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第二話 忌々しい影
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グラスの水は、思った以上に勢いよく跳ねた。透明な雫が、少女の頬から顎へと流れ落ちる。床に落ちた水が、静かな音を立てた。
「……っ」
それでもアリサは声を上げなかった。それが、たまらなく腹立たしい。
「忌々しい子っ!」
マリアは、空になったグラスを握り締めたまま叫んだ。
「どうして私が、あんたと同じ学園に通わなきゃいけないの!目障りだわっ!」
人払いを済ませた昼休みの空き教室。壁際ではマリアの取り巻きの令嬢たちが息を殺している。
マリアの暴行を誰も止めない。いや、止められる訳が無かった。なぜなら、リヴィエールは特別だから。
濡れた前髪の隙間から、アリサがマリアを見る。
怯えもせず、どこか馬鹿にしたようなその目。
「……何よ、その目はっ!」
考えるより先に、手が出ていた。ぱん、と乾いた音が響き、アリサの顔が横に弾かれる。それでも、ただ静かに耐えている様子が、なおさら癪に障った。
「養女のくせに。孤児院上がりの分際で、何を澄ました顔してるのよ!」
マリアは、勢いのままアリサの肩を突き飛ばした。細い体がよろめき、机にぶつかる。
「っ……」
今度は、微かに息が漏れた。
——私は、間違っていないわ。生意気な養女にはお仕置きが必要なのよ。自分の立場をわきまえさせるためにね。
「勘違いしないで。ここは本来、あなたのような孤児が存在していい場所じゃないの」
リヴィエール公爵家の嫡子。王太子の婚約者。それが、マリアだ。誰もが羨み、憧れ、頭を垂れる存在。そうでなければ、おかしい。それなのに、養女であるこの娘はマリアをいつもどこか冷めた目で見ていた。まるで、マリアに何の価値も無いかのように。
「……気に入らないわ」
吐き捨てるように言う。
「消えなさい。成人したら、修道院に入れてあげるわ」
父も、母も、そう決めている。戒律の厳しい、外界と隔絶された修道院。二度と社交界に戻れない場所。
——この孤児の娘にはそういう場所がお似合いよ
「その前に、変な夢なんて見ないことね」
そう言って、マリアは背を向けた。取り巻きたちが慌てて後に続く。扉が閉まる直前、もう一度だけ振り返ると、床に膝をついたままのアリサが、静かに顔を上げていた。その腕の中には、いつの間に現れたのか、一匹の黒い猫が抱かれている。
(あの猫、いつの間に……)
金色の瞳が、こちらを見ている。その瞬間、ぞくりと背筋が冷えた。
「……気味が悪い」
吐き捨てて、扉を閉める。廊下に出た瞬間、わけもなく胸の奥がざわついた。
マリアは無意識に、胸元のペンダントを握り締めた。公爵家の後継者の証であるそれは、マリアの誇りそのもの。
けれど、マリアの胸騒ぎはいつまでも収まらなかった。
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