狼隊長さんは、私のやわはだのトリコになりました。

汐瀬うに

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狼隊長さんは、私のやわはだのトリコになりました。

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 ふと目が覚めた時、私はもうこの世界にいた。

 天井は煤けていて、鼻の奥に埃とカビの匂いが刺さる。誰かの笑い声、金属のぶつかる音、そして――獣のような唸り声。しばらくしてそれが、自分の身体を繋ぐ鎖と、雇い主の怒鳴り声だと理解した。

 どうやらここは、ヒトの国ではないらしい。大きな鳥籠みたいな乗り物の中から、二足歩行のウサギや猫、犬などさまざまな獣が歩くのが見える。時々感じる強い視線には、好奇心と――わずかな情欲が混ざっていた。

 ここは、王都から馬車で三日はかかる辺境の街。見た感じ、以前暮らしていた街ほど治安はよくない。北の鳥人の国との国境に近くて、つい最近までは前線だったらしい。戦の終わった今でも、疲れきった元軍人や傭兵たちが通りを歩いている。

 後になって知ったけど、この国ではヒトは珍しい存在らしい。”ヒトは獣人を魅了する”とか”ヒトの蜜を舐めると精力がみなぎる”とか。まるで幻の生き物みたいに語られている。

 雇い主は狐のお婆さんで、到着したのは風呂屋――前の世界でいうところの、風俗みたいな店だった。
 一見ただの湯屋だけど、奥には顔の割れた客だけが通される離れがいくつもあって、私はその一つを割り当てられている。ここなら誰が誰と会おうが、表に噂が出ることはない。これが、この店が高い一番の理由でもあるらしい。
 
 客を湯に通し、身体を洗ってあげるだけの”簡単なお仕事”。
 本当は、当然ながら”その先”がある。けれど、どういうわけか私の部屋では誰もそこまで辿り着かない。

 暖かな湯に浸かって、立派な毛皮を乾かして。
 私が背中を撫でているうちに、みんな気持ちよさそうに眠ってしまうのだ。
 
 数人の獣人さんを接客して、彼らにとってのヒトの肌は、私たち人間にとっての子犬の毛並みのようなものなんだと理解した。
 見つけてしまったら目を奪われて、つい手を伸ばして触れてしまう。撫でてしまう。ぎゅっと抱きしめて、鼻いっぱいに匂いを吸い込みたくなる――人もいるような。
 
 接客は順調かと聞かれてそんな現状を話すと、狐のお婆さんはお腹を抱えて笑った。

「ヒトの肌は特別さ。生きているうちに体験できるだけ感謝してほしいくらいだよ」
「感謝って……そんなに珍しいんですか?」
「ん。あたしゃそろそろ九百になるが、生きてきて二人目だね」

 年齢の幅に絶句する。日本にいた頃から数えても、私はまだ二十六歳だ。年齢を告げるとお婆さんはまた豪快に笑って「あいつらは、大枚叩いて赤子に寝かしつけられてんのかい」と呟きながら、湯気の奥に消えていった。

 湯気越しの鏡に、ふと自分の姿が映る。染めたことのない黒髪は、日本にいた時のまま肩から背へと伸びている。化粧をしていない顔には、もう随分と慣れてしまったけれど、この黒髪はまだこの世界に馴染んでいない。

 元の世界に戻る方法を考えた日もある。けれど、その全てが失敗に終わった。そのうち、お腹が空いて動けなくなって、これ以上考えるのをやめた。私はこの世界で生きていくしかないのだと腹を括れば、なんだって頑張れた。

 だから私は、ここで生きていく。誰かに飼われたり支配されるんじゃなくて、自分の足で。
  
 *

 乳白色のお湯に浮かぶ立派な毛並みを撫でながら、私は考える。ここで働くようになってから、どのくらいの人数を寝かしつけてきたんだろう。お湯の温度も、手の力の入れ具合も、もう体が勝手に覚えている。

 泡を流して、毛皮を乾かして。
 そうして誰かが穏やかな寝息を立てるたび、手を出されなかったことに安堵する自分がいる。けれど同時に、求められている仕事を果たせていない気がして、胸が痛んだ。

 客が眠りに落ちる瞬間の顔は、時々、病室の最後に重なった。昔の癖が抜けていないのかもしれない。本来なら、夜は安らぎの瞬間なのに、どうしてか少し怖い。
「……おやすみなさい」
 懺悔に似た気持ちで呟き、背中をブラシで梳かす。大柄な熊は、喉を鳴らして眠りに落ちていった。

 *
 
 客の毛並みは、だいたい3パターンに分かれる。
 ふわふわでお湯をよく含むタイプ、ツヤツヤで水を弾くタイプ、それから、埃や汚れと一緒に絡まったままのタイプ。

 今日のお客は、3つ目のタイプだった。

「悪りぃ。つい、抱きしめたくなんだよな。お前の肌、あまりにも毛がなさ過ぎて……たまらん」

 背中を洗い終えたところで、熊の獣人がそう呟いた。ゆっくり振り返って、湯気の中で腕を広げる。

「いいですよ? 抱きしめてください」
 そう言いながら近づけば、熊の獣人は胸元へ私をすっぽりとしまうように抱きしめた。しっかり濡れた鼻先が私の首筋に触れ、ひんやりした触感に身体が跳ねた。

 この世界に来てから、こういう反応をされることにもだいぶ慣れた。誰かを抱きしめると落ち着くのは、きっと人間も獣人も同じなんだろう。
 
「はぁ、ほんと落ち着く。なんなんだよお前……」
「抱きしめて、撫でてるだけなんですけどね」
「それでも体が軽くなんだ……寝ちまいそうだわ」

 そういったまま、乾かしている間に本当に寝てしまうのも、いつものパターン。

 ふわふわに膨らんだ毛並みを撫でながら、私は考える。
 本当はこの体を使って”その先まで”するのが、この店で与えられた仕事だ。それでも、みんな私の手に撫でられて、途中で眠ってしまう。

 申し訳ないと思う反面――このままずっと、眠らせるだけで済めばいいのに、なんて思ってしまう。
 
 *

 その熊の客は、何度か通ううちに名前を名乗ってくれた。

「俺はボルト、軍の第一連隊所属だ。お前の名前は――何だけっけか」
「私は……世間では、やわはだ嬢って呼ばれてるみたいですけど」
「っはは! 悪いが俺もお前のことはその名前しか知らん。軍でも、そう呼ばれてるしな」
「軍……でも?」
「ああ。”軍でも”」

 いつもふざけて笑わせてくる熊の真剣さとは程遠い言葉のトーンで、ボルトは小さく続けた。

「そんな眠りのやわはだ嬢に、今日は1つお願いがあってだな……その、俺のとこの隊長を……寝かしつけてはくれねぇか」
  
 この街は戦地に近く、軍関係者の利用が多い。終戦したとはいえ、まだあちこちに疲弊した兵士たちの姿がある。変に気分が昂ると眠れなくなることは私にもわかる。この店が繁盛しているのも、きっとそのせいだ。

「……隊長さん、ですか」
 そう返すと、熊の軍人は服を整えながら鼻を鳴らした。
「ああ。誰が部屋を覗いても働いてて、ほとんど眠ってねえんだ。それでいて耳がいいもんだから、すぐにビクついてやがる」

 客は、はぁと大きくため息をついて、目を伏せた。肩を落としている様子を見ると、相当心配なんだろう。戦いの話をする兵士は多いけれど、眠れない仲間を気遣う人は初めてで。なんだか少し、興味が湧いた。

「それで、私に……?」
「ああ。”やわはだ嬢”の噂は軍でも有名だ。隊長、戦が終わってからの方が顔色が悪くてな。噂のヒトの手にかかればきっと少しは眠れるんじゃねえかって――そう思ったんだ」
「私で、いいんでしょうか」
「ああ。他の嬢じゃダメなんだよ。……あいつ、静けさが怖いくせに、音にも敏感でな」

 静けさが怖い。
 その言葉に、胸の奥が微かにざわめく。
 この人はきっと――私の何倍も濃い戦場の静けさを知っているんだろう。

「わかりました。全力で、眠らせて見せます」
「助かる。……隊長のこと、頼んだからな」

 彼がそう言って私の上から離れていくと、振り返りもせずに湯殿へ進んでいった。扉の閉まる音が、いつより重く聞こえた。

  軽く笑う彼に合わせて笑ったけれど、胸の奥がざわつく。けれど、断る理由もなかった。

 *
 
  隊長が会いに来るという話は、すぐに店の中に広まった。

「百合ちゃん、やるじゃない。隊長クラスが来るなんてさ」
 猫の同僚――ミアが、尻尾をぱたぱた揺らしながら言う。
「やるって……何をですか」
「なにって、そりゃあ、ねぇ?」

 ミアはわざとらしくウインクして、私の頬を爪でぷにぷにと突いた。

「百合ちゃんの部屋、完全貸切なんでしょ? 一ヶ月分、前払いでって聞いたよ?」
「一ヶ月……?」
「いいよねぇ~。ミアなんてさ、そんな太い客ぜんぜんつかないもん。
 あ、でも軍人相手は大変だよ? 強がって素直に甘えてくれないし、朝まで寝かせてくれないくらいの体力お化けだし」

 彼女は生まれた時からこの店で育っている。
 母親はここの売れっ子で、ミア自身も十六の頃から客を取っていると聞いた。
 外で働くなんて考えは、最初から持っていない子だ。

「あっ、でもね百合ちゃん」
 ミアは不意にこちらを振り向いて、尻尾の先を止めた。
「店の客に恋愛感情を持っちゃダメだよ。
 来なくなったときに“よかった、もう無事なんだ”って笑えるくらいじゃないと……あとで、すごく辛いから」

「恋愛感情なんて、持ちませんよ」
 思わず笑って返すと、ミアは肩をすくめた。
 
「そうだといいね。ミアの知ってる嬢は、みんな最初そう言うけど」
 そういったミアは意味ありげな表情で窓の外を眺めて、尻尾を揺らした。
 
「とにかくさ、隊長さんを癒せるのは百合ちゃんしかいないんだから。百合ちゃんのこと、応援してるね」

 応援というより、面白がっているような顔だったけれど、彼女のいっている言葉を真っ向から否定することはできなかった。

 ――眠れない人を、眠らせる。

 看護師だった頃からやっていたことの延長だ、と言い聞かせる。ただ、今度の相手は戦場帰りの隊長だと言うだけ。そうやって言い聞かせる。

 私なんかが、本当に役に立てるんだろうか。不安の渦に取り込まれないようにできる限りの現実逃避をしながら、私はふかふかのお布団にくるまった。

 *

 噂の軍人の名前は、翌日の私の予約表を独占していた。

 しかし、待てども待てどもくる様子はない。朝から緊張しながら待っていたのに、彼が到着したと告げられたのは日が落ちてからだった。

 扉を開けた途端、張り詰めた空気が漂う。
 何度もお湯を張り直した部屋は、十分しっとりとしていたのに。

 扉の前に立っていたのは、シルバーグレイの毛皮と、鋭い金色の瞳をした狼の獣人だった。
 まっすぐ伸びた背中と、着慣れた様子の軍服。カーキ色のパンツには長時間座っていたシワが寄っていて、艶があるはずの毛皮は鈍くくすんで見えた。

「失礼する」

 低く抑えた声が空気を震わせる。彼は気まずそうに頭を掻いてから、ゆっくりとドアをくぐった。疲労の色は濃く、まるで亡霊のように肩をすくめている。

「はじめまして、百合です」
「……ライガだ」

 ひらひらと薄いベビードールを着ている私に、ライガさんは厳しい視線を送る。眉間には露骨にシワが寄っていて、好印象ではないのだろうなと悟る。
「湯加減を見てきますね。熱いのは大丈夫ですか?」
「構わない」

 答えは短い。
 湯殿に通しても、彼はすぐには服を脱がなかった。
 上着の裾を掴んだまま、しばらく黙って立ち尽くしている。

「お手伝いしましょうか」
「自分でやるからいい」

 小さなため息が、思わず漏れそうになった。
 仕方なく背を向け、こちらだけ先にベビードールを脱ぐ。
 振り返ると、彼は目線を合わせることなく、そっと湯船へと沈んでいった。
 
 *

  兵士は背後から触れられるのを嫌がる。
 ここの客でそれを学んでから、なるべく最初に一言断るようにしていた。

「失礼します。今日は、正面から洗わせていただきますね」

 湯の縁に向かい合って腰を下ろす。桶でお湯をすくい、腕から泡を流していった。
 初めは湯を弾いていた毛並みも、熱めのシャワーで流し続けるうちに、少しずつ湯を含んでいく。

 お湯が毛並みを伝う音が、ひどく澄んで聞こえた。

 顔を上げると、金の瞳がじっとこちらを見ている。まぶたの下には、濃い隈があった。眠れていない人の目だ、とすぐに分かる。

「かゆいところは、ありますか」
「……特には」

 返事とは裏腹に、肩と首の付け根が石のように固くなっている。
 私はその部分の毛玉を梳かしてあげようと、丁寧に泡を馴染ませた。

 肩に触れた瞬間、彼の身体がびくりと震えた。
 その反応に思わず動きを止める。

 ――この人、本当に、眠れていないんだ。

「大丈夫ですよ。ここは戦場じゃありませんから」

 冗談めかして言ってみたものの、声は少し震えていたかもしれない。それでも彼は何も返さず、代わりにゆっくりと息を吐いた。

 泡を流し終え、湯を替える。
 少しずつ強張りが抜けていくのを確かめながら、首筋から耳の後ろを撫でていく。
 やがて、彼の呼吸がわずかに深くなった。

 眠りかけている――そう思った、その時だった。

 バスタオルを取ろうと立ち上がり、手を伸ばした瞬間。
 彼の肩に、私の腕がかすめた。

 大きな体がびくりと震える。
 しまった、と思った時にはもう遅かった。

 反射的に振り向いた彼の瞳は、恐怖で濁っていた。威嚇に近い叫ぶ声と同時に、鋭い痛みが走る。

 スローモーションみたいに世界が歪んで、私の右腕から――赤い滴がぽたりぽたりと落ちていた。

 そこからしばらく、音が消えた。
 沸き立つ湯気の中、痛みと自分の心臓の音だけが響いて、焦燥感を掻き立てる。

 ――そっか。この人はまだ、戦ってるんだ

 腑に落ちた瞬間、胸の奥が静かに熱くなった。
 血の匂いに混乱したのか、傷を作った本人は何度も瞬きをしていた。私の歪んだ顔を見て、はっと息を呑む。次の瞬間には、シャワーで私の腕を洗い流し、タオルで傷口を押さえていた。その大きな手が、かすかに震えていた。

「……すまない。俺は……」

 掠れた声は、シャワーの音に紛れそうなほど小さい。怯えた子供みたいに耳を伏せ、何度も「すまない」と繰り返した。

 痛みよりも、その震えの方が胸に刺さった。右腕を押さえながら、静かに首を横に振る。

「大丈夫ですよ。すぐ、止まりますから」

 口にしてから、ああ、これは昔の口癖だなと思う。今も昔も変わらず、自分に言い聞かせるように”平気”を装う。それでも、言わずにはいられなかった。鼻先をくすぐる血の匂いが、どこか懐かしくすら感じた。

 彼は目を閉じ、しばらくのあいだ息を整えていた。

「……傷つけるつもりはなかった」
「わかってます。大丈夫ですよ」
「ただ、触れられた瞬間、また――」
「思い出したんですね」

 その言葉に、彼の耳がまたぴくりと動く。何かを言いかけて、結局言葉にならないまま、ただ濡れたタイルを見つめていた。

「……本当に、すまないことをした」

 しょげた耳が、昔飼っていた犬に重なって、思わず笑ってしまう。「大丈夫ですから」と笑って毛皮を乾かせば、想像していたよりもずっと艶やかで美しい毛並みが現れた。

 長居するつもりはなかったのか、彼は皺のある軍服を羽織ると静かに礼をして店を出ていった。

 扉の閉まる音が、やけに遠く感じた。
 
 *

 「大丈夫だ」とは言ったものの。
 朝になっても、右腕の痛みはなかなか引いてくれなかった。包帯に変えたばかりの布は、もううっすらと赤く染まっている。手首を動かすたびに、皮膚の奥が引き攣るように痛んだ。

 夜のうちに手当てをしてくれたお婆さんが、私をみるなりため息をつく。

「ったく……軍人相手に怪我をする場なんざ初めてだよ。生きてるかい」
「平気です、かすり傷ですから」
「そりゃ傷の話じゃないよ、心の方さ」

 その言葉があまりにも鋭くて、息が詰まる。乾いた笑いで誤魔化そうとしたけれど、胸の奥に残っていた恐怖は、簡単には消えなかったらしい。

 お婆さんはしばらく私の顔を見るなり、ぽつりと告げた。

「しばらく休みな。傷が癒えるまで、一ヶ月」

「そんな、私大丈夫です。働けます……っ!」
「いーや、あんたの分はもう貰ってんだ。嫌でも休んでもらうよ」
「えっ……?」
「朝イチであの軍人さんが払ってったんだよ。”怪我をさせた分だ”ってさ」

 お婆さんはめんどくさそうにため息をひとつ吐いて、煙管をくわえた。

「うちは一夜の夢を売る狐屋さ。もらった金はビタ一文返さないよ。商人とも客とも、そういう話で合意してんだから。それに、どうせまたすぐ来るらしいんだ……あんたは、金を取り返す方法よりも、あの上客の機嫌を損ねないやり方を一番に考えな」
 
 顔に、お婆さんの吐いた煙がかかる。バニラを感じる甘ったるい匂いは、いつ嗅いだって苦手だ。
 
 結局お婆さんの説得には失敗し、私は寮へと帰された。休めと言われても、胸の奥が落ち着かない。片腕の痛みよりも――あの「すまない」と繰り返す声のほうが、まだ鮮明に脳裏に焼き付いて残っていた。

 それでもふと、どこかでほっとしている自分がいることに気づく。しばらくは誰の肌にも触れなくていいんだと考えてしまった瞬間が、いちばん情けなかった。

 *

 寮の部屋は、昼でも少し薄暗い。
 湯屋のざわめきが聞こえないだけで、こんなにも時間が長く感じるなんて思わなかった。

 包帯の上からそっと右腕を撫でていると、軽いノックが三度。

「百合ちゃーん、ミアだよ。入るね~」

 返事を待つ前に、扉が開いた。
 金色の髪を高い位置で結んだ猫の女の子――ミアが、ひょいっと顔を出す。
 気まぐれに揺れる尻尾が、ご機嫌なのか退屈なのか、いまひとつ読めない。

「聞いたよー。隊長さんにガブっとやられたって?」
「……やられた、って言い方」
「怪我人はちゃんと休みなさいって婆さんが言ってたよ。でもミアからしたら羨ましいな~。一ヶ月分、前払いなんでしょ?」

 ミアは遠慮なくベッドの端に腰を下ろし、私の包帯を覗き込む。

「何もできてないのに、一ヶ月分なんて……申し訳ないな」
「出た、百合ちゃんの“申し訳ない”。それ損するやつだよ~」

 ミアは足をぶらぶらさせながら、ふっくらとした手で自分の尻尾をつついた。

 図星を刺されて、思わず視線を逸らす。ミアはにやりと笑って、急に身を乗り出した。

「で、本題。本当に“何もできてない”の? あの狼さんに」
「……眠らせてあげるつもりだったんだけど、うまくいかなくて。何なら、逆に噛まれちゃって」
「あははっ、それはそれで凄いね。でもさ、一ヶ月分も払ってったんでしょ? それ、どう見てもただの罪滅ぼしにしては太いよ」

「……どういう意味」
「早くも“百合ちゃんに入れ込んでる”って意味。眠れない人はね、一度でも眠らせてくれた人のこと、忘れられないんだ」

 ミアは窓のほうを見て、小さくあくびをした。

「戦の前線から帰ってきた隊長さんでしょ? ああいう人は、静けさがいちばん怖いんだよね」

 それは、どこかで聞いたことのある静けさの話に重なった。病室で、息が止まった後の、あの音のない時間。

「百合ちゃん、次に会ったらさ」
 ミアはベッドから立ち上がり、扉の前で振り返った。
「“眠れましたか”って、聞いてみなよ。それで、その人がどう答えるかで、だいたい分かるから」

 何が、とは聞けなかった。扉が閉まったあとも、しばらくミアの言葉が耳の奥に残っていた。

 *

 数日が過ぎた。

 私が寮でおとなしくしているあいだも、湯屋はいつも通りに回っているらしい。
 時々、廊下で顔を合わせた婆さんがぽつりと言った。

「狼の隊長さん、二日に一度は来てるよ。あんたがいないからって帰るわけじゃないけどね。湯だけ浸かって、“今日はここまでだ”って顔して帰るさ」

 心臓が、どくんと跳ねた。

「私の代わりに、誰かがついているんですか」
「ミアがちょっとだけね。洗って、毛を乾かして、それで終わり。“眠れたかい”って聞いても、“まだだ”ってさ」

 最後の一言が、胸の奥に引っかかった。傷の痛みは、少しずつ和らいできている。なのに、心のほうはますますざわついていくばかりだった。

 *

 一週間ほど経った頃、勘定中のお婆さんに呼び出された。

「右腕、上げてごらん。どこか痛むかい?」
「これくらいなら、もう平気です」

 腕をゆっくり上げて見せると、婆さんはじろりと傷口を見てから頷く。

「ん。……“仕事”は駄目だが、“顔を出す”くらいは許してもいい頃合いだね」
「顔を、出す……?」
「狼の隊長さん、今日も来てるよ。離れで一人、湯に浸かってる。“怪我をさせたお前の様子が知りたい”んだとさ。お前が嫌じゃなければ顔を出してやるといい」

 嬉しい、と言いかけてハッとして、口をつぐむ。お婆さんは見透かしたように忠告を続けた。

「ただし、右腕はあんまり使うんじゃないよ。お前は変に真面目だからね」

 ポンと背中を軽く押され、私は離れの廊下を歩いた。扉の向こうには、きっと、あの金の瞳がいる。気がつけば足は前へ、速度を上げて進んでいる。

 心臓の鼓動が、嫌でも速くなる。私は小さく息を整えてから、静かに扉を叩いた。

「百合です。入ってもいいですか」

 しばしの沈黙のあと、低い声が返ってきた。

「……ああ」

 湯気の向こうで振り向いた狼の瞳は、あの夜よりも少しだけ穏やかに見えた。けれど、その目の下には、まだ濃い隈が残っている。

「その……腕は」
「大したことありません。ほら、もうこのくらいは動きますから」

 そう言って、そっと動かして見せる。彼はほんの少し、眉を寄せた。

「……本来なら、もうここには来るべきじゃないのかもしれない」
「どうしてですか」
「あんたを怪我させたのは俺だ。それでも、ここに来ないと――眠れなくて」

 真っ直ぐな言葉に、喉がきゅっと締め付けられた。

「よく、眠れましたか」

 ミアの言葉を思い出しながら、そっと尋ねる。彼は少しだけ視線を逸らした。

「……まぁ、前よりは」
「それは、ここに来た夜だけ?」
「そうだ」

 短い返事は正直で、どこか子どもみたいだった。

「それなら、明日も来てください」
 気づいた時には、もう口に出していた。
 自分でも驚いて、思わず言葉を継ぐ。
「仕事はまだできませんけど。……そばで話を聞くだけなら、できますから」
 彼はしばらく黙って私を見つめ、それから小さく息を吐いた。
 
「……抱きしめても、いいか」
 唐突な言葉に、胸がどくんと鳴る。けれど、その声はあまりにも弱々しくて、拒めなかった。
「右腕は駄目ですけど。左側なら、どうぞ」

 冗談めかして言うと、彼の耳がわずかに揺れた。
 そっと寝台に腰を下ろすと、彼はゆっくりと手を伸ばし、遠慮がちに私の肩を抱き寄せた。

 少し伸びた前髪が、頬にかかる。胸板に耳を寄せると、早い鼓動が伝わってきた。

 しばらくして、彼はぽつりと続ける。
「静けさが、怖いんだ」
 頭上で、小さく奥歯を噛んだような音がする。
 
「音が消えると、思い出す。部下の顔も、最後に聞いた声も。……助けられなかった奴らのことばかり」
 腕の中で、彼の指先がわずかに震える。
「忘れたいんだがな。目を閉じると、あいつらがまた、死ぬ気がして」
 その言葉があまりにも重苦しくて、私の胸も一緒にぎゅっと抑えつけられたようだった。

「……うちの祖母が言ってました」
 そう言いながら、ふっと昔の光景が浮かぶ。古い団地の一室で、こたつに座って笑う祖母の姿だ。
 
「亡くなった人のことを思い出すたび、その人の背中に羽が生えるんだって。
 思い出してくれる人がいるあいだは、その羽でちゃんと前に進めるんだよ、って」
 
「だから、私はときどき――祖母や、看護師だった頃の患者さんたちのことを思い出します。勝手な慰めかもしれませんけど、そうやって“いってらっしゃい”って背中を押してるつもりで」

 彼の腕の力が、ほんの少しだけ強くなる。

「……そんな話、信じるのか」
「ふふっそうですね。都合よく信じたいだけかもしれませんけど。でも私は、それで何度も励まされたので」

 彼はしばらく何も言わなかった。静けさが、さっきより少し柔らかく感じる。

「……そうだったら、いいよな」

 かすれた声で、彼が呟いた。
 胸板に当てた頬越しに、さっきよりゆっくりした鼓動が伝わる。私は左手で、彼の耳の後ろをそっと撫でた。毛並みの下の温もりが、指先に伝わってくる。

「大丈夫ですよ。あなたが覚えていることは、きっと誰かの支えになってるから」
 私がそう言うと、彼は鼻先で小さく笑った。

 やがて、肩越しに聞こえる息が、少しずつ深く、穏やかになっていく。
 眠りに落ちる人の呼吸だ、とすぐに分かった。

 この夜、彼は初めて、私を抱いたまま、うたた寝をした。
 静けさが怖くなかったと言ってくれる日が、本当に来るのだろうか。

 そんなことを考えながら、私も知らないうちに目を閉じていた。

 *

 それからの一ヶ月、狼の隊長――ライガさんは二日に一度の頻度で通ってきた。

 最初に数回は、私の様子を見るだけだといって、湯に浸かるだけで帰っていった。タオルで乾かすのも、ドライヤーを使うのも、手伝いすら許さないほど、彼は真面目だった。

 戦争の話はあまりしない。代わりに、街の様子や軍の食事、年下の部下たちがかわいいこと。その程度の、どうでもいい話。

 そういう他愛無い話をしている時のライガさんは、少しだけ表情がやわらかくなる。耳も目元も心なしか下がっていて、金色の瞳の鋭さは和らいだ。

「隊長さんってことは、やっぱりお強いんですよね」

 ある夜、ぽろりとそう言ってしまった。
 ずっと、気にはなっていた。

 前線で多くの部下を率いていた人。みんなから、頼られる人。当然、強くないと務まらない。けれど、ライガさんは少し眉を顰めて頭をもたげた。

「……自分だけが強くても意味はない。全ての仲間を助けようと思っても、腕は2本しかない。掴めるものも、引き上げられるのも、たかが知れてる」

 ぽつりと話す声に、水滴の落ちる音が重なる。

「それでも、助けようとしたんですよね」

 そういうと、彼は目を伏せた。長いまつげの影に隠れた瞳から、感情を読み取ることはできない。

「……助けられなかったことばかりだ」
「それでも、覚えているんですね」
「……ああ」

 返事は、それだけで十分だった。
 自分を責める人ほど、他人をよく見ていることを、私は知っている。

 その夜、私達は寝台で朝まで寄り添っていた。本調子ではない私の右腕を、ライガさんは最後まで気遣っていた。

 いつもの場所を撫でていると、やがて呼吸が深くなる。

「……眠っても、いいんだろうか」
「ええ。ここは戦場じゃありませんから」

 そう返すと、彼は微かに笑った。

 *

 残りが一週間ほどになった頃、ライガさんがいつものように部屋へ入ってきた。姿勢はいつも通りスッとしていたけれど、ふさふさの尻尾はなんだか落ち着かない。

「今日は、少し早いですね」

 何かいいことでもあったのかと様子を伺うけれど、知ることはできない。気のせいかなと思いながら彼を見つめれば、ライガさんはポケットから木箱を取り出した。

 差し出された箱は綺麗にラッピングされていて、贈り物のようだった。彼の手のひらに乗るくらいの、淡い色の箱。蓋を開けると、ハーフアップにしたらよく合いそうなバレッタが入っていた。

 春の雲を掴んだような、光を受けてふんわりと透ける白色のリボンが、箱の中央にちょこんと座っている。

「似合いそうだったから。その……深い意味はない」
 そう言いながら、彼の耳は上がったり下がったり。
「ありがとうございます。とっても、素敵です」
 黒髪の上に、この白いリボンが乗るところを想像してみる。
 胸の奥が暖かくて、くすぐったい気持ちになる。

 その夜はリボンをつける勇気が出なくて、箱のまま持ち帰って棚の中央に飾った。

 *

 翌朝、部屋へ遊びにきたミアは一瞬でそのリボンに食いついた。

「百合ちゃん、その箱……なぁに?」
「えっ、あ……その、お客様からいただいて」
「ふぅ~ん」

 ミアはするりと箱へ手を伸ばして、中身を確認する。白いリボンを指先で持ち上げた瞬間、夕陽色の瞳がキュッと細くなった。

「あらぁ。お熱いですねぇ~隊長さん」
「な、何言ってるの」
「百合ちゃんもしかして、この国で女に髪飾りを贈る意味、知らない?」

 嫌な予感がする。まさかと思いながら、必死に首を振る。

「髪飾りを贈る意味は”お前を選ぶ”って、こと。髪はその人の一番近くにある”縄”みたいなものだからね。百合ちゃんは隊長さんに、手綱を掴まれちゃったんだぁ」

 耳元で、心臓がドクンと跳ねる音がする。

「で、でも、あの人は”深い意味はない”って……」
「ふふふ。本当に分かんないまま言ってる? そういう時の“深い意味はない”は大抵、深い意味しかないんだぞ~」
「深い意味……」

 ミアは楽しそうに笑って、リボンを私の頭に乗せた。

「だから、言ったのに」
「えっ」

 一瞬、ミアの顔に影がかかったように見えて、思わず聞き返す。けれど、ミアがそれ以上のことを教えてはくれなかった。
 
「ん~ん、なんでもないっ! 艶々の黒髪に白リボン、映えるねぇ。ほら、百合ちゃんも見てみなよ」

 肩を掴んだミアは、半ば強引に卓上の鏡の方へ私を誘導する。恐る恐る鏡を覗くと、リボンは朝日に照らされて、きらきらと輝いていた。バレッタを載せただけなのに、いつものポニーテールは誰かのために整えた髪のように見える。

「変じゃ、ない?」
「まっさか~! むしろこんなに愛されてるのに、つけて行かないほうが罪。隊長さん、つけてくれなくてがっかりしてたんじゃない?」

 ふんふんと楽しそうに鼻歌を歌うミアを横目に、私は慌ててリボンを外して箱へしまう。
 蓋を閉じても、ミアが帰っても、一度見つけてしまった胸のざわめきは消えなかった。

 翌日も、そのまた次の来店の時も、ミアに言われた言葉が頭から離れず、リボンをつける勇気は湧いてこなかった。ライガさんに会うたびに箱を思い出してしまって、どこかぎこちなくなってしまう。

 私達は、あくまでも仕事とお客様の関係。
 そう言い聞かせて距離を取ろうとしているのに、彼の腕の中の時間は前よりもずっと温かいものになっていたから。

 *

 前払いで受け取った一ヶ月分の、最終日がやってきた。

 朝から落ち着かなくて、掃除も洗濯も全く集中できない。お婆さんが「今日は特に上機嫌で送り出しな」と笑うのを、上の空で聞き流す。

 机の真ん中に鎮座したリボンは、静かにこっちをみているようだった。指先でそっと摘み上げる。細かい金糸の縫い込まれたレースの部分は透かしになっていて、何度見ても心奪われる。バレッタの金具もきちんとした作りで、安物でない事くらいは私にでもわかった。

「……今日くらいは、つけてもいいかな」

 鏡の前に座り、あえてリボンが目立つハーフアップにまとめる。黒い髪の上で、白色が小さく揺れた。

 扉を開けて離れへ入ると、ライガさんはぼんやりと寝台の端に腰掛けていた。扉の音に気づいたのか、こちらを振り向いた途端、金色の瞳が見開かれる。

 一拍遅れて、大きな耳がピンとたった。

「……その髪は」
「この前いただいたっきり、つけられてなかったので……」

 “大事な贈り物なのに、着けているところを見られないなんて可哀想だ”とミアが言っていたし……と心の中で言い訳しながら、リボンをつけた髪を見せる。

 緊張で喉がひりつく。そのまま黙っているのは申し訳なくて、素直に白状しようと決めた。

「実は、その。プレゼントの意味……聞いちゃって」
 彼に伝えてしまえば、もう引き返せない。
「髪飾りを贈るのは、”お前を選ぶ”って意味なんですよね」

 ライガさんは、しばらく何も言わなかった。ドキドキしたまま彼の方を振り向くと、ライガさんの視線が揺れて、ゆっくり、静かに頷いた。

「ああ。……本当はそういう意味で渡した」

 予想していた答えなのに、胸の奥が一気に熱くなる。

「最初は、噂が本当ならただ眠ればいいと思っていた。戦の匂いのしない場所で、少しでも楽になれるならと」

 彼は立ち上がり、私の目の前へ歩いてくる。近くで見ると、シルバーグレイのまつ毛は水滴でキラキラと輝いている。

「いつの間にか、眠ることより――お前に会うことを先に考えるようになっていた。お前の声を聞いて、心臓の音を聞いて。おやすみなさいと声をかけてくれるお前がいて初めて、気持ちが落ち着く」

 言葉一つ一つが、胸に沁みていく。

「……私も、です」
 気づけば、口が勝手に動いていた。
「最初は、ただの仕事だと思っていました。難しいことを頼まれたら、断るつもりでした。でも、あなたが来る日を待つようになってからは、違うんだって気づいたんです」

 喉の奥が、重くて熱い。言葉を発するのがこんなにも苦しい日が来るなんて、想像もしていなかった。それでも、ちゃんと言葉にして伝えたかった。

「怪我をしてから……こんな仕事をしているのに、他の人に触れなくていいんだって喜ぶ私がいて。間の空いた時は、早く会いたいって思いました」

 ライガさんの喉が、ゴクリと動く。
「……百合」
 名前を呼ばれるだけで、全身が痺れるような甘さに囚われる。

 次の瞬間、彼の逞しい腕が私を包んだ。胸元に引き寄せられて、頬が布越しの彼の鼓動に触れる。

 白いリボンを留めた髪が揺れて、解けそうになる。ライガさんの大きな手が、それをそっと押さえた。

「この国は新興国で、この先また戦がないとは限らない。俺は、軍を離れられない。それでも……それでも、お前のそばにいたいと思うのはわがままだろうか」

 耳元にライガさんの低くて優しい声が響く。呟く言葉に迷いはなかった。

「わがままじゃ、ないです」

 腕を回し返して、彼の背中を抱きしめる。もちろんこんな細腕で、届くはずなんてないけれど。戦場で緊張にさらされたはずの背中は、不思議と暖かかった。

「私、この世界で一人で生きていくつもりでした。今はこんな仕事だけど、いつかは誰にも飼われず、自分の足で立っていたいって。でも……一緒に歩いてくれる人がいてもいいのかもしれないって、今は思います」

 少しだけ言葉を探してから、続ける。
「だからどうか、これからも――”おやすみなさい”って、言わせてください」

 ライガさんは、その言葉を否定も肯定もしないまま、私を抱きしめたまま目を閉じた。やがて、ゆっくりと顔を近づけてくる。

 何度か唇が触れるうちにリボンは解け、黒髪が絹糸のようにたらりと流れ落ちた。

 *

 朝、目を開けると、窓の隙間から淡い光が差し込んでいた。

 寝台の上で、私はライガさんの腕の中にいた。彼に胸に頬を押し当てるように、ぴったりとくっついている。目を閉じたままの彼の片腕は、私の左肩を抱きしめていた。

「……おはようございます」

 小さく囁くと、彼はゆっくりと目を開いた。金の瞳が、まだ眠たそうに細められる。

「……起こしちゃいましたか?」
「いや、ぼんやりと起きたところだ」
「じゃあ、少しは眠れたんですね」
「ああ。久しぶりに、何も見なかった」

 その言葉だけで、胸がいっぱいになる。視線を落とすと、寝台の脇の小さな机の上に、あの白いリボンが置かれていた。

「似合っていた」
 短い言葉に、顔が熱くなる。
「――お腹、空きましたね」

 話題を変えるように言うと、彼は少しだけ笑った。

「……今日は久しぶりに1日休みなんだ。よければ、この街を案内しよう」
「案内、ですか」

 この店から飛んだり、駆け落ちしたりしようとする娘が絶えないから、寮がある。私達はあくまでも商品で、人らしい生活は望めない。私ももちろん例外ではなく、街の様子なんて見たことがなかった。
 
「一人では出歩けないと聞いたから……狐の婆の許可なら貰っている」
「俺の守ってきたこの街を、百合に知って欲しいんだ」

 その言い方が、なんだか嬉しかった。

「じゃあ……美味しいパン屋さんに行きたいです。時々、ライガさんから漂うパンの匂いがずっと気になってて」
「パン? あぁ、軍部の購買のやつか。案内してやる」
「購買なんてあるんですね! いいなぁ」

 数日前のぎこちなかった私達には、もう戻らない。寝台から起き上がって、ヘッドボードにかけられたバスタオルを羽織る。立ち上がってリボンを手に取ると、ライガさんが器用に私の髪へ付け直してくれた。

「今度は解けないように、しっかり着けておいてくれよ」

 この世界へ来て、やわはだ嬢と呼ばれ。

 私が、皆を癒していると思っていた。
 眠れない誰かを安心させるのが、役割だと信じていた。けれど、救われていたのは私の方だったのかもしれない。

 そう気づいた時、私たちの胸の奥の静けさはもう怖くなかった。
 彼の隣で歩く未来をそっと思い描きながら、リボンは光り輝いていた。
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