そして、この言葉が本心からのものではないことも明らかだ。
アンリーゼは、魔獣と化して息絶えているデュランを見た。
「デュランには、私が行くまでその間者を生かしておくように言っておいたのですが。これでは余計な手間が増えたというもの。魔剣まで与えて今日まで飼ってきたというのに……存外使えぬ男でしたね」
女は床に転がる漆黒の剣に目をやり、事もなげにそう言った。
密偵と接触する者を捕らえる――デュランもこの女の指示に従っていただけに違いない。
ラエサルは視線を巡らせて女の動きを警戒した。
(アンリーゼ・リア・エルゼスト、デュランに魔剣を与えたのはこの女か)
恐らく、あの眼帯も。
「ここからはもう、逃げられませんよ」
油断のないラエサルの視線を受けて、アンリーゼは静かにそう言った。
ロランが危惧した通り、もはや周囲は包囲されているのだろう。
彼女はラエサルの傍で息を引き取ったロランを、冷たい目で眺めている。
そして、嘲笑うかのように言った。
「愚かですね、ラエサル。いずれ公爵閣下が国王となるのはもう決まっていること。こんな薄汚いドブネズミと運命をともにするとは」
「黙れ!」
その言葉が終わる前に、ラエサルの体は霞むような速さで動いた。
両手にナイフを構え、アンリーゼに向かって走るラエサル。
彼の目は抑えがたい怒りに満ちている。
しかし、銀色の髪の聖女はまるで動じず、すっと右手を上げる。
その手のひらから白い稲妻のような光が放たれた。
凄まじい速さでアンリーゼに迫るラエサルを迎撃すべく、白い雷が瞬く。
束の間、その光が美しいシルエットを浮かび上がらせた。
しかし、そこにはもうラエサルはいない。
「貰ったぞ! アンリーゼ!!」
聖堂の床を蹴り、ラエサルはアンリーゼの頭上に舞っていた。
挑発されたと見せかけて、彼はいたって冷静だった。正面から突っ込むフリをしたのは、迎撃の稲妻を誘うためだ。
それをかわし、頭上から女自身が作り上げた影を穿つ。
アンリーゼの白い雷、その閃光が生み出す一瞬の影を。
闘気を込めたナイフは、すでにアンリーゼに放たれていた。
彼女が作り出した閃光が、聖堂の床に長い影を落とす。
ナイフはその伸び切った先を正確に狙っていた。
(この女に勝つには、これしかない)
『殺せずの聖女』――たとえ正面からナイフで切り裂いたとしても、この女は一瞬で致命傷を治癒することだろう。
同時に、ラエサルはアンリーゼの雷の餌食とされる。
かといって、普通に影を狙ってもこの女には通じない。
油断が生じるとしたら、女自身が作り出す影。
それは、自らが作り出したが故に死角になる。
ナイフが、長く伸びた影を貫いたかに見えた。
しかし、ラエサルの目の前で、それは消えていた。
その時、彼は見た。
自分を見上げて笑みを浮かべる女の顔を。
凄まじい稲光が聖堂の中、全体に生じる。
周囲に溢れる光が、突き刺さるはずだった影を消し去った。
どれほどの魔力があればそんなことが可能なのだろうか。
雷を受けた祭壇が崩れ、衝撃で割れたステンドグラスの破片が飛び散る。
「ぐぅううううう!!」
床に激しく打ちつけられて転がるラエサルの口から、苦悶の声が漏れる。
あらぬ方向からの衝撃で、受け身を取ることもままならない。
彼は何とか上体を起こし、状況を確認する。
見ると、聖女と呼ばれる女の両目には、魔法陣が浮かんでいた。
あの雷は、魔法陣によって作り出したものなのか。
聖女の白いローブと銀色の髪が、バチバチと音を立てて白く帯電している。
その姿は、まるで雷帝。
「ふふ、私にこの瞳を使わせるとは……このまま殺すには惜しい。ラエサル、お前にはもう一度機会を与えてあげましょう」
そう言った女の微笑みは、人を闇に誘う悪魔のように邪悪で、美しかった。
2 切れた革紐
俺、結城川英志は、目指していた高校の合格通知を手にしたその日、思わぬ事故で死んでしまった。
だが、ふとしたきっかけで時の女神メルティを救い、そのお礼として加護を貰って、異世界に転生することになった。
新しい世界、エディーファ。
そこで俺が辿り着いたのは、迷宮の町フェロルクだった。
人よりも十倍速く成長する能力と、時魔術と呼ばれる力を頼りに、何とか冒険者として生計を立てようとした俺は、冒険者ギルドで二人の少女に出会った。
勝気な赤毛の魔法使いエリス、そして清楚で可憐な治療魔道士のリアナ。
二人の美少女の依頼を受けて、俺は一緒に迷宮に入ってレベル上げをすることになったのだが……そこで、マーキスとギリアムという悪質で残忍な二人組の冒険者に絡まれてしまった。
そのマーキスが公爵家の息子だということを、俺は後でラエサルさんから聞かされた。おまけに、公爵や、マーキスに仕える『殺せずの聖女』と呼ばれるアンリーゼに自分が狙われているということも。
俺はラエサルさんの協力を得て、仲間や自分を守るために修業をすることに決めた。
そんな中、ラエサルさんの紹介でやって来たのが、ダークエルフの少女アンジェ。
ちょっとしたいざこざもあって手合わせをしたりもしたけど、結局彼女も俺たちの仲間になってくれたんだ。
アンジェと和解した後、俺はお世話になっている武器屋の家の奥で休んでいた彼女を連れて食卓へと向かっていた。
「あ……」
俺が扉を閉めた時、後ろでアンジェが小さく声を出した。
振り返ると、廊下に出た彼女は足を止め、短剣をしまう鞘の革紐に視線を落としていた。
腰のベルトに鞘を括り付けるためのものだ。
どうやら、切れてしまったようである。
「この鞘、気に入ってたのに。ラエサルがくれた大切な剣と鞘なんだから」
「はは、さっきの戦いは激しかったからな。安心しろよ、後で親父さんと一緒に直してやるから」
鍛冶の作業場には革で作る装備品の修復材や、そのための道具らしきものも置いてあったからな。
食事が終わったら、ロイの親父さんに頼んでみよう。
アンジェは切れてしまった革の紐をジッと見ている。
「もう、縁起でもない」
どうやら、この世界でも縁起や験を気にするようだ。
分からなくもないよな。
冒険者にとって、装備品は命を繋ぐための大切なものだ。それが破損したら、不吉に思う人がいてもおかしくない。
俺は、少ししょんぼりしてるアンジェに言う。
「それにしてもさ、アンジェはラエサルさんのことがよっぽど好きなんだな」
ラエサルさんに貰った剣だってことが、彼女にとっては大事なのだろう。
俺にとっても、親父さんやフィアーナさんに貰った装備は宝物だ。アンジェの気持ちはよく分かる。
彼女は長い耳をピクンと動かし、可憐な顔をツンと澄まして言った。
「別に、変な意味はないんだから。……私、お父さんのことを知らないし。ラエサルがあの人のことを、いつかお母さんって呼びたいって言った時、思ったの」
「ん?」
アンジェは、食卓がある部屋の方をちらりと見る。
あの人っていうのは、フィアーナさんのことだろう。
そして俯くと、そっと呟いた。
「私もいつかラエサルのことを、お父さんって……そんな風に呼べたらいいなって」
そっか、そうなんだな。
ラエサルさんの背中。
あまり多くのことは語らないけど、頼りになる背中だった。
容姿はまるで違うが、ラエサルさんはどこか親父さんに似ている。
俺が思わず笑みを浮かべると、アンジェがこちらを睨んだ。
「何よ、おかしい? ラエサルはまだ若いけど、頼りになるもの!」
少し頬を膨らますアンジェは可愛い。
戦っている時は大人びているけど、こうして見ると、年相応の少女だ。
「いや、よく分かるよ。ラエサルさんだって、嬉しいと思うぜ。アンジェみたいな可愛い娘がいたらさ」
俺の言葉に、アンジェの顔が赤くなった。
そして、口を尖らせて、ブツブツと抗議する。
「あ、貴方って誰にでもそんなこと言うの? 部屋を出る前にも綺麗だとか、いきなり」
「誰にでもってわけじゃないさ。けど、思ったことをそのまま言っただけだろ?」
俺がそう言うと、アンジェは俺をジッと見て黙り込む。
ああ、また失敗したか。
恋愛経験が少ない俺は、どうもこの辺の加減が下手らしい。
ラエサルさんのことを慕っているアンジェに対して、素直に感想を言っただけなんだけどな。
「だって、パーティメンバーだって、二人とも女の子じゃない」
「いや、別に下心があってパーティ組んでるわけじゃないって! 最初はあの二人から依頼を受けて、たまたまさ」
全く下心がないかって言われたら……そりゃあ俺だって男だからさ。
エリスやリアナは人目を惹くほど可愛いし、一緒にパーティを組めるのは嬉しい。
でも本当に大事なのは、あの二人が信用できる相手だってことだ。
そうじゃなかったら、ずっとパーティを組もうなんて思わない。
アンジェは少し疑わしそうな顔で俺を見ている。
「でもあの赤毛の子、エイジのことを必死に応援してた。ねえ、もしかしてあの子、エイジの恋人?」
「はは、面白い冗談だな……」
どこをどう見たら、俺とエリスが恋人同士だと思うんだ?
むしろ下僕……いやいや、エリスが言うようにナイトぐらいにしておこう。自分が惨めになる。
「ふ~ん、そうなんだ」
アンジェは少し悪戯っぽい目で俺を見た。
「何だよ? ふ~ん、って」
まるで妖精のように軽やかに、アンジェは身を翻す。
しなやかなその仕草に、健康的な小麦色の肌が良く映えた。
「別に! 何でもないわ」
そう言って廊下を歩き始める。その様子はどこか楽しげに見える。
まったく、何だっていうんだよ……。
俺は肩をすくめると、先を行くアンジェに続いた。
食卓がある部屋に入ると、エリスやリアナ、そしてフィアーナさんが料理を用意してくれていた。
親父さんもすでにテーブルに着いている。
ふと、アンジェの軽やかな足取りが止まった。
「遠慮してないで、こっちにおいで」
フィアーナさんが手招きしながら声をかける。
それでもアンジェが動かないので、立ち上がってアンジェの手を引き、自分の隣の席に座らせた。
「おかしな子だね。訪ねてきた時はあんなに威勢が良かったじゃないか」
アンジェとしては、偉そうに喧嘩を売った手前、気まずいのだろう。
自分が世間では忌み嫌われているダークエルフだっていうことも、気にしているのかもしれない。
そんなアンジェの様子を見て、親父さんが豪快に笑う。
「そうだぜ、ラエサルの弟子なんだろうが? 弟子って言えば、娘も同然だ。あいつの娘なら、俺たちにとっちゃあ孫みたいなもんよ!」
はは、孫か。親父さんらしいな。
二人はアンジェがダークエルフであることを気にする様子もない。
ラエサルさんの弟子っていうだけで、迎え入れるには十分なのだろう。
フィアーナさんは、アンジェに微笑む。
「アンジェ、私のことはフィアーナって呼んでおくれ」
親父さんとフィアーナさんのお蔭で、場の雰囲気が和む。
それで勇気づけられたのか、アンジェは自己紹介を始めた。
「私はアンジェ・ラファーリス。ラエサルと一緒に暮らしてるわ」
ある意味大胆な発言で、一瞬食卓が静まり返った。
俺は、アンジェが、ラエサルさんのことを父親みたいに思っていると知ってるけど、みんなは知らないもんな。
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