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80.遠乗り
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遠乗りの日の朝、リエリーは約束の時間よりも早く領主城に着いた。代行は厩舎にいると聞いて、護衛に案内してもらった。
厩独特の馬と土と藁が混ざりあった臭いがする、お嬢さんにリボンを結んだ日のことが思い出された。
体の引き締まった美しい黒馬に、鞍を付けているアツリュウの後ろ姿が見えた。
アツリュウは、離宮にいたあの頃と同じ、簡素な黒い服に乗馬靴を履いている。胸が苦しくなって立ち止まった。護衛官が彼に近づき声を掛けると、振り返って馬を引きながら近づいてくる。
ゆるい癖の髪は彼が護衛官だった頃より長くなって、あの頃より彼を大人に見せる、きっと髪のせいだけではない。アツリュウはエイヘッドで変化した、もう少年らしさは消えて、大人の男性なのだと強く感じさせ、それがもっと彼に近寄り難くさせる。
どうしようもなく逃げ出したい。どうしてこんなに胸の中が痺れたみたいに苦しくなるんだろう。
目の前で彼が止まると、黒馬がぶるぶるっと首を振った。
「姫様おはようございます」
彼が私に話しかけてくれた。それはリエリーをとても不思議な心地にさせた。厩舎で自分たちは、けして言葉を交わさないのが、あの時の決まり事みたいになっていたから。
「アツリュウ」
「はい」
返事をしてもらっただけなのに、もうそれだけで胸がいっぱいになるほどに嬉しい。
「あの……アツリュウ……おはよう」
彼の琥珀の瞳が少し細められる、優しい眼差しにリエリーはすぐに捕らえられ引き込まれてしまう。
外に出たら、光の中で、彼の目は橙色を増して明るくなることを知っていた。
「ここで姫様の声を聞くと、なんだか不思議な感じがします」
彼が自分と同じことを感じていて、思わずふふっと笑ってしまった。
「出る前に鐙の長さを合わせましょう」と馬に乗せられた。馬の準備の何もかもを、アツリュウが支度している。本来なら領主代行がすることではないのだろうに、彼の動きはとても自然で当たり前のように動く。馬もとても落ち着いて彼に従っていた。アツリュウはきっと馬が大好きなのだろう。本来はここで働いていた人なのだから。
「この子は人が好きなのです。乗れば分かりますよ」
遠乗りに出かける前に、馬場でこの子に慣れてくださいと、リエリーは自分に用意された黒馬の試し乗りをした。
「アツリュウ、この子とても賢いです、ほんの少しの動きですぐ反応する」
「そうなんです。慣れれば体重移動と足の締め付けだけでも察してくれますよ、ちょっと繊細すぎて兵馬としては向いていないのですが」
馬場には二人きりで、遠くに護衛はいるのだろうけれど、離宮の時のように、大勢の監視の目が無い。今私は、彼と二人きりで話しをしている、それが嬉しくて目が合う度に恥ずかしい。
「この子の名前はなんですか?」
「ウサギです」
彼も乗馬して隣に来た。意外な名前にもう一度「この子の名前ですよ?」と聞いた。
「馬なのにウサギです、姫様」
彼が大きな笑顔を見せた。思った通り、朝の光を受けて琥珀の瞳はキラキラと美しい。
あなたが好きです……
顔が熱くなる、きっと赤いに違いない。顔を伏せて「ウサギよろしくね」と首を撫ぜた。
◇◇◇ ◇◇◇
遠乗りに出発すると、思ったよりも大人数での移動だった。
前後に5人ずつの武装した護衛が付いた。行き先の湖には、警備の兵士が大勢配備され、道中にも各所に警備兵がいるのだとアツリュウから知らされた。
「黒の集団の件がありますから、今日は私達に厳重に護衛が付きます。実はスオウは今回の遠乗りを利用して、要人警護の訓練を兵士にさせているのです。ですので、私達は今回、賊に襲撃される要人の役をしている設定です。すみません姫様、訓練に付き合ってもらうことになってしまって。でも、まあスオウなりの心遣いなのかもしれません。これだけの数の兵を動かして警備してくれるのですから、安心しています。遠乗りと聞いた時、やはり安全面が心配でしたから」
「襲撃される役を演じるのですね。私がんばります」
「いや、私達の所には賊役は来ませんから安心してください。姫様がんばらなくていいです、遠乗りを楽しんでください」
湖への道は、ずっと登り坂だったので馬をゆっくりと進めた。
7月『家守月』の夏の心地よい風が吹く。
木立の間を陽の光が通ると、地面に丸い光の集まりを作る。それが小路に丸い光を撒いたように続いている。モーリヒルドでは見たことの無い白い皮の木々が、馬を進めるほどに増えていく。白い木立の森は、凛として美しく妖精が住んでいそうな清らかさがあった。
森を抜けて、開けた草原に出ると遠くに湖の青色が見える。
「姫様、少し走らせましょうか」
アツリュウが爽やかな笑顔でそう言うと、前の護衛達に下がるように指示をだした。
リュウヤ兄様との遠乗り以来、馬を走らせるのは本当に久しぶりだった。けれどアツリュウと一緒だとリエリーは不安を感じなかった。彼が選んでくれたウサギはきっと上手に駆けるだろう。
風を切って走る。ウサギの逞しい筋肉の動きが、黒く美しい体の中に見える。湖の向こうはは白皮の木立の森が続いている、薄い緑色の葉が水面に映って揺れている。前を走るアツリュウに追いつきたい、そう思っただけなのに、ウサギが速度を上げた。ウサギと一体になって駆けている心地になった時、アツリュウが速度を緩めた。遠くに見えた湖は、もう目の前だった。
「湿地になるので、これ以上は湖に近づけません」
アツリュウの言葉に湖のほとりまで行けないことを知り残念だった。
「ウサギにあの青いお水を飲ませてあげたかったです」
馬を止め、ここで降りましょうと言いながら、アツリュウが嬉しそうな顔をしてウサギの隣に並んだ。
「姫様はウサギとすっかり仲良しになった。羨ましいな。おいウサギ、私の時と態度が違うではないか」
リエリーは走って体温の上がったウサギの首を「ありがとう」と撫でて伝えた。
アツリュウの言う通り、ウサギととても気が合う気がした。彼も「きっとあなたがウサギを気に入ると思った」と優しくウサギを撫でた。
おそらく彼は、たくさんの馬の中から、私の為に時間をかけて馬選びをしたのだろうと分かった。
座るのにちょうど良さそうな大木の下に、すでに敷物があり座る場所が整えられていた。
侍従が控えており、降りると馬を引いていった。離れているが護衛の姿があちこちに見える。きっと湖周りに兵が配備されているのだろう。二人きりだけれど、大勢の兵士に取り囲まれていることは、なんとなく肌で感じた。
「疲れましたか?」
「はい、久しぶりに駆けたので少し息があがりました。でもとても気持ちがいいです。あの湖の水に触りたかったので残念です」
風に水面が網のように波を震わせてきらめく。
「桟橋を造って近くまで行けるようにしたら、エイヘッドの観光場所が増えますね。今は街道や橋の整備で手がまわらないけれど、数年後にはこの辺りにも手を入れたい」
二人で並んで、敷物に腰を下ろした。アツリュウは何でもないことのように、寛いで話すけれど、リエリーは隣で緊張していた。人が一人座れる位の距離を空けているが、こんな風に近くに座るなんてどう振る舞っていいか分からない。
「アツリュウはすっかり領主代行として、立派にお仕事をなさっていますね。あの……今日はこんな美しい場所に連れてきてくださってありがとうございます。代行のお仕事で忙しいでしょうに、無理を言ってごめんなさい」
ずっと湖を見ていた彼が、こちらを向いて「姫様」ととても真剣な声で呼んだ。
「今日は、姫様にお伝えしたいことがあります。聞いてください」
彼の緊張した声が、良い事を伝えるとは思えず怖かった。しかし「はい」と頷くしかなかった。
「恩赦の戦のことです。姫様が今も苦しんでいることをオルゴンから聞きました」
苦し気に彼は眉根を寄せた。
「私は姫様に謝らねばなりません。恩赦の戦で、あなたを勝手に褒美の対象にして、そして私は大怪我を負った。あなたは今も、私が死にかけたことを自分のせいだと責めていると知りました。あなたに責任を感じるなといっても無理ですよね」
唐突に始まった彼の話はリエリーを驚かせた。
美しい湖を前にしてどうして恩赦の戦の話になるのか分からずリエリーは戸惑うばかりだった。
「逆の立場だったらと私は最近初めて想像してみた。私だってあなたが同じことをしたら耐えられない。己をきっと責めるだろう。でも、恥ずかしい事ですが、私は愚かにも自分があなたのために褒美を勝ち取ったことをずっと誇りに思っていました」
アツリュウが真面目に話しているのは分かる……しかしリエリーは完全に彼の話に置いてかれた。ぐいぐいと話を進める彼が、どうやら自分に謝ろうとしていることは、なんとなく理解はできた。
「でもオルゴンに言われました。姫様の気持ちを一度だって聞いたのかと? あなたの望みを知っていたのかと? 私はあなたの望みを知ろうとしなかった。私が聞いたのは、セウヤ殿下の気持ちだけだ。そして自分自身の気持ちに従った。だから私はあなたのために戦ったのではなく、セウヤ殿下と自分の為にしたことだった」
彼は、少し震えるほどに力を込めて、拳を握りしめた。苦し気な顔は悲しげにこちらを見た。
「あなたは、あんな恐ろしい場所に望まないのに引きずりだされて、惨たらしい殺人を見せられた、どれほど心に傷を負っただろう。そして私が死にかけたのは、あなたの責任だと思わされた。私の自分勝手な行動で、あなたをどれほど苦しめたか、やっと分かったのです。心から己の過ちをお詫びします。私は本当に自分勝手な人間で、自分の愚かさゆえに死にかけたのです」
アツリュウが、彼の本心を語っているのはわかる、けれど、リエリーの理解が追い付かないままに、彼はどんどん気持ちをぶつけてくる。
何か決定的なことを告げられそうで、リエリーは聞くのが怖いと思った。
「だからもう、私のことで苦しまないでほしいのです。そしてあなたは、セウヤ殿下からも、私からも自由になって欲しい。私が得た褒美で、あなたが選んだ相手と結婚できる。だから、あなたはモーリヒルドに帰ったら、どうかあなたに相応しい伴侶を見つけてください、私はあなたに幸せになって欲しい」
その言葉の矢から逃れる術はなかった。
切実に訴える声が、揺るがない瞳が、彼が本気で告げているのだと嫌な程分かった。
『私はあなたに幸せになってほしい』
胸に矢が突き刺さって血を流しているのに、どうやって幸せになれるというのか。
他の誰かと結婚しろと、どうしてあなたはそんな残酷な言葉を吐くのか。
私はあなたと結婚したいですと、胸から血を流したままとても口に出す勇気はなかった。それでも最後の望みに縋るように聞いた。
「でも兄様はアツリュウと結婚させると言いました。だから私はあなたと結婚するのではないですか」
「セウヤ殿下は、名目上の結婚をさせるだけです。本当の意味で私はあなたと結婚しません。私はあなたに相応しくないのです」
はっきりと言い切られ、そこに彼の迷いはなにも感じられなかった。何を言っても彼は揺るがないと感じながらも、それでも「でも……私は……」と諦められず声が漏れた。
「言い方を変えます。これが私の本当の気持ちです。私は誰とも結婚したくないのです。ずっと一人でいたいのです。それはセウヤ殿下に命じられたからではなく自分自身の意思です。こんな言い方はどれほどあなたに失礼か理解しています、しかし正直に伝えます。あなたとの結婚は都合がいいと思いました。結婚しても会わずに遠く離れていられるなら、あなたと名目上の結婚をしてもいいと、その間にあなたが相応しい相手を見つけてくれたらいいと、そう思って婚約者になりました」
今、本当の意味で拒絶されたのだと分かった。
セウヤ兄様のせいで会えなかったのではない。この人自身が望んでいないから私と会わない。結婚もしたくない。
この人は私を愛していない。
何も私に望んでいないのだ。
なんだろうこの感覚は……何かに強く全身を打たれたように息がうまくできない。
呆然として湖を見つめる。
きっとすごく悲しいはずなのに、何も感じない……涙が出てこなくてよかった。
「帰りましょうか?」と聞かれ体がびくりとした。
アツリュウの声は労わるようにとても優しかった、それが怖かった。自分を愛していないとはっきりと告げてきた彼の、優しい顔をみたら自分が壊れてしまう気がした。
首を左右に振って、ひたすらに湖を見つめた。
これで最後になるのだろう、こんなふうに彼と並んでこんなにも美しい景色を見るのは。
今日の遠乗りはいったい何だったのだろう……着いたとたんに、彼は溜めていたものを吐き出すように、突然気持ちをぶつけてきた。
湖が綺麗ですねとか、ウサギは可愛いですねとか、今日はあなたとお喋りができるのかと思っていたの……
なんの心の準備もできていなかった。アツリュウの話が始まって、よく分からないままに……気が付いたら……あなたが私を愛していないことだけがはっきりと分かった。
あなたとは結婚しませんと、それを言うためにアツリュウは私と遠乗りにきたのだろうか。
『私は……もっと姫様に笑って欲しい…かな』
お茶会でそう言われた時、心が震えるほどに嬉しかった。まるで愛していると告げられたように、彼の優しさに包まれて幸せだった。
あの時のアツリュウの瞳は、微笑んでいるのに切なげで、そして間違いなく優しかった。
それなのにどうして、あなたは私を遠ざけるのだろう。
厩独特の馬と土と藁が混ざりあった臭いがする、お嬢さんにリボンを結んだ日のことが思い出された。
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「姫様おはようございます」
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「アツリュウ」
「はい」
返事をしてもらっただけなのに、もうそれだけで胸がいっぱいになるほどに嬉しい。
「あの……アツリュウ……おはよう」
彼の琥珀の瞳が少し細められる、優しい眼差しにリエリーはすぐに捕らえられ引き込まれてしまう。
外に出たら、光の中で、彼の目は橙色を増して明るくなることを知っていた。
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彼が自分と同じことを感じていて、思わずふふっと笑ってしまった。
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「この子は人が好きなのです。乗れば分かりますよ」
遠乗りに出かける前に、馬場でこの子に慣れてくださいと、リエリーは自分に用意された黒馬の試し乗りをした。
「アツリュウ、この子とても賢いです、ほんの少しの動きですぐ反応する」
「そうなんです。慣れれば体重移動と足の締め付けだけでも察してくれますよ、ちょっと繊細すぎて兵馬としては向いていないのですが」
馬場には二人きりで、遠くに護衛はいるのだろうけれど、離宮の時のように、大勢の監視の目が無い。今私は、彼と二人きりで話しをしている、それが嬉しくて目が合う度に恥ずかしい。
「この子の名前はなんですか?」
「ウサギです」
彼も乗馬して隣に来た。意外な名前にもう一度「この子の名前ですよ?」と聞いた。
「馬なのにウサギです、姫様」
彼が大きな笑顔を見せた。思った通り、朝の光を受けて琥珀の瞳はキラキラと美しい。
あなたが好きです……
顔が熱くなる、きっと赤いに違いない。顔を伏せて「ウサギよろしくね」と首を撫ぜた。
◇◇◇ ◇◇◇
遠乗りに出発すると、思ったよりも大人数での移動だった。
前後に5人ずつの武装した護衛が付いた。行き先の湖には、警備の兵士が大勢配備され、道中にも各所に警備兵がいるのだとアツリュウから知らされた。
「黒の集団の件がありますから、今日は私達に厳重に護衛が付きます。実はスオウは今回の遠乗りを利用して、要人警護の訓練を兵士にさせているのです。ですので、私達は今回、賊に襲撃される要人の役をしている設定です。すみません姫様、訓練に付き合ってもらうことになってしまって。でも、まあスオウなりの心遣いなのかもしれません。これだけの数の兵を動かして警備してくれるのですから、安心しています。遠乗りと聞いた時、やはり安全面が心配でしたから」
「襲撃される役を演じるのですね。私がんばります」
「いや、私達の所には賊役は来ませんから安心してください。姫様がんばらなくていいです、遠乗りを楽しんでください」
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7月『家守月』の夏の心地よい風が吹く。
木立の間を陽の光が通ると、地面に丸い光の集まりを作る。それが小路に丸い光を撒いたように続いている。モーリヒルドでは見たことの無い白い皮の木々が、馬を進めるほどに増えていく。白い木立の森は、凛として美しく妖精が住んでいそうな清らかさがあった。
森を抜けて、開けた草原に出ると遠くに湖の青色が見える。
「姫様、少し走らせましょうか」
アツリュウが爽やかな笑顔でそう言うと、前の護衛達に下がるように指示をだした。
リュウヤ兄様との遠乗り以来、馬を走らせるのは本当に久しぶりだった。けれどアツリュウと一緒だとリエリーは不安を感じなかった。彼が選んでくれたウサギはきっと上手に駆けるだろう。
風を切って走る。ウサギの逞しい筋肉の動きが、黒く美しい体の中に見える。湖の向こうはは白皮の木立の森が続いている、薄い緑色の葉が水面に映って揺れている。前を走るアツリュウに追いつきたい、そう思っただけなのに、ウサギが速度を上げた。ウサギと一体になって駆けている心地になった時、アツリュウが速度を緩めた。遠くに見えた湖は、もう目の前だった。
「湿地になるので、これ以上は湖に近づけません」
アツリュウの言葉に湖のほとりまで行けないことを知り残念だった。
「ウサギにあの青いお水を飲ませてあげたかったです」
馬を止め、ここで降りましょうと言いながら、アツリュウが嬉しそうな顔をしてウサギの隣に並んだ。
「姫様はウサギとすっかり仲良しになった。羨ましいな。おいウサギ、私の時と態度が違うではないか」
リエリーは走って体温の上がったウサギの首を「ありがとう」と撫でて伝えた。
アツリュウの言う通り、ウサギととても気が合う気がした。彼も「きっとあなたがウサギを気に入ると思った」と優しくウサギを撫でた。
おそらく彼は、たくさんの馬の中から、私の為に時間をかけて馬選びをしたのだろうと分かった。
座るのにちょうど良さそうな大木の下に、すでに敷物があり座る場所が整えられていた。
侍従が控えており、降りると馬を引いていった。離れているが護衛の姿があちこちに見える。きっと湖周りに兵が配備されているのだろう。二人きりだけれど、大勢の兵士に取り囲まれていることは、なんとなく肌で感じた。
「疲れましたか?」
「はい、久しぶりに駆けたので少し息があがりました。でもとても気持ちがいいです。あの湖の水に触りたかったので残念です」
風に水面が網のように波を震わせてきらめく。
「桟橋を造って近くまで行けるようにしたら、エイヘッドの観光場所が増えますね。今は街道や橋の整備で手がまわらないけれど、数年後にはこの辺りにも手を入れたい」
二人で並んで、敷物に腰を下ろした。アツリュウは何でもないことのように、寛いで話すけれど、リエリーは隣で緊張していた。人が一人座れる位の距離を空けているが、こんな風に近くに座るなんてどう振る舞っていいか分からない。
「アツリュウはすっかり領主代行として、立派にお仕事をなさっていますね。あの……今日はこんな美しい場所に連れてきてくださってありがとうございます。代行のお仕事で忙しいでしょうに、無理を言ってごめんなさい」
ずっと湖を見ていた彼が、こちらを向いて「姫様」ととても真剣な声で呼んだ。
「今日は、姫様にお伝えしたいことがあります。聞いてください」
彼の緊張した声が、良い事を伝えるとは思えず怖かった。しかし「はい」と頷くしかなかった。
「恩赦の戦のことです。姫様が今も苦しんでいることをオルゴンから聞きました」
苦し気に彼は眉根を寄せた。
「私は姫様に謝らねばなりません。恩赦の戦で、あなたを勝手に褒美の対象にして、そして私は大怪我を負った。あなたは今も、私が死にかけたことを自分のせいだと責めていると知りました。あなたに責任を感じるなといっても無理ですよね」
唐突に始まった彼の話はリエリーを驚かせた。
美しい湖を前にしてどうして恩赦の戦の話になるのか分からずリエリーは戸惑うばかりだった。
「逆の立場だったらと私は最近初めて想像してみた。私だってあなたが同じことをしたら耐えられない。己をきっと責めるだろう。でも、恥ずかしい事ですが、私は愚かにも自分があなたのために褒美を勝ち取ったことをずっと誇りに思っていました」
アツリュウが真面目に話しているのは分かる……しかしリエリーは完全に彼の話に置いてかれた。ぐいぐいと話を進める彼が、どうやら自分に謝ろうとしていることは、なんとなく理解はできた。
「でもオルゴンに言われました。姫様の気持ちを一度だって聞いたのかと? あなたの望みを知っていたのかと? 私はあなたの望みを知ろうとしなかった。私が聞いたのは、セウヤ殿下の気持ちだけだ。そして自分自身の気持ちに従った。だから私はあなたのために戦ったのではなく、セウヤ殿下と自分の為にしたことだった」
彼は、少し震えるほどに力を込めて、拳を握りしめた。苦し気な顔は悲しげにこちらを見た。
「あなたは、あんな恐ろしい場所に望まないのに引きずりだされて、惨たらしい殺人を見せられた、どれほど心に傷を負っただろう。そして私が死にかけたのは、あなたの責任だと思わされた。私の自分勝手な行動で、あなたをどれほど苦しめたか、やっと分かったのです。心から己の過ちをお詫びします。私は本当に自分勝手な人間で、自分の愚かさゆえに死にかけたのです」
アツリュウが、彼の本心を語っているのはわかる、けれど、リエリーの理解が追い付かないままに、彼はどんどん気持ちをぶつけてくる。
何か決定的なことを告げられそうで、リエリーは聞くのが怖いと思った。
「だからもう、私のことで苦しまないでほしいのです。そしてあなたは、セウヤ殿下からも、私からも自由になって欲しい。私が得た褒美で、あなたが選んだ相手と結婚できる。だから、あなたはモーリヒルドに帰ったら、どうかあなたに相応しい伴侶を見つけてください、私はあなたに幸せになって欲しい」
その言葉の矢から逃れる術はなかった。
切実に訴える声が、揺るがない瞳が、彼が本気で告げているのだと嫌な程分かった。
『私はあなたに幸せになってほしい』
胸に矢が突き刺さって血を流しているのに、どうやって幸せになれるというのか。
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「セウヤ殿下は、名目上の結婚をさせるだけです。本当の意味で私はあなたと結婚しません。私はあなたに相応しくないのです」
はっきりと言い切られ、そこに彼の迷いはなにも感じられなかった。何を言っても彼は揺るがないと感じながらも、それでも「でも……私は……」と諦められず声が漏れた。
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今、本当の意味で拒絶されたのだと分かった。
セウヤ兄様のせいで会えなかったのではない。この人自身が望んでいないから私と会わない。結婚もしたくない。
この人は私を愛していない。
何も私に望んでいないのだ。
なんだろうこの感覚は……何かに強く全身を打たれたように息がうまくできない。
呆然として湖を見つめる。
きっとすごく悲しいはずなのに、何も感じない……涙が出てこなくてよかった。
「帰りましょうか?」と聞かれ体がびくりとした。
アツリュウの声は労わるようにとても優しかった、それが怖かった。自分を愛していないとはっきりと告げてきた彼の、優しい顔をみたら自分が壊れてしまう気がした。
首を左右に振って、ひたすらに湖を見つめた。
これで最後になるのだろう、こんなふうに彼と並んでこんなにも美しい景色を見るのは。
今日の遠乗りはいったい何だったのだろう……着いたとたんに、彼は溜めていたものを吐き出すように、突然気持ちをぶつけてきた。
湖が綺麗ですねとか、ウサギは可愛いですねとか、今日はあなたとお喋りができるのかと思っていたの……
なんの心の準備もできていなかった。アツリュウの話が始まって、よく分からないままに……気が付いたら……あなたが私を愛していないことだけがはっきりと分かった。
あなたとは結婚しませんと、それを言うためにアツリュウは私と遠乗りにきたのだろうか。
『私は……もっと姫様に笑って欲しい…かな』
お茶会でそう言われた時、心が震えるほどに嬉しかった。まるで愛していると告げられたように、彼の優しさに包まれて幸せだった。
あの時のアツリュウの瞳は、微笑んでいるのに切なげで、そして間違いなく優しかった。
それなのにどうして、あなたは私を遠ざけるのだろう。
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石橋優香は夫大輝との子供を出産したばかりの二十七歳の専業主婦。三歳歳上の大輝とは大学時代のサークルの先輩後輩で、卒業後に再会したのがキッカケで付き合い始めて結婚した。
まだ生後一か月の息子を手探りで育てて、寝不足の日々。朝、いつもと同じように仕事へと送り出した夫は職場での事故で帰らぬ人となる。乳児を抱えシングルマザーとなってしまった優香のことを支えてくれたのは、夫の弟である宏樹だった。二歳年上で公認会計士である宏樹は優香に変わって葬儀やその他を取り仕切ってくれ、事あるごとに家の様子を見にきて、二人のことを気に掛けてくれていた。
息子の為にと自立を考えた優香は、働きに出ることを考える。それを知った宏樹は自分の経営する会計事務所に勤めることを勧めてくれる。陽太が保育園に入れることができる月齢になって義弟のオフィスで働き始めてしばらく、宏樹の不在時に彼の元カノだと名乗る女性が訪れて来、宏樹へと復縁を迫ってくる。宏樹から断られて逆切れした元カノによって、彼が優香のことをずっと想い続けていたことを暴露されてしまう。
あっさりと認めた宏樹は、「今は兄貴の代役でもいい」そういって、優香の傍にいたいと願った。
夫とは真逆のタイプの宏樹だったが、優しく支えてくれるところは同じで……
夫のことを想い続けるも、義弟のことも完全には拒絶することができない優香。
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