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悪役令嬢のお約束
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「お前、この屋敷に来てどのくらい?」
銀色の長い髪を肩に垂らし、部屋着姿の美しい令嬢は、鏡台の大きな鏡越しに尋ねた。
声をかけられたのは、令嬢よりも一つ年下の女中で、リリアという名の少女だった。
「は、はい。グランデルン伯爵家でお世話になって三月《みつき》になります。お嬢様」
おどおどと、しかし口調ははっきりとリリアは答えた。
栗色の髪に緑の瞳をもつリリアを、令嬢は赤みがかった瞳で見つめた。
その目には好意や興味などという優しさではなく、叱責の色が浮かんでいた。
「三月もいたのに櫛のひとつも使えないのかしら」
令嬢の言葉にリリアはビクッと体を震わせた。
何か失敗したのだろうか。
今日はお嬢様付きの女中が熱を出してしまった為、リリアが急遽お世話をする事になってしまった。
気難しいお嬢様は、歳の離れた熟練の女中を嫌い、同世代の若手の女中を好むという理由で、リリアが抜擢されたのだ。
お世話の手順は聞いている。今のところ間違えてはいないはずなのに――。
「髪に香油を付けるときは櫛で伸ばしながらやるものよ。でないと油がつきすぎて髪が重たくなるでしょう」
溜息を吐きながらの令嬢の指摘に、リリアはハッとなった。
手順は教えてもらったが、基本中の基本なのだろうか、先輩方は手入れの方法まで細かく教えてはくれなかったのだ。
「も、申し訳ありません、お嬢様」
リリアは頭を下げると、急いで鏡台にある象牙の櫛を取ろうとした。しかし、それより早く令嬢は木の櫛を手に取り、リリアに振り向くこともせずにそれを差し出した。
「象牙は仕上げ用よ。油を伸ばすときはこの木の櫛を使いなさい。塗りすぎた油を吸い取ってくれるのよ」
「あ、ありがとうございます」
「まったく…急遽代理になったからと言って、髪の手入れひとつできないなんて…」
不満げに独り言を言いながら、令嬢は鏡を見つめた。リリアはそれ以上失敗しないように、ビクビクしながらなんとか長い銀髪をまとめ上げると、令嬢の部屋から逃げるように退出した。
銀色の髪に切れ長の目をした美しい令嬢――グランデルン伯爵の次女ヘンリエッタ・ローズ・アーバクロンビ・グランデルンは16歳になったばかりだった。
デビュタントを終えた15歳の春に、2歳年上でペールヒル侯爵家の跡取りであるローガン・フィッツロイ・ペールヒルとの婚約を決められて、先日漸く婚約式を終えたばかりだ。
建国初期より永く続く名家であるフィッツロイ家にとって、三代前に叙爵された新貴族のアーバクロンビ家との結婚は、金銭以外に全く価値の無いものと思われた。
しかし、国の北部にあるグランデルン領は、土地の広さだけでなく、先々代が長年の研究の末に土壌の改良に成功して広大な穀倉地帯を作り上げ、小麦やイモだけでなく、貴重な砂糖すら精製に成功している。
特に砂糖の精製の貢献度は高く、それまで一握りで金一塊ほどだった砂糖の値段が、一握りで平民の月の収入ひと月分程度まで下がることとなり、貴族ですら入手が困難だった甘味が、今では平民でも苦労すれば入手が可能となる程になったのだ。
その功績により男爵位を賜り、更に先代の時代に起きた国全体の飢饉の際には、備蓄していた食糧を提供して王室をはじめとした多くの貴族を救い、伯爵へと陞爵した。
間違いなく、今最も勢いのある家である事を考えれば、第三身分に等しい新貴族であっても縁を結ぶのは当然の事だろう。
それに、都合のいいことにアーバクロンビ家には男子がおらず、ヘンリエッタの5つ離れた姉はウィズランド子爵家の次男と半ば駆け落ちのように結婚して相続権を放棄してしまったため、アーバクロンビ家の財産は全てヘンリエッタが相続する事になっている。
後継者のいない貴族家では、女子が財産爵位を預かり、その夫の家系がそれらを甘受する事になる。
つまり、ヘンリエッタと結婚する事はアーバクロンビ家の財産はもちろん、豊かなグランデルン領を手中に収めることになる。
国内に流通する小麦やイモの大多数を生産し、甜菜から作られた上質の砂糖を貴族達に供給するグランデルン領を手中に入れる事ができれば、飢饉によってかつての勢いを失った侯爵家にとってこの上ない復興の契機になる。
その為、この結婚は侯爵家から申し出たものだった。
婚約式を終えると、ヘンリエッタはローガンと共に両家の親戚への顔合わせに忙しかった。
婚約式から60日間は婚約公示期間となり、この婚約に対する異議申立てを受け付ける。その為、その間に親族へ挨拶や顔合わせを行い、家族として認められる事が重要とされていた。
もっとも、それらは飽くまで形式的なものであり、家長が決めた結婚に分家や家臣が反対することなど出来るはずがなかった。
それでも、慣習だからとヘンリエッタは3日と開けずローガンにエスコートされて、お茶会だ晩餐会だと忙しく飛び回っていた。
「リリア、明日の衣装の用意はできていて?」
朝の支度をしていると、鏡台越しヘンリエッタに尋ねられて、リリアは慌てて頭を下げた。
「はい、お嬢様。明日は薄緑のドレスをご用意しています」
「それはひと月前にサルエル伯の午餐で着たものではなくて?」
ヘンリエッタの切れ長の目が鋭く鏡越しにリリアを睨んだ。
首まで生地に覆われた、美しいが質素な意匠の午餐用のドレスは晩餐会にはそぐわない。
晩餐会は夜会ほどではなくとも、華やかなものを着るのがマナーだ。
自分について2週間も経つというのに、ドレスコードすらも理解していないのだろうか。
しかし、リリアはすぐに髪を梳く手を止めると、衣装部屋に駆け込んで薄緑のドレスを手に戻ってきた。
「このとおり胸元と肩口の形を少し変えて、裾に銀糸で刺繍をあしらって、晩餐会用にお直ししています」
リリアの言葉にヘンリエッタは眉根を上げて驚いてみせた。
胸元の意匠が大きく変わり、大胆に開かれているが、胸元のレースがそれを上品なものへと整えていた。肩口には生地が追加されてふわりと膨らんで、若々しさを強調している。裾にはリリアの言う通り、銀糸で蔦と薔薇が刺繍されており、晩餐会どころか夜会でも十分見栄えがするだろう。
「ならいいわ」
それだけ言うと、ヘンリエッタは視線を戻した。
リリアは、言葉少なだがヘンリエッタが満足してくれた事がわかっていた。
翌日、ヘンリエッタはそのドレスを纏い、どことなく嬉しそうな後ろ姿でローガンにエスコートされて行った。
お嬢様付きの女中は回復するどころか、容態が悪化して領地に戻される事となった。
その為、リリアがヘンリエッタの専任の女中へと昇進したのだが、それは決して喜ばしい事ばかりではなかった。
ヘンリエッタは使用人に対して決して優しい主人ではなかった。用件を伝える時も必要最低限の言葉しかかけない。仕事は完璧に出来て当たり前で、使用人は常に主人の期待を上回る成果を求められている――と、リリアは感じていた。
そのため、リリアはお世話を任された短い期間を完璧に勤め上げる為に、家中の使用人にヘンリエッタの性格や好みを聞いて周り、自分なりに対策を立てる事にした。
それがヘンリエッタの意に沿ったのだろう。
リリアの出世に文句を言うものは誰もいなかった。――もちろん、あの気難しいお嬢様のお世話などしたくないという気持ちも、皆の中に少なからずあったことは否めない。
それでも、リリアはヘンリエッタが自分を選んでくれた事を誇らしくも思っていた。
ヘンリエッタの所作は美しい。家にいても、髪を梳く時でさえ気品が満ち足り威厳が溢れているのだ。
ヘンリエッタが、完璧な所作と気品でアーバクロンビ家の家格を押し上げた事実は変わらないのだから。
貴族界では新貴族だの第三身分だの言われてはいるが、リリアにとってヘンリエッタはまるで王女のように尊く遠い存在だったから、余計にそう感じるのかもしれない。
だが、王女に仕える喜びは、リリアをより勤勉にさせていた。
ヘンリエッタが王女なら、その婚約者であり正真正銘の血統貴族であるローガンは王子どころか、神様のような存在だった。
正真正銘の平民であるリリアにとって、付け焼き刃の礼儀作法では粗相をしてしまうのではと、気が気ではなかった。
「お嬢様はお仕度中です。もうしばらくお待ちいただくことになると思いますが」
リリアはヘンリエッタを迎えに来たローガンが待つ応接室に茶を出すと、申し訳なさそうに深々と頭を下げた。
いつもはリリアが支度をするのだが、今日は接待する女中がいないからと、リリアがローガンに茶を出すように言われたのだ。
「私が早く来すぎてしまったから仕方ない。お前のせいではないよ」
ローガンは深い緑色の瞳でリリアを見つめると、微笑んだ。
座り姿一つとっても非の付け所のないローガンの微笑は、貴族はヘンリエッタしか知らないリリアでも貴族らしいとわかるほど美しく、リリアはすっかり心を奪われてしまった。
「そ、そろそろお仕度が整ったと思いますので、見てまいります」
リリアが慌てて部屋を出ようと踵を返すと、背中からローガンの声が聞こえた。
「お揃いだね」
何のことかわからず、足を止めて恐る恐る振り返ると、ローガンは微笑んだまま自分の目を指差すと、ゆっくりとリリアを指差したので、リリアはやっと瞳の色だという事に気が付いたのだった。
それからしばらくの間、ローガンは屋敷を訪れても、リリアはローガンと挨拶以外の言葉を交わす事はなく、ただ視線だけが時折交差するのを感じていた。
婚約公示期間が終わるまであと20日を切っていた。
「ねえリリア、聞いた?大陸の向こうの国では最近、意地悪な令嬢が婚約を破棄されて罰を受けるお話が流行っているのよ」
同僚の台所を担当する女中が、パンを頬張りながらリリアに話しかけた。
本など高級で庶民には到底手が出ないが、そういった物語を話して聞かせてくれる吟遊詩人の存在は、庶民にとっては知識や物語を得る最高の手段だった。
大陸のあちこちを旅する吟遊詩人は、あらゆる物語を歌って聞かせてくれるので、リリアも休みが貰えた日は広場で歌う吟遊詩人の元に通っていたものだ。
「あんたお嬢様付きになってから休みもないから知らなかったでしょ」
ヘンリエッタは基本的にはリリア以外の女中を近寄らせないので、リリアは必然的に休みなく働く事になっていた。
おかげで、このひと月の間リリアは一日たりと休みをもらっていない。
とは言え、殆どはヘンリエッタの朝の支度と外出時の支度をするだけでよいので、屋敷中の掃除をしていた頃に比べると体の疲れは全くない。
「婚約を破棄だなんて――神に背く行為だわ」
楽しそうに話す女中に対して、リリアは恐ろしさを感じて眉をひそめた。
婚約はもちろん結婚は教会が取り仕切るものだ。神の許可を得て行う婚約や結婚は、相当な理由があろうとも破棄されるものではない。
その為に婚約公示期間というものが存在するのだから。
「なんでも、貴族の男性が好きになったのが庶民の女で、それが気に食わなかった婚約者の女性が、庶民の女を折檻したの。そのことに腹を立てた男性が夜会で王家や貴族達が見ている中で婚約を破棄したらしいの」
「そんな事で婚約を破棄だなんて……」
リリアは聞けば聞くほど恐ろしくなり身震いした。
貴族の男性が平民に手出しをする事は珍しい事ではない。町には貴族のお手付きになった女性など珍しくもなんともない。
それでも、結婚となると話は違う。神に仕える貴族にとって結婚は神聖なものだった。
貴族は義務として王家と神に忠誠を誓う。だから貴族の結婚は貴族同士でしか認められないのだ。
したがって、一度誓った結婚を覆すのは神に反する行為であると考えられるから、貴族にとって離婚というものもあり得ない。
一度結びつけば一生添い遂げる責任がある――貴族の結婚とはそういうものだ。
「神の定めた決まりに逆らってまで愛を誓いあうの。とても恐ろしいけど、物語だからいいのよ」
話してくれた女中も青ざめているが、どことなく楽しそうにも見えるのは、彼女の信仰が薄いからなのかもしれない。
リリアはこの国の多くの人がそうであるように、彼女もまた敬虔な信者だった。
その為、自分の都合で婚約を破棄するという考えが恐ろしくて仕方なかったのだ。
「庶民の間では下世話な話が流行っているそうね。あなたは知っていて?」
ヘンリエッタの部屋にお茶の用意を運んだリリアは、不意にヘンリエッタに話しかけられて驚いた。
「聞いたことはあります」
お茶の用意をする手を止めることなく、リリアは目を伏せたまま答えた。
ヘンリエッタが言うように、下世話な話だ。わざわざお嬢様の耳に入れることはないだろう。
お嬢様は結婚を控えていらっしゃる大事な時期だ。あんな恐ろしい話を耳に入れて不安にさせることもない。リリアはそう考えた。
「そう――ところで、ローガン様は随分あなたを気に入っていたわ」
リリアが淹れた茶を受け取ると、ヘンリエッタは続けた。
「これからはローガン様がいらしたらあなたが接待なさい」
「お、お嬢様それはいったい――」
リリアは驚いて顔を上げてヘンリエッタを見た。
「言葉通りよ。自分と同じ緑色の瞳が嬉しかったんですって――よかったわね。うまくいけば妾の一人くらいにはなれるかも知れないわよ」
意にも介さない口調でヘンリエッタはそう言うと、お茶の準備を終えたリリアに下がるように言った。
何かの間違いで、ローガンが自分を気に入ったなどという事はないし、自分にもそんなつもりはないと言いたかったが、ヘンリエッタは話しかけるなと言いたげな態度だったので、リリアは肩を落として部屋を後にした。
リリアがお嬢様付きを解任されたと聞かされたのは、翌日の朝の事だった。
「私が何かしでかしてしまったのでしょうか」
女中頭に解任を告げられたリリアは、青い顔で女中頭に掴みかからん勢いで尋ねた。
「理由は聞いていないわ。でも、お嬢様はこれからはアンナをとおっしゃられたのよ」
アンナは女中の中でも年長者で、ヘンリエッタが子供の頃から面倒を見ていた者だった。
ローガンとの結婚の話が出始めた頃から、ヘンリエッタは同世代の女中を希望するようになったので、アンナは彼女らに仕事を教える役割をするようになっていた。
結婚話が上がって精神的に不安定になっていたので、同世代の女子と話がしたいのだろうと伯爵夫婦は考えていたが、実際はそうでない事はリリアが一番わかっていた。
ヘンリエッタはリリアに対して、女の子同士の話はおろか、ローガンとの逢瀬についても一切話すことはなかったし、親しみを込めてリリアの名を呼ぶこともなかった。
それでも、お嬢様が自分を側に置いてもいいと思ってくれていた事が誇らしかったのに――ローガンが自分を気に入ったと言ったのが気に食わなかったのだろうか。
いや、もしそうなら「これからはあなたが接待をしなさい」などとは言わないし、リリアを屋敷から追い出すくらいのことをしそうなものだ。
「困ったわ――あなたの代わりはもう雇っているから、人は足りてるのよ。仕方ないから、当分はお客様の接待を担当してちょうだい」
女中頭に言われて、リリアは素直に頷くしかなかった。
「浮かない顔をしているね」
最初の客はローガンだった。
リリアはローガンの顔を見てすぐにヘンリエッタの言葉を思い出したが、すぐに何かの間違いであると考えを追い払った。
しかし、この男が原因で自分がヘンリエッタの専任を解かれたのだという思いは拭えなかった。
客間女中として、客がいる間は応接室に控えていなければならない。
リリアは部屋の隅で立っていたのだが、ローガンはそんなリリアの様子を見て声をかけた。
「君はヘンリエッタ嬢付きの女中だったと思ったが」
優雅に茶を飲みながら、ローガンは尋ねた。
「あの――はい。昨日までは」
泣きそうな表情のリリアの返事にローガンは眉根を寄せた。
「今日からは違う――と?」
リリアは黙って頷いた。
「そうか――でも、それは私にとっては幸いだったかもだね。君とはもう少し親しくなりたいと思っていたんだ」
ローガンの声に甘やかさが含まれている事に、リリアも気が付いた。
何を言っているのだろう。
前回は「お前」と呼んでいたのに、今日は「君」と呼ばれた事にも驚いた。
ヘンリエッタの言葉が再び頭の中で繰り返された。
ローガンが何かを言いかけたその時、ヘンリエッタの準備ができたとアンナが言いに来て、二人の会話はそれで終了した。
通常なら数日空くのだが、翌日もローガンはやって来た。
ヘンリエッタは友人の茶会に呼ばれて留守だった為、ローガンはいつものように応接室でリリアが接待する事になった。
「ヘンリエッタ嬢がいない事は知っていたんだ――今日は君と話がしたくてね」
いたずらっ子のように笑うローガンに、リリアは胸がときめくのを感じた。
――いいえ。この方は由緒ある侯爵家の跡取り。私なんかを……そんなはずはない。
「客間女中だと言うのに、君の衣装は野暮ったいままだ。伯爵家はまだ歴史が新しいから客間女中の役割というものがよくわかっていないのだろう――だから、私から君に衣装を贈りたいと思っているんだが」
ローガンの突然の申し出に、リリアは混乱した。
女中の衣装を用意するのは雇い主の役目だ。それは大抵が女主人や令嬢のお下がりであることが多い。着古した――と言っても平民からすると新品に近いのだが――部屋着を仕立て直して使用人に払い下げるのが一般的だ。
当然、リリアにもヘンリエッタのお下がりが用意されているが、仕立て直すために時間がかかっているだけなのだ。
それに――
「こ、公子様。恐れながら、女中とは言え、男性が女性に衣装を贈るというのは――」
男性から女性に服を贈るのは、貴族でも庶民でも求愛行動の一環だ。そんな事をされてしまっては伯爵達にあらぬ疑いをかけられて、下手をするとヘンリエッタの婚約者を誘惑したと屋敷を追い出されてしまうかもしれない。
「大丈夫だよ。当然新品ではない。母や妹達の衣装が余っていてね」
ローガンは事も無げに言ってのけるが、それでも大それた行為だ。
「お気持ちだけありがたくいただかせてください――それに、私の衣装は既にお嬢様が指示を出されております」
リリアが頭を下げると、ローガンは笑みを含んだ声で言った。
「申し訳ない。既に伯爵に言付けてしまった」
ローガンが伯爵家に寄越した衣装は5着で、どれも部屋着とは思えない程上質な生地だが、質素で仕事に使えそうなものばかりだった。
「公子がお前を気に入ったというのは本当のようだな」
同じ屋敷にいるものの、滅多に会う事のない伯爵夫妻に呼び出されたリリアは恐縮のあまり気を失いそうだった。
「申し訳ありません。お嬢様に衣装を用意していただいているとお伝えしたのですが」
「いや、いい。これは公子の好意だ。受け取っておきなさい」
伯爵が言うと、ヘンリエッタによく似た銀髪の伯爵夫人も頷いた。
「それに、御覧なさい。まるでずっと前から用意されていたようにきっちりとした手直しがされているわ。こんなに短時間で仕上げるなんて侯爵家の仕立て人は腕がいいのね」
「噂によると、侯爵家には縫製機というものがあるそうだ。アンドレア王国で開発された機械で、人間が何時間もかかる縫物を瞬く間に仕上げてくれるものらしい。噂には聞いていたが大したものだ」
衣装の縫い目を見て、伯爵夫妻は嬉しそうに話している。
衣装を贈る意味を知っているはずなのにお咎めどころか触れもしないなんて。
リリアはそれ以上何も言えず、有難く衣装を受け取って伯爵夫妻の元を後にした。
「思った通りよく似合っている」
3日後に現れたローガンは、リリアが薄い黄色の生地に、縁取るように金の糸で刺繍がされた衣装を着ているのを見て、嬉しそうに顔を輝かせた。
「この度は大変ありがとう存じます。こんな素敵なお衣装をいただいてなんと感謝をすればよいのか」
「礼などいい」
リリアが頭を下げるのを止めて、ローガンは深い緑色の瞳でリリアを見つめた。
「私が言った不用意な言葉で、君が解任されてしまったのではないかと思ってね。罪滅ぼしだと思ってくれると嬉しい」
なるほど。だから伯爵夫妻もリリアを咎めなかったのかと、リリアは納得した。
衣装は貴族が使用人に用意するほかにも、褒美として与える事もある。そう言う意味合いだったのだろう。
「君の緑色の瞳には鮮やかな色がよく似合う――今日はおしろいも塗っているのか。いつもは可愛いのに今日はとても綺麗だ」
貴族というのは皆このように歯の浮くような台詞を言うのだろうか。
アンナに言われて慣れない化粧をしてみてよかったと、リリアは嬉しくなった。
早鐘を打つ胸が少し苦しく感じ、紅潮する頬を見られまいと俯いた。
「お戯れが過ぎます」
「私は本気だよ」
ローガンの言葉に驚いて顔を上げると、ローガンの熱を帯びた瞳が自分を見つめているのが分かった。
リリアはローガンから目が離せなかった。
その後も、3日と空けずローガンは何かと理由をつけてやって来た。
応接室に通されると、ローガンは何も言わずリリアを熱のこもった瞳で見つめ、リリアもまたローガンの訪問を心待ちにしていた。
婚約公示期間があと3日で終わるその日も、ローガンはヘンリエッタとの茶の時間を過ごすために伯爵家を訪れる事になっていた。
婚約公示期間が終わると、すぐに結婚式だ。
ヘンリエッタは伯爵家を離れ、リリアは伯爵家に残る。
もうローガンに会えないのだ。そう思う事自体、不敬だとわかっていたが、リリアはこの数日のローガンの熱っぽい瞳が忘れられなかった。
その日は珍しくヘンリエッタに呼ばれて、リリアは16日ぶりにヘンリエッタの部屋に入る事を許された。
「その衣装はローガン様から頂いたものね」
部屋に入って礼をしたリリアを一瞥して、ヘンリエッタは言った。
「も――申し訳ありません」
「いいのよ。そうなるとは思っていたわ」
リリアから顔を逸らしてソファに座るヘンリエッタの表情はいつもと変わらないようにも見えたし、どこか寂しげにも見えて、リリアは胸が苦しくなった。
それでも、ローガン様の奥方になるのはあなたじゃないですか……
そんな思いが胸に沸いたが、すぐに押し殺した。
なんてことを考えたの。不敬どころではないわ。主人を羨むなど――
リリアは自分の考えが恐ろしくなって、ヘンリエッタに対して申し訳ないという気持ちでいっぱいになった。
「手紙を書きたいの。用意して」
ヘンリエッタは立ち上がると、部屋の隅にある書き物机へと移動した。
リリアは我に返ると、急いで引き出しからインク瓶とガラスペンを取り出し、盆に載せてヘンリエッタの元に歩み寄った。
盆を机に置こうとしたその時、ヘンリエッタの手が盆に触れたような気がした。
驚いて手を滑らせたリリアは、急いで盆を握り直そうとしたが間に合わず、盆は床に叩きつけられ、弾け飛んだインクはヘンリエッタのドレスに飛び散り、ガラスペンは砕けてしまった。
「申し訳ありません!」
慌てて床に伏せて謝ろうとするリリアの肩を掴み、ヘンリエッタはリリアの動きを止めた。
「ローガン様から頂いた衣装を汚す気?――もういいわ。下がりなさい。アンナを呼んで」
冷たく言い捨てられて、リリアは頭を下げて部屋を辞した。
失望された。お叱りにはならなかったが、お嬢様にとってはもう私は叱責に値しない役立たずでしかないのだ。仕事もまともにできないくせに、主人の婚約者に恋慕し浮かれているなんて、役立たずどころではないわ。
リリアの目に涙が見る間に溜まって行ったが、アンナが控えている部屋へ行って、ヘンリエッタが呼んでいる事を伝えるまでは決して涙を流さなかった。
そして、その足で貯蔵用の地下室に降りると、声を殺して泣き続けた。
ローガンはそれからしばらくしてやって来た。
玄関で迎えたリリアは、泣き腫らした顔が見られないよう俯いたままローガンを出迎えて、いつものように応接室へと案内した。
「泣いていたのか?」
茶を用意するリリアの目が赤く腫れているのを見て、ローガンは心配そうに言った。
「い、いえ。そんな事はありませんよ」
努めて明るく笑おうとするリリアだったが、ローガンは立ち上がってリリアの側にやって来た。
そして、その手でリリアの顎を優しく掴むと、よく見えるように自分の方に向けさせた。
その手の温かさが、リリアの涙腺を再び刺激してしまい、思わず涙ぐんでしまった。
「ヘンリエッタ嬢に何かされたのか?」
責めるような口調だったが、怒りはリリアではなくヘンリエッタに向いている事はすぐに分かった。
「違います!お嬢様は何も――私が悪いのです」
それだけ言うと、ローガンの指から逃れるように顔を逸らした。
ああ、こんな言い方ではだめだ。誤解を招いてしまう。
でも、リリアはそれ以上言うと泣いてしまいそうだった。
茶を淹れて少し落ち着こう。それからちゃんと本当の事を言おう。そう思っていたのに――
リリアの背後に立ったままのローガンがリリアの体を包み込むように抱きしめた。
「ローガン様!」
思わず名前を呼んでしまったが、ローガンは「黙って」と言って、リリアを抱きしめた手を離さなかった。
「辛い思いをさせてしまってすまない」
ローガンの声が頭のすぐ後ろで聞こえたと思ったら、柔らかい感触と吐息が首筋に押し付けられるのが分かった。
「すまないが今日は体調が優れない。ヘンリエッタ嬢には後ほど謝罪の手紙と贈り物を用意すると伝えてくれないか」
手を離したローガンがそう言って、リリアが振り返るとローガンは既に応接室から出ていくところだった。
残されたリリアはローガンの唇が触れた首筋が燃えるように熱くなっているのを感じていた。
婚約公示期間が終わるその日の夜の事だった。
その日は王室が開催する夜会が開かれるため、朝から準備に追われていた。
あの日からローガンは伯爵家に姿を現さない。
その代わり、ヘンリエッタには急に帰った事を謝る手紙と、美しい宝石が、リリアには銀で作られた質素で小さな首飾りが贈られてきた。
「受け取っておきなさい」
受け取れないと家令の元に行くと、家令からは少しの間も空けずにそう言って追い返されたので、リリアは困惑しながらも、それを自室の机の引き出しに仕舞った。
王室が開催される夜会は年に3回ある。
王の誕生日を祝う宴、建国を祝う宴、皇太子の誕生日を祝う宴だ。
今日は皇太子の誕生日を祝う宴だった。
「あなたも侍女として行くのですよ」
ヘンリエッタの準備を手伝うつもりで部屋に呼ばれたリリアは、その場にいた女中頭から突然告げられて腰を抜かすほど驚いた。いや、実際驚きのあまりその場に座り込んでしまった。
「王室の夜会に侍女もつけずに行けるわけないでしょう」
これでもかとコルセットの紐を引っ張られながら、ヘンリエッタが顔色も変えずに言ったが、貴族の館で行われる夜会ならともかく、王室で行われる夜会に行くなどリリアの15年の人生で初めての事だった。
「で、でも私は平民です。王宮のお作法も知りません」
「そのくらい、わたくしを見て真似なさい」
ヘンリエッタは事もなげに言ったが、それがどれだけ難しいことなのか、リリアにはよくわかっていた。
髪を結われておしろいと頬紅を塗りたくられて、用意された衣装を着ると、ヘンリエッタの美しさには程遠いものの、それなりの令嬢に見えるから不思議だ。
「耳飾りはわたくしの真珠を貸してあげるわ。首元は――公子から贈られた首飾りがあったでしょ。それを着けなさい」
ヘンリエッタがローガンからの贈り物を知っていた事に驚いたが、家令から伝えられたのだろう。知っていて当然だ。
リリアは申し訳ない気持ちでいっぱいになりながらも、部屋から持ってきた首飾りを着けた。
「今日のエスコートはお父様よ。ローガン様は来られないわ」
全ての準備が終わった時、ヘンリエッタが冷たく言い放った。
馬車に揺られて辿り着いたのは、いつも遠くから眺めていた王城だった。
まさか自分がここに足を踏み入れるなんて。
伯爵のエスコートで馬車を降り、慣れた足取りで王城へと進むヘンリエッタ達の後ろからアンナと共について行くと、見た事もない豪奢なホールに到着した。
これでもかと人々が集まり、賑わっている。リリアは戸惑いながらもヘンリエッタから離れまいと後を一生懸命追いかけていた。
伯爵とヘンリエッタがホールに入ると、間もなく色々な人に声をかけられていた。
グランデルン伯爵と言えば国内でも有数の穀倉地帯を持ち、砂糖の供給も行っている。
新貴族と馬鹿にする家系も多いが、殆どの貴族は皆一度はグランデルンの恩恵に与っているのだ。
特に、砂糖は貴重だが、グランデルン領が国内を優先して供給してくれているおかげで、貴族達は甘い菓子や茶を飲むことが出来ると考えると、王家すらグランデルン伯爵を重用する事も無理はないと言えるだろう。
リリアは、噂には聞いていたが、自分の雇い主がここまで権威ある事実を目の当たりにして誇らしかった。
それに――
うちのお嬢様が誰よりも美しいわ――
美しい貴婦人や令嬢は山といるが、美しい銀髪に優雅な立ち居振舞いのヘンリエッタは、リリアの欲目を除いても別格だった。
惜しむらくは、表情の冷たさにより、近付き難い雰囲気を醸し出しているところだろうか。
いや、それすら孤高の美しさであるとも言えると、リリアは思っていた。
「国王陛下、及び王妃殿下、皇太子殿下の御成りである」
宰相の声がホールに響き渡ると、それまで賑やかだった貴族達は静まり返ってホールの一段高い場所に設置された王座に向かって腰を曲げて礼をした。
足音が響き渡り、やがてホールに一瞬の静寂が染み渡ると、威厳のある声がホールの空気を揺らした。
「此度は皇太子の為に足労、感謝する」
国王の言葉を皮切りに、再びホールに賑やかさが戻った。
公爵家から順に国王と皇太子に挨拶に進み出て、ペールヒル侯爵家の番となった。
侯爵夫妻と共に、ローガンの姿もあるのを見て、リリアの胸は熱くなった。
しかし、今日は出席できないとヘンリエッタのエスコートを断ったのではなかったのか。
リリアは恐る恐るヘンリエッタの横顔を見たが、ヘンリエッタの表情はいつものように変わらない。
むしろ、扇で隠された口元は笑みが浮かんでいるようにも見える。
「ウィリアム・ライオネル・フィッツロイ・ペールヒル侯爵及びミネルバ、ローガンがご挨拶いたします。リアム・エリオット殿下おめでとうございます」
ペールヒル侯爵が膝を曲げて礼をすると、夫人とローガンも続いた。
「そなたの常なる忠義には感謝する」
リアム王子はそう言うと、侯爵一家は頭を上げた。
そして、そのまま下がると思われたが、その前に国王が口を開いた。
「ローガン公子は確か、グランデルン伯爵令嬢と婚約をしたのだったな」
名を呼ばれたローガンは恭しく頭を下げ、ヘンリエッタの周辺にいた貴族も示し合わせたように数歩下がったため、ヘンリエッタ達の周りに空間ができた。
「国の安全を担うペールヒル侯爵家と、兵糧を支えるグランデルン伯爵家の結びつきは国にとっても喜ばしいものだ」
「ありがとう存じます」
国王の言葉に、頭を下げたままのローガンが答えた。
当たり前のやり取りなのだろうが、リリアの胸には何故か不安が広がった。
ローガンの声がいつもリリアにかけられる優しく温かい響きではなく、義務的で冷たいと感じたからだろうか。
「婚約公示期間は本日までだったな――両家の結婚に異議のある者は名乗り出よ。私が審議してやろう」
王の言葉に会場がどよめいた。
両家の間で交わされた婚約で、既に親族たちからも認められ、あと数時間で公示期間が終わると言うのに、王は何を考えているのか。
リリアはヘンリエッタが傷付かないかと心配したが、ヘンリエッタは先ほどと同じように、口元を扇で隠したまま王座を見つめている。その目は、どこか熱っぽく潤んでいるようにも感じられた。
「ふむ――いないようだな」
どことなく残念そうな含みを持たせて王が言うと、それまで恭しく頭を下げていたローガンが頭を上げた。
「虞ながら発言をお許しください」
「許そう」
王の許しを得て、ローガンはもう一度浅く頭を下げると、再び顔を上げた。
「わたくし、ローガン・ダリル・フィッツロイ・ペールヒルは、この婚約を破棄しとうございます」
ローガンの言葉に、会場中にどよめきが起きた。
リリアは驚いてヘンリエッタを見たが、ヘンリエッタは扇で隠した口元に笑みを浮かべたまま微動だせずにそのやり取りを見つめていた。
「何故そなたはグランデルン伯爵令嬢との婚約を破棄したいと申す」
国王の口調には驚きも動揺も感じられなかった。
「私は、情けなくもグランデルン伯爵家の使用人であるリリアに懸想をしてしまいました。それは私の未熟さが招いた結果ではありますが、それに気付いたヘンリエッタ嬢は事もあろうに、不当な人事でリリアを降格させ、私の見ていない場所で虐待を行っていたのです」
ローガンの言葉に再び会場がどよめきたった。
「虐待!?」
中でも一番驚いたのはリリアだった。思わず声が漏れだす程に。
「リリアは客間女中の役割を与えられていたにもかかわらず、粗末な衣装のままでした。私が衣装を贈ると、それを着用してはいましたが、次第におしろいを使うようになっていました。おそらく、打ち付けられたあざを隠すためだったのでしょう。不格好に厚く塗られたおしろいが全てを物語っていました」
ローガン様は何を言っているのだろう。
おしろいを塗った自分を綺麗だとほめてくれたのは、幻だったのだろうか。
周囲の貴族の視線が自分に集まっているような気がする。
リリアは驚きと恥ずかしさで、その場から逃げ出したくなった。
「そして3日前に伯爵家を訪ねた際、リリアは耐え切れず客である私の前で泣き出す程の仕打ちを受けたのです。私が何を聞いても『自分が悪い』としか答えず――そこまで追い詰められるほどの事をされたのは状況からも明白です。侯爵家は使用人であっても家族同様に扱います。しかし、ヘンリエッタ嬢のように冷徹な人は我が侯爵家にふさわしくない。いや、下々の者を理由もなく打ち付けるなど貴族としても品格を欠く行為。よって私はヘンリエッタ嬢との婚約を破棄したいと考えます」
ローガンが言い終えると、どよめきたっていた会場は水を打ったように静まり返った。
そして、集まった貴族達の視線は王座とヘンリエッタにそれぞれ集中していた。
「グランデルン伯爵、ヘンリエッタは前へ」
国王の言葉を受け、伯爵とヘンリエッタは呆然としているリリアを引っ張って、ペールヒル侯爵一家の隣に並ぶように立った。
「リリア、辛い思いをさせてすまない」
小声だが、しかしよく通る声でローガンがリリアに囁いたが、それはその場にいた殆どの人間の耳にも届いていた。
「その者がリリアか。そのままでよい。許す」
国王の言葉に平伏しようとしていたリリアは、中途半端に頭を下げたままどうしていいのかわからず混乱していた。
「しっかりお立ちなさい」
ヘンリエッタが声をかけてくれたおかげで、リリアは我に返る事ができた。
このような事態なのに、ヘンリエッタは戸惑うどころか、いつもよりも威厳高く美しく見えるのはなぜなのだろう。
「リリアに問おう。ローガン公子の言う事はまことか?」
国王の問いに、リリアは何と答えればよいのかわからなかった。
嘘ですと言えばローガンが罰せられる。しかし肯定すればヘンリエッタは婚約の破棄された令嬢という汚名を被せられるのだ。
「へ……ヘンリエッタ様はとても優しいお方です」
悩んだ末に、リリアが絞り出した言葉はそれだけだった。
「リリアは伯爵家の女中です。ヘンリエッタ嬢を訴える事など出来るはずもありません」
ローガンがリリアを庇うように言うと、リリアは「ひぃっ」と小さく声を上げた。
ダメだ。この人は何を思っているのかは知らないけれど、ヘンリエッタ様を悪女に仕立て上げようとしている。
「発言をお許しいただけますか」
ヘンリエッタがそう言うと、王は頷いてそれを許した。
伯爵も夫人も、ヘンリエッタを止めるどころか涼しい顔をしている。
なぜこの方たちはお嬢様をお守りしようとなさらないの?
リリアは胸の奥にもやもやとしたものを感じた。それは、所謂嫌な予感というものだった。
「ローガン様のおっしゃった事は事実であり、事実でありません――しかし、ローガン様は随分と前からリリアをなにかと気に掛け、心を砕いてくださっておりました。それが恋心からだという事は立った今初めて知りえたのですが」
ヘンリエッタの淡々とした美しい声がホールに響き渡る。
立ち居振る舞いの美しさに、澱みない言葉まわしのせいでまるで芝居の一部を見ているような気になってしまうが、これは現実だ。
なぜお嬢様はありもしない罪を認めるような事をおっしゃるの?
リリアはヘンリエッタが何を言っているのか、またこれから何を言うのか見当もつかない。
ただひとつわかっているのは、ヘンリエッタの後ろに立っていたはずなのに、いつの間にかローガンに引き寄せられて肩を抱かれているという事実だ。
何をしているんだ、この男は。
「お許しいただけるのであれば、わたくしはローガン公子の希望を受け入れたいと思っておりますが、アーバクロンビ家とフィッツロイ家の婚姻は国王陛下が承認なされた婚姻。畏れ多くもこれを当人同士の意思のみで決断する事は出来かねると思われます」
ヘンリエッタは美しい所作で膝を曲げると、ドレスが広がり花が咲いたように見えた。
リリアはその所作に見とれそうになったが、このままではヘンリエッタの名誉が損なわれてしまう。――しかし、何故伯爵夫妻は涼しい顔で何も言わずに見守っているのだろう。
「ふむ――で、あればグランデルン伯爵よ。そのリリアを養女に迎えローガン公子と婚姻させるがいい。そうすれば両家の婚姻という約束は果たされよう」
「なんです――」
国王の言葉にリリアが思わず声を上げたが、すかさずローガンの手で口を塞がれた。
「慈悲深い采配を賜りありがとうございます――リリア、私と結婚してくれるね」
国王に向かって最敬礼をすると、ローガンはリリアに向き直って跪いた。
「ヘンリエッタ嬢は――」
国王はローガンの求婚など無視して続ける。
「婚約公示期間中の破棄であることから、この婚約を無効とし、我が息子リアム・エリオット・グーデンベルグとの婚姻を命ずる。婚約公示期間は10日間とし、公示期間終了を以て結婚式を執り行う。異議のある者は名乗り出よ」
「な――」
ローガンが言葉を失い、跪いたまま固まっている隙に、リリアはヘンリエッタに駆け寄ったが、それより先にリアム王子がヘンリエッタの手を取って抱き寄せた。
リリアは伯爵夫人に引き寄せられて、しっかりと肩を抱かれて動けない。
「奥様――これは一体……」
「お母様とお呼びなさい。あなたは今から私の娘なのですよ」
不安で仰ぎ見た伯爵夫人は、なぜか慈母の笑みを浮かべている。
どういう事なのだ。
なぜこの方はこんなにもあっさりと事態を受け入れているのか。
リリアは助けを求めるように伯爵に視線を移したが、伯爵もまたこうなる事が当然だったかのように夫人とリリアを見ている。
ホールでは、よくわからないうちにヘンリエッタとローガンの婚約が「無効」となり、ヘンリエッタと皇太子の婚姻が決まった為、とりあえず祝っておけとばかりに集まった貴族達が拍手喝采し、音楽が鳴り響いて皇太子の誕生日を祝う宴が賑やかに始まったのだった。
「あの男が考えている事くらいお見通しなのよ」
宴の翌日、リリアはヘンリエッタに呼ばれて、いつもは座る事のないソファに腰を下ろしていた。
宴が始まって人々の視線がヘンリエッタ達から逸れた隙に、伯爵家と侯爵家はホールの近くの控室に連れて行かれた。
そこには何故か司祭と文官が待機していた。
「これにてリリアはアーバクロンビ家の養女となりました」
なにかの書類に伯爵がサインをすると、文官はその書類を受け取ってリリアに言った。
「本日よりそなたはリーリヴァリ・エイル・アーバクロンビ・グランデルンである」
「り……え?」
文官が宣言すると、リリアは間抜けな声を出した。
「では異議を申し受け、ローガン・ダリル・フィッツロイ・ペールヒルとヘンリエッタ・ローズ・アーバクロンビ・グランデルンの婚約を無効とし、リアム・エリオット・グーデンベルグとヘンリエッタ・ローズ・アーバクロンビ・グランデルンの婚約を認める」
隣では司祭がやっと聞き取れるほどの早口で言いながら手早く2つの書類を作成すると、さっと丸めて2つとも懐に入れてしまった。
「リリア――いや、リーリヴァリには爵位と財産の3分の1を、ヘンリエッタには領地と残りの財産をそれぞれ相続する権利を与える」
「承認いたしました」
伯爵が言い終わるか終わらないかのうちに、文官が答えた。
まるで事前に打ち合わせでもしていたかのように、澱みない流れに、平民のリリア――リーリヴァリも、違和感を覚えた。
「なんだって!」
声を上げたのはローガンだった。
「婚約を破棄されたのであれば相続権は残りの後継者に全て移行するはずだろう」
「落ち着きなさい、ローガン公子」
伯爵がなだめるように言った。
「何か誤解をされているようだが、陛下はヘンリエッタと公子の婚約を無効とおっしゃったのだ。つまり、なかったことにしてくださったのですよ」
「伯爵のおっしゃる通りでございます。私も先程無効と宣言いたしましたので、教会でもヘンリエッタ様とローガン様の婚約は無かったことになっております」
司祭の言葉にローガンは顔色を青くしている。
「だが――だが国王は我がフィッツロイ家とアーバクロンビ家の結婚は継続だと」
「そうです。王家が認めたのは我がアーバクロンビ家とフィッツロイ家が婚姻によって一族が結びつくこと」
「そして、教会が認めるのは花婿と花嫁の結婚であります」
伯爵と司祭が交互に言うのを聞いて、ローガンは膝から崩れ落ちそうになっている。
リリアには何のことかわからないが、ローガンにとって良くない事が起きている事は理解できた。
「ならば破棄は取り消しだ!ヘンリエッタとの婚約は継続する」
「何を言っている」
リアム王子が呆れたように口を挟んだ。
「先程司祭が私達の婚約の成立を宣言しただろうが」
リアム王子の言葉にローガンは顔を真っ赤にした。
「あんな早口聞き取れるわけないだろう!領地の相続権をヘンリエッタにするのなら、私は何のために平民なんぞと結婚するんだ」
それが本音だった。
リリアは耳を疑う事もなかった。これまでの流れで薄々わかっていた気がした。
学は無いが、馬鹿ではないリリアには、王座の前の茶番が繰り広げられていた時から、なんとなく気付いていたのだ。
だが、貴族の世界に詳しくないリリアには、それが何なのかまではわかっていなかった。
しかし、やっとはっきりと理解する事ができた。ローガンの思惑とは違う方向に全てが用意されていたのだと。
「あの男はわたくし相手だと領地を好き勝手に出来ない事に気が付いて、新しい『アーバクロンビの娘』を欲していたのよ」
ヘンリエッタがこんなに長くリリア――いや、リーリヴァリに話しかけるのはこれが初めてではないだろうか。
向かい合って座るリーリヴァリは、飲みなれない茶を口にしながら考えていた。
ローガンが言った通り、女性相続人が婚約破棄をされた場合、次の娘がいれば相続権はその娘に移る。
ヘンリエッタは幼い頃から領地の運営について厳しく教育されていた。
夢見がちな姉に比べて、しっかりした妹に領地を任せようと、伯爵は考えていたのだ。
ローガンはその事実に気付くと、どうにかして婚約を破棄しようと考え始めていた。
しかし、アーバクロンビ家に残された娘はヘンリエッタのみ。ただ破棄をしただけではフィッツロイ家には何も残らない。
だから、ローガンは流行りの物語を耳にしたときに計画を思いついたのだ。
アーバクロンビ家の使用人と関係を持ち、ヘンリエッタを悪女に仕立て上げてアーバクロンビ家の有責で婚約を破棄する事ができれば、自分の『想い人』をアーバクロンビ家の後継者として婚約者をすり替える事ができるのではないかと。
その浅はかすぎる考えに気が付いたヘンリエッタは、それを利用する事にした。
「元々、わたくしは王子の婚約者候補だったのよ。でも、正式な打診がされる前にペールヒル侯爵から婚約を申し込まれてしまったの。王家としても、侯爵が申し込んだ以上正当な理由もなしに却下できないでしょ。だから承認せざるを得なかったのだけど、婚約が決まった途端、侯爵の態度が酷くなったそうよ。まるで我が世の春とでも言いたいような」
ヘンリエッタは呆れたように溜息をついた。
「ペールヒル侯爵は国の軍事をまとめ上げてはいるけれど、王宮からの給金だけで貴族らしい生活を賄うのは難しいのよ」
「しかし……ペールヒル侯爵は大きな領地をお持ちだったと聞いています」
リーリヴァリがおずおずと言うと、ヘンリエッタは鼻で笑うように息を吐いた。
「侯爵はお隠しになっていたのだけど、実はペールヒル領は50年前の灌漑事業の失敗から不作が続いているの。優雅な生活をしているように見えて、その内情は借金まみれよ。だからよりグランデルンを欲しがったのだけど、それ以上にグランデルンは国にとっても重要な土地だから――結婚が決まったせいで、それを手に入れたと思って好き放題していたようね」
「好き放題――ですか」
「わたくしと婚約してからは随分羽振りがよくなったらしいわ」
「羽振が……」
「随分と強引な事もされていたそうよ――例えば、軍部に納入される武器の数を誤魔化したりね」
「それは――重罪では」
「そうね。でも、アーバクロンビと結婚さえしてしまえば、穴埋めなど容易いとでも思ったのではないかしら。でも、わたくしがローガン様に領地を任せる気なんてないことを察したのね。馬鹿なくせにそう言うところだけ勘がいいのよ。あの男は」
「だから私を……」
「平民なら簡単に堕とせると思ったのでしょうね。ちょっと微笑んで贈り物をすれば、貴族に慣れていない女なら簡単でしょう?」
ヘンリエッタの言葉にリーリヴァリは、自分に与えられた衣装の数々を思い出して納得した。
「運良く、あの男が好きそうなあなたがいて助かったのよ」
ヘンリエッタの言葉に、リーリヴァリはヘンリエッタが自分と同じ年頃の女中を望んでいた理由がやっと理解できた。
その顔を見たヘンリエッタは、唇の端を少し上げて嬉しそうに見える。
「あの……もしかして国王陛下達も……?」
リーリヴァリは恐る恐る訪ねてみた。
あの場での発言の数々や、とんとん拍子以上に手早く的確に処理が行われていた事、なによりあの控室にいた司祭や文官は王宮の事など全く知らないリーリヴァリにとっても不自然この上なかったのだ。
ヘンリエッタは、何を当然の事をと言いたげな視線をリーリヴァリに送った。
「侯爵が忠臣のままであれば、あのような真似はなさらなかったでしょうね――まあ、そうであればわたくしも素直に結婚していたと思うけど」
リーリヴァリは「あぁ」と小さく頷いた。
「伯爵家が単独であればそこまで脅威ではないのよ。所詮我が家系は新貴族。後数世代はそう言われるでしょうから、貴族社会においては然程の影響力もないの。しかし、力のある血統貴族に取り込まれるのでは話は変わってくるのよ。古い貴族ほどその地盤は根強いわ。下手をすると王家よりも力を持ってしまう。だから、忠臣であった侯爵家ならとお許しになったのよ」
ヘンリエッタの説明はわかるようなわからないような感じだった。
しかし、これからは理解できるようにならないといけないのだ。リーリヴァリは真剣にヘンリエッタの話を聞いていた。
「ペールヒル侯爵はね、計画通りあなたと結婚した後はお父様とお母様を殺して領地を手に入れるつもりだったのよ」
「そんな」
「だからね、わたくしから陛下に計画を持ち掛けたの」
まるで世間話でもしているかのような口調ヘンリエッタに、リーリヴァリは危うく手にした茶器を取り落としそうになった。
「そ、そんな事……」
何処で知ったのか、どうやって知りえたのかと聞きたかったが、ヘンリエッタが微笑んだのでリーリヴァリは聞くことが出来なくなった。
「元々王家もグランデルンの土地を欲しがっていたのだから話は早かったわ」
この話は自分が聞いていいのだろうか。とても重要で恐ろしいことを聞かされているのではないだろうか。
リーリヴァリが居心地の悪そうな顔をしているのを見て、ヘンリエッタは微笑みながら首を傾げた。
「グランデルンの肥沃な大地と、そこで生産される農作物は国の力を強固なものにさせるわ。一貴族が抱えるには大きすぎると国王もお考えだったの」
「だから――ヘンリエッタ様と王子のご結婚のお話が上がっていたのですね」
「そうね」
リーリヴァリが慎重に話すのを、ヘンリエッタは満足気に見つめていた。
「もしかして、私がお嬢様の女中になったのって――」
「あら、リーリヴァリ。わたくし達はもう姉妹なのだからお姉様とお呼びなさい――そうね。あの男が好きそうだけど、馬鹿ではない子が必要だったの。素直で、機転が効いて、忠実な妹がね」
「そんな――」
ヘンリエッタの悪びれない答えに、リーリヴァリは血の気が引けるのが分かった。
王の名の下に定められた結婚は、神の名の下に定められた結婚よりも拘束力を持つ。
控室で伯爵と司祭が言っていたように、神殿は夫婦の、王家は家同士の婚姻を許可するため、フィッツロイ家とアーバクロンビ家の結婚は変えることができない。
そして、リーリヴァリは王命によりアーバクロンビの養女となってしまったのだ。ローガンと結婚するために。
つまりリーリヴァリは何があってもローガンと結婚しなければならないし、役に立たない平民あがりのリーリヴァリをあの男が大事にするとは到底思えなかった。
「安心なさい。まだ動きは知られていないけど、侯爵がした事はいずれ遠くない先に白日の下に晒されるわ。そうなれば、侯爵家は取り潰し、領地は没収されるでしょうね」
「そんな――じゃあローガン様はどうなるんですか?」
ヘンリエッタの言葉にリーリヴァリはわかりやすく取り乱している。
それでも、案ずるのが自分ではなくローガンの事なのがヘンリエッタには好ましく思えた。
「あなたと結婚したらローガンは次期グランデルン伯爵なのよ。少なくともあなたがいる限りは貴族の身分は約束されるわ。それに、あなたが相続する資産があれば、贅沢さえしなければ生活に困ることもないでしょうから、あの男は嫌でもあなたを大事にせざるを得ないわね」
そんなものなのだろうか。リーリヴァリには貴族の生活も、ヘンリエッタが言う資産がどのくらいなのか見当がつかなかった。
「でもお嬢――お、お姉……さま。私に貴族の奥方なんて無理です」
「大丈夫よ。あなたは頭がいいし機転の利く人ですもの」
唇の端を少し上げたヘンリエッタは、あまりにも美しくて、リーリヴァリは思わず見惚れてしまった。
ヘンリエッタは続けた。
「あなたは王家が命じてわたくしの妹になったのよ。そしてわたくしは将来の王妃。わたくしが後見するのに誰に非難されると言うの」
「で――でも」
リーリヴァリの泣きそうな顔を見ながら、ヘンリエッタはとても楽しそうだ。
「あなたを巻き込んでしまって悪いとは思っているのよ。でも、よく考えてみて?国で二番目に尊い皇太子妃の後見を受けた次期侯爵夫人よ。国でも最も尊い貴族になれるのよ?素敵でしょ」
笑顔のまま紅茶を一口飲むと、ヘンリエッタはニヤリと笑った。
リーリヴァリは言葉を無くしてヘンリエッタを見つめている。その顔が可笑しいのか、ヘンリエッタは今まで見た事のない笑顔で言った。
「あら、私を悪役令嬢とやらに仕立て上げようとしたのはあの男よ?――悪役令嬢ってこういうものでしょ」
銀色の長い髪を肩に垂らし、部屋着姿の美しい令嬢は、鏡台の大きな鏡越しに尋ねた。
声をかけられたのは、令嬢よりも一つ年下の女中で、リリアという名の少女だった。
「は、はい。グランデルン伯爵家でお世話になって三月《みつき》になります。お嬢様」
おどおどと、しかし口調ははっきりとリリアは答えた。
栗色の髪に緑の瞳をもつリリアを、令嬢は赤みがかった瞳で見つめた。
その目には好意や興味などという優しさではなく、叱責の色が浮かんでいた。
「三月もいたのに櫛のひとつも使えないのかしら」
令嬢の言葉にリリアはビクッと体を震わせた。
何か失敗したのだろうか。
今日はお嬢様付きの女中が熱を出してしまった為、リリアが急遽お世話をする事になってしまった。
気難しいお嬢様は、歳の離れた熟練の女中を嫌い、同世代の若手の女中を好むという理由で、リリアが抜擢されたのだ。
お世話の手順は聞いている。今のところ間違えてはいないはずなのに――。
「髪に香油を付けるときは櫛で伸ばしながらやるものよ。でないと油がつきすぎて髪が重たくなるでしょう」
溜息を吐きながらの令嬢の指摘に、リリアはハッとなった。
手順は教えてもらったが、基本中の基本なのだろうか、先輩方は手入れの方法まで細かく教えてはくれなかったのだ。
「も、申し訳ありません、お嬢様」
リリアは頭を下げると、急いで鏡台にある象牙の櫛を取ろうとした。しかし、それより早く令嬢は木の櫛を手に取り、リリアに振り向くこともせずにそれを差し出した。
「象牙は仕上げ用よ。油を伸ばすときはこの木の櫛を使いなさい。塗りすぎた油を吸い取ってくれるのよ」
「あ、ありがとうございます」
「まったく…急遽代理になったからと言って、髪の手入れひとつできないなんて…」
不満げに独り言を言いながら、令嬢は鏡を見つめた。リリアはそれ以上失敗しないように、ビクビクしながらなんとか長い銀髪をまとめ上げると、令嬢の部屋から逃げるように退出した。
銀色の髪に切れ長の目をした美しい令嬢――グランデルン伯爵の次女ヘンリエッタ・ローズ・アーバクロンビ・グランデルンは16歳になったばかりだった。
デビュタントを終えた15歳の春に、2歳年上でペールヒル侯爵家の跡取りであるローガン・フィッツロイ・ペールヒルとの婚約を決められて、先日漸く婚約式を終えたばかりだ。
建国初期より永く続く名家であるフィッツロイ家にとって、三代前に叙爵された新貴族のアーバクロンビ家との結婚は、金銭以外に全く価値の無いものと思われた。
しかし、国の北部にあるグランデルン領は、土地の広さだけでなく、先々代が長年の研究の末に土壌の改良に成功して広大な穀倉地帯を作り上げ、小麦やイモだけでなく、貴重な砂糖すら精製に成功している。
特に砂糖の精製の貢献度は高く、それまで一握りで金一塊ほどだった砂糖の値段が、一握りで平民の月の収入ひと月分程度まで下がることとなり、貴族ですら入手が困難だった甘味が、今では平民でも苦労すれば入手が可能となる程になったのだ。
その功績により男爵位を賜り、更に先代の時代に起きた国全体の飢饉の際には、備蓄していた食糧を提供して王室をはじめとした多くの貴族を救い、伯爵へと陞爵した。
間違いなく、今最も勢いのある家である事を考えれば、第三身分に等しい新貴族であっても縁を結ぶのは当然の事だろう。
それに、都合のいいことにアーバクロンビ家には男子がおらず、ヘンリエッタの5つ離れた姉はウィズランド子爵家の次男と半ば駆け落ちのように結婚して相続権を放棄してしまったため、アーバクロンビ家の財産は全てヘンリエッタが相続する事になっている。
後継者のいない貴族家では、女子が財産爵位を預かり、その夫の家系がそれらを甘受する事になる。
つまり、ヘンリエッタと結婚する事はアーバクロンビ家の財産はもちろん、豊かなグランデルン領を手中に収めることになる。
国内に流通する小麦やイモの大多数を生産し、甜菜から作られた上質の砂糖を貴族達に供給するグランデルン領を手中に入れる事ができれば、飢饉によってかつての勢いを失った侯爵家にとってこの上ない復興の契機になる。
その為、この結婚は侯爵家から申し出たものだった。
婚約式を終えると、ヘンリエッタはローガンと共に両家の親戚への顔合わせに忙しかった。
婚約式から60日間は婚約公示期間となり、この婚約に対する異議申立てを受け付ける。その為、その間に親族へ挨拶や顔合わせを行い、家族として認められる事が重要とされていた。
もっとも、それらは飽くまで形式的なものであり、家長が決めた結婚に分家や家臣が反対することなど出来るはずがなかった。
それでも、慣習だからとヘンリエッタは3日と開けずローガンにエスコートされて、お茶会だ晩餐会だと忙しく飛び回っていた。
「リリア、明日の衣装の用意はできていて?」
朝の支度をしていると、鏡台越しヘンリエッタに尋ねられて、リリアは慌てて頭を下げた。
「はい、お嬢様。明日は薄緑のドレスをご用意しています」
「それはひと月前にサルエル伯の午餐で着たものではなくて?」
ヘンリエッタの切れ長の目が鋭く鏡越しにリリアを睨んだ。
首まで生地に覆われた、美しいが質素な意匠の午餐用のドレスは晩餐会にはそぐわない。
晩餐会は夜会ほどではなくとも、華やかなものを着るのがマナーだ。
自分について2週間も経つというのに、ドレスコードすらも理解していないのだろうか。
しかし、リリアはすぐに髪を梳く手を止めると、衣装部屋に駆け込んで薄緑のドレスを手に戻ってきた。
「このとおり胸元と肩口の形を少し変えて、裾に銀糸で刺繍をあしらって、晩餐会用にお直ししています」
リリアの言葉にヘンリエッタは眉根を上げて驚いてみせた。
胸元の意匠が大きく変わり、大胆に開かれているが、胸元のレースがそれを上品なものへと整えていた。肩口には生地が追加されてふわりと膨らんで、若々しさを強調している。裾にはリリアの言う通り、銀糸で蔦と薔薇が刺繍されており、晩餐会どころか夜会でも十分見栄えがするだろう。
「ならいいわ」
それだけ言うと、ヘンリエッタは視線を戻した。
リリアは、言葉少なだがヘンリエッタが満足してくれた事がわかっていた。
翌日、ヘンリエッタはそのドレスを纏い、どことなく嬉しそうな後ろ姿でローガンにエスコートされて行った。
お嬢様付きの女中は回復するどころか、容態が悪化して領地に戻される事となった。
その為、リリアがヘンリエッタの専任の女中へと昇進したのだが、それは決して喜ばしい事ばかりではなかった。
ヘンリエッタは使用人に対して決して優しい主人ではなかった。用件を伝える時も必要最低限の言葉しかかけない。仕事は完璧に出来て当たり前で、使用人は常に主人の期待を上回る成果を求められている――と、リリアは感じていた。
そのため、リリアはお世話を任された短い期間を完璧に勤め上げる為に、家中の使用人にヘンリエッタの性格や好みを聞いて周り、自分なりに対策を立てる事にした。
それがヘンリエッタの意に沿ったのだろう。
リリアの出世に文句を言うものは誰もいなかった。――もちろん、あの気難しいお嬢様のお世話などしたくないという気持ちも、皆の中に少なからずあったことは否めない。
それでも、リリアはヘンリエッタが自分を選んでくれた事を誇らしくも思っていた。
ヘンリエッタの所作は美しい。家にいても、髪を梳く時でさえ気品が満ち足り威厳が溢れているのだ。
ヘンリエッタが、完璧な所作と気品でアーバクロンビ家の家格を押し上げた事実は変わらないのだから。
貴族界では新貴族だの第三身分だの言われてはいるが、リリアにとってヘンリエッタはまるで王女のように尊く遠い存在だったから、余計にそう感じるのかもしれない。
だが、王女に仕える喜びは、リリアをより勤勉にさせていた。
ヘンリエッタが王女なら、その婚約者であり正真正銘の血統貴族であるローガンは王子どころか、神様のような存在だった。
正真正銘の平民であるリリアにとって、付け焼き刃の礼儀作法では粗相をしてしまうのではと、気が気ではなかった。
「お嬢様はお仕度中です。もうしばらくお待ちいただくことになると思いますが」
リリアはヘンリエッタを迎えに来たローガンが待つ応接室に茶を出すと、申し訳なさそうに深々と頭を下げた。
いつもはリリアが支度をするのだが、今日は接待する女中がいないからと、リリアがローガンに茶を出すように言われたのだ。
「私が早く来すぎてしまったから仕方ない。お前のせいではないよ」
ローガンは深い緑色の瞳でリリアを見つめると、微笑んだ。
座り姿一つとっても非の付け所のないローガンの微笑は、貴族はヘンリエッタしか知らないリリアでも貴族らしいとわかるほど美しく、リリアはすっかり心を奪われてしまった。
「そ、そろそろお仕度が整ったと思いますので、見てまいります」
リリアが慌てて部屋を出ようと踵を返すと、背中からローガンの声が聞こえた。
「お揃いだね」
何のことかわからず、足を止めて恐る恐る振り返ると、ローガンは微笑んだまま自分の目を指差すと、ゆっくりとリリアを指差したので、リリアはやっと瞳の色だという事に気が付いたのだった。
それからしばらくの間、ローガンは屋敷を訪れても、リリアはローガンと挨拶以外の言葉を交わす事はなく、ただ視線だけが時折交差するのを感じていた。
婚約公示期間が終わるまであと20日を切っていた。
「ねえリリア、聞いた?大陸の向こうの国では最近、意地悪な令嬢が婚約を破棄されて罰を受けるお話が流行っているのよ」
同僚の台所を担当する女中が、パンを頬張りながらリリアに話しかけた。
本など高級で庶民には到底手が出ないが、そういった物語を話して聞かせてくれる吟遊詩人の存在は、庶民にとっては知識や物語を得る最高の手段だった。
大陸のあちこちを旅する吟遊詩人は、あらゆる物語を歌って聞かせてくれるので、リリアも休みが貰えた日は広場で歌う吟遊詩人の元に通っていたものだ。
「あんたお嬢様付きになってから休みもないから知らなかったでしょ」
ヘンリエッタは基本的にはリリア以外の女中を近寄らせないので、リリアは必然的に休みなく働く事になっていた。
おかげで、このひと月の間リリアは一日たりと休みをもらっていない。
とは言え、殆どはヘンリエッタの朝の支度と外出時の支度をするだけでよいので、屋敷中の掃除をしていた頃に比べると体の疲れは全くない。
「婚約を破棄だなんて――神に背く行為だわ」
楽しそうに話す女中に対して、リリアは恐ろしさを感じて眉をひそめた。
婚約はもちろん結婚は教会が取り仕切るものだ。神の許可を得て行う婚約や結婚は、相当な理由があろうとも破棄されるものではない。
その為に婚約公示期間というものが存在するのだから。
「なんでも、貴族の男性が好きになったのが庶民の女で、それが気に食わなかった婚約者の女性が、庶民の女を折檻したの。そのことに腹を立てた男性が夜会で王家や貴族達が見ている中で婚約を破棄したらしいの」
「そんな事で婚約を破棄だなんて……」
リリアは聞けば聞くほど恐ろしくなり身震いした。
貴族の男性が平民に手出しをする事は珍しい事ではない。町には貴族のお手付きになった女性など珍しくもなんともない。
それでも、結婚となると話は違う。神に仕える貴族にとって結婚は神聖なものだった。
貴族は義務として王家と神に忠誠を誓う。だから貴族の結婚は貴族同士でしか認められないのだ。
したがって、一度誓った結婚を覆すのは神に反する行為であると考えられるから、貴族にとって離婚というものもあり得ない。
一度結びつけば一生添い遂げる責任がある――貴族の結婚とはそういうものだ。
「神の定めた決まりに逆らってまで愛を誓いあうの。とても恐ろしいけど、物語だからいいのよ」
話してくれた女中も青ざめているが、どことなく楽しそうにも見えるのは、彼女の信仰が薄いからなのかもしれない。
リリアはこの国の多くの人がそうであるように、彼女もまた敬虔な信者だった。
その為、自分の都合で婚約を破棄するという考えが恐ろしくて仕方なかったのだ。
「庶民の間では下世話な話が流行っているそうね。あなたは知っていて?」
ヘンリエッタの部屋にお茶の用意を運んだリリアは、不意にヘンリエッタに話しかけられて驚いた。
「聞いたことはあります」
お茶の用意をする手を止めることなく、リリアは目を伏せたまま答えた。
ヘンリエッタが言うように、下世話な話だ。わざわざお嬢様の耳に入れることはないだろう。
お嬢様は結婚を控えていらっしゃる大事な時期だ。あんな恐ろしい話を耳に入れて不安にさせることもない。リリアはそう考えた。
「そう――ところで、ローガン様は随分あなたを気に入っていたわ」
リリアが淹れた茶を受け取ると、ヘンリエッタは続けた。
「これからはローガン様がいらしたらあなたが接待なさい」
「お、お嬢様それはいったい――」
リリアは驚いて顔を上げてヘンリエッタを見た。
「言葉通りよ。自分と同じ緑色の瞳が嬉しかったんですって――よかったわね。うまくいけば妾の一人くらいにはなれるかも知れないわよ」
意にも介さない口調でヘンリエッタはそう言うと、お茶の準備を終えたリリアに下がるように言った。
何かの間違いで、ローガンが自分を気に入ったなどという事はないし、自分にもそんなつもりはないと言いたかったが、ヘンリエッタは話しかけるなと言いたげな態度だったので、リリアは肩を落として部屋を後にした。
リリアがお嬢様付きを解任されたと聞かされたのは、翌日の朝の事だった。
「私が何かしでかしてしまったのでしょうか」
女中頭に解任を告げられたリリアは、青い顔で女中頭に掴みかからん勢いで尋ねた。
「理由は聞いていないわ。でも、お嬢様はこれからはアンナをとおっしゃられたのよ」
アンナは女中の中でも年長者で、ヘンリエッタが子供の頃から面倒を見ていた者だった。
ローガンとの結婚の話が出始めた頃から、ヘンリエッタは同世代の女中を希望するようになったので、アンナは彼女らに仕事を教える役割をするようになっていた。
結婚話が上がって精神的に不安定になっていたので、同世代の女子と話がしたいのだろうと伯爵夫婦は考えていたが、実際はそうでない事はリリアが一番わかっていた。
ヘンリエッタはリリアに対して、女の子同士の話はおろか、ローガンとの逢瀬についても一切話すことはなかったし、親しみを込めてリリアの名を呼ぶこともなかった。
それでも、お嬢様が自分を側に置いてもいいと思ってくれていた事が誇らしかったのに――ローガンが自分を気に入ったと言ったのが気に食わなかったのだろうか。
いや、もしそうなら「これからはあなたが接待をしなさい」などとは言わないし、リリアを屋敷から追い出すくらいのことをしそうなものだ。
「困ったわ――あなたの代わりはもう雇っているから、人は足りてるのよ。仕方ないから、当分はお客様の接待を担当してちょうだい」
女中頭に言われて、リリアは素直に頷くしかなかった。
「浮かない顔をしているね」
最初の客はローガンだった。
リリアはローガンの顔を見てすぐにヘンリエッタの言葉を思い出したが、すぐに何かの間違いであると考えを追い払った。
しかし、この男が原因で自分がヘンリエッタの専任を解かれたのだという思いは拭えなかった。
客間女中として、客がいる間は応接室に控えていなければならない。
リリアは部屋の隅で立っていたのだが、ローガンはそんなリリアの様子を見て声をかけた。
「君はヘンリエッタ嬢付きの女中だったと思ったが」
優雅に茶を飲みながら、ローガンは尋ねた。
「あの――はい。昨日までは」
泣きそうな表情のリリアの返事にローガンは眉根を寄せた。
「今日からは違う――と?」
リリアは黙って頷いた。
「そうか――でも、それは私にとっては幸いだったかもだね。君とはもう少し親しくなりたいと思っていたんだ」
ローガンの声に甘やかさが含まれている事に、リリアも気が付いた。
何を言っているのだろう。
前回は「お前」と呼んでいたのに、今日は「君」と呼ばれた事にも驚いた。
ヘンリエッタの言葉が再び頭の中で繰り返された。
ローガンが何かを言いかけたその時、ヘンリエッタの準備ができたとアンナが言いに来て、二人の会話はそれで終了した。
通常なら数日空くのだが、翌日もローガンはやって来た。
ヘンリエッタは友人の茶会に呼ばれて留守だった為、ローガンはいつものように応接室でリリアが接待する事になった。
「ヘンリエッタ嬢がいない事は知っていたんだ――今日は君と話がしたくてね」
いたずらっ子のように笑うローガンに、リリアは胸がときめくのを感じた。
――いいえ。この方は由緒ある侯爵家の跡取り。私なんかを……そんなはずはない。
「客間女中だと言うのに、君の衣装は野暮ったいままだ。伯爵家はまだ歴史が新しいから客間女中の役割というものがよくわかっていないのだろう――だから、私から君に衣装を贈りたいと思っているんだが」
ローガンの突然の申し出に、リリアは混乱した。
女中の衣装を用意するのは雇い主の役目だ。それは大抵が女主人や令嬢のお下がりであることが多い。着古した――と言っても平民からすると新品に近いのだが――部屋着を仕立て直して使用人に払い下げるのが一般的だ。
当然、リリアにもヘンリエッタのお下がりが用意されているが、仕立て直すために時間がかかっているだけなのだ。
それに――
「こ、公子様。恐れながら、女中とは言え、男性が女性に衣装を贈るというのは――」
男性から女性に服を贈るのは、貴族でも庶民でも求愛行動の一環だ。そんな事をされてしまっては伯爵達にあらぬ疑いをかけられて、下手をするとヘンリエッタの婚約者を誘惑したと屋敷を追い出されてしまうかもしれない。
「大丈夫だよ。当然新品ではない。母や妹達の衣装が余っていてね」
ローガンは事も無げに言ってのけるが、それでも大それた行為だ。
「お気持ちだけありがたくいただかせてください――それに、私の衣装は既にお嬢様が指示を出されております」
リリアが頭を下げると、ローガンは笑みを含んだ声で言った。
「申し訳ない。既に伯爵に言付けてしまった」
ローガンが伯爵家に寄越した衣装は5着で、どれも部屋着とは思えない程上質な生地だが、質素で仕事に使えそうなものばかりだった。
「公子がお前を気に入ったというのは本当のようだな」
同じ屋敷にいるものの、滅多に会う事のない伯爵夫妻に呼び出されたリリアは恐縮のあまり気を失いそうだった。
「申し訳ありません。お嬢様に衣装を用意していただいているとお伝えしたのですが」
「いや、いい。これは公子の好意だ。受け取っておきなさい」
伯爵が言うと、ヘンリエッタによく似た銀髪の伯爵夫人も頷いた。
「それに、御覧なさい。まるでずっと前から用意されていたようにきっちりとした手直しがされているわ。こんなに短時間で仕上げるなんて侯爵家の仕立て人は腕がいいのね」
「噂によると、侯爵家には縫製機というものがあるそうだ。アンドレア王国で開発された機械で、人間が何時間もかかる縫物を瞬く間に仕上げてくれるものらしい。噂には聞いていたが大したものだ」
衣装の縫い目を見て、伯爵夫妻は嬉しそうに話している。
衣装を贈る意味を知っているはずなのにお咎めどころか触れもしないなんて。
リリアはそれ以上何も言えず、有難く衣装を受け取って伯爵夫妻の元を後にした。
「思った通りよく似合っている」
3日後に現れたローガンは、リリアが薄い黄色の生地に、縁取るように金の糸で刺繍がされた衣装を着ているのを見て、嬉しそうに顔を輝かせた。
「この度は大変ありがとう存じます。こんな素敵なお衣装をいただいてなんと感謝をすればよいのか」
「礼などいい」
リリアが頭を下げるのを止めて、ローガンは深い緑色の瞳でリリアを見つめた。
「私が言った不用意な言葉で、君が解任されてしまったのではないかと思ってね。罪滅ぼしだと思ってくれると嬉しい」
なるほど。だから伯爵夫妻もリリアを咎めなかったのかと、リリアは納得した。
衣装は貴族が使用人に用意するほかにも、褒美として与える事もある。そう言う意味合いだったのだろう。
「君の緑色の瞳には鮮やかな色がよく似合う――今日はおしろいも塗っているのか。いつもは可愛いのに今日はとても綺麗だ」
貴族というのは皆このように歯の浮くような台詞を言うのだろうか。
アンナに言われて慣れない化粧をしてみてよかったと、リリアは嬉しくなった。
早鐘を打つ胸が少し苦しく感じ、紅潮する頬を見られまいと俯いた。
「お戯れが過ぎます」
「私は本気だよ」
ローガンの言葉に驚いて顔を上げると、ローガンの熱を帯びた瞳が自分を見つめているのが分かった。
リリアはローガンから目が離せなかった。
その後も、3日と空けずローガンは何かと理由をつけてやって来た。
応接室に通されると、ローガンは何も言わずリリアを熱のこもった瞳で見つめ、リリアもまたローガンの訪問を心待ちにしていた。
婚約公示期間があと3日で終わるその日も、ローガンはヘンリエッタとの茶の時間を過ごすために伯爵家を訪れる事になっていた。
婚約公示期間が終わると、すぐに結婚式だ。
ヘンリエッタは伯爵家を離れ、リリアは伯爵家に残る。
もうローガンに会えないのだ。そう思う事自体、不敬だとわかっていたが、リリアはこの数日のローガンの熱っぽい瞳が忘れられなかった。
その日は珍しくヘンリエッタに呼ばれて、リリアは16日ぶりにヘンリエッタの部屋に入る事を許された。
「その衣装はローガン様から頂いたものね」
部屋に入って礼をしたリリアを一瞥して、ヘンリエッタは言った。
「も――申し訳ありません」
「いいのよ。そうなるとは思っていたわ」
リリアから顔を逸らしてソファに座るヘンリエッタの表情はいつもと変わらないようにも見えたし、どこか寂しげにも見えて、リリアは胸が苦しくなった。
それでも、ローガン様の奥方になるのはあなたじゃないですか……
そんな思いが胸に沸いたが、すぐに押し殺した。
なんてことを考えたの。不敬どころではないわ。主人を羨むなど――
リリアは自分の考えが恐ろしくなって、ヘンリエッタに対して申し訳ないという気持ちでいっぱいになった。
「手紙を書きたいの。用意して」
ヘンリエッタは立ち上がると、部屋の隅にある書き物机へと移動した。
リリアは我に返ると、急いで引き出しからインク瓶とガラスペンを取り出し、盆に載せてヘンリエッタの元に歩み寄った。
盆を机に置こうとしたその時、ヘンリエッタの手が盆に触れたような気がした。
驚いて手を滑らせたリリアは、急いで盆を握り直そうとしたが間に合わず、盆は床に叩きつけられ、弾け飛んだインクはヘンリエッタのドレスに飛び散り、ガラスペンは砕けてしまった。
「申し訳ありません!」
慌てて床に伏せて謝ろうとするリリアの肩を掴み、ヘンリエッタはリリアの動きを止めた。
「ローガン様から頂いた衣装を汚す気?――もういいわ。下がりなさい。アンナを呼んで」
冷たく言い捨てられて、リリアは頭を下げて部屋を辞した。
失望された。お叱りにはならなかったが、お嬢様にとってはもう私は叱責に値しない役立たずでしかないのだ。仕事もまともにできないくせに、主人の婚約者に恋慕し浮かれているなんて、役立たずどころではないわ。
リリアの目に涙が見る間に溜まって行ったが、アンナが控えている部屋へ行って、ヘンリエッタが呼んでいる事を伝えるまでは決して涙を流さなかった。
そして、その足で貯蔵用の地下室に降りると、声を殺して泣き続けた。
ローガンはそれからしばらくしてやって来た。
玄関で迎えたリリアは、泣き腫らした顔が見られないよう俯いたままローガンを出迎えて、いつものように応接室へと案内した。
「泣いていたのか?」
茶を用意するリリアの目が赤く腫れているのを見て、ローガンは心配そうに言った。
「い、いえ。そんな事はありませんよ」
努めて明るく笑おうとするリリアだったが、ローガンは立ち上がってリリアの側にやって来た。
そして、その手でリリアの顎を優しく掴むと、よく見えるように自分の方に向けさせた。
その手の温かさが、リリアの涙腺を再び刺激してしまい、思わず涙ぐんでしまった。
「ヘンリエッタ嬢に何かされたのか?」
責めるような口調だったが、怒りはリリアではなくヘンリエッタに向いている事はすぐに分かった。
「違います!お嬢様は何も――私が悪いのです」
それだけ言うと、ローガンの指から逃れるように顔を逸らした。
ああ、こんな言い方ではだめだ。誤解を招いてしまう。
でも、リリアはそれ以上言うと泣いてしまいそうだった。
茶を淹れて少し落ち着こう。それからちゃんと本当の事を言おう。そう思っていたのに――
リリアの背後に立ったままのローガンがリリアの体を包み込むように抱きしめた。
「ローガン様!」
思わず名前を呼んでしまったが、ローガンは「黙って」と言って、リリアを抱きしめた手を離さなかった。
「辛い思いをさせてしまってすまない」
ローガンの声が頭のすぐ後ろで聞こえたと思ったら、柔らかい感触と吐息が首筋に押し付けられるのが分かった。
「すまないが今日は体調が優れない。ヘンリエッタ嬢には後ほど謝罪の手紙と贈り物を用意すると伝えてくれないか」
手を離したローガンがそう言って、リリアが振り返るとローガンは既に応接室から出ていくところだった。
残されたリリアはローガンの唇が触れた首筋が燃えるように熱くなっているのを感じていた。
婚約公示期間が終わるその日の夜の事だった。
その日は王室が開催する夜会が開かれるため、朝から準備に追われていた。
あの日からローガンは伯爵家に姿を現さない。
その代わり、ヘンリエッタには急に帰った事を謝る手紙と、美しい宝石が、リリアには銀で作られた質素で小さな首飾りが贈られてきた。
「受け取っておきなさい」
受け取れないと家令の元に行くと、家令からは少しの間も空けずにそう言って追い返されたので、リリアは困惑しながらも、それを自室の机の引き出しに仕舞った。
王室が開催される夜会は年に3回ある。
王の誕生日を祝う宴、建国を祝う宴、皇太子の誕生日を祝う宴だ。
今日は皇太子の誕生日を祝う宴だった。
「あなたも侍女として行くのですよ」
ヘンリエッタの準備を手伝うつもりで部屋に呼ばれたリリアは、その場にいた女中頭から突然告げられて腰を抜かすほど驚いた。いや、実際驚きのあまりその場に座り込んでしまった。
「王室の夜会に侍女もつけずに行けるわけないでしょう」
これでもかとコルセットの紐を引っ張られながら、ヘンリエッタが顔色も変えずに言ったが、貴族の館で行われる夜会ならともかく、王室で行われる夜会に行くなどリリアの15年の人生で初めての事だった。
「で、でも私は平民です。王宮のお作法も知りません」
「そのくらい、わたくしを見て真似なさい」
ヘンリエッタは事もなげに言ったが、それがどれだけ難しいことなのか、リリアにはよくわかっていた。
髪を結われておしろいと頬紅を塗りたくられて、用意された衣装を着ると、ヘンリエッタの美しさには程遠いものの、それなりの令嬢に見えるから不思議だ。
「耳飾りはわたくしの真珠を貸してあげるわ。首元は――公子から贈られた首飾りがあったでしょ。それを着けなさい」
ヘンリエッタがローガンからの贈り物を知っていた事に驚いたが、家令から伝えられたのだろう。知っていて当然だ。
リリアは申し訳ない気持ちでいっぱいになりながらも、部屋から持ってきた首飾りを着けた。
「今日のエスコートはお父様よ。ローガン様は来られないわ」
全ての準備が終わった時、ヘンリエッタが冷たく言い放った。
馬車に揺られて辿り着いたのは、いつも遠くから眺めていた王城だった。
まさか自分がここに足を踏み入れるなんて。
伯爵のエスコートで馬車を降り、慣れた足取りで王城へと進むヘンリエッタ達の後ろからアンナと共について行くと、見た事もない豪奢なホールに到着した。
これでもかと人々が集まり、賑わっている。リリアは戸惑いながらもヘンリエッタから離れまいと後を一生懸命追いかけていた。
伯爵とヘンリエッタがホールに入ると、間もなく色々な人に声をかけられていた。
グランデルン伯爵と言えば国内でも有数の穀倉地帯を持ち、砂糖の供給も行っている。
新貴族と馬鹿にする家系も多いが、殆どの貴族は皆一度はグランデルンの恩恵に与っているのだ。
特に、砂糖は貴重だが、グランデルン領が国内を優先して供給してくれているおかげで、貴族達は甘い菓子や茶を飲むことが出来ると考えると、王家すらグランデルン伯爵を重用する事も無理はないと言えるだろう。
リリアは、噂には聞いていたが、自分の雇い主がここまで権威ある事実を目の当たりにして誇らしかった。
それに――
うちのお嬢様が誰よりも美しいわ――
美しい貴婦人や令嬢は山といるが、美しい銀髪に優雅な立ち居振舞いのヘンリエッタは、リリアの欲目を除いても別格だった。
惜しむらくは、表情の冷たさにより、近付き難い雰囲気を醸し出しているところだろうか。
いや、それすら孤高の美しさであるとも言えると、リリアは思っていた。
「国王陛下、及び王妃殿下、皇太子殿下の御成りである」
宰相の声がホールに響き渡ると、それまで賑やかだった貴族達は静まり返ってホールの一段高い場所に設置された王座に向かって腰を曲げて礼をした。
足音が響き渡り、やがてホールに一瞬の静寂が染み渡ると、威厳のある声がホールの空気を揺らした。
「此度は皇太子の為に足労、感謝する」
国王の言葉を皮切りに、再びホールに賑やかさが戻った。
公爵家から順に国王と皇太子に挨拶に進み出て、ペールヒル侯爵家の番となった。
侯爵夫妻と共に、ローガンの姿もあるのを見て、リリアの胸は熱くなった。
しかし、今日は出席できないとヘンリエッタのエスコートを断ったのではなかったのか。
リリアは恐る恐るヘンリエッタの横顔を見たが、ヘンリエッタの表情はいつものように変わらない。
むしろ、扇で隠された口元は笑みが浮かんでいるようにも見える。
「ウィリアム・ライオネル・フィッツロイ・ペールヒル侯爵及びミネルバ、ローガンがご挨拶いたします。リアム・エリオット殿下おめでとうございます」
ペールヒル侯爵が膝を曲げて礼をすると、夫人とローガンも続いた。
「そなたの常なる忠義には感謝する」
リアム王子はそう言うと、侯爵一家は頭を上げた。
そして、そのまま下がると思われたが、その前に国王が口を開いた。
「ローガン公子は確か、グランデルン伯爵令嬢と婚約をしたのだったな」
名を呼ばれたローガンは恭しく頭を下げ、ヘンリエッタの周辺にいた貴族も示し合わせたように数歩下がったため、ヘンリエッタ達の周りに空間ができた。
「国の安全を担うペールヒル侯爵家と、兵糧を支えるグランデルン伯爵家の結びつきは国にとっても喜ばしいものだ」
「ありがとう存じます」
国王の言葉に、頭を下げたままのローガンが答えた。
当たり前のやり取りなのだろうが、リリアの胸には何故か不安が広がった。
ローガンの声がいつもリリアにかけられる優しく温かい響きではなく、義務的で冷たいと感じたからだろうか。
「婚約公示期間は本日までだったな――両家の結婚に異議のある者は名乗り出よ。私が審議してやろう」
王の言葉に会場がどよめいた。
両家の間で交わされた婚約で、既に親族たちからも認められ、あと数時間で公示期間が終わると言うのに、王は何を考えているのか。
リリアはヘンリエッタが傷付かないかと心配したが、ヘンリエッタは先ほどと同じように、口元を扇で隠したまま王座を見つめている。その目は、どこか熱っぽく潤んでいるようにも感じられた。
「ふむ――いないようだな」
どことなく残念そうな含みを持たせて王が言うと、それまで恭しく頭を下げていたローガンが頭を上げた。
「虞ながら発言をお許しください」
「許そう」
王の許しを得て、ローガンはもう一度浅く頭を下げると、再び顔を上げた。
「わたくし、ローガン・ダリル・フィッツロイ・ペールヒルは、この婚約を破棄しとうございます」
ローガンの言葉に、会場中にどよめきが起きた。
リリアは驚いてヘンリエッタを見たが、ヘンリエッタは扇で隠した口元に笑みを浮かべたまま微動だせずにそのやり取りを見つめていた。
「何故そなたはグランデルン伯爵令嬢との婚約を破棄したいと申す」
国王の口調には驚きも動揺も感じられなかった。
「私は、情けなくもグランデルン伯爵家の使用人であるリリアに懸想をしてしまいました。それは私の未熟さが招いた結果ではありますが、それに気付いたヘンリエッタ嬢は事もあろうに、不当な人事でリリアを降格させ、私の見ていない場所で虐待を行っていたのです」
ローガンの言葉に再び会場がどよめきたった。
「虐待!?」
中でも一番驚いたのはリリアだった。思わず声が漏れだす程に。
「リリアは客間女中の役割を与えられていたにもかかわらず、粗末な衣装のままでした。私が衣装を贈ると、それを着用してはいましたが、次第におしろいを使うようになっていました。おそらく、打ち付けられたあざを隠すためだったのでしょう。不格好に厚く塗られたおしろいが全てを物語っていました」
ローガン様は何を言っているのだろう。
おしろいを塗った自分を綺麗だとほめてくれたのは、幻だったのだろうか。
周囲の貴族の視線が自分に集まっているような気がする。
リリアは驚きと恥ずかしさで、その場から逃げ出したくなった。
「そして3日前に伯爵家を訪ねた際、リリアは耐え切れず客である私の前で泣き出す程の仕打ちを受けたのです。私が何を聞いても『自分が悪い』としか答えず――そこまで追い詰められるほどの事をされたのは状況からも明白です。侯爵家は使用人であっても家族同様に扱います。しかし、ヘンリエッタ嬢のように冷徹な人は我が侯爵家にふさわしくない。いや、下々の者を理由もなく打ち付けるなど貴族としても品格を欠く行為。よって私はヘンリエッタ嬢との婚約を破棄したいと考えます」
ローガンが言い終えると、どよめきたっていた会場は水を打ったように静まり返った。
そして、集まった貴族達の視線は王座とヘンリエッタにそれぞれ集中していた。
「グランデルン伯爵、ヘンリエッタは前へ」
国王の言葉を受け、伯爵とヘンリエッタは呆然としているリリアを引っ張って、ペールヒル侯爵一家の隣に並ぶように立った。
「リリア、辛い思いをさせてすまない」
小声だが、しかしよく通る声でローガンがリリアに囁いたが、それはその場にいた殆どの人間の耳にも届いていた。
「その者がリリアか。そのままでよい。許す」
国王の言葉に平伏しようとしていたリリアは、中途半端に頭を下げたままどうしていいのかわからず混乱していた。
「しっかりお立ちなさい」
ヘンリエッタが声をかけてくれたおかげで、リリアは我に返る事ができた。
このような事態なのに、ヘンリエッタは戸惑うどころか、いつもよりも威厳高く美しく見えるのはなぜなのだろう。
「リリアに問おう。ローガン公子の言う事はまことか?」
国王の問いに、リリアは何と答えればよいのかわからなかった。
嘘ですと言えばローガンが罰せられる。しかし肯定すればヘンリエッタは婚約の破棄された令嬢という汚名を被せられるのだ。
「へ……ヘンリエッタ様はとても優しいお方です」
悩んだ末に、リリアが絞り出した言葉はそれだけだった。
「リリアは伯爵家の女中です。ヘンリエッタ嬢を訴える事など出来るはずもありません」
ローガンがリリアを庇うように言うと、リリアは「ひぃっ」と小さく声を上げた。
ダメだ。この人は何を思っているのかは知らないけれど、ヘンリエッタ様を悪女に仕立て上げようとしている。
「発言をお許しいただけますか」
ヘンリエッタがそう言うと、王は頷いてそれを許した。
伯爵も夫人も、ヘンリエッタを止めるどころか涼しい顔をしている。
なぜこの方たちはお嬢様をお守りしようとなさらないの?
リリアは胸の奥にもやもやとしたものを感じた。それは、所謂嫌な予感というものだった。
「ローガン様のおっしゃった事は事実であり、事実でありません――しかし、ローガン様は随分と前からリリアをなにかと気に掛け、心を砕いてくださっておりました。それが恋心からだという事は立った今初めて知りえたのですが」
ヘンリエッタの淡々とした美しい声がホールに響き渡る。
立ち居振る舞いの美しさに、澱みない言葉まわしのせいでまるで芝居の一部を見ているような気になってしまうが、これは現実だ。
なぜお嬢様はありもしない罪を認めるような事をおっしゃるの?
リリアはヘンリエッタが何を言っているのか、またこれから何を言うのか見当もつかない。
ただひとつわかっているのは、ヘンリエッタの後ろに立っていたはずなのに、いつの間にかローガンに引き寄せられて肩を抱かれているという事実だ。
何をしているんだ、この男は。
「お許しいただけるのであれば、わたくしはローガン公子の希望を受け入れたいと思っておりますが、アーバクロンビ家とフィッツロイ家の婚姻は国王陛下が承認なされた婚姻。畏れ多くもこれを当人同士の意思のみで決断する事は出来かねると思われます」
ヘンリエッタは美しい所作で膝を曲げると、ドレスが広がり花が咲いたように見えた。
リリアはその所作に見とれそうになったが、このままではヘンリエッタの名誉が損なわれてしまう。――しかし、何故伯爵夫妻は涼しい顔で何も言わずに見守っているのだろう。
「ふむ――で、あればグランデルン伯爵よ。そのリリアを養女に迎えローガン公子と婚姻させるがいい。そうすれば両家の婚姻という約束は果たされよう」
「なんです――」
国王の言葉にリリアが思わず声を上げたが、すかさずローガンの手で口を塞がれた。
「慈悲深い采配を賜りありがとうございます――リリア、私と結婚してくれるね」
国王に向かって最敬礼をすると、ローガンはリリアに向き直って跪いた。
「ヘンリエッタ嬢は――」
国王はローガンの求婚など無視して続ける。
「婚約公示期間中の破棄であることから、この婚約を無効とし、我が息子リアム・エリオット・グーデンベルグとの婚姻を命ずる。婚約公示期間は10日間とし、公示期間終了を以て結婚式を執り行う。異議のある者は名乗り出よ」
「な――」
ローガンが言葉を失い、跪いたまま固まっている隙に、リリアはヘンリエッタに駆け寄ったが、それより先にリアム王子がヘンリエッタの手を取って抱き寄せた。
リリアは伯爵夫人に引き寄せられて、しっかりと肩を抱かれて動けない。
「奥様――これは一体……」
「お母様とお呼びなさい。あなたは今から私の娘なのですよ」
不安で仰ぎ見た伯爵夫人は、なぜか慈母の笑みを浮かべている。
どういう事なのだ。
なぜこの方はこんなにもあっさりと事態を受け入れているのか。
リリアは助けを求めるように伯爵に視線を移したが、伯爵もまたこうなる事が当然だったかのように夫人とリリアを見ている。
ホールでは、よくわからないうちにヘンリエッタとローガンの婚約が「無効」となり、ヘンリエッタと皇太子の婚姻が決まった為、とりあえず祝っておけとばかりに集まった貴族達が拍手喝采し、音楽が鳴り響いて皇太子の誕生日を祝う宴が賑やかに始まったのだった。
「あの男が考えている事くらいお見通しなのよ」
宴の翌日、リリアはヘンリエッタに呼ばれて、いつもは座る事のないソファに腰を下ろしていた。
宴が始まって人々の視線がヘンリエッタ達から逸れた隙に、伯爵家と侯爵家はホールの近くの控室に連れて行かれた。
そこには何故か司祭と文官が待機していた。
「これにてリリアはアーバクロンビ家の養女となりました」
なにかの書類に伯爵がサインをすると、文官はその書類を受け取ってリリアに言った。
「本日よりそなたはリーリヴァリ・エイル・アーバクロンビ・グランデルンである」
「り……え?」
文官が宣言すると、リリアは間抜けな声を出した。
「では異議を申し受け、ローガン・ダリル・フィッツロイ・ペールヒルとヘンリエッタ・ローズ・アーバクロンビ・グランデルンの婚約を無効とし、リアム・エリオット・グーデンベルグとヘンリエッタ・ローズ・アーバクロンビ・グランデルンの婚約を認める」
隣では司祭がやっと聞き取れるほどの早口で言いながら手早く2つの書類を作成すると、さっと丸めて2つとも懐に入れてしまった。
「リリア――いや、リーリヴァリには爵位と財産の3分の1を、ヘンリエッタには領地と残りの財産をそれぞれ相続する権利を与える」
「承認いたしました」
伯爵が言い終わるか終わらないかのうちに、文官が答えた。
まるで事前に打ち合わせでもしていたかのように、澱みない流れに、平民のリリア――リーリヴァリも、違和感を覚えた。
「なんだって!」
声を上げたのはローガンだった。
「婚約を破棄されたのであれば相続権は残りの後継者に全て移行するはずだろう」
「落ち着きなさい、ローガン公子」
伯爵がなだめるように言った。
「何か誤解をされているようだが、陛下はヘンリエッタと公子の婚約を無効とおっしゃったのだ。つまり、なかったことにしてくださったのですよ」
「伯爵のおっしゃる通りでございます。私も先程無効と宣言いたしましたので、教会でもヘンリエッタ様とローガン様の婚約は無かったことになっております」
司祭の言葉にローガンは顔色を青くしている。
「だが――だが国王は我がフィッツロイ家とアーバクロンビ家の結婚は継続だと」
「そうです。王家が認めたのは我がアーバクロンビ家とフィッツロイ家が婚姻によって一族が結びつくこと」
「そして、教会が認めるのは花婿と花嫁の結婚であります」
伯爵と司祭が交互に言うのを聞いて、ローガンは膝から崩れ落ちそうになっている。
リリアには何のことかわからないが、ローガンにとって良くない事が起きている事は理解できた。
「ならば破棄は取り消しだ!ヘンリエッタとの婚約は継続する」
「何を言っている」
リアム王子が呆れたように口を挟んだ。
「先程司祭が私達の婚約の成立を宣言しただろうが」
リアム王子の言葉にローガンは顔を真っ赤にした。
「あんな早口聞き取れるわけないだろう!領地の相続権をヘンリエッタにするのなら、私は何のために平民なんぞと結婚するんだ」
それが本音だった。
リリアは耳を疑う事もなかった。これまでの流れで薄々わかっていた気がした。
学は無いが、馬鹿ではないリリアには、王座の前の茶番が繰り広げられていた時から、なんとなく気付いていたのだ。
だが、貴族の世界に詳しくないリリアには、それが何なのかまではわかっていなかった。
しかし、やっとはっきりと理解する事ができた。ローガンの思惑とは違う方向に全てが用意されていたのだと。
「あの男はわたくし相手だと領地を好き勝手に出来ない事に気が付いて、新しい『アーバクロンビの娘』を欲していたのよ」
ヘンリエッタがこんなに長くリリア――いや、リーリヴァリに話しかけるのはこれが初めてではないだろうか。
向かい合って座るリーリヴァリは、飲みなれない茶を口にしながら考えていた。
ローガンが言った通り、女性相続人が婚約破棄をされた場合、次の娘がいれば相続権はその娘に移る。
ヘンリエッタは幼い頃から領地の運営について厳しく教育されていた。
夢見がちな姉に比べて、しっかりした妹に領地を任せようと、伯爵は考えていたのだ。
ローガンはその事実に気付くと、どうにかして婚約を破棄しようと考え始めていた。
しかし、アーバクロンビ家に残された娘はヘンリエッタのみ。ただ破棄をしただけではフィッツロイ家には何も残らない。
だから、ローガンは流行りの物語を耳にしたときに計画を思いついたのだ。
アーバクロンビ家の使用人と関係を持ち、ヘンリエッタを悪女に仕立て上げてアーバクロンビ家の有責で婚約を破棄する事ができれば、自分の『想い人』をアーバクロンビ家の後継者として婚約者をすり替える事ができるのではないかと。
その浅はかすぎる考えに気が付いたヘンリエッタは、それを利用する事にした。
「元々、わたくしは王子の婚約者候補だったのよ。でも、正式な打診がされる前にペールヒル侯爵から婚約を申し込まれてしまったの。王家としても、侯爵が申し込んだ以上正当な理由もなしに却下できないでしょ。だから承認せざるを得なかったのだけど、婚約が決まった途端、侯爵の態度が酷くなったそうよ。まるで我が世の春とでも言いたいような」
ヘンリエッタは呆れたように溜息をついた。
「ペールヒル侯爵は国の軍事をまとめ上げてはいるけれど、王宮からの給金だけで貴族らしい生活を賄うのは難しいのよ」
「しかし……ペールヒル侯爵は大きな領地をお持ちだったと聞いています」
リーリヴァリがおずおずと言うと、ヘンリエッタは鼻で笑うように息を吐いた。
「侯爵はお隠しになっていたのだけど、実はペールヒル領は50年前の灌漑事業の失敗から不作が続いているの。優雅な生活をしているように見えて、その内情は借金まみれよ。だからよりグランデルンを欲しがったのだけど、それ以上にグランデルンは国にとっても重要な土地だから――結婚が決まったせいで、それを手に入れたと思って好き放題していたようね」
「好き放題――ですか」
「わたくしと婚約してからは随分羽振りがよくなったらしいわ」
「羽振が……」
「随分と強引な事もされていたそうよ――例えば、軍部に納入される武器の数を誤魔化したりね」
「それは――重罪では」
「そうね。でも、アーバクロンビと結婚さえしてしまえば、穴埋めなど容易いとでも思ったのではないかしら。でも、わたくしがローガン様に領地を任せる気なんてないことを察したのね。馬鹿なくせにそう言うところだけ勘がいいのよ。あの男は」
「だから私を……」
「平民なら簡単に堕とせると思ったのでしょうね。ちょっと微笑んで贈り物をすれば、貴族に慣れていない女なら簡単でしょう?」
ヘンリエッタの言葉にリーリヴァリは、自分に与えられた衣装の数々を思い出して納得した。
「運良く、あの男が好きそうなあなたがいて助かったのよ」
ヘンリエッタの言葉に、リーリヴァリはヘンリエッタが自分と同じ年頃の女中を望んでいた理由がやっと理解できた。
その顔を見たヘンリエッタは、唇の端を少し上げて嬉しそうに見える。
「あの……もしかして国王陛下達も……?」
リーリヴァリは恐る恐る訪ねてみた。
あの場での発言の数々や、とんとん拍子以上に手早く的確に処理が行われていた事、なによりあの控室にいた司祭や文官は王宮の事など全く知らないリーリヴァリにとっても不自然この上なかったのだ。
ヘンリエッタは、何を当然の事をと言いたげな視線をリーリヴァリに送った。
「侯爵が忠臣のままであれば、あのような真似はなさらなかったでしょうね――まあ、そうであればわたくしも素直に結婚していたと思うけど」
リーリヴァリは「あぁ」と小さく頷いた。
「伯爵家が単独であればそこまで脅威ではないのよ。所詮我が家系は新貴族。後数世代はそう言われるでしょうから、貴族社会においては然程の影響力もないの。しかし、力のある血統貴族に取り込まれるのでは話は変わってくるのよ。古い貴族ほどその地盤は根強いわ。下手をすると王家よりも力を持ってしまう。だから、忠臣であった侯爵家ならとお許しになったのよ」
ヘンリエッタの説明はわかるようなわからないような感じだった。
しかし、これからは理解できるようにならないといけないのだ。リーリヴァリは真剣にヘンリエッタの話を聞いていた。
「ペールヒル侯爵はね、計画通りあなたと結婚した後はお父様とお母様を殺して領地を手に入れるつもりだったのよ」
「そんな」
「だからね、わたくしから陛下に計画を持ち掛けたの」
まるで世間話でもしているかのような口調ヘンリエッタに、リーリヴァリは危うく手にした茶器を取り落としそうになった。
「そ、そんな事……」
何処で知ったのか、どうやって知りえたのかと聞きたかったが、ヘンリエッタが微笑んだのでリーリヴァリは聞くことが出来なくなった。
「元々王家もグランデルンの土地を欲しがっていたのだから話は早かったわ」
この話は自分が聞いていいのだろうか。とても重要で恐ろしいことを聞かされているのではないだろうか。
リーリヴァリが居心地の悪そうな顔をしているのを見て、ヘンリエッタは微笑みながら首を傾げた。
「グランデルンの肥沃な大地と、そこで生産される農作物は国の力を強固なものにさせるわ。一貴族が抱えるには大きすぎると国王もお考えだったの」
「だから――ヘンリエッタ様と王子のご結婚のお話が上がっていたのですね」
「そうね」
リーリヴァリが慎重に話すのを、ヘンリエッタは満足気に見つめていた。
「もしかして、私がお嬢様の女中になったのって――」
「あら、リーリヴァリ。わたくし達はもう姉妹なのだからお姉様とお呼びなさい――そうね。あの男が好きそうだけど、馬鹿ではない子が必要だったの。素直で、機転が効いて、忠実な妹がね」
「そんな――」
ヘンリエッタの悪びれない答えに、リーリヴァリは血の気が引けるのが分かった。
王の名の下に定められた結婚は、神の名の下に定められた結婚よりも拘束力を持つ。
控室で伯爵と司祭が言っていたように、神殿は夫婦の、王家は家同士の婚姻を許可するため、フィッツロイ家とアーバクロンビ家の結婚は変えることができない。
そして、リーリヴァリは王命によりアーバクロンビの養女となってしまったのだ。ローガンと結婚するために。
つまりリーリヴァリは何があってもローガンと結婚しなければならないし、役に立たない平民あがりのリーリヴァリをあの男が大事にするとは到底思えなかった。
「安心なさい。まだ動きは知られていないけど、侯爵がした事はいずれ遠くない先に白日の下に晒されるわ。そうなれば、侯爵家は取り潰し、領地は没収されるでしょうね」
「そんな――じゃあローガン様はどうなるんですか?」
ヘンリエッタの言葉にリーリヴァリはわかりやすく取り乱している。
それでも、案ずるのが自分ではなくローガンの事なのがヘンリエッタには好ましく思えた。
「あなたと結婚したらローガンは次期グランデルン伯爵なのよ。少なくともあなたがいる限りは貴族の身分は約束されるわ。それに、あなたが相続する資産があれば、贅沢さえしなければ生活に困ることもないでしょうから、あの男は嫌でもあなたを大事にせざるを得ないわね」
そんなものなのだろうか。リーリヴァリには貴族の生活も、ヘンリエッタが言う資産がどのくらいなのか見当がつかなかった。
「でもお嬢――お、お姉……さま。私に貴族の奥方なんて無理です」
「大丈夫よ。あなたは頭がいいし機転の利く人ですもの」
唇の端を少し上げたヘンリエッタは、あまりにも美しくて、リーリヴァリは思わず見惚れてしまった。
ヘンリエッタは続けた。
「あなたは王家が命じてわたくしの妹になったのよ。そしてわたくしは将来の王妃。わたくしが後見するのに誰に非難されると言うの」
「で――でも」
リーリヴァリの泣きそうな顔を見ながら、ヘンリエッタはとても楽しそうだ。
「あなたを巻き込んでしまって悪いとは思っているのよ。でも、よく考えてみて?国で二番目に尊い皇太子妃の後見を受けた次期侯爵夫人よ。国でも最も尊い貴族になれるのよ?素敵でしょ」
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リーリヴァリは言葉を無くしてヘンリエッタを見つめている。その顔が可笑しいのか、ヘンリエッタは今まで見た事のない笑顔で言った。
「あら、私を悪役令嬢とやらに仕立て上げようとしたのはあの男よ?――悪役令嬢ってこういうものでしょ」
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