月兎

宮成 亜枇

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 言われたとおりにロビーに行けば、すでに母はいた。軽く朔夜を見て、「まぁまぁね」といった彼女は、目的があるのか歩き始める。朔夜もそれにならった。これだけの人がいれば隙を見て逃げることはできるかもしれないが、その考え自体が浮かばなかったのだ。
 朔夜たちが入ったのはホテル内のカフェ。相手はすでに来ていたようで、母の顔がぱっと明るくなる。よほど、母の希望する家柄、また、本人もそのような職に就いているのだろう。そう予想したが、それだけだった。
 朔夜たちの姿を見て、一人の男性が立ち上がり、会釈とともに笑顔を向ける。爽やか、という言葉が似合う好青年。顔立ちもいい。わざわざ男性のオメガを選ばなくても、番になりたいという女性は多々いるだろう。なのに何故? 朔夜に疑問がわく。
「お待たせして申し訳ありません」
「とんでもありません。この子が早く会いたいと、わたくしをせかすものですから、予定より早く着いてしまっただけのこと。どうか、謝らないでください」
 母たちは面識があるのだろうか。とても親しげに会話が進む。
「あなたが、朔夜さん?」
 急に尋ねられ、やや慌てはしたが、
「あっ、はい。初めまして。入江朔夜です」
 形式どおり、笑顔を張り付けて挨拶をした。

「朔夜さん、紹介させていただきますわ。こちらがわたくしの息子、武藤むとう晴信はるのぶです」
「初めまして、晴信です。よろしくお願いいたします」
 晴信、という名の青年は朔夜に笑いかけ、握手を求める。特に断る理由もなかったので手を差し出すと、
「うわっ」
 手を引っ張られて、気づけば彼の身体に身を預け、抱きしめられる格好になっていた。
「晴信っ!」
「ははっ。良いじゃないか。僕たちはいずれ番になるんだし、これくらい、ね?」
 人好きのする笑みでそう言われたが、朔夜は一刻も早く、彼が離れてくれないかと、そればかりを思っていた。
 気持ち悪かった。何が、と言われると困るが、胃から何かがせり上がってくるような不快感が襲う。母の目の前で失態を晒せば後がどうなるかわからない。必死で堪えるが背中を冷や汗が伝い、呼吸も浅くなる。
 耐えなければ、と思うが、身体はその思いに応えてくれない。
「朔夜っ!?」
「……っ。すみま、せん……」
 突然の吐き気に耐えきれなくなり、膝から崩れ落ちる。
「ちょっと! 何やってるのよっ!!」
「まあまあ。そんなに怒らないで。朔夜さんは確か、今度お受験でしたわよね。もしかして、ずっとお勉強をされていたのではないかしら?」
 それは本当のことなので、小さく頷く。
「あらあら、それなら体調を崩されても仕方ありませんわね。それでもこうして晴信に会ってくださったこと、うれしく思いますわ。奥様、いかがでしょう? この子も医者の端くれ。朔夜さんのことはお任せいただけませんか?」
「そうしていただけると助かりますが。でも」
「遠慮なさらないで。いいわよね。晴信」
「もちろん。母さんたちも久々にあったんだろ? なら、僕たちにかまわずに楽しんでよ。こっちは大丈夫だから」
 朔夜が言葉を発することができないうちに、勝手に事が進んでいく。大丈夫だから一人にして欲しい、そう言いたいのに言えなくて。晴信に支えられるように店を出て、近くのソファーに誘導される。
「朔夜、大丈夫?」
 親の目がなくなったとたんに呼び捨てにされ、ますます不快感が募ったが文句を言う気力も体力も今はない。
「外、行きたい……」
 そう言って立ち上がり、ふらふらと歩き出す。
「待って! 僕も一緒に行く」
 晴信はすぐに朔夜を支え、ともに歩き出すが、
「はなれ、て……」
 小さな懇願は、彼の耳には届かなかった。

 急な不調の原因は、何となくわかった。
 この、晴信という人物が持つ、言うならばフェロモン。
 ただでも寝不足のところに、その匂いにあてられたのだ。だからこそ、彼から離れて外の空気が吸いたかったのに、それすらさせてくれない。
 朔夜の目に、生理的な涙が浮かんだ。
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