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第二部:天下布武と二人の軍師
第8話 渡河の奇跡
しおりを挟む 竹中半兵衛の立てた上洛計画は、完璧なはずだった。
兵の進む道、兵糧を運ぶ経路、そして敵である六角氏が仕掛けてくるであろう抵抗の予測まで、全てが緻密な計算の上に成り立っていた。
しかし、現実は盤上の駒のように都合よくは動いてくれない。
「申し上げます!南方の間道にて、六角方の伏兵による襲撃!兵糧の一部が焼かれました!」
「くそっ、またか!あの者ら、まるで土竜のように現れては消えるわ!」
進軍を開始して数日、織田軍は粘り強い六角家の抵抗に遭い、その歩みは遅々として進まなかった。
折からの長雨で道は泥濘と化し、兵たちの疲労は色濃い。
半兵衛の計画に綻びはない……だが、その計画が想定していた以上の「時間」が、じりじりと消費されていくだけだった。
本陣には、焦りの色が浮かび始めていた。
「どうした半兵衛、貴様の策にしては歯切れが悪いのう」
信長様の言葉には棘がある。
半兵衛は冷静な表情を崩さぬまま、地図を睨みつけていた。
「……六角の抵抗は想定の範囲内。
しかし、これ以上時を費やすは得策にあらず。今一度、兵の配置を見直します」
その理知的な横顔を見ながら、俺、呉学人は後方でただ身を縮めていた。
軍議での失態以来、俺は完全に「いてもいなくても良い者」となっていた。
利家の隊に所属し、主に兵糧の管理という名の雑用をこなす日々。
戦の采配に口を出すことなど、もはや許されるはずもなかった。
(これでいいのだ……俺が口を開けば、ろくなことにならん)
自嘲気味にそう思う。
あの川の件は、皆の記憶からも消えつつあるだろう。
ただの恥ずかしい思い出として、早く泥水に流れてしまえばいい。
その、まさに俺が忘れてしまいたいと願っていた「川」の報せが、本陣に激震を走らせることになるとは、夢にも思わずに……
一人の物見が、泥まみれのまま本陣に転がり込んできたのは、その日の昼過ぎのことだった。
「も、申し上げます! 一大事にございます!」
息も絶え絶えの伝令に、将たちの視線が集まる。
「北の山中を進んでおりましたところ……先日来の雨で、大規模な山崩れが起きておりました!」
「山崩れだと?それで道が塞がれたと申すか!?」
柴田勝家殿が声を荒らげる。
ただでさえ遅れている進軍が、さらに滞る。
誰もが最悪の事態を想像した。
しかし、伝令の報告は、その真逆を行くものだった。
「いえ!その崩れた土砂が、川の上流を堰き止めております!その影響で……!」
伝令は、ごくりと唾を飲み込み、信じられないといった口調で続けた。
「……先日まで激流であったはずの川が、まるで嘘のように干上がっております!
水嵩は、大人の膝にも届かぬほどに!
馬はもちろん、足軽も容易に渡ることが可能にございます!」
「……なに?」
本陣にいた誰もが、耳を疑った。
そして、その川の名を聞いて、二度驚愕した。
それは、数日前の軍議で、俺が「浅瀬だ」と言い放ち、半兵衛に「渡河は不可能」と一蹴された、あの川だったのだ。
広間が、にわかにざわつき始める。
「馬鹿な……そんな偶然があるものか」
「いや、しかし、現に物見は見てきたのだ」
将たちが困惑の声を上げる中、ただ一人、竹中半兵衛が絶句していた。
彼の顔から、常の冷静さが抜け落ち、純粋な驚愕と、そして理解不能なものに直面したかのような狼狽の色が浮かんでいた。
無理もなかった。
彼の完璧な計算、雨量や水嵩の緻密な予測が、天災という名の絶対的な偶然によって、根底から覆されたのだから。
その静寂を破ったのは、信長様の一声だった。
玉座からすっくと立ち上がると、その目に烈火のような輝きを宿し、にやりと笑った。
「……クックック。天が、わしに味方せよと言うておるわ」
そして、呆然とする半兵衛と、困惑する俺を交互に見比べると、高らかに言い放った。
「半兵衛!聞いたか!
誤先生の言う通りではないか!」
その言葉は、決定的な一打だった。
信長様は、迷いなく命を下す。
「丹羽!柴田!手勢を率いて、ただちに例の川を渡れ!
敵の側面を突くのだ!
六角の奴ら、まさかそこから我らが現れるとは思うまい!」
「「ははっ!」」
信長様の即断一下、織田軍の精鋭が別動隊として編成され、奇跡の川へと殺到した。
結果は、言うまでもない。
全く警戒していなかった背後から、突如として織田の大軍の奇襲を受けた六角軍の防衛線は、あまりにもあっけなく崩壊した。
これまで織田軍を苦しめてきた粘り強い抵抗は嘘のように消え去り、観音寺城への道は、一気に開かれることとなった。
勝利の歓声に沸く陣中で、俺はただ、青ざめて立ち尽くしていた。
(山崩れ……?川が……?俺は、ただ昔の話をしただけなのに……)
自分の発言が、とんでもない結果を引き起こしてしまった。
しかし、その理屈が分からない。
幸運?奇跡?どちらにせよ、俺の実力などでは全くない。
その夜、一人、自陣の天幕で地図を睨んでいた竹中半兵衛は、静かに戦慄していた。
(あり得ぬ……)
彼は、これまでの呉学人という男の「戦功」を、頭の中で反芻していた。
稲生の戦いでの、あり得ない「読み違い」。
そして、今回の上洛戦での、あり得ない「予言」。
(まさか……天候と地形の急変まで予測していたとでも言うのか?
いや、それは人知を超えている。
偶然か? 偶然にしては、あまりに出来すぎている……)
論理と計算を信条とする半兵衛にとって、呉学人の存在は、もはや理解不能な「異物」だった。
彼の思考は、常人の理屈では測れない。
こちらの完璧な計算を、まるで嘲笑うかのように、天運そのものを手繰り寄せてしまう。
(この男、一体何者なのだ……?)
半兵衛は、呉学人という男に対し、初めて、尊敬でもなく、侮りでもない、底知れぬ「畏怖」の念を抱き始めていた。
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