1 / 13
いつもの日常
しおりを挟む
「ここはこうすれば、ほら簡単に――ってはあ?! なんでそうなるのよ! 私の威厳を返せ! イゲーン!!」
イヤホンから聞こえるさすまたの悲痛な叫びに、俺は思わず吹き出しそうになった。
相変わらず面白いな、この人……妹が見てたのをきっかけに見始めたけど、今じゃすっかりハマってる。ボイスチェンジャーで変えた声が、ゲームオーバーの度に裏返るのが堪らない。
こんな時間からVTuberの配信見てる場合じゃないんだけどな。
「ちょっと、そこ邪魔なんだけど」
背後から冷たい声が降ってきた。
「あ、悪い」
慌てて道を譲る。立っていたのは俺の妹――涼香だった。いつも通りの仏頂面で、俺を見る目は完全に汚物を見るそれだ。
「また変なエロ動画でも見てんの? キモイよ」
「どうしてそうなる。これはVTuberのゲーム配信だっつーの。お前にはこのVTuberの魅力が分からないようだな」
「……はあ」
涼香は深いため息をついた。
「お兄ちゃん、それだから私よりも学力低いし、見た目も悪いし、モテないし、恋人もいないんだよ」
ぐさぐさと心に刺さる言葉のナイフ。相変わらず容赦ない。
京極涼香(きょうごく・すずか)――成績優秀、容姿端麗、人望あり、生徒会役員。完璧超人な俺の自慢の妹だ。
一方の俺、京極健星(きょうごく・けんせい)――成績はそこそこ優秀、容姿は並み、友達少数。わが妹に嫌悪される、自慢の兄である【悪い意味で】。
「それじゃあ、私先に行くから。遅刻しないでよ」
「はいはい、分かってるよ」
涼香が足早に玄関へ消えていく。俺はその背中を見送りながら、再びスマホに視線を落とした。
よし、今日こそはさすまたの配信開始に間に合うぞ。
アプリを開きながら歩いていると、学校前の交差点で見慣れた姿を見つけた。
「あ、おはよ! 京極くん」
「おはよう、佳澄」
不知火佳澄(しらぬい・かすみ)――俺の幼馴染で、保育園からの付き合いだ。ふんわりとした雰囲気の女の子で、いつもマイペース。癒し系というやつだ。
「さっき妹さん見かけたよ。追いかけなくていいの?」
「あいつは俺のこと嫌いみたいだからいいよ……」
「え~、私はそうは見えないかな~?」
「いや、絶対嫌われてる。俺が風呂に入れば『なに私より早く入ってんの? 死ねよ』、俺がテレビを見れば『お兄ちゃんが見る番組、センスないよね。死ねばいいのに』。普通に顔を合わせただけで『死ね』だぞ?」
「うーん、それは確かに大変だね~」
佳澄は首を傾げながら、困ったように笑う。
「まぁ、俺にはさすまたという神VTuberがいるから、特に傷ついたりしないけどな!」
「うーん、それって俗に言う強がり? かな」
図星を突かれて、俺は何も言い返せなかった。
ちょうどその時、信号が青に変わる。
「じゃ、行こっか」
「ああ」
俺たちは横断歩道を渡り、学校へと向かった。
※
校門をくぐれば早速と言わんばかりに、妹の涼香が周囲の生徒に囲まれていた。
家では俺に冷たい妹だが、外では完璧な才女として振る舞っている。
なんだよそれ、どこかの令嬢かよ。
周りの生徒らは親しげに涼香と話している。
無限に慕われ続けている妹と、それに値しない俺……相変わらず劣等感が心にくるな。
「お! 健星じゃねぇか!」
遠くから駆け寄ってきたのは、俺の数少ない友達の1人である桐原優作(きりはら・ゆうさく)だった。
優作は俺を見るなり、前方でファンに囲まれている涼香の方に視線を向ける。
「相変わらず、お前の妹スゲェな。ありゃほとんどがファンクラブの連中とかだろ」
「……だろうな、アイツは俺より出来てる――いや出来すぎた妹だからな」
「――てか! それより昨日のさすまたの配信見たか!?」
「ああ見た! やっぱり面白かった。俺もさすまたみたいな友達が欲しいぜ」
俺と優作がさすまたの話題に熱中していた時、隣にいた不知火は苦笑いをしていた。
「相変わらず2人は仲がいいね。私もさすまたさん見てみようかな」
不知火がその言葉を漏らした時、俺は思わず声を上げた。
「そうかそうか! じゃあ今日の昼休みに俺のオススメ配信を全部教えてやるよ!」
「あはは、そこまで熱心にならなくていいよ京極くん」
※ ※ ※
教室に入ると、窓際の席に座る涼香と目が合った。涼香はすぐに視線を逸らし、友人と談笑し始める。
相変わらずだな……。
授業が始まり、昼休みになり、午後の授業も淡々と過ぎていく。体育の時間、俺がシュートを決めた時、ふと見ると女子たちの中に涼香の姿があった。こっちを見ていた気がしたが、すぐに友人と話し始める。
……見てた、のか?
放課後、廊下で生徒会室から出てきた涼香とすれ違った。一瞬、目が合う。でも、お互い何も言わずに、そのまますれ違った。
いつも通りの、俺たちだ。
※ ※ ※
家に帰ってすぐに俺は自室へと駆け込んだ。
ベッドに飛び込みながらスマホを開く。配信アプリを立ち上げて、時計を確認する。
よし! さすまたの配信開始まであと10分ある!
余裕ができたところで、俺は喉の渇きを覚えた。1階にお茶を飲みに行くか。
部屋を出て階段へ向かおうとした瞬間、目の前にピンクのパーカーと短パン姿の涼香が現れた。いつもの制服姿と違って、妙に子供っぽい。黒縁の眼鏡をかけているのも珍しい。
「帰ってたんだ」
「まぁね」
涼香は俺を一瞥すると、紙切れを突き出してきた。
「今日も私の部屋に入るの禁止ね。それと、私と話したいならこの時間帯は声かけちゃダメだから」
受け取った紙には、細かい時間割と『話しかけていい時間』『絶対NG時間』が色分けして書かれていた。几帳面というか、なんというか……。
「はいはい、了解」
「……ねぇ、お兄ちゃん」
階段へ向かおうとした俺を、涼香の声が引き止める。
「なんだよ」
「……いや、なんでもない」
「そうかよ」
何か言いたげな表情だったが、深く考えないことにした。俺は1階へ降りて、冷蔵庫から麦茶を取り出して一気に飲み干す。
時計を見る。配信開始まであと5分。
よし、部屋に戻って勉強でもするか。テストも近いし、ちょうどいい。
自室に戻った俺は、机に勉強道具を広げた。イヤホンをつけてアプリを開く。配信が始まるのを待ちながら、数学の問題集を開く。
「はいどもー! さすまたデース! 今回配信するゲームは――」
耳に心地よい声が流れ込んでくる。
ペンを走らせながら、さすまたの配信を聞く。最高の勉強環境だ。ゲームの効果音と、さすまたの実況が程よいBGMになる。
それから50分ほど経った頃、下から母親の声が聞こえてきた。
「健星ー! ご飯よー!」
もう晩御飯の時間か。俺は配信を止めて、イヤホンを外した。
部屋を出て階段へ向かおうとした時、ふと思った。
涼香にも一応、ご飯ができたこと伝えるか。
俺は階段に背を向けて、涼香の部屋のドアをノックした。
コンコン。
……返事がない。相変わらず俺は嫌われているようだ。まぁ、いつものことか。
それでも一応、と思ってドアノブに手をかける。
「おい、涼香。飯できて――は?」
開いたドアの向こうに広がっていた光景に、俺は言葉を失った。
そこは、女子高生の部屋とは思えない空間だった。
机の上には大きなモニターが二つ。マイクスタンドに高性能そうなマイク。リングライト。配線だらけの機材の数々。壁には防音材らしきものまで貼られている。まるでプロのVTuberの――いや、まさに配信スタジオだ。
そして、その机に向かっているのは――涼香だった。
こちらに気づいていないのか、涼香はモニターを睨みながら、何かブツブツと呟いている。手元のコントローラーを激しく操作している。その横顔は真剣そのものだ。
涼香、ゲームしてるのか……。
昔はよく一緒に遊んだな。あの頃は楽しかった。涼香が「もうゲーム飽きた」って言い出してから、一緒にプレイすることもなくなったけど。
懐かしさを覚えながら、俺は涼香の背後へと静かに近づいた。
「なぁ、涼香――ッ!」
そこで俺は、二度目の硬直を味わうことになった。
涼香の前のモニターに映っているのは、ゲーム画面だけじゃない。その隣のモニターには――配信画面。コメント欄が猛スピードで流れている。視聴者数の表示。スーパーチャットの通知音。
そして画面の中央には、ピンク色のツインテールに猫耳を模したヘッドセットをつけた少女のアバター。可愛らしいデフォルメされたイラストが、涼香の声に合わせて口を動かし、表情を変えている。
待て、待て待て。
涼香が……VTuberとして配信してる?
あの、完璧優等生の涼香が?
困惑する頭で、俺はモニターの配信画面を凝視した。
そこに映っていたのは――見覚えのあるレイアウト。見覚えのあるアバター。見覚えのある画面構成。
ピンク色の「さすまた」というハンドルネーム。
あの独特なフォント。
あの見慣れた背景画像。
そして、あの可愛らしいキャラクターデザイン。
それは、俺が毎日見ている『さすまた』の配信画面と、完全に一致していた。
え……? なんで? なんで涼香が、さすまたと同じ画面で……?
いや、違う。
これは「同じ画面」なんかじゃない。
これが『さすまた』の配信そのものなんだ。
涼香の動きに合わせて、画面の中のアバターが同じように動いている。
脳が追いつかない。理解が拒否する。心臓の鼓動が早くなる。
画面の隅に表示されている視聴者数――3万2千人。
流れるコメント欄。
『さすまたさん頑張れ!』
『この面クリアできるかな?』
『スパチャ読んでくれて、ありがとうございます!』
全部、リアルタイムだ。
全部、今この瞬間の配信だ。
そして涼香は――。
俺は咄嗟に涼香の肩に手を置こうとした――その瞬間だった。
「クソ! なんでここでゲームオーバーになるのよ!! 私の威厳を返せ! ファーック――ッ!?」
涼香が叫びながら振り返った。
その声は――間違いなく、いつも俺が聞いている『さすまた』の声だった。
ボイスチェンジャーを通した、あの声。
あの口調。
あの言い回し。
全部、全部一致している。
そして画面の中のアバターも、涼香の動きに合わせて驚いた表情で振り向いた。
「「あ……」」
時が止まった。
涼香と目が合う。涼香の目が、見開かれる。顔がみるみる赤くなっていく。
俺の視線が、涼香の首元に巻かれたマイクに向く。
涼香の視線が、ドアの方――俺に向く。
数秒間、永遠のように感じる沈黙。
そして――。
「涼香……お前、これは一体どういう状況だ?」
声が震えている。
「な、なんでお前が……さすまた、なんだよ……?」
動揺が隠せない。というか、隠す余裕すらない。
一方、涼香は完全に固まっていた。まるで時間が止まったマネキンのように。顔は真っ赤で、唇が小刻みに震えている。
モニターからは、まだコメントが流れ続けている。
『さすまたさん? どうしたの?』
『固まってるwww』
『まさか回線落ち?』
数秒の沈黙が、何分にも感じられた。
そして、我に返った涼香は――。
信じられない速さで、パソコンに挿さっていたマイクのケーブルを引き抜いた。
ブチッ、という音。
次の瞬間、涼香はキーボードを叩き、配信画面を一瞬で『休憩中』に切り替えた。画面の中のアバターも、「少々お待ちください」という文字と共に静止した。その手際の良さは、まさにプロのそれだった。
「……」
涼香はゆっくりと椅子を回転させ、俺の方を向いた。
その表情は――怒りと、困惑と、恥ずかしさが入り混じった、複雑なものだった。
「……なんで私の部屋にいるの?」
低い、怖いくらいに低い声。鋭い眼光で俺を睨みつけてくる。
「だって、お前……」
「ノックした? 返事しなかったでしょ? なのになんで入ってきたの?」
「ご飯できたって伝えようと……」
「お兄ちゃん……」
涼香は深く、深く息を吸い込んだ。
「お前……まさか、本当に……?」
俺の声が震える。
「……そうだよ」
涼香は観念したように、小さく息を吐いた。
「私、さすまた、って名前で配信してるVTuberだけど」
その言葉は、まるで爆弾のように俺の脳内で炸裂した。
俺の妹――いや義妹が、俺に隠れてVTuberとして活動していた。
しかも、俺が毎日欠かさず視聴して、スーパーチャットまで投げて、「神VTuber」とまで言っていた、あの『さすまた』として。
「嘘だろ……」
俺は呟いた。
「じゃあ、昨日の配信も……一昨日の配信も……全部……」
「全部、私だけど」
涼香は顔を背けながら言った。
「お兄ちゃんが毎日見てるのも知ってた。コメントしてるのも知ってた。スーパーチャット投げてるのも……全部知ってた」
「なんで……なんで教えてくれなかったんだよ」
「教えられるわけないでしょ!」
涼香が声を荒げた。
「お兄ちゃんがあんなに楽しそうに配信見てて、私のこと褒めちぎってて……『さすまたさん最高!』とか『今日も面白かった!』とか……」
涼香の声が段々小さくなっていく。
「……言えるわけないじゃん」
世界が、ぐるりと回った気がした。
俺が毎日見ていたVTuber。
俺が毎日応援していた『さすまた』。
それが、俺を毎日「死ね」と罵る義妹だったなんて。
これは、夢なんじゃないか。
そう思いたかった。
イヤホンから聞こえるさすまたの悲痛な叫びに、俺は思わず吹き出しそうになった。
相変わらず面白いな、この人……妹が見てたのをきっかけに見始めたけど、今じゃすっかりハマってる。ボイスチェンジャーで変えた声が、ゲームオーバーの度に裏返るのが堪らない。
こんな時間からVTuberの配信見てる場合じゃないんだけどな。
「ちょっと、そこ邪魔なんだけど」
背後から冷たい声が降ってきた。
「あ、悪い」
慌てて道を譲る。立っていたのは俺の妹――涼香だった。いつも通りの仏頂面で、俺を見る目は完全に汚物を見るそれだ。
「また変なエロ動画でも見てんの? キモイよ」
「どうしてそうなる。これはVTuberのゲーム配信だっつーの。お前にはこのVTuberの魅力が分からないようだな」
「……はあ」
涼香は深いため息をついた。
「お兄ちゃん、それだから私よりも学力低いし、見た目も悪いし、モテないし、恋人もいないんだよ」
ぐさぐさと心に刺さる言葉のナイフ。相変わらず容赦ない。
京極涼香(きょうごく・すずか)――成績優秀、容姿端麗、人望あり、生徒会役員。完璧超人な俺の自慢の妹だ。
一方の俺、京極健星(きょうごく・けんせい)――成績はそこそこ優秀、容姿は並み、友達少数。わが妹に嫌悪される、自慢の兄である【悪い意味で】。
「それじゃあ、私先に行くから。遅刻しないでよ」
「はいはい、分かってるよ」
涼香が足早に玄関へ消えていく。俺はその背中を見送りながら、再びスマホに視線を落とした。
よし、今日こそはさすまたの配信開始に間に合うぞ。
アプリを開きながら歩いていると、学校前の交差点で見慣れた姿を見つけた。
「あ、おはよ! 京極くん」
「おはよう、佳澄」
不知火佳澄(しらぬい・かすみ)――俺の幼馴染で、保育園からの付き合いだ。ふんわりとした雰囲気の女の子で、いつもマイペース。癒し系というやつだ。
「さっき妹さん見かけたよ。追いかけなくていいの?」
「あいつは俺のこと嫌いみたいだからいいよ……」
「え~、私はそうは見えないかな~?」
「いや、絶対嫌われてる。俺が風呂に入れば『なに私より早く入ってんの? 死ねよ』、俺がテレビを見れば『お兄ちゃんが見る番組、センスないよね。死ねばいいのに』。普通に顔を合わせただけで『死ね』だぞ?」
「うーん、それは確かに大変だね~」
佳澄は首を傾げながら、困ったように笑う。
「まぁ、俺にはさすまたという神VTuberがいるから、特に傷ついたりしないけどな!」
「うーん、それって俗に言う強がり? かな」
図星を突かれて、俺は何も言い返せなかった。
ちょうどその時、信号が青に変わる。
「じゃ、行こっか」
「ああ」
俺たちは横断歩道を渡り、学校へと向かった。
※
校門をくぐれば早速と言わんばかりに、妹の涼香が周囲の生徒に囲まれていた。
家では俺に冷たい妹だが、外では完璧な才女として振る舞っている。
なんだよそれ、どこかの令嬢かよ。
周りの生徒らは親しげに涼香と話している。
無限に慕われ続けている妹と、それに値しない俺……相変わらず劣等感が心にくるな。
「お! 健星じゃねぇか!」
遠くから駆け寄ってきたのは、俺の数少ない友達の1人である桐原優作(きりはら・ゆうさく)だった。
優作は俺を見るなり、前方でファンに囲まれている涼香の方に視線を向ける。
「相変わらず、お前の妹スゲェな。ありゃほとんどがファンクラブの連中とかだろ」
「……だろうな、アイツは俺より出来てる――いや出来すぎた妹だからな」
「――てか! それより昨日のさすまたの配信見たか!?」
「ああ見た! やっぱり面白かった。俺もさすまたみたいな友達が欲しいぜ」
俺と優作がさすまたの話題に熱中していた時、隣にいた不知火は苦笑いをしていた。
「相変わらず2人は仲がいいね。私もさすまたさん見てみようかな」
不知火がその言葉を漏らした時、俺は思わず声を上げた。
「そうかそうか! じゃあ今日の昼休みに俺のオススメ配信を全部教えてやるよ!」
「あはは、そこまで熱心にならなくていいよ京極くん」
※ ※ ※
教室に入ると、窓際の席に座る涼香と目が合った。涼香はすぐに視線を逸らし、友人と談笑し始める。
相変わらずだな……。
授業が始まり、昼休みになり、午後の授業も淡々と過ぎていく。体育の時間、俺がシュートを決めた時、ふと見ると女子たちの中に涼香の姿があった。こっちを見ていた気がしたが、すぐに友人と話し始める。
……見てた、のか?
放課後、廊下で生徒会室から出てきた涼香とすれ違った。一瞬、目が合う。でも、お互い何も言わずに、そのまますれ違った。
いつも通りの、俺たちだ。
※ ※ ※
家に帰ってすぐに俺は自室へと駆け込んだ。
ベッドに飛び込みながらスマホを開く。配信アプリを立ち上げて、時計を確認する。
よし! さすまたの配信開始まであと10分ある!
余裕ができたところで、俺は喉の渇きを覚えた。1階にお茶を飲みに行くか。
部屋を出て階段へ向かおうとした瞬間、目の前にピンクのパーカーと短パン姿の涼香が現れた。いつもの制服姿と違って、妙に子供っぽい。黒縁の眼鏡をかけているのも珍しい。
「帰ってたんだ」
「まぁね」
涼香は俺を一瞥すると、紙切れを突き出してきた。
「今日も私の部屋に入るの禁止ね。それと、私と話したいならこの時間帯は声かけちゃダメだから」
受け取った紙には、細かい時間割と『話しかけていい時間』『絶対NG時間』が色分けして書かれていた。几帳面というか、なんというか……。
「はいはい、了解」
「……ねぇ、お兄ちゃん」
階段へ向かおうとした俺を、涼香の声が引き止める。
「なんだよ」
「……いや、なんでもない」
「そうかよ」
何か言いたげな表情だったが、深く考えないことにした。俺は1階へ降りて、冷蔵庫から麦茶を取り出して一気に飲み干す。
時計を見る。配信開始まであと5分。
よし、部屋に戻って勉強でもするか。テストも近いし、ちょうどいい。
自室に戻った俺は、机に勉強道具を広げた。イヤホンをつけてアプリを開く。配信が始まるのを待ちながら、数学の問題集を開く。
「はいどもー! さすまたデース! 今回配信するゲームは――」
耳に心地よい声が流れ込んでくる。
ペンを走らせながら、さすまたの配信を聞く。最高の勉強環境だ。ゲームの効果音と、さすまたの実況が程よいBGMになる。
それから50分ほど経った頃、下から母親の声が聞こえてきた。
「健星ー! ご飯よー!」
もう晩御飯の時間か。俺は配信を止めて、イヤホンを外した。
部屋を出て階段へ向かおうとした時、ふと思った。
涼香にも一応、ご飯ができたこと伝えるか。
俺は階段に背を向けて、涼香の部屋のドアをノックした。
コンコン。
……返事がない。相変わらず俺は嫌われているようだ。まぁ、いつものことか。
それでも一応、と思ってドアノブに手をかける。
「おい、涼香。飯できて――は?」
開いたドアの向こうに広がっていた光景に、俺は言葉を失った。
そこは、女子高生の部屋とは思えない空間だった。
机の上には大きなモニターが二つ。マイクスタンドに高性能そうなマイク。リングライト。配線だらけの機材の数々。壁には防音材らしきものまで貼られている。まるでプロのVTuberの――いや、まさに配信スタジオだ。
そして、その机に向かっているのは――涼香だった。
こちらに気づいていないのか、涼香はモニターを睨みながら、何かブツブツと呟いている。手元のコントローラーを激しく操作している。その横顔は真剣そのものだ。
涼香、ゲームしてるのか……。
昔はよく一緒に遊んだな。あの頃は楽しかった。涼香が「もうゲーム飽きた」って言い出してから、一緒にプレイすることもなくなったけど。
懐かしさを覚えながら、俺は涼香の背後へと静かに近づいた。
「なぁ、涼香――ッ!」
そこで俺は、二度目の硬直を味わうことになった。
涼香の前のモニターに映っているのは、ゲーム画面だけじゃない。その隣のモニターには――配信画面。コメント欄が猛スピードで流れている。視聴者数の表示。スーパーチャットの通知音。
そして画面の中央には、ピンク色のツインテールに猫耳を模したヘッドセットをつけた少女のアバター。可愛らしいデフォルメされたイラストが、涼香の声に合わせて口を動かし、表情を変えている。
待て、待て待て。
涼香が……VTuberとして配信してる?
あの、完璧優等生の涼香が?
困惑する頭で、俺はモニターの配信画面を凝視した。
そこに映っていたのは――見覚えのあるレイアウト。見覚えのあるアバター。見覚えのある画面構成。
ピンク色の「さすまた」というハンドルネーム。
あの独特なフォント。
あの見慣れた背景画像。
そして、あの可愛らしいキャラクターデザイン。
それは、俺が毎日見ている『さすまた』の配信画面と、完全に一致していた。
え……? なんで? なんで涼香が、さすまたと同じ画面で……?
いや、違う。
これは「同じ画面」なんかじゃない。
これが『さすまた』の配信そのものなんだ。
涼香の動きに合わせて、画面の中のアバターが同じように動いている。
脳が追いつかない。理解が拒否する。心臓の鼓動が早くなる。
画面の隅に表示されている視聴者数――3万2千人。
流れるコメント欄。
『さすまたさん頑張れ!』
『この面クリアできるかな?』
『スパチャ読んでくれて、ありがとうございます!』
全部、リアルタイムだ。
全部、今この瞬間の配信だ。
そして涼香は――。
俺は咄嗟に涼香の肩に手を置こうとした――その瞬間だった。
「クソ! なんでここでゲームオーバーになるのよ!! 私の威厳を返せ! ファーック――ッ!?」
涼香が叫びながら振り返った。
その声は――間違いなく、いつも俺が聞いている『さすまた』の声だった。
ボイスチェンジャーを通した、あの声。
あの口調。
あの言い回し。
全部、全部一致している。
そして画面の中のアバターも、涼香の動きに合わせて驚いた表情で振り向いた。
「「あ……」」
時が止まった。
涼香と目が合う。涼香の目が、見開かれる。顔がみるみる赤くなっていく。
俺の視線が、涼香の首元に巻かれたマイクに向く。
涼香の視線が、ドアの方――俺に向く。
数秒間、永遠のように感じる沈黙。
そして――。
「涼香……お前、これは一体どういう状況だ?」
声が震えている。
「な、なんでお前が……さすまた、なんだよ……?」
動揺が隠せない。というか、隠す余裕すらない。
一方、涼香は完全に固まっていた。まるで時間が止まったマネキンのように。顔は真っ赤で、唇が小刻みに震えている。
モニターからは、まだコメントが流れ続けている。
『さすまたさん? どうしたの?』
『固まってるwww』
『まさか回線落ち?』
数秒の沈黙が、何分にも感じられた。
そして、我に返った涼香は――。
信じられない速さで、パソコンに挿さっていたマイクのケーブルを引き抜いた。
ブチッ、という音。
次の瞬間、涼香はキーボードを叩き、配信画面を一瞬で『休憩中』に切り替えた。画面の中のアバターも、「少々お待ちください」という文字と共に静止した。その手際の良さは、まさにプロのそれだった。
「……」
涼香はゆっくりと椅子を回転させ、俺の方を向いた。
その表情は――怒りと、困惑と、恥ずかしさが入り混じった、複雑なものだった。
「……なんで私の部屋にいるの?」
低い、怖いくらいに低い声。鋭い眼光で俺を睨みつけてくる。
「だって、お前……」
「ノックした? 返事しなかったでしょ? なのになんで入ってきたの?」
「ご飯できたって伝えようと……」
「お兄ちゃん……」
涼香は深く、深く息を吸い込んだ。
「お前……まさか、本当に……?」
俺の声が震える。
「……そうだよ」
涼香は観念したように、小さく息を吐いた。
「私、さすまた、って名前で配信してるVTuberだけど」
その言葉は、まるで爆弾のように俺の脳内で炸裂した。
俺の妹――いや義妹が、俺に隠れてVTuberとして活動していた。
しかも、俺が毎日欠かさず視聴して、スーパーチャットまで投げて、「神VTuber」とまで言っていた、あの『さすまた』として。
「嘘だろ……」
俺は呟いた。
「じゃあ、昨日の配信も……一昨日の配信も……全部……」
「全部、私だけど」
涼香は顔を背けながら言った。
「お兄ちゃんが毎日見てるのも知ってた。コメントしてるのも知ってた。スーパーチャット投げてるのも……全部知ってた」
「なんで……なんで教えてくれなかったんだよ」
「教えられるわけないでしょ!」
涼香が声を荒げた。
「お兄ちゃんがあんなに楽しそうに配信見てて、私のこと褒めちぎってて……『さすまたさん最高!』とか『今日も面白かった!』とか……」
涼香の声が段々小さくなっていく。
「……言えるわけないじゃん」
世界が、ぐるりと回った気がした。
俺が毎日見ていたVTuber。
俺が毎日応援していた『さすまた』。
それが、俺を毎日「死ね」と罵る義妹だったなんて。
これは、夢なんじゃないか。
そう思いたかった。
0
あなたにおすすめの小説
バイト先の先輩ギャルが実はクラスメイトで、しかも推しが一緒だった件
沢田美
恋愛
「きょ、今日からお世話になります。有馬蓮です……!」
高校二年の有馬蓮は、人生初のアルバイトで緊張しっぱなし。
そんな彼の前に現れたのは、銀髪ピアスのギャル系先輩――白瀬紗良だった。
見た目は派手だけど、話してみるとアニメもゲームも好きな“同類”。
意外な共通点から意気投合する二人。
だけどその日の帰り際、店長から知らされたのは――
> 「白瀬さん、今日で最後のシフトなんだよね」
一期一会の出会い。もう会えないと思っていた。
……翌日、学校で再会するまでは。
実は同じクラスの“白瀬さん”だった――!?
オタクな少年とギャルな少女の、距離ゼロから始まる青春ラブコメ。
クラスのマドンナがなぜか俺のメイドになっていた件について
沢田美
恋愛
名家の御曹司として何不自由ない生活を送りながらも、内気で陰気な性格のせいで孤独に生きてきた裕貴真一郎(ゆうき しんいちろう)。
かつてのいじめが原因で、彼は1年間も学校から遠ざかっていた。
しかし、久しぶりに登校したその日――彼は運命の出会いを果たす。
現れたのは、まるで絵から飛び出してきたかのような美少女。
その瞳にはどこかミステリアスな輝きが宿り、真一郎の心をかき乱していく。
「今日から私、あなたのメイドになります!」
なんと彼女は、突然メイドとして彼の家で働くことに!?
謎めいた美少女と陰キャ御曹司の、予測不能な主従ラブコメが幕を開ける!
カクヨム、小説家になろうの方でも連載しています!
手が届かないはずの高嶺の花が幼馴染の俺にだけベタベタしてきて、あと少しで我慢も限界かもしれない
みずがめ
恋愛
宮坂葵は可愛くて気立てが良くて社長令嬢で……あと俺の幼馴染だ。
葵は学内でも屈指の人気を誇る女子。けれど彼女に告白をする男子は数える程度しかいなかった。
なぜか? 彼女が高嶺の花すぎたからである。
その美貌と肩書に誰もが気後れしてしまう。葵に告白する数少ない勇者も、ことごとく散っていった。
そんな誰もが憧れる美少女は、今日も俺と二人きりで無防備な姿をさらしていた。
幼馴染だからって、とっくに体つきは大人へと成長しているのだ。彼女がいつまでも子供気分で困っているのは俺ばかりだった。いつかはわからせなければならないだろう。
……本当にわからせられるのは俺の方だということを、この時点ではまだわかっちゃいなかったのだ。
姉と妹に血が繋がっていないことを知られてはいけない
マーラッシュ
恋愛
俺は知ってしまった。
まさか今更こんな真実を知ってしまうとは。
その日は何故かリビングのテーブルの上に戸籍謄本が置いてあり、何気なく目を通して見ると⋯⋯。
養子縁組の文字が目に入った。
そして養子氏名の欄を見てみると【天城リウト】俺の名前がある。
う、嘘だろ。俺が養子⋯⋯だと⋯⋯。
そうなると姉の琴音ことコト姉と妹の柚葉ことユズとは血が繋がっていないことになる。
今までは俺と姉弟、兄妹の関係だったからベタベタしてきても一線を越えることはなかったが、もしこのことがコト姉とユズに知られてしまったら2人の俺に対する愛情が暴走するかもしれない。もしコト姉やユズみたいな美少女に迫られたら⋯⋯俺の理性が崩壊する。
親父から日頃姉妹に手を出したらわかっているよな? と殺意を持って言われていたがまさかこういうことだったのか!
この物語は主人公のリウトが姉妹に血が繋がっていないことがバレると身が持たないと悟り、何とか秘密にしようと奔走するラブコメ物語です。
美人四天王の妹とシテいるけど、僕は学校を卒業するまでモブに徹する、はずだった
ぐうのすけ
恋愛
【カクヨムでラブコメ週間2位】ありがとうございます!
僕【山田集】は高校3年生のモブとして何事もなく高校を卒業するはずだった。でも、義理の妹である【山田芽以】とシテいる現場をお母さんに目撃され、家族会議が開かれた。家族会議の結果隠蔽し、何事も無く高校を卒業する事が決まる。ある時学校の美人四天王の一角である【夏空日葵】に僕と芽以がベッドでシテいる所を目撃されたところからドタバタが始まる。僕の完璧なモブメッキは剥がれ、ヒマリに観察され、他の美人四天王にもメッキを剥され、何かを嗅ぎつけられていく。僕は、平穏無事に学校を卒業できるのだろうか?
『この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません』
小さい頃「お嫁さんになる!」と妹系の幼馴染みに言われて、彼女は今もその気でいる!
竜ヶ崎彰
恋愛
「いい加減大人の階段上ってくれ!!」
俺、天道涼太には1つ年下の可愛い幼馴染みがいる。
彼女の名前は下野ルカ。
幼少の頃から俺にベッタリでかつては将来"俺のお嫁さんになる!"なんて事も言っていた。
俺ももう高校生になったと同時にルカは中学3年生。
だけど、ルカはまだ俺のお嫁さんになる!と言っている!
堅物真面目少年と妹系ゆるふわ天然少女による拗らせ系ラブコメ開幕!!
俺を振ったはずの腐れ縁幼馴染が、俺に告白してきました。
true177
恋愛
一年前、伊藤 健介(いとう けんすけ)は幼馴染の多田 悠奈(ただ ゆうな)に振られた。それも、心無い手紙を下駄箱に入れられて。
それ以来悠奈を避けるようになっていた健介だが、二年生に進級した春になって悠奈がいきなり告白を仕掛けてきた。
これはハニートラップか、一年前の出来事を忘れてしまっているのか……。ともかく、健介は断った。
日常が一変したのは、それからである。やたらと悠奈が絡んでくるようになったのだ。
彼女の狙いは、いったい何なのだろうか……。
※小説家になろう、ハーメルンにも同一作品を投稿しています。
※内部進行完結済みです。毎日連載です。
S級ハッカーの俺がSNSで炎上する完璧ヒロインを助けたら、俺にだけめちゃくちゃ甘えてくる秘密の関係になったんだが…
senko
恋愛
「一緒に、しよ?」完璧ヒロインが俺にだけベタ甘えしてくる。
地味高校生の俺は裏ではS級ハッカー。炎上するクラスの完璧ヒロインを救ったら、秘密のイチャラブ共闘関係が始まってしまった!リアルではただのモブなのに…。
クラスの隅でPCを触るだけが生きがいの陰キャプログラマー、黒瀬和人。
彼にとってクラスの中心で太陽のように笑う完璧ヒロイン・天野光は決して交わることのない別世界の住人だった。
しかしある日、和人は光を襲う匿名の「裏アカウント」を発見してしまう。
悪意に満ちた誹謗中傷で完璧な彼女がひとり涙を流していることを知り彼は決意する。
――正体を隠したまま彼女を救い出す、と。
謎の天才ハッカー『null』として光に接触した和人。
ネットでは唯一頼れる相棒として彼女に甘えられる一方、現実では目も合わせられないただのクラスメイト。
この秘密の二重生活はもどかしくて、だけど最高に甘い。
陰キャ男子と完璧ヒロインの秘密の二重生活ラブコメ、ここに開幕!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる