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しおりを挟む◇◇ リアム ◇◇
リアムは踵を返し、部屋に置かれている水彩画や素描を手に取った。
肖像画だけでは、これを描いたのが、目の前のこの娘だとは、とても信じられなかったのだ。
だが、どの絵も同じで、まるで生きているかの様だった。
「凄い…」
肖像画よりも寧ろ、日常の夫婦の様子や、
シュシュの動きや表情を描いた素描に、強く心が惹かれた。
「何故、こっちを絵にしなかったんだ!?」
リアムは思わず言っていた。
「記念の肖像画ですので…飾るには不相応かと…」
シュゼットがおずおずと言う。
確かに、相手に向ける愛おし気な視線や、笑い合う様子など、愛溢れ、
幸せに満ちているが、飾るとなれば気恥ずかしい…
いや、他人には見られたくないだろう。
「しかし、僕なら、これも欲しいと思うだろう…いい絵だ…」
「ありがとうございます…」
シュゼットが恥ずかしそうに、だがうれしそうに微笑む。
「この絵は、どうするつもりだ?」
「考えていません、ただ、描きたかっただけなので…」
「それなら、是非譲って欲しい!両親も欲しいと思うだろう…」
「はい、勿論、よろこんで」
「幾らで売って貰えるだろうか…」
だが、アドリーヌの事もあり、先の事を考えると、出来れば現金には手を付けたくない。
何かを売り、金に変えようかと考えていると、シュゼットが遮った。
「お代は結構です、わたしが好きで描かせて頂いたものですし、練習になりました。
画材の料金も頂いています、これ以上は必要ありません」
シュゼットの好意だろう…
有難く思いつつも、リアムは頭を横に振った。
「いや、君に借りを作る訳にはいかない」
リアムは、状況がより複雑になるのではと懸念した。
だが、シュゼットは何も知らないのか、驚いていた。
「借りだなんて!その様にお考えになる必要はありませんわ!
でも、《借り》というなら、わたしの方です…」
「どういう事かな?」
「この館で、一月近くもお世話になり、好きに絵を描かせて頂いたのですから…
こちらの絵は、お世話になったお礼に、お二人にお渡ししようと思います。
これでは不足かもしれませんが…」
「いや、そんな事は無い、それに、君に絵を頼んだのは父だろう?」
それに、恐らく、シュゼットをここへ引き止めているのもオベールだ。
世話をする位は当然だろう。
だが、シュゼットは小さな可愛らしい頭を振った。
「いいえ、皆さんから、こんなに良くして頂いたのですから…わたしの気持ちです。
恩知らずな事になる所でした、気付かせて下さりありがとうございます、リアム様」
シュゼットに深々と頭を下げられ、リアムは困惑した。
この様な筈では無かったのだが…
何故か、全てが裏目に出てしまう。
「それでは、絵の事はそれで良いとして…額だったな…」
リアムは茫然としつつ、話を逸らしたのだった。
シュゼットと居ると調子が狂う。
早く仕事を終わらせたいリアムだったが、それでも、肖像画の見事さに、
この絵に見合う額を用意するべきだ___と、自分でも驚く程、熱心に動いていた。
シュゼットから、額の希望を詳しく聞くと、リアムは直ちに町へ向かった。
額を扱っている店を訪ね、店主と時間を掛け、話し打合せた。
数日中には、工房の者が額を持ち、館を訪れた。
シュゼットの描いた肖像画は、綺麗に額装され、一旦、布を被せられ、広間に掛けられた。
結婚記念の食事会の時に除幕となる。
「気に入って頂けると良いですが…」
布を被せられ隠された絵を、不安そうに眺めているシュゼットを、
リアムは反射的に励ましていた。
「絶対に気に入るよ、僕が保証する」
微笑み掛けた後、シュゼットの水色の目が輝き、頬が染まるのを見て、
リアムは自分の失態に気付いた。
リアムは表情を固くすると、さっと踵を返した。
優しくしてはいけない。
彼女には、何としても、嫌われなければ…
◇◇
オベールとベアトリスの結婚記念の食事会には、二人の友人たち、
それにリアムの妹エリザベスも、嫁ぎ先から駆け付けた。
オベールとベアトリスの手で、肖像画の除幕が行われた。
絵を見たオベールは大層満足そうだった。
普段落ち着いているベアトリスが、珍しく歓喜の声を上げたのには驚いた。
集まった者たち全員が、肖像画に感服し、シュゼットを褒め称えた。
それを目にし、リアムは何故か、誇らしかった。
そんな風に思う自分が、自分でも分からず、リアムは殊更に難しい顔をし、
ワインを飲んだ。
「お兄様、どうなさったの?機嫌が悪そうよ」
久しぶりに会った妹エリザベスに言われ、リアムは肩を竦めた。
「別に、普通だよ」
「嘘よ、それとも、会わない間に、気難しくなってしまったの?」
「ああ…おまえも知ってるだろう、アドリーヌとの事だよ…」
エリザベスの追及が面倒になり、リアムは零した。
アドリーヌとの事で難しい立場にあると匂わせたのだが、エリザベスは短絡的だった。
「ええ、知ってるわ、婚約を破棄したのは英断ね、お兄様!
アドリーヌの事は、私も良く思っていなかったのよ、でも、お兄様は彼女に夢中だし、
悪いと思って言わなかったんだけど、これで安心したわ!」
リアムは顔を顰めた。
「婚約は父が勝手に破棄したんだ、僕は今でもアドリーヌに夢中だよ。
おまえの好のみであろうとなかろうとな」
エリザベスは『しまった!』という顔をした。
「兎に角、お兄様、今はお父様とお母様の結婚記念のお祝いの席よ、
せめて、景気の良い顔をしてあげて!」
「分かっている」
リアムは答えたが、とても笑う事など出来なかった。
自分の家族は何故、皆、アドリーヌを認めようとしないのか…
自分たちの価値観を押し付けているだけだ…
ふっと、リアムの脳裏に、シュゼットの描いた水彩画や素描の二人が浮かんだ。
愛し気な視線を交わす二人、一緒に本を覗き笑い合う二人、
のんびりと散歩をする二人…
その姿こそ、自分が求めているものだ…
今、リアムは、遠くに両親の姿を眺め、それを切望していた。
「僕は、アドリーヌと結婚する…」
その為なら、全てを捨てても良い___
◇
リアムは自分の決心を伝えに、アドリーヌを訪ねた。
パーラーで迎えてくれたアドリーヌの手を握り、リアムは彼女を熱く見つめた。
「アドリーヌ、僕と一緒に異国へ行き、結婚しよう!
僕は漸く気付いたんだ、君以上に大切なものは無い___」
愛以上に大切なものはない。
アドリーヌは紫色の目を見開いた。
だが、彼女の返事は良いものでは無かった。
みるみるその表情は、悲し気に曇り、リアムはそれを悟った。
「ああ…リアム、それ程に私を想って下さっているのね!うれしいわ!
でも、愛するあなたから、全てを奪うなんて、私には出来無いわ!」
「僕がそれを望んだんだよ、アドリーヌ」
「いいえ!私は決めたのよ、リアム。
私は援助を受けて異国へ行くわ、あなたは結婚をして伯爵になって、
それが二人にとっても一番良いのよ…」
リアムはアドリーヌの言葉が信じられなかった。
「そんな…離れる事が、僕たちにとって一番良い事だって!?」
「あなたを愛しているわ、リアム…
でも、私達は結ばれない運命だったのよ…
あなたは立派な方よ、あなたに今の私は相応しく無いわ…」
「何を言うんだ、アドリーヌ!僕はそんな風には思っていない!」
「私が身を引くのが一番だわ、あなたは大きな仕事をすべき方よ、
皆の為に、立派な伯爵様になって、それが私の願いよ…」
自分の為に身を引くと言うアドリーヌに、リアムは胸を打たれた。
だが、それは痛みを伴うものだ…
リアムは奥歯を噛みしめ、アドリーヌの手を強く握った。
「私は遠くから、あなたを想っているわ…」
「アドリーヌ…」
「リアム、最後に、一度でいいの…私を抱いて…」
アドリーヌはリアムの胸に縋り、懇願した。
リアムは息を飲む。
「あなたとの愛の証よ…」
アドリーヌはリアムに熱く唇を押し付けた。
◇◇ オベール ◇◇
シュゼットに肖像画を頼んで正解だった___
オベールは、広間の目立つ場所に飾った、自分たち夫婦の肖像画を眺め、
一人ほくそ笑んだ。
画家の絵にも劣らぬ出来栄えだ。
それに加え、表情が良いとオベールは思った。
人柄が分かる、しかも、魅力的な良い面を引き出し、描いてくれている。
絵のオベールからは、ベアトリスを誇らしく思い、彼女を守る為の強さ、意志が伝わってくる。
ベアトリスからは、気品、優しさ、穏やかさ、そして、夫に守られ安心し、委ねる姿…
妻ベアトリスは、この絵を見て歓喜していた。
普段、感情をあまり表に出さないベアトリスの喜ぶ姿が見れただけでも、
オベールは満足だった。
それに、リアムに肖像画の額装を頼んだ事で、リアムとシュゼットの間に、
何やら柔らかい空気が流れているのに気付いた。
尤も、シュゼットの方は、最初からリアムに心を寄せていた様だ。
それは、二人を引き合わせた時、直ぐに分かった。
シュゼットはまるで別人になった様に、大人しくなってしまったのだ。
猫を被るというよりも、極度の緊張からで、初々しい事この上なく、
ベアトリスと二人になった時に、それを話したのだった。
「シュゼットはリアムの事が好きらしいな、少女の様で見ていてむず痒い」
「そうおっしゃりながら、お喜びではありませんか」
「ああ、少しの脈も無ければ、息子を押し付ける事は出来んからな」
「シュゼットは良い娘ですからね、私も上手くいく事を願っています」
「問題は、リアムだ、あいつめ、態と不機嫌に振る舞いおって!」
「そこは、リアムにとっての誠実さでしょう、あの子は優しいのですが…」
「ああ、どうも、真面目過ぎて融通が利かん!」
だから、あんな女豹になど付け入られるのだ___
オベールは、やれやれと頭を振った。
結婚記念の食事会でも、リアムは憮然とし、人を寄せ付け無かった。
可哀想に、シュゼットは話し掛けたそうに、遠くから眺めていた。
リアムを咎めたのはエリザベスだったが、余計な事を言ったのか、
リアムの機嫌は益々悪くなっていた。
結婚記念の食事会も無事終わり、シュゼットはルメールの館に帰る事になった。
これ以上は、流石に引き止める事は出来無い。
父親のドミニクとは手紙でやり取りをしていたが、さぞ心配しているだろう。
「シュゼット、長く引き止めてしまって、悪かったな、家が恋しいだろう?」
オベールが聞くと、シュゼットはふわりと笑った。
「大丈夫です、それよりも、沢山絵を描かせて頂いて、夢の様でした…
家に帰りましたら、改めてお礼をさせて頂きますが…」
シュゼットが大きな箱を持ち出し、差し出してきた。
「こちらで描いた絵です、お世話になりましたお礼に、受け取って頂けたらと…」
「いいのか!?礼など必要無いが、これはうれしい!ベアトリスも喜ぶだろう!」
「それと…」
今度は、額装していない小さなキャンバスを差し出した。
それは、シュシュを描いた油絵だった。
芝生に座り、蝶を目で追う愛らしい様子、ふわふわとした毛並みが、見事に表現されている。
愛犬の絵に、オベールは「これは良い!」と笑顔になった。
「こちらは、よろしければ、リアム様に…」
「何故、息子に?」
自分では無いのか、という不満もあり聞くと、シュゼットは見て分かる程、顔を赤くした。
これはこれで面白い。
「リアム様に、色々教えて頂きました、お礼です…」
「色々?悪い事じゃないだろうな?」
「そ、そ、その様な事はございません!」
真っ赤な顔で慌てるのが面白く、オベールはつい、からかってしまった。
「その…額は絵との調和が大事だと…
感覚でやっていたものを、言葉で言われて、意識してやってみますと、
とても面白く…新たな喜びを知る事が出来ました」
シュゼットは感動している様だが、それをリアムに教えたのは、自分だ。
だが、役立ったらしい、教えておいて良かったと、オベールは内心でニヤリとした。
「しかし、息子にやるには勿体ないな、見事な油絵だ、
それに、シュシュの愛らしい姿を、皆に見せてやりたい!」
「気に入って頂けたのでしたら、少し大きな物を描いて送ります」
シュゼットは簡単に請け負った。
勿論、オベールは相当の金額を支払うつもりだ。
結婚記念の贈り物として描いて貰った肖像画も、相当の料金を付け、支払った。
シュゼットは恐縮していたが、オベールはその価値はあると言い譲らなかった。
「それにしても、見事だ…」
オベールはシュゼットを見送ると、
早速、ベアトリスを呼び、貰った水彩画や素描を見ていった。
「何故、こんな風に、一瞬を閉じ込めて描けるのか、不思議ですわ…」
ベアトリスは感嘆する。
「シュゼットは、画家になるべきだな」
「画家の伯爵夫人も居てもよろしいですわよね」
「ああ、フォーレの家に芸術家の血が入るのは大歓迎だ」
「それにしても、本当に、うっとりしますわ…」
「モデルが良いのだろう?」
オベールの冗談に、ベアトリスは細い肩を揺らし、笑った。
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