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「え……?」
フウカは、王子が紡いだ言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
『ポチと呼んでくれないか』。
それは、先程までの自分の無礼を、許すというだけではない。もっと親密な響きを伴って、フウカの心に染み込んでいく。
「そ、そのような……滅相もございません! わたくしのような者が、畏れ多くも殿下をあだ名でお呼びするなど……!」
「そうだな……では正式にポチ・グロリアと名を変えるとしよう」
(父上や母上に後で何と叱られるか……)
フウカはぶんぶんと首を横に振った。
頬が、耳が、燃えるように熱い。
ポチは悪戯っぽく微笑んだまま、さらに言葉を重ねた。
その青い瞳が、優しくフウカを射抜く。
普段の冷静沈着な姿からは想像もつかない、甘やかな追撃だった。
「何としてでも、そう呼ばれたいんだ」
その言葉を復唱しただけで、心臓が大きく跳ねた。
これ以上、この方のそばにいては、心臓がもたないかもしれない。
フウカが、しどろもどろに何かを言おうとした、その時だった。
「そこの貴婦人! お待ちくださいまし!」
凛とした、しかしどこか子供っぽい快活な声が、庭園に響き渡った。
声の主は、先程現れたばかりの王女、タマ・グロリア。
彼女は、兄であるポチと、その隣で固まっているフウカには目もくれず、一直線にある人物の元へと駆けていった。
その視線の先にいるのは――母、フリンダ・ロイゼフ。
「え?」「タマ?」
ポチとフウカが、驚いて振り返る。
タマ王女は、まるで伝説の勇者が魔王に相対するかのように、フリンダの真正面でぴたりと足を止め、仁王立ちになった。
フリンダは、突然目の前に現れた幼い王女を、表情一つ変えずに静かに見下ろしている。
(なんだ、この小娘は)
その眼差しは、そう問いかけていた。
しかし、タマは母の圧倒的な威圧感にも、全く怯む素振りを見せない。
それどころか、キラキラと目を輝かせ、まるで珍しい宝石でも鑑定するかのように、フリンダを頭のてっぺんからつま先まで、じろじろと遠慮なく観察し始めた。
「わたくし、タマ・グロリアと申しますわ! あなた様は!?」
元気いっぱいに、まずは自分から名乗る。
フリンダは、眉一つ動かさずに答えた。
「……ロイゼフ公爵夫人、フリンダだ」
「フリンダ様! やはり! 噂に名高いお方でしたのね!」
タマの瞳が、カッと見開かれる。その輝きは、もはや憧憬を通り越して、狂信的ですらあった。
「素敵です! わたくし、一目でファンになりましたわ! どうか、このわたくしを、あなた様のお弟子にしてくださいまし!」
一息に、そうまくし立てた。
「…………弟子?」
フリンダの整った眉が、ぴくり、と微かに動いた。
その完璧な美貌に、人生で初めて浮かんだのではないかと思われる『困惑』という感情が、ほんの一瞬よぎる。
殺意を向けられたことは、数えきれないほどある。
恐怖の眼差しを向けられたことも、日常茶飯事だ。
しかし、こんなにも純粋で、一点の曇りもない、キラキラとした憧れの視線を向けられたのは、生まれて初めての経験だった。
どう反応すればいいのか、全く分からない。
その異様な光景を、少し離れた場所からポチとフウカは呆然と眺めていた。
「タマ様が……お母様に……弟子入り……?」
フウカは、目の前で起きていることが信じられなかった。
あの、誰もが恐れる母に、物怖じせずに話しかけるだけでも驚きなのに、まさか弟子入りを志願するなんて。
「はは……。すまない、ロイゼフ嬢。妹は昔から、強い人間を見つけると、すぐに懐いてしまう癖があってな……」
ポチが、どこか諦めたように苦笑いしている。
「強い……人間……」
確かに母は強い。強すぎる。
しかし、その強さは、普通の人々が憧れるような種類の強さではないはずだ。
フウカたちの心配をよそに、タマの猛アタックは続く。
「フリンダ様のその佇まい! そのオーラ! ただ者ではありませんわ! わたくしには分かります! その強さの秘密を、どうかこのタマに教えてくださいまし!」
言うが早いか、タマはフリンダの腕に、えいっ、と抱きついた。
娘以外の人間、それも王族に、いきなり抱きつかれたフリンダの体が、石のように硬直する。
「……離れろ」
地を這うような低い声が出た。
並の人間なら、それだけで失神している。
「いやですわ! お弟子にしていただけるまで、絶対に離れません!」
タマは満面の笑みで言い放ち、さらにぎゅっと力を込めた。
最強の公爵夫人と、天真爛漫な王女による、奇妙な攻防戦が始まった。
フリンダが腕を引いても、タマはスッポンのように離れない。
フリンダが冷たい視線を送っても、タマは「素敵!」と頬を染めるだけ。
フリンダが威圧感を放っても、タマは「もっとくださいまし!」と喜ぶ始末。
(……どうすればいいんだ、これは)
フリンダは本気で途方に暮れていた。
物理的に引き剥がすのは簡単だが、相手は王女だ。下手に怪我でもさせたら、いくら自分でも面倒なことになる。
その攻防の最中、タマはふと、兄とフウカの方に視線を戻した。
兄は、困ったように、しかしどこか楽しそうに笑いながらこちらを見ている。
そして、その隣に立つ、黒髪の美しい令嬢。
先程、兄がとても優しく見つめていた彼女は、頬を染めながら、心配そうにこちらを窺っていた。
(あらあら、お兄様ったら)
タマの頭に、ピコン、と電球が灯った。
(いつの間に、こんなに綺麗な方と親しくなっていたのかしら。これは……面白くなってきましたわ!)
フリンダへの弟子入りという第一目標に加え、兄の恋路を応援するという、新たな目標が生まれた瞬間だった。
「よろしいですわ、フリンダ様!」
タマはぱっとフリンダから体を離すと、何かを閃いた顔で宣言した。
「ならば、こうしましょう! わたくしが、お兄様とフウカ様の恋を取り持ってみせますわ! その暁には、わたくしをフリンダ様の一番弟子にしてくださいまし!」
とんでもない提案だった。
「は!?」
「ええっ!?」
驚愕の声を上げたのは、ポチとフウカだ。
特にフウカは、自分の名前が当たり前のように入っていることに、頭が真っ白になった。
王宮の庭園に、新たな嵐が吹き荒れようとしていた。
その中心で、最強の公爵夫人はただ一人、静かに呟く。
「……話が、全く見えん」
フウカは、王子が紡いだ言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
『ポチと呼んでくれないか』。
それは、先程までの自分の無礼を、許すというだけではない。もっと親密な響きを伴って、フウカの心に染み込んでいく。
「そ、そのような……滅相もございません! わたくしのような者が、畏れ多くも殿下をあだ名でお呼びするなど……!」
「そうだな……では正式にポチ・グロリアと名を変えるとしよう」
(父上や母上に後で何と叱られるか……)
フウカはぶんぶんと首を横に振った。
頬が、耳が、燃えるように熱い。
ポチは悪戯っぽく微笑んだまま、さらに言葉を重ねた。
その青い瞳が、優しくフウカを射抜く。
普段の冷静沈着な姿からは想像もつかない、甘やかな追撃だった。
「何としてでも、そう呼ばれたいんだ」
その言葉を復唱しただけで、心臓が大きく跳ねた。
これ以上、この方のそばにいては、心臓がもたないかもしれない。
フウカが、しどろもどろに何かを言おうとした、その時だった。
「そこの貴婦人! お待ちくださいまし!」
凛とした、しかしどこか子供っぽい快活な声が、庭園に響き渡った。
声の主は、先程現れたばかりの王女、タマ・グロリア。
彼女は、兄であるポチと、その隣で固まっているフウカには目もくれず、一直線にある人物の元へと駆けていった。
その視線の先にいるのは――母、フリンダ・ロイゼフ。
「え?」「タマ?」
ポチとフウカが、驚いて振り返る。
タマ王女は、まるで伝説の勇者が魔王に相対するかのように、フリンダの真正面でぴたりと足を止め、仁王立ちになった。
フリンダは、突然目の前に現れた幼い王女を、表情一つ変えずに静かに見下ろしている。
(なんだ、この小娘は)
その眼差しは、そう問いかけていた。
しかし、タマは母の圧倒的な威圧感にも、全く怯む素振りを見せない。
それどころか、キラキラと目を輝かせ、まるで珍しい宝石でも鑑定するかのように、フリンダを頭のてっぺんからつま先まで、じろじろと遠慮なく観察し始めた。
「わたくし、タマ・グロリアと申しますわ! あなた様は!?」
元気いっぱいに、まずは自分から名乗る。
フリンダは、眉一つ動かさずに答えた。
「……ロイゼフ公爵夫人、フリンダだ」
「フリンダ様! やはり! 噂に名高いお方でしたのね!」
タマの瞳が、カッと見開かれる。その輝きは、もはや憧憬を通り越して、狂信的ですらあった。
「素敵です! わたくし、一目でファンになりましたわ! どうか、このわたくしを、あなた様のお弟子にしてくださいまし!」
一息に、そうまくし立てた。
「…………弟子?」
フリンダの整った眉が、ぴくり、と微かに動いた。
その完璧な美貌に、人生で初めて浮かんだのではないかと思われる『困惑』という感情が、ほんの一瞬よぎる。
殺意を向けられたことは、数えきれないほどある。
恐怖の眼差しを向けられたことも、日常茶飯事だ。
しかし、こんなにも純粋で、一点の曇りもない、キラキラとした憧れの視線を向けられたのは、生まれて初めての経験だった。
どう反応すればいいのか、全く分からない。
その異様な光景を、少し離れた場所からポチとフウカは呆然と眺めていた。
「タマ様が……お母様に……弟子入り……?」
フウカは、目の前で起きていることが信じられなかった。
あの、誰もが恐れる母に、物怖じせずに話しかけるだけでも驚きなのに、まさか弟子入りを志願するなんて。
「はは……。すまない、ロイゼフ嬢。妹は昔から、強い人間を見つけると、すぐに懐いてしまう癖があってな……」
ポチが、どこか諦めたように苦笑いしている。
「強い……人間……」
確かに母は強い。強すぎる。
しかし、その強さは、普通の人々が憧れるような種類の強さではないはずだ。
フウカたちの心配をよそに、タマの猛アタックは続く。
「フリンダ様のその佇まい! そのオーラ! ただ者ではありませんわ! わたくしには分かります! その強さの秘密を、どうかこのタマに教えてくださいまし!」
言うが早いか、タマはフリンダの腕に、えいっ、と抱きついた。
娘以外の人間、それも王族に、いきなり抱きつかれたフリンダの体が、石のように硬直する。
「……離れろ」
地を這うような低い声が出た。
並の人間なら、それだけで失神している。
「いやですわ! お弟子にしていただけるまで、絶対に離れません!」
タマは満面の笑みで言い放ち、さらにぎゅっと力を込めた。
最強の公爵夫人と、天真爛漫な王女による、奇妙な攻防戦が始まった。
フリンダが腕を引いても、タマはスッポンのように離れない。
フリンダが冷たい視線を送っても、タマは「素敵!」と頬を染めるだけ。
フリンダが威圧感を放っても、タマは「もっとくださいまし!」と喜ぶ始末。
(……どうすればいいんだ、これは)
フリンダは本気で途方に暮れていた。
物理的に引き剥がすのは簡単だが、相手は王女だ。下手に怪我でもさせたら、いくら自分でも面倒なことになる。
その攻防の最中、タマはふと、兄とフウカの方に視線を戻した。
兄は、困ったように、しかしどこか楽しそうに笑いながらこちらを見ている。
そして、その隣に立つ、黒髪の美しい令嬢。
先程、兄がとても優しく見つめていた彼女は、頬を染めながら、心配そうにこちらを窺っていた。
(あらあら、お兄様ったら)
タマの頭に、ピコン、と電球が灯った。
(いつの間に、こんなに綺麗な方と親しくなっていたのかしら。これは……面白くなってきましたわ!)
フリンダへの弟子入りという第一目標に加え、兄の恋路を応援するという、新たな目標が生まれた瞬間だった。
「よろしいですわ、フリンダ様!」
タマはぱっとフリンダから体を離すと、何かを閃いた顔で宣言した。
「ならば、こうしましょう! わたくしが、お兄様とフウカ様の恋を取り持ってみせますわ! その暁には、わたくしをフリンダ様の一番弟子にしてくださいまし!」
とんでもない提案だった。
「は!?」
「ええっ!?」
驚愕の声を上げたのは、ポチとフウカだ。
特にフウカは、自分の名前が当たり前のように入っていることに、頭が真っ白になった。
王宮の庭園に、新たな嵐が吹き荒れようとしていた。
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