【完結】新・信長公記 ~ 軍師、呉学人(ごがくじん)は間違えない? ~

月影 流詩亜

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​第一部:若き日の「誤先生」

​第4話 「誤先生」の爆誕

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​「面白い」

 ​信長様のその一言で、凍り付いていた広間の空気が再び動き出した。
 しかし、それは俺が望んだ方向ではなかった。

​「利家」

 信長様が、静かに呼びかける。

「はっ!」

 利家が、弾かれたように顔を上げた。

「貴様の隊は、学人の言う通りに動け。本隊が西手で敵主力を引きつけている間に、貴様は東へ回り込み、そこにいるであろう敵の伏兵を叩け」

「御意!」

 ​広間が、今度こそ本物のどよめきに包まれた。

「上様、なりませぬ!」

 筆頭家老の林秀貞殿が、血相を変えて諫言する。

「この若造の戯言を真に受け、貴重な兵を割くなど、あまりに危険にございます!
 敵の罠は、むしろこの言葉そのものやもしれませぬぞ!」

 ​他の将たちも、次々と同調する。
 当然の反応だった。
 常識で考えれば、俺の進言は暴論以外の何物でもない。
 しかし、信長様は玉座から一同を見下ろし、ただ一言、冷ややかに告げた。

​「……黙れ、わしが決めたことよ」

 ​その声に含まれた絶対的な威圧感に、もはや誰も何も言えなかった。

 俺は、顔面蒼白のまま、利家が「任せておけ!」と俺の肩を叩き、勇んで広間を出ていくのを見送ることしかできなかった。

​(ああ、俺は、親友を死地に送ってしまった……!)

 ​自らのとんでもない失態が、最悪の事態を引き起こした。
 もはや、神仏に祈るしか、俺にできることは残されていなかった。
​ 
 戦端は、信長様の本隊が敵の主力、柴田勝家の陣へ猛然と突撃することで開かれた。
 兵力で劣る織田信長軍の、常識外れの先制攻撃だった。
 ​一方その頃、前田利家の部隊は、本隊から大きく離れ、戦場の東側を疾走していた。

​「若!本当にこの先に敵がおりますのか?」

 部下の一人が、不安げに尋ねる。
 周囲は見通しの良い平地で、伏兵が潜めるような場所は見当たらない。

「うるさい! 学人がいると言ったんだ!
 いなけりゃ、俺たちが最初の敵になってやるまでのことよ!」

 ​利家は、呉学人の言葉を微塵も疑っていなかった。
 百姓だった頃から、あの男の妙な勘は、いつも不思議な結果をもたらしてきた。
 あの用水路の一件もそうだ。
 常人には見えぬ何かを、学人は見ている。
 利家は、ただ漠然と、しかし絶対的にそう信じていた。

 ​そして、彼らが小さな林を抜け、開けた場所に出ようとした、その瞬間だった。

​「……敵襲ッ!」

 ​林の陰から、鬨の声ときのこえと共に数十の足軽が躍り出てきた。

「なっ!?」

 利家の部隊に動揺が走る。

「うろたえるな!数は多くない!かかれぇっ!」

 ​利家は愛用の十文字槍を構え、先頭に立って敵陣へ突っ込んだ。
 だが、敵は予想以上に手強かった。
 それは、信勝が万一に備え、主戦場の側面を固めるために配置していた精鋭の予備兵力だったのだ。
 彼らにとって、利家たちの出現は全くの想定外だったが、その練度は織田軍の雑兵とは比較にならない。
 ​戦は、たちまち乱戦の様相を呈した。

「ちぃっ、学人の奴め!
 伏兵がいるとは言ったが、こんなに強いとは聞いてねえぞ!」

 利家は、悪態をつきながらも、槍を水車のように振り回し、敵兵を次々と薙ぎ倒していく。

 ​この主戦場から離れた場所での小競り合い。
 本来ならば、戦の大局に何の影響も与えないはずだった。
 しかし、この偶然の衝突が、柴田勝家の完璧な計算を根底から覆すことになる。

​「申し上げます!東手の備えに、敵の一隊が!」

伝令からの報告に、柴田勝家は眉をひそめた。

「東だと?なぜだ……。信長の狙いは、本隊による中央突破のはず……別動隊か?
 まさか、こちらの布陣が読まれていたとでも言うのか……?」

 ​勝家の描いた戦の絵図は、信長の本隊を正面から受け止め、その圧倒的な兵力で押し潰す、というものだった。
 だが、予期せぬ側面への攻撃は、その絵図に致命的な綻びを生じさせた。
 側面を放置すれば、本陣が脅かされる。

​「……やむを得ん。本隊の一部を割き、東へ向かわせよ!」

 苦渋の決断だった。
 その一瞬の判断の遅れ、そして兵力の分散。
 それこそが、織田信長が待ち望んでいた、唯一の勝機だった。

​「今だ!かかれぇぇぇっ!」

 ​敵陣に僅かな乱れが生じたのを、信長は見逃さなかった。
 その号令一下、信長自身が先頭に立ち、手薄になった柴田軍の中央に、楔を打ち込むように突撃した。

 ​こうして、兵力で圧倒的に不利だったはずの信長軍は、奇跡的な勝利を収めることになる。

 歴史は、この勝利を「信長の奇策」と記すだろう。

 しかし、その奇策が、一人の男の天地がひっくり返るほどの壮大な勘違いから生まれたことなど、誰が想像できただろうか。

 ​戦後の那古野城は、勝利の歓喜に包まれていた。

 傷ついた将兵たちも、自らの武勇伝を肴に酒を酌み交わしている。

 ​しかし、その祝宴の輪から遠く離れた広間の隅で、俺は一人、死人のように青ざめていた。

 手には、あの軍議で使われた絵図が握られている。

​(なぜだ……なぜ、利家の部隊は、何もないはずの東で敵と遭遇したんだ……?)

 ​勝利の報告を聞いても、俺の混乱は晴れなかった。俺の「読み」は、完全に外れていたはずなのだ。

 もう一度、記憶の中の絵図と、手元の絵図を照らし合わせる。

 そして、ゆっくりと手の中の絵図を、百八十度、回転させてみた。

 ​その瞬間、俺は全てを理解した。

 血の気が、さあっと音を立てて全身から引いていくのが分かった。

​「……あっ……あ……」

 ​俺が見ていた絵図は、上下が逆だったのだ。

 俺が「敵の主力がいる」と断言した場所は、本来なら何もない平地。

 そして、俺が「手薄な罠だ」と叫んだ場所こそが、敵の主力が布陣する本陣のど真ん中だったのだ。

 ​俺は、とんでもない間違いを犯した。

 それで、なぜ勝てた?

 なぜ、利家は死なずに済んだ?

 偶然か?幸運か?

 いや、そんな言葉で片付けられるものではない。
​俺は、膝から崩れ落ちた。
全身から力が抜け、指先が小刻みに震える。

​「学人!いたか!」

 そこへ、傷だらけの利家が、満面の笑みでやってきた。

「お前、すげえじゃねえか!本当に伏兵がいたぞ!お前のおかげで、大手柄だ!」

「……利家……俺は……」

「ん?どうした?
 さあ、信長様がお呼びだ! お前の手柄を、直々に褒めてくださるそうだ!」

 ​利家に腕を引かれ、俺はまるで罪人のように信長様の御前へと引き据えられた。

​「面を上げよ、学人」

 信長様の、静かだが威厳のある声が響く。
​俺は意を決して顔を上げ、そして、そのまま床に頭を叩きつけた。

​「も、申し訳ございませんでしたぁぁぁっ!」

 ​俺は、泣いていた。
 恥も外聞もなく、声を上げて泣きじゃくっていた。

​「全ては!全ては、この私の、大間違いでございました!
 わ、私は、絵図の上下を逆さまに見ておりました!
 東に伏兵などおらず、全ては私の、私の勘違いだったのでございます!
 利家殿を死地に追いやり、織田家を滅ぼしかねない大罪!
 どうか、この首を刎ねて、お詫びとさせてください!」

 ​俺の慟哭が、祝宴で騒がしかった広間に響き渡る。
 将たちの視線が、驚きと困惑のうちに俺へと注がれる。

 ​静寂が、辺りを支配した。

 やがて、玉座から、くつくつと、喉を鳴らすような音が聞こえ始めた。
 ​それは、次第に大きくなり……

​「……クックック……ハッハッハッハッハ!アッハハハハハハ!」

 ​信長様の、腹の底からの大爆笑となって、広間中に轟いた。
 信長様は腹を抱え、涙を流して笑い転げている。

​「読み違いじゃと!?
 絵図を逆さまに見ておったじゃと!?
 はっはっは! これほど愉快な戦は初めてじゃ!」

 ​呆気にとられる俺と家臣たちを前に、信長様は涙を拭い、高らかに宣言した。

​「皆の者、聞け!
 この度の勝利は、この男の見事な『読み違い』の賜物である!」

 ​そして、俺を指さし、満面の笑みでこう続けた。

​「結果が全てよ!
 貴様の『誤り』が、勝利を呼んだ!であるならば、その『誤り』こそが、我が織田家にとっての正義である!」

「今日より、貴様はただの呉学人ではない!我が織田家の軍師、『誤先生ごせんせい』じゃ!」

 ​ご、せんせい……?

 ​不名誉極まりないそのあだ名を拝命し、俺はもはや、喜びも悲しみも感じられず、ただ、床に突っ伏したまま、呆然とするしかなかった。

 ​こうして、俺の軍師としての第一歩は歴史上、最も情けない形で幕を開けたのだった。

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