婚約破棄だ!と言われ実家に帰ったら、最推しに餌付けされます

黒猫かの

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アースガルド公爵邸、正面玄関。

その日、屋敷は未曾有の「騒音被害」に見舞われていた。

「通せ! 俺だぞ! この国の第一王子、クレイスだぞ!」

「いいから退け! 俺はノエルを迎えに来たんだ!」

門番たちが困惑し、セバスが頭を抱えている騒ぎの中心にいるのは、紛れもなく私の元婚約者、クレイス殿下だった。

彼はなぜか、白いタキシードを着込み、真っ赤なバラの花束(百本くらいある)を抱えていた。

背景にキラキラとした効果音が見えるようだ。

一方、執務室。

私は窓からその様子を見下ろし、冷めた紅茶を一口飲んだ。

「……閣下。門の前に、派手な不審者がいます」

「……焼き払うか」

対面に座るルーク様が、即座に立ち上がった。

その手には、すでに冷気が渦巻いている。

「待ってください。焼き払うと死体処理が面倒です」

「……凍らせれば保存がきく」

「そういう問題ではありません。……仕方ありませんね、私が対応します」

私はため息をつき、席を立った。

「行くのか?」

「ええ。業務妨害ですので。さっさと追い返して、午後のティータイムに戻ります」

「……俺も行く」

ルーク様が、サングラスを装着した。

「護衛だ。……あの馬鹿が、お前に指一本でも触れたら、その瞬間に氷河期を到来させる」

「国が滅びるのでやめてください」

          ***

玄関ホール。

扉が開くと同時に、クレイス殿下がなだれ込んできた。

「おお、ノエル! やっと会えたな!」

彼は私を見つけるなり、ドラマチックに両手を広げた。

バラの花束がバサバサと揺れる。花粉が舞う。掃除が大変そうだ。

「寂しかっただろう? うんうん、言わなくてもわかるぞ。俺に会えなくて、毎晩枕を濡らしていたんだろう?」

殿下は陶酔しきった顔で、一歩ずつ近づいてくる。

私は無表情のまま、その場に立ち尽くしていた。

(……誰だっけ?)

いや、顔は見覚えがある。

声も聞き覚えがある。

だが、この「白いタキシードにバラの花束を持った変質者」というデータが、私の脳内データベースと一致しないのだ。

私の知っているクレイス殿下は、もっとこう、書類に埋もれて死にかけているか、私に怒られて縮こまっている姿ばかりだったので。

「……あの、失礼ですが」

私は首を傾げた。

「どちら様でしょうか?」

ピタリ。

殿下の動きが止まった。

「……は?」

「アポイントメントはありますか? 当家は飛び込みのセールスはお断りしております。特に、怪しい宗教の勧誘や、高額な壺の販売などは」

「だ、誰が壺売りだ! 俺だ! クレイスだ! お前の婚約者だった男だ!」

殿下が叫ぶ。

私は「ああ」と手を打った。

「なるほど。……元・婚約者の方でしたか。あまりにも雰囲気が違ったもので」

「ふふん、そうだろう? このタキシード、似合っているだろう? お前を迎えに来るために新調したんだ」

殿下は気を取り直し、キザに髪をかき上げた。

「ノエル。お前の気持ちは、新聞で読んだよ」

「新聞?」

「『北の女神』とか『公爵に夢中』とか。……あれは全部、俺への当てつけだろう?」

殿下はニヤリと笑った。

「俺に嫉妬させるために、わざとあんな噂を流した。……可愛い奴め。素直に『戻りたい』と言えばいいのに」

「……」

私は呆れて開いた口が塞がらなかった。

ポジティブすぎる。

この男の脳内変換機能は、どうなっているのか。

世界中のネガティブな言葉を、すべて自分への愛の言葉に変換するフィルターでも装備しているのだろうか。

「誤解があるようですが」

「いいんだ、何も言うな」

殿下は私の言葉を遮り、強引にバラの花束を突き出してきた。

「さあ、これを受け取ってくれ。そして俺と一緒に帰ろう。……今なら特別に、俺の靴にキスをする権利をやろう」

「……」

私は無言で、バラの花束を見た。

そして、視線を少し後ろに向けた。

そこには、仁王立ちする「本物の魔王」がいた。

ルーク様だ。

彼はサングラス越しでもわかるほどの殺気を放ち、周囲の空気を凍らせていた。

床の大理石が、パキパキと音を立てて凍り始めている。

「……おい」

地獄の底から響くような声。

殿下がビクリと肩を震わせた。

「だ、誰だ! 俺とノエルの愛の再会を邪魔する奴は……!」

殿下が振り返る。

そして、ルーク様の姿を見た瞬間、ヒィッという悲鳴と共に三メートルほど後ずさった。

「お、お、叔父上!?」

「……誰が叔父だ」

ルーク様が一歩踏み出す。

「俺はまだ二十四だ。……貴様のような巨大な甥を持った覚えはない」

「い、いや、事実上の叔父上であらせられるアースガルド公爵閣下……! な、なぜここに!?」

「俺の家だ」

「あ、そうでした!」

殿下は混乱しているようだ。

ルーク様は、殿下が突き出したバラの花束を、冷ややかな目で見下ろした。

「……なんだ、そのゴミは」

「ご、ゴミ!? これは愛の証の真紅のバラで……!」

「枯れているぞ」

「えっ?」

殿下が手元を見る。

先ほどまで鮮やかに咲き誇っていたバラが、ルーク様の冷気によって一瞬で凍りつき、茶色く変色してボロボロと崩れ落ちていった。

「ああっ!? 俺の愛が! 粉々に!」

「……不吉だな」

私がボソリと呟くと、殿下は泣きそうな顔で私を見た。

「ノ、ノエル! 助けてくれ! 叔父上が怖い!」

「自業自得です」

私は冷たく言い放った。

「それで、ご用件は? 私を連れ戻しに来たとのことですが」

「そ、そうだ! 国が大変なんだ!」

殿下はルーク様から距離を取りつつ、私にすがりつこうとした(ルーク様が牽制したので触れなかったが)。

「お前がいなくなってから、何もかもがうまくいかない! 書類は増える一方だし、ミーナは『ドレスが欲しい』しか言わないし、ご飯は不味いし!」

「それは私のせいではありません」

「お前のせいだ! お前が全部やっていたから、俺たちが何もできないんじゃないか! 責任を取れ!」

「逆ギレもいいところですね」

私は腕を組んだ。

「つまり、殿下は私が必要なのではなく、私の『労働力』が必要なだけでしょう?」

「そ、そんなことはない! 愛もある! たぶん!」

「たぶん?」

「二割くらいは!」

「帰れ」

ルーク様が低く唸った。

「……二度と言わん。消えろ」

ルーク様の右手に、巨大な氷の槍が出現した。

それは殿下の喉元に向けられている。

「ひいいいい! わ、わかった! 出直す! 今日は出直すから!」

殿下は脱兎のごとく逃げ出そうとした。

だが、私はその背中に声をかけた。

「お待ちください」

「え? ノエル? やはり俺への未練が……」

殿下が期待を込めて振り返る。

私は懐から、一枚の紙を取り出した。

「お帰りの前に、こちらをお受け取りください」

「な、なんだ? ラブレターか?」

「いえ」

私はニッコリと微笑んだ。

「本日分の『時間外対応請求書』です」

「……は?」

「日曜日の午後は、私の貴重な休日です。その時間を拘束されましたので、休日割増料金をご請求いたします。……バラの花束の処分費用も上乗せしておきますね」

ヒラヒラと舞う請求書。

殿下はそれをキャッチし、金額を見て白目を剥いた。

「き、金貨……五枚……!?」

「お支払いは来月末まで。……利息はトイチです」

「鬼だ! 悪魔だ! 悪役令嬢だああああ!」

殿下は絶叫を残し、屋敷を飛び出していった。

静寂が戻る。

残されたのは、凍りついたバラの残骸と、満足げに頷く私。

そして、呆れたように私を見るルーク様だった。

「……お前」

「はい?」

「……本当に、金が好きだな」

「愛より確実ですから」

私は崩れたバラを足で避け、ルーク様に向き直った。

「さて、閣下。お茶が冷めてしまいました。……新しいのを淹れ直しますか?」

「……ああ」

ルーク様はサングラスを外した。

その瞳が、不安げに揺れている。

「……本当に、戻らないのか?」

「どこへ?」

「王城へだ。……あいつは、お前を必要としているようだったが」

ルーク様の声が少し小さい。

もしかして、心配しているのだろうか。私が情にほだされて、王都へ帰ってしまうのではないかと。

私は笑った。

心からの、苦笑いを。

「閣下。あんな『介護現場』に戻るくらいなら、ここで一生、閣下の不器用なエスコートに付き合う方がマシです」

「……介護現場」

「それに」

私は一歩近づき、ルーク様の目を見つめた。

「ここのおやつの方が、美味しいですから」

ルーク様は瞬きをした。

そして、耳を真っ赤にして、顔を背けた。

「……そうか。……なら、もっと食え」

「御意」

私たちは並んで執務室へと戻っていった。

だが、嵐はまだ去っていなかった。

逃げ帰った殿下が、このまま引き下がるはずがなかったのだ。

次は、あの「お花畑ヒロイン」を連れてくるに違いない。
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