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第一部:若き日の「誤先生」
第5話 今孔明、現る
しおりを挟む稲生の戦いから、数年の月日が流れた。
あの日、不名誉極まりない「誤先生」というあだ名を拝命した俺は、もはやまともな軍師として扱われることはないと絶望していた。
しかし、信長様の考えは、またしても俺の想像の斜め上を行っていた。
「誤先生は、我が織田家の福の神よ。大事にせねばな」
信長様はそう言って笑い、俺を利家の側近という立場に据え置いたまま、戦の采配ではなく、兵糧の管理や物資の調達といった後方支援の仕事を主に任せるようになった。
おそらく、俺の突拍子もない「読み」が、再び戦場で暴発するのを警戒したのだろう。
その配慮には、心底感謝した。
だが、戦場を離れたからといって、俺のうっかりが治るわけではなかった。
「学人! なぜ味噌の数が合わんのだ!」
「申し訳ありません! 桁を一つ、間違えました……!」
「ああもう!……ん?待てよ、この味噌、いつもと味が違うな。美味いぞ」
「はっ、それは、間違えて隣国の三河から取り寄せてしまったもので……」
俺が発注ミスした八丁味噌は、その濃厚な味わいが兵たちの間で評判となり、やがて織田家の兵糧の定番となった。
「学人! なぜ綿の量が倍もあるのだ!」
「申し訳ありません!これまた桁を一つ……!」
「たわけ!……だが、今年は例年より冷える。冬支度にはちょうど良いか」
俺が余分に仕入れた綿は、その年の記録的な厳冬において、多くの兵たちの命を凍えから救った。
ミスをするたびに俺は胃を痛め、利家に叱られ、そしてなぜか結果的に感謝される。
そんな奇妙な日常を繰り返すうちに、織田家中における「誤先生」の評価は、「戦のことはよく分からんが、居ると何故か縁起の良い男」という、何とも言えないものに落ち着いていった。
その間にも、信長様は破竹の勢いで尾張国内の敵対勢力を打ち破り、ついにこの国の完全統一を成し遂げた。そして、その鋭い目は、当然のように北にそびえる隣国、美濃へと向けられていた。
「美濃を制する者は天下を制す」
古くからそう言われる要衝の地。
だが、この美濃こそが、若き信長様の前に立ちはだかる、最初の巨大な壁となるのだった。
原因は、一人の男の存在にあった。
「またしても、やられました!
木曽川の渡し場に伏兵がおり、我が隊は半数が……!」
「補給路が断たれました!
敵は、まるで我らの動きを全て読んでいたかのように……!」
評定の場は、連日の敗報に重苦しい空気が垂れ込めていた。
美濃の国主・斎藤龍興は、父や祖父に似ず凡庸な若者だと聞いていた。
しかし、その彼に仕える一人の軍師が、織田家の行く手を完璧に阻んでいたのだ。
その名は、竹中半兵衛重治。
まだ二十歳そこそこの若者でありながら、その知略は神がかっていると噂された。
彼が立てる策は、俺のような偶然や間違いの産物では断じてない。
地形、天候、兵の心理、そして敵である我々の性格まで、全てを緻密に計算し尽くした芸術品のような計略だった。
「かの者の知略は、唐土の物語に出てくる諸葛孔明にも匹敵する、との評判にございます」
家臣の一人が、感嘆と畏怖の入り混じった声で言った。
「うむ。『今孔明』とは、よく言ったものだ」
今、孔明。
その言葉を聞いた瞬間、俺は背筋を氷でなぞられたような悪寒が走った。
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評定が終わった後も、俺はその場を動けずにいた。
家臣たちが口々に半兵衛の才覚を称賛している。
「先日も、偽の情報を掴まされ、我らはあらぬ方向へ一日も行軍させられたらしいぞ」
「兵を損なわずして、敵を疲弊させる。まさに兵法の極意よな」
聞けば聞くほど、俺は自分の足元が崩れていくような感覚に陥った。
俺の成功とは何だ?
桁の計算間違いか?
地図の上下の勘違いか?
全てが、恥ずかしい失敗の言い換えに過ぎない。
それに引き換え、竹中半兵衛はどうだ。
彼の成功は、寸分の狂いもない計算と深い洞察力に裏打ちされている。
あれこそが、「本物」の軍師の姿なのだ。
(俺は……偽物だ)
「誤先生」と囃し立てられ、福の神などと有り難がられても、俺の内実は空っぽだ。
偶然という下駄を履かせてもらった、ただの百姓上がりの男。
その下駄がいつ壊れるか、いつ全てが露見するかと、常に恐怖に怯えている。
その夜、俺は自室で一人、膝を抱えていた。
竹中半兵衛という「本物」の存在が、俺の中から、なけなしの自尊心を根こそぎ奪い去っていった。
いつか、あの人と顔を合わせる日が来るのだろうか。
その時、俺の空虚な内実は、鋭い眼光によってたちまち見抜かれてしまうに違いない。
そう考えただけで、体の震えが止まらなかった。
そんな折だった。
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猿
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竹中半兵衛が、味方に……?
その事実に、俺は安堵するどころか、新たな、そしてより深い恐怖に身を震わせた。
偽物である俺と、本物が、同じ陣営で、並び立つ日が来るというのか。
それは俺にとって、輝かしい未来の到来などではなく、自らの無能さが白日の下に晒される公開処刑の宣告のように思えたのだった。
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