2 / 38
第一部:若き日の「誤先生」
第2話 元服と呉学人の名
しおりを挟む歳月は、川の流れのように過ぎていく。
あれから数年、俺も犬千代も、そして吉法師様……いや、今や織田三郎信長様と呼ぶべきあの方も、それぞれに元服の年を迎えていた。
用水路の一件以来、俺の「うっかり」がなぜか良い結果を招くという奇妙な出来事は、村の小さな問題でたびたび起きていた。
種籾の量をうっかり少なく間違えてしまった年に限って厳しい日照りが続き、多くの種籾を無駄にせずに済んでかえって被害が軽微で済んだり、祭りの寄進の額を一桁多く間違えて書いてしまえば、その年に限って大豊作となり村中から「あの助兵衛(学人)が、あれほどまでに大きな額を寄進してくれた。その篤い信仰心と村への貢献が神様に届いたから、これほどの大豊作に恵まれたに違いない!」と感謝されたり。
その度に俺は頭を抱えたが、周囲の、特に犬千代からの「助兵衛は何か持ってる」という評価は、妙な形で固まりつつあった。
信長様は相変わらず「面白い」と笑うばかりで、その真意は読めない。
そして迎えた元服の日。俺は一つの決意を固めていた。
「父上、母上。本日より、俺は名を改めたいと思います」
両親と、儀式に立ち会ってくれた村長の前に正座し、俺は深々と頭を下げた。
「なんと?助兵衛、お前ほどの親孝行者が、わしらが付けた名を……」
父が寂しそうに眉を下げる。無理もない。
百姓の子が、自ら名乗りを上げるなど前代未聞のことだった。
しかし、俺にはどうしても譲れない一線があったのだ。
「呉の学究の徒たらん……その志を込め、本日より『呉学人』と名乗ることをお許しください」
呉用
「智多星」と呼ばれた男の名。
俺の頭の中に巣食う、もう一人の自分。
その名をそのまま名乗ることは、俺にはできなかった。
あの物語の結末を知っているからだ。
梁山泊の栄光と、その後の悲劇的な末路。
毒酒を呷り、友の隣で果てた軍師の最期。
そして何より、「我は創作の人物にあらずや?」という根源的な問い。
物語の登場人物の名を借りて生きることは、俺自身の人生を放棄するに等しいと感じられたのだ。
呉学人
それは、呉用への決別であり、この世界で「助兵衛」として生きていくための、俺なりのケジメだった。
「ご、がくじん……?」
村長が、難しい顔で俺の名を反芻する。
「どこかで聞いたような……
ああ、そうじゃ! 唐土の物語に出てくる、かの大軍師『呉用』殿にあやかったのじゃな!なんと殊勝な心がけじゃ!」
村長は、俺の意図とは全く違う方向へと思考を巡らせ、勝手に感心してくれた。どうやら、俺が呉用の生まれ変わりだという噂が、まことしやかに囁かれているらしい。 訂正する気力もなかった。
両親も、村長にそう言われては反対もできず、俺の新しい名はあっさりと認められた。
こうして、百姓の助兵衛は死に、呉学人が生まれた。
だが、その背負う期待の重さに、俺は早くも押し潰されそうになっていた。
時を同じくして、尾張の国もまた、大きな転換期を迎えていた。
信長様の父君である織田信秀様が急逝し、若き信長様が織田弾正忠家の家督を継いだのだ。
しかし、その道のりは決して平坦ではなかった。 家督相続に不満を持つ弟の信勝様や、織田一門の長老たちとの対立が、日増しに深まっていく。
那古野城の空気は、ぴんと張り詰めた糸のように緊迫していた。
そんな中、犬千代……今や前田又左衛門利家と名乗る彼は、信長様の親衛隊である赤母衣衆の一員として、槍働きでめきめきと頭角を現していた。
ある日、利家が俺の家を訪ねてきた。以前のような泥だらけの姿ではなく、簡素ながらも武士らしい身なりをしている。
「助兵……学人!いるか!」
「又左……いや、利家殿。どうされたのですか、そのような改まった姿で」
「よせやい、昔みたいに犬千代でいいって。それより、お前に話がある」
利家は、いつになく真剣な表情で俺の前に座った。
「信長様がな、お前を呼び出したいそうだ」
「……信長様が、この俺を?」
思わず、声が裏返った。百姓である俺に、織田家の当主が何の用だというのか。
「ああ。どうも、俺のことでらしい」
利家は、ばつが悪そうに頭を掻いた。
「俺が戦で先走りすぎて、危ない場面があったのを、信長様はえらく心配されていてな。
『犬は手綱を握る者がおらんと、どこへ走っていくか分からん』とかなんとか……」
そこまで聞いて、俺は嫌な予感がした。まさか、とは思うが……
「それで信長様は、お前を俺の側に置きたい、と。物静かで、思慮深そうに見えるから、俺の目付役にちょうどいい、と仰せだ」
「……見間違いでは……?」
俺は自分の耳を疑った。
思慮深い?
この俺が?
いつも自らの存在意義に悩み、ぼんやりと空を見つめているだけの男が?
「ともかくだ!信長様がお呼びだ。断れるはずがねえ。さあ、行くぞ、学人!」
利家は、俺の返事も聞かずに腕を掴むと、那古野城へとぐいぐい引っ張っていった。
百姓の俺が、武士として仕官する。
それは本来、望んでも叶わぬ栄誉のはずだった。
しかし、俺の心は鉛のように重かった。
軍師「呉用」の再来などと期待されては、たまらない。俺はただの、うっかり者の呉学人なのだから。
那古野城の広間に通された俺は、生まれて初めて感じる武家の威圧感に、ただただ縮こまっていた。
中央に座す信長様は、もはや村で会っていた吉法師の面影はない。鋭い眼光は、人の心の奥底まで見透かすかのようだ。
俺と利家が平伏するのを見届けると、信長様は静かに口を開いた。
「学人。久しいな」
「は、ははっ!ご無沙汰しております……」
「貴様の噂は聞いている。村の問題を、奇妙なやり方で次々と解決しているそうではないか」
「い、いえ、それは、ただの偶然と幸運が重なっただけで……!」
「偶然と幸運を味方につける。それこそが、将たる者の才よ」
信長様は、俺の言い訳などまるで意に介さず、続けた。
「利家を、貴様に預ける。こやつは、戦場では千人力の働きをするが、猪武者で危なっかしい。
貴様の『思慮深さ』で、この犬の手綱をしっかりと握っていてもらいたい」
やはり、そうなったか。
俺はもう、観念するしかなかった。
「……身に余る光栄にございます。百姓の身であるこの俺に、そのような大役が務まるかどうか……」
「案ずるな。貴様は、ただ利家の側にいればよい。それで、なぜか物事は良い方へ転がる」
信長様は、そう言うと、再びあの意味ありげな笑みを浮かべた。
「良いか、学人。貴様の初仕事は、間もなくだ」
その言葉の通り、数日後、織田家を揺るがす大きな戦が勃発することになる。
信長様の弟、信勝様が、ついに兄に対して反旗を翻したのだ。
── 稲生の戦い ──
それは、呉学人という百姓上がりの男が、初めて戦というものに直面し、そして、歴史上、最も不名誉なあだ名を拝命する、運命の戦いの幕開けだった。
1
あなたにおすすめの小説
【完結】『いくさ飯の若武者 ~乾坤一擲、兵糧奮闘記~』
月影 朔
歴史・時代
刀より強い? 腹が減っては戦はできぬ!
戦国乱世、食に命をかける若武者の兵糧奮闘記、開幕!
血と硝煙の戦国乱世。一大大名家が歴史を変える大いくさを前に、軍全体がかつてない危機に喘いでいた。それは、敵の奇襲でも、寡兵でもない――輸送路の遮断による、避けようのない「飢餓」だった!
武功に血道を上げる武士たちの中で、ひっそりと、だが確かに異彩を放つ若者が一人。伊吹千兵衛。刀の腕は今ひとつだが、「食」の道を探求し、戦場の兵糧に並々ならぬ情熱をかける兵糧奉行補佐だ。絶望的な食糧不足、日に日に失われる兵士たちの士気。この危機に、千兵衛は立ち上がる。
彼の武器は、限られた、乏しい食材から、想像もつかない「いくさ飯」を生み出す驚きの創意工夫!
いつもの硬いだけの干飯は、野草と胡麻を加え、香ばしく焼き上げた「魂を焦がす焼きおにぎり」に。
そして、戦場の重苦しい空気を忘れさせる、兵士たちの「ささやかな甘味」まで――。
『乏しき中にこそ、美味は宿る。これぞ、いくさ飯。』
千兵衛が心を込めて作る一品一品は、単なる食事ではない。
それは、飢えと疲労に倒れかけた兵士たちの失われた力となり、荒んだ心を癒やす温もりとなり、そして明日を信じる希望となるのだ。
彼の地道な、しかし確かな仕事が、戦場の片隅で、確実に戦の行方に影響を与えていく。
読めばきっとお腹が空く、創意工夫あふれる戦国グルメの数々。次にどんな驚きの「いくさ飯」が生まれるのか?
それが兵士たちを、そしてこの大戦をどう動かすのか?
これは、「あの時代の名脇役」が、食という最も人間臭く、最も根源的な力で、乾坤一擲の大戦に挑む物語。
歴史の裏側で紡がれる、もう一つの、心熱くなる戦場ドラマ。
腹ペコを連れて、戦国の陣中へ――いざ、参らん!
武田義信は謀略で天下取りを始めるようです ~信玄「今川攻めを命じたはずの義信が、勝手に徳川を攻めてるんだが???」~
田島はる
歴史・時代
桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると、武田家は外交方針の転換を余儀なくされた。
今川との婚姻を破棄して駿河侵攻を主張する信玄に、義信は待ったをかけた。
義信「此度の侵攻、それがしにお任せください!」
領地を貰うとすぐさま侵攻を始める義信。しかし、信玄の思惑とは別に義信が攻めたのは徳川領、三河だった。
信玄「ちょっ、なにやってるの!?!?!?」
信玄の意に反して、突如始まった対徳川戦。義信は持ち前の奇策と野蛮さで織田・徳川の討伐に乗り出すのだった。
かくして、武田義信の敵討ちが幕を開けるのだった。
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
皇国の栄光
ypaaaaaaa
歴史・時代
1929年に起こった世界恐慌。
日本はこの影響で不況に陥るが、大々的な植民地の開発や産業の重工業化によっていち早く不況から抜け出した。この功績を受け犬養毅首相は国民から熱烈に支持されていた。そして彼は社会改革と並行して秘密裏に軍備の拡張を開始していた。
激動の昭和時代。
皇国の行く末は旭日が輝く朝だろうか?
それとも47の星が照らす夜だろうか?
趣味の範囲で書いているので違うところもあると思います。
こんなことがあったらいいな程度で見ていただくと幸いです
土方歳三ら、西南戦争に参戦す
山家
歴史・時代
榎本艦隊北上せず。
それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。
生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。
また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。
そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。
土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。
そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。
(「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です)
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる