私の婚約を母上が勝手に破棄してしまいました

桜井ことり

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5話

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「え……?」

フウカは、王子が紡いだ言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
『ポチと呼んでくれないか』。
それは、先程までの自分の無礼を、許すというだけではない。もっと親密な響きを伴って、フウカの心に染み込んでいく。

「そ、そのような……滅相もございません! わたくしのような者が、畏れ多くも殿下をあだ名でお呼びするなど……!」

「そうだな……では正式にポチ・グロリアと名を変えるとしよう」

(父上や母上に後で何と叱られるか……)

フウカはぶんぶんと首を横に振った。
頬が、耳が、燃えるように熱い。

ポチは悪戯っぽく微笑んだまま、さらに言葉を重ねた。
その青い瞳が、優しくフウカを射抜く。
普段の冷静沈着な姿からは想像もつかない、甘やかな追撃だった。

「何としてでも、そう呼ばれたいんだ」

その言葉を復唱しただけで、心臓が大きく跳ねた。
これ以上、この方のそばにいては、心臓がもたないかもしれない。
フウカが、しどろもどろに何かを言おうとした、その時だった。

「そこの貴婦人! お待ちくださいまし!」

凛とした、しかしどこか子供っぽい快活な声が、庭園に響き渡った。
声の主は、先程現れたばかりの王女、タマ・グロリア。
彼女は、兄であるポチと、その隣で固まっているフウカには目もくれず、一直線にある人物の元へと駆けていった。

その視線の先にいるのは――母、フリンダ・ロイゼフ。

「え?」「タマ?」

ポチとフウカが、驚いて振り返る。
タマ王女は、まるで伝説の勇者が魔王に相対するかのように、フリンダの真正面でぴたりと足を止め、仁王立ちになった。

フリンダは、突然目の前に現れた幼い王女を、表情一つ変えずに静かに見下ろしている。
(なんだ、この小娘は)
その眼差しは、そう問いかけていた。

しかし、タマは母の圧倒的な威圧感にも、全く怯む素振りを見せない。
それどころか、キラキラと目を輝かせ、まるで珍しい宝石でも鑑定するかのように、フリンダを頭のてっぺんからつま先まで、じろじろと遠慮なく観察し始めた。

「わたくし、タマ・グロリアと申しますわ! あなた様は!?」

元気いっぱいに、まずは自分から名乗る。
フリンダは、眉一つ動かさずに答えた。

「……ロイゼフ公爵夫人、フリンダだ」

「フリンダ様! やはり! 噂に名高いお方でしたのね!」

タマの瞳が、カッと見開かれる。その輝きは、もはや憧憬を通り越して、狂信的ですらあった。

「素敵です! わたくし、一目でファンになりましたわ! どうか、このわたくしを、あなた様のお弟子にしてくださいまし!」

一息に、そうまくし立てた。

「…………弟子?」

フリンダの整った眉が、ぴくり、と微かに動いた。
その完璧な美貌に、人生で初めて浮かんだのではないかと思われる『困惑』という感情が、ほんの一瞬よぎる。

殺意を向けられたことは、数えきれないほどある。
恐怖の眼差しを向けられたことも、日常茶飯事だ。
しかし、こんなにも純粋で、一点の曇りもない、キラキラとした憧れの視線を向けられたのは、生まれて初めての経験だった。
どう反応すればいいのか、全く分からない。

その異様な光景を、少し離れた場所からポチとフウカは呆然と眺めていた。

「タマ様が……お母様に……弟子入り……?」

フウカは、目の前で起きていることが信じられなかった。
あの、誰もが恐れる母に、物怖じせずに話しかけるだけでも驚きなのに、まさか弟子入りを志願するなんて。

「はは……。すまない、ロイゼフ嬢。妹は昔から、強い人間を見つけると、すぐに懐いてしまう癖があってな……」

ポチが、どこか諦めたように苦笑いしている。

「強い……人間……」

確かに母は強い。強すぎる。
しかし、その強さは、普通の人々が憧れるような種類の強さではないはずだ。

フウカたちの心配をよそに、タマの猛アタックは続く。

「フリンダ様のその佇まい! そのオーラ! ただ者ではありませんわ! わたくしには分かります! その強さの秘密を、どうかこのタマに教えてくださいまし!」

言うが早いか、タマはフリンダの腕に、えいっ、と抱きついた。
娘以外の人間、それも王族に、いきなり抱きつかれたフリンダの体が、石のように硬直する。

「……離れろ」

地を這うような低い声が出た。
並の人間なら、それだけで失神している。

「いやですわ! お弟子にしていただけるまで、絶対に離れません!」

タマは満面の笑みで言い放ち、さらにぎゅっと力を込めた。
最強の公爵夫人と、天真爛漫な王女による、奇妙な攻防戦が始まった。

フリンダが腕を引いても、タマはスッポンのように離れない。
フリンダが冷たい視線を送っても、タマは「素敵!」と頬を染めるだけ。
フリンダが威圧感を放っても、タマは「もっとくださいまし!」と喜ぶ始末。

(……どうすればいいんだ、これは)

フリンダは本気で途方に暮れていた。
物理的に引き剥がすのは簡単だが、相手は王女だ。下手に怪我でもさせたら、いくら自分でも面倒なことになる。

その攻防の最中、タマはふと、兄とフウカの方に視線を戻した。
兄は、困ったように、しかしどこか楽しそうに笑いながらこちらを見ている。
そして、その隣に立つ、黒髪の美しい令嬢。
先程、兄がとても優しく見つめていた彼女は、頬を染めながら、心配そうにこちらを窺っていた。

(あらあら、お兄様ったら)

タマの頭に、ピコン、と電球が灯った。

(いつの間に、こんなに綺麗な方と親しくなっていたのかしら。これは……面白くなってきましたわ!)

フリンダへの弟子入りという第一目標に加え、兄の恋路を応援するという、新たな目標が生まれた瞬間だった。

「よろしいですわ、フリンダ様!」

タマはぱっとフリンダから体を離すと、何かを閃いた顔で宣言した。

「ならば、こうしましょう! わたくしが、お兄様とフウカ様の恋を取り持ってみせますわ! その暁には、わたくしをフリンダ様の一番弟子にしてくださいまし!」

とんでもない提案だった。

「は!?」
「ええっ!?」

驚愕の声を上げたのは、ポチとフウカだ。
特にフウカは、自分の名前が当たり前のように入っていることに、頭が真っ白になった。

王宮の庭園に、新たな嵐が吹き荒れようとしていた。
その中心で、最強の公爵夫人はただ一人、静かに呟く。

「……話が、全く見えん」
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