【完結】新・信長公記 ~ 軍師、呉学人(ごがくじん)は間違えない? ~

月影 流詩亜

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​第一部:若き日の「誤先生」

​第2話 元服と呉学人の名

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 ​歳月は、川の流れのように過ぎていく。

 ​あれから数年、俺も犬千代も、そして吉法師様……いや、今や織田三郎信長様と呼ぶべきあの方も、それぞれに元服の年を迎えていた。

 用水路の一件以来、俺の「うっかり」がなぜか良い結果を招くという奇妙な出来事は、村の小さな問題でたびたび起きていた。

種籾たねもみの量をうっかり少なく間違えてしまった年に限って厳しい日照りが続き、多くの種籾を無駄にせずに済んでかえって被害が軽微で済んだり、祭りの寄進の額を一桁多く間違えて書いてしまえば、その年に限って大豊作となり村中から​「あの助兵衛(学人)が、あれほどまでに大きな額を寄進してくれた。その篤い信仰心と村への貢献が神様に届いたから、これほどの大豊作に恵まれたに違いない!」と感謝されたり。


 ​その度に俺は頭を抱えたが、周囲の、特に犬千代からの「助兵衛は何か持ってる」という評価は、妙な形で固まりつつあった。
 信長様は相変わらず「面白い」と笑うばかりで、その真意は読めない。
 ​そして迎えた元服の日。俺は一つの決意を固めていた。

​「父上、母上。本日より、俺は名を改めたいと思います」

 ​両親と、儀式に立ち会ってくれた村長の前に正座し、俺は深々と頭を下げた。

​「なんと?助兵衛、お前ほどの親孝行者が、わしらが付けた名を……」

 父が寂しそうに眉を下げる。無理もない。
 百姓の子が、自ら名乗りを上げるなど前代未聞のことだった。
 しかし、俺にはどうしても譲れない一線があったのだ。

​「呉の学究の徒たらん……その志を込め、本日より『呉学人ご がくじん』と名乗ることをお許しください」

 ​呉用ごよう

「智多星」と呼ばれた男の名。

 俺の頭の中に巣食う、もう一人の自分。

​ その名をそのまま名乗ることは、俺にはできなかった。

 あの物語の結末を知っているからだ。

 梁山泊の栄光と、その後の悲劇的な末路。

 毒酒を呷り、友の隣で果てた軍師の最期。
 そして何より、「我は創作の人物にあらずや?」という根源的な問い。

 物語の登場人物の名を借りて生きることは、俺自身の人生を放棄するに等しいと感じられたのだ。

 ​呉学人

 それは、呉用への決別であり、この世界で「助兵衛」として生きていくための、俺なりのケジメだった。

​「ご、がくじん……?」

 村長が、難しい顔で俺の名を反芻する。

「どこかで聞いたような……
 ああ、そうじゃ! 唐土の物語に出てくる、かの大軍師『呉用』殿にあやかったのじゃな!なんと殊勝な心がけじゃ!」

 ​村長は、俺の意図とは全く違う方向へと思考を巡らせ、勝手に感心してくれた。どうやら、俺が呉用の生まれ変わりだという噂が、まことしやかに囁かれているらしい。 訂正する気力もなかった。

 ​両親も、村長にそう言われては反対もできず、俺の新しい名はあっさりと認められた。
 こうして、百姓の助兵衛は死に、呉学人が生まれた。
 だが、その背負う期待の重さに、俺は早くも押し潰されそうになっていた。

 ​時を同じくして、尾張の国もまた、大きな転換期を迎えていた。

 ​信長様の父君である織田信秀様が急逝し、若き信長様が織田弾正忠家の家督を継いだのだ。
 しかし、その道のりは決して平坦ではなかった。 家督相続に不満を持つ弟の信勝様や、織田一門の長老たちとの対立が、日増しに深まっていく。

 那古野なごや城の空気は、ぴんと張り詰めた糸のように緊迫していた。

 ​そんな中、犬千代……今や前田又左衛門利家と名乗る彼は、信長様の親衛隊である赤母衣衆あかほろしゅうの一員として、槍働きでめきめきと頭角を現していた。
​ある日、利家が俺の家を訪ねてきた。以前のような泥だらけの姿ではなく、簡素ながらも武士らしい身なりをしている。

​「助兵……学人!いるか!」

「又左……いや、利家殿。どうされたのですか、そのような改まった姿で」

「よせやい、昔みたいに犬千代でいいって。それより、お前に話がある」

​利家は、いつになく真剣な表情で俺の前に座った。

​「信長様がな、お前を呼び出したいそうだ」

「……信長様が、この俺を?」

 思わず、声が裏返った。百姓である俺に、織田家の当主が何の用だというのか。

​「ああ。どうも、俺のことでらしい」

 利家は、ばつが悪そうに頭を掻いた。

「俺が戦で先走りすぎて、危ない場面があったのを、信長様はえらく心配されていてな。
『犬は手綱を握る者がおらんと、どこへ走っていくか分からん』とかなんとか……」

 ​そこまで聞いて、俺は嫌な予感がした。まさか、とは思うが……

​「それで信長様は、お前を俺の側に置きたい、と。物静かで、思慮深そうに見えるから、俺の目付役にちょうどいい、と仰せだ」

「……見間違いでは……?」

 俺は自分の耳を疑った。

 思慮深い?

 この俺が?

 いつも自らの存在意義に悩み、ぼんやりと空を見つめているだけの男が?

​「ともかくだ!信長様がお呼びだ。断れるはずがねえ。さあ、行くぞ、学人!」

 ​利家は、俺の返事も聞かずに腕を掴むと、那古野城へとぐいぐい引っ張っていった。

 ​百姓の俺が、武士として仕官する。

 それは本来、望んでも叶わぬ栄誉のはずだった。

 しかし、俺の心は鉛のように重かった。
 軍師「呉用」の再来などと期待されては、たまらない。俺はただの、うっかり者の呉学人なのだから。

 ​那古野城の広間に通された俺は、生まれて初めて感じる武家の威圧感に、ただただ縮こまっていた。
 中央に座す信長様は、もはや村で会っていた吉法師の面影はない。鋭い眼光は、人の心の奥底まで見透かすかのようだ。
 ​俺と利家が平伏するのを見届けると、信長様は静かに口を開いた。

​「学人。久しいな」

「は、ははっ!ご無沙汰しております……」

「貴様の噂は聞いている。村の問題を、奇妙なやり方で次々と解決しているそうではないか」

「い、いえ、それは、ただの偶然と幸運が重なっただけで……!」

「偶然と幸運を味方につける。それこそが、将たる者の才よ」

 ​信長様は、俺の言い訳などまるで意に介さず、続けた。

​「利家を、貴様に預ける。こやつは、戦場では千人力の働きをするが、猪武者で危なっかしい。
貴様の『思慮深さ』で、この犬の手綱をしっかりと握っていてもらいたい」

​やはり、そうなったか。

俺はもう、観念するしかなかった。

​「……身に余る光栄にございます。百姓の身であるこの俺に、そのような大役が務まるかどうか……」

「案ずるな。貴様は、ただ利家の側にいればよい。それで、なぜか物事は良い方へ転がる」

 ​信長様は、そう言うと、再びあの意味ありげな笑みを浮かべた。

「良いか、学人。貴様の初仕事は、間もなくだ」

 ​その言葉の通り、数日後、織田家を揺るがす大きな戦が勃発することになる。
 ​信長様の弟、信勝様が、ついに兄に対して反旗を翻したのだ。

 ── ​稲生の戦い ──

 それは、呉学人という百姓上がりの男が、初めて戦というものに直面し、そして、歴史上、最も不名誉なあだ名を拝命する、運命の戦いの幕開けだった。



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