トベ・イツキ

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歴史小説を書いてます。三国志✕学園群像劇『学園戦記三国志』を小説家になろう・カクヨム・アルファポリスで連載中。他に『三国志 歴史解説』も執筆。

呉の徐整の話その2(後編)

もう一人豫章徐氏がいた。
潘濬伝の注にいう、中郎将の豫章の徐宗は、評判の高い人物で、京師で孔融と交流したりもした。しかし、彼は手下を放任し、手下はたびたび法を犯したので、潘濬は徐宗を斬刑に処した、と。
また潘濬伝には、異民族が反乱を起こし、孫権は潘濬に仮節を授け、これを討伐させた。潘濬は軍法を犯すものは容赦なく処分した、と。
徐宗の処分もその中の一人なのだろう。この討伐は呉の黄龍三年(231)から嘉禾三年(234)の間の出来事である。
ということは徐宗は210年の豫章太守顧卲に取り立てられた人物であろうか。
一方で徐宗は孔融とも交遊を持っている。孔融は青州刺史であったが、袁紹の息子袁譚に追い出され(199年頃?)、許都の曹操のもとに逃れたが、208年に処刑されている。徐宗も徐穉の一族であるとするならば、顧卲が保護する以前より、許都で名士と交流を結ぶなど色々と活動していたようである。ちなみに先祖の徐穉が交流を持った郭林宗(郭泰)と孔融は共に後漢の名士李膺に評価された人物でもある。

さて、今回調べたことをまとめると、徐整は豫章郡南昌の人。徐穉の末裔で、その後、この一族はおそらく高官は出していないが、中央の名士と交流を持ち続け、210年に太守顧卲に保護され、一族の徐宗は中郎将となったが、231年以降に処刑された。

では次回は徐整が就いた太常について検討してみようと思う。
(なぜ、前後編に分けたかというとここの文字制限に引っ掛かったからである)
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登録日 2020.08.23 21:14

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