樹海暮らしの薬屋リヒト

高崎閏

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第1章

閑話 樹海暮らし1

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※本編とは時間軸が異なります。
※シキと出会う前のリヒトの話。


 リヒトの朝は暗闇から始まる。

 夜も明けない内にフッと目が覚め、ベッドサイドのランプを灯して身支度を始める。この習慣が根付いてから幾分ほど時が経ったかは覚えていないが、随分と昔から、それこそシンハ樹海に移住する前からの習慣だった。

 寝間着から普段着に着替えたら、窓の向こうの景色を眺める。うっすらと闇の中に木立が浮かび上がり、霧がかかった景色だが空は白み始めているので夜明けまであと数刻といったところだ。
 空は晴れているようなので、一旦二階の居室から一階に降りて、エントランス脇に置いてある小さな桶を片手にリヒトは庭へと出た。

 雨さえ降っていなければ、庭にある井戸で湧き水を汲み上げ、顔を洗う。雪が降る季節でも不思議と水温の変わらないこの井戸は、古い付き合いの友人――レイセルがガミガミと文句を言いながら設計して、製作してくれたのだ。

 やれ水場の無い場所に家を建てる不届き者め、とか、此処だと森が深いからもっと樹海の外周寄りにしろ、だとか、なんでこんな辺境に家を建てるんだ馬鹿者が、とか散々この森に引っ越す時にも文句を言われたが、家や井戸、そして庭までも彼が協力してくれたからこそ実現した。

 一生彼には頭が上がらないが、感謝を伝えると、お前が右往左往する様が目障りだっただけだ、とぺしりと言い返されてしまった。不器用な彼の優しさだと思って甘んじて受け入れることにする。

 おそらく家周辺のそこかしこに魔道具を仕込まれているのだろう、庭の土は常に芽吹きの季節のような温かさがあったし、森の中と家の周辺とでは感じる風の温度がまったく違うのだった。

 あとはもちろん家の中も工夫が凝らされている。たとえば調理場には保冷庫がどどんと鎮座しており、その棚の一部は空間魔法の一種である時間経過を止める棚もあり、これはしっかりと活用しなければ逆に叱咤が飛んでくることを悟った。

 湯浴みの部屋も湯桶や蛇口(どうやら温度が調整できる)、内装までも手の込んだ作りで、これは平民が住む家ではなくなったなぁ、とリヒトは遠い目をしたほどだ。

 井戸水で顔を洗ったら、一通り前庭の薬草園を見て回る。解熱、鎮痛効果のあるもの、軟膏のもとになるものなど、常備薬として欠かせない種類の薬のための薬草たちを育てている。一見すると草が伸び放題に見えるこの場所は、リヒトにとっては一つ一つ丹精込めて育ててきた薬草たちだ。

 虫食いは無いか、枯れたり、根腐れを起こしてないか、葉の一つ一つを丁寧に見て回る。

 一通り見て回り、問題がなさそうであれば、汲み上げた井戸水を如雨露に入れて、水遣りを行う。水遣りのあとは、伸び切った薬草を必要な分だけ手で摘み、摘んだばかりの薬草をウッドデッキで日干しにする。今日採取したものたちは乾燥が済んだら粉末状にするものなので、天気が良いうちにしっかりと水分を飛ばしておきたい。

 採取が終わって、薬草を日干しさせるために広げたら、森の中の家にも陽の光が差し込む時間になる。

 屈んでいた体勢からぐいっと大きく伸びをすると、リヒトは庭での作業を終えて家の中へと入る。

 うっかり作業に没頭すると忘れがちになる朝食の時間だ。

 調理場に立ったリヒトはひとまず保冷庫の中の整理も兼ねて、古くなりそうな野菜や加工肉から適当に見繕う。今日は葉物野菜と茸を幾つか使ってスープを作る。肉の腸詰は軽く火で炙っておく。あとはパンもついでに火で温めて、腸詰と共にお皿に乗せる。

 テーブルに朝食を並べていざ食べよう、という時に窓の外にカエルラウェスが飛んできていた。

 そっと窓を開け、小鳥を迎え入れる。手紙を運んで来たわけではないようだ。お腹が空いていたようで、いつも彼らのために用意している小皿に乗せたベリーや小さな木の実を啄んでいる。窓辺で餌を食む小鳥を眺めながら、リヒトは朝食を楽しんだ。

 朝食を終えたリヒトは薬草の保管室のデスクの上に一枚の紙を広げていた。ある地点を中心として、いくつか目安となるような地点が記入されている。

 これはリヒトがこの樹海に暮らし始めてから自力で作った簡易的な地図だった。おおよその方角と位置を歩数で割り出し、樹海で採取できた薬草を記してきた。記載数がかなりの量になってきたそれは、薬の依頼が来た時に重宝している。

 広大なシンハ樹海をあてどもなく彷徨うのは骨が折れてしまうので、ある程度の採取場所を目安として記入している。

「今日はこの辺りに行ってみようかな」

 時間はたっぷりある。まぁ、なるべく陽の高い内に帰宅はしたいので、そこまで遠出はしないつもりだ。

 探索があまりできていない箇所を目標に、樹海に繰り出すことにしたリヒトは準備のために動き始めた。

 昼餉用にと香草パンと干し肉を布で包み、ユレの蜜煮は甘味として小瓶に小分けにして入れた。愛用している鞄に採取用の袋や鋏、小瓶などをいくつか入れ、昼餉も入れたら準備は万端だ。

 戸の鍵を掛けたリヒトは軽い足取りで森へと歩き始めた。

 まだ朝の時間ではあるが、針葉樹が密に連なる樹海の中は薄暗い。季節は実りの盛りの頃だが、森の中の空気はひんやりとしている。シンハ樹海は常緑の木々が多いためか、赤や黄色に色づく葉は少ないように感じた。名所ならば今の時分は色付いた木々が美しいことだろう。

 鼻歌交じりに樹海を進む。道中、常備薬として使えるクルコスやケピタを見掛けたのでついでに採取していく。

 今日は特に魔獣と遭遇することなく進んで来られたが、どうやら後ろから着いてきてくれた「彼」のお陰だったようだ。

「おや、こんにちは、『隣人』さん」

 銀色の毛並みが美しい一角獣がリヒトの後ろから歩み寄り、すっと横についてくれた。

 彼ら――モノケロースは非常に義理堅い魔獣だった。

 罠に囚われた仲間を、たまたま居合わせたリヒトが助け、介抱までしたことにずっと恩義を感じているようだった。

 この森で魔獣の頂点に立つモノケロースがリヒトの側にいることで、他の魔獣たちから襲撃されることがほとんど無くなった。それこそモノケロースと出会う前までは獰猛な獣から身を隠しつつ、どうにかやり過ごしていたので、相手側から避けてもらえるのは非常に助かった。

 リヒトは戦闘能力はほとんど皆無だ。料理用の包丁は扱えるが、剣や槍など以ての外、筋力不足すぎて弓も扱えるかどうか。せめて護身程度の武術は身につけておかなければ、と思ったこともあるが、師範役から匙を投げられてしまった。

 要するに、適正なし、と判断された。もともと争いは好まない性分だったので、仕方ないとそれ以外の方法で身を守る術を身につけた。

 例えば目眩しだったり、身を隠す術だったりそういう逃走能力だ。争いごとさえ避けてしまえば問題ない。巻き込まれたのならそれはそれで運命だと諦めるだけだ。

 この話をレイセルにしたら、護身の術すら無いお前が樹海で暮らせるわけが無い、諦めろ、と何度も怒ってきたのが懐かしい。

 友人の顔が浮かび、そういえば最近文を送ってなかったと思い出したので、帰宅したら一筆とろうとリヒトは決めた。返事は無いだろうが、生存報告はしておくべきだろう。

 しばし思案に耽っていたリヒトの鞄を隣を歩くモノケロースが鼻先でつついてくる。

「ふふ、ユレの実に気づいたのかい?」

 ぶるん、と嘶くモノケロースはリヒトがカバンの中にユレの実を入れていることを見抜いていた。
 ユレの実はカミユレの花の実で、実のまま食べると非常に酸味が強い。ただその花の芳香は非常に甘く、まるでその実でさえも熟した果実のように甘いと思わせる香りなのだ。生ではとてもでは無いが食べることはできない。

 ただ、糖蜜と合わせて火を通すとその香りの通りの甘い実にかわる。それ以外にも実を発酵させれば芳しい美酒にもなるため、ユレの実は非常に価値のある果実だ。

 芽吹きの季節にカミユレの花が咲き、花が散ったあとに実が採取できる。シンハ樹海ではカミユレの木の群生地があるため、毎年リヒトはマギユラに卸す分も含めて採取していた。

 モノケロースにユレの蜜煮を差し出すついでに、リヒトも昼餉にすることにした。

 さくさくと進んできたお陰で、あまり疲れてはいないが陽もだいぶ高い位置になっていたようだ。

 丁度小川が近くにあったので、飲水も確保しつつ、倒木に腰掛けてパンを食んだ。

 モノケロースは上機嫌な様子で蜜煮を食べる。彼らは非常にこの蜜煮を好んでいた。

「また芽吹きの季節になったら実を採りに行くから、そのときはまたよろしく頼むよ」

 モノケロースと出会ってから、ユレの実の採取をしたあとの荷運びを手伝ってもらっている。ユレの実は手のひらにころりと収まる程度の大きさだが、袋に一杯採るとかなりの重量になる。彼らに出会う前まではカミユレの木の群生地から家を何度も往復していたが、随分骨が折れたものだ。

「いつも本当にありがとう、また来年も蜜煮を作るからね」

 ブルルと上機嫌に嘶いていることから、任せろ、とでも言っているのか、モノケロースはまた新たに一つユレの蜜煮を催促してきたので、リヒトは、はいはい、と実を差し出すのだった。
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