見ているだけで満足な姫と死んでも触りませんと誓った剣士の両片思いの恋物語

まつめ

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87.ずっと一人でがんばってきたのだから

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 アツリュウはのろのろと歩いて執務室を出た。扉前で待機しているはずの姫様の護衛の姿が無い、当然彼は彼女に付いているだろう。

 姫様が行った先に思い当たる場所があった……

 『好きなの』

 姫様の声が何度も胸の中で響く。
 彼女が命を懸けて自分を守るために知らせてくれた情報を、賊を捕らえる餌として利用したのだ。
 どうして彼女があれほど悲しんだのか、自分の過ちが歩くごとに分かってくる。

 歩き続けて、神殿の前に来た。
 夏の日差しが、神殿の影を石畳に落としている。中は暗く、色硝子いろがらすの光が床に薄く映るのが見えた。

 アツリュウが神殿の祈りの間まで進むと、開け放たれた入り口に姫様に付けた護衛が立っており、彼女が中にいることを示していた。

 月女神さまの像の前で、祈りの椅子に並んで座る二人が見えた。

 彼女がヨンキントの腕にすがって泣いているのを見た瞬間、自分は取り返しのつかない過ちを犯して、もう彼女は自分を見てくれないのではと怖れのような痛みが胸に走った。

 彼の右腕に顔を付けて泣く姫様に、ヨンキントは困った眼差しを向けたまま、しゃくりあげて泣く彼女に腕を貸していた。
 近づいていくとヨンキントが気づいて顔を上げ「アツリュウ殿」と声を出すと、姫様は体を強張らせて彼の腕にしがみついて顔を隠してしまった。

 しばらく立ち尽くして、姫様の止まらない嗚咽おえつを聞いていた。

「姫様……ごめん」

 ようやく口にできた言葉は、月女神様の前で、情けないほど軽く響いた。

「ごめん……俺は……」
 彼女が泣いていることが耐えがたく苦しく、自分がそうさせているのだと思うほどに、なんと言葉を繋げればいいのかわからない。

「姫様、アツリュウ殿と二人で話をしたら? お部屋を用意させますから」
 ヨンキントの言葉に、彼女はうつむいたまま首を振った。

「お話しできません」
 泣き声がそう告げて、彼女がぎゅっとヨンキントにしがみ付くのが見えた。それを見たくなかったが、そうさせたのは自分である事実からアツリュウは逃げようもない。

「困りましたね」
 ヨンキントがアツリュウを見上げてくる。何があったのか彼は何も問いかけてこなかった。

 彼はしばらく、アツリュウの目を見つめていた。空いている手で、姫様の方を指した。彼女の隣に座われと言っているのだろう。今ヨンキントがしていることを、自分がするべきだと……

 彼女の隣に座って、抱きしめてやれと……

 分かれ道に立っている。アツリュウはどちらに進むのだと己に問いかける。
 今この時、たぶん彼女をなぐさめて抱きしめることができるかもしれない。

 好きだと告げてくれた彼女に、それをしたらその先どうなるのだろう。
 ずっと、ずっとそばにいて、彼女を抱きしめ続けることができるだろうか。

 湧き上がる嫌悪感がまた襲ってきたら?
 一生彼女を抱けなかったら?
 こんな自分が触れて、彼女を汚すのに? それを俺は自分に許すのか?

 目を閉じて、首を左右に振った。
 できない、あなたに触れることはできない。

 「アツリュウ殿、上に行っていてください。落ち着いたらお連れしますから」

 ため息をついて、その場を離れた。結局姫様は一度もこちらを見てくれなかった。
 いつも行く、神殿とつながった古い見張り台は、神殿の中からどう登るのか分からなかった、どこへ行ったらいいのか分からない。振り返って月女神さまを見上げる。悲しみと情けなさで消えてしまいたい俺を、女神様が叱っているような気がした。


                   ◇◇◇    ◇◇◇

 古い見張り台でアツリュウは遠く続くエイヘッドの街並みを見ていた。
 ヨンキントは姫様を連れてくると言ったが、彼女が来てくれても何も言えないように思った。

 自分は間違えてしまった。彼女をこれ以上ないほどに傷つけた。
 今回だけではない、結婚できないと告げたときも、会いたくないと逃げ回ったときも……

 どこから間違えてしまったのだろう。
 あの日、セウヤ殿下と初めて会った時、欲しい褒美を教えろと迫られた。
「一度でいいから姫様を見たい」

 あの願いをしたことこそが、間違いだったのだ。

 遠くから見ることさえ、望んではいけない人だったのだ。けして手に入らない花の妖精のまま……あなたを心の中だけで想って生きていけばよかったのに。

 どれほど時が経っただろうか、胸の痛みもどうしようもない情けなさも、消えないままに、夏の日差しの中に立ち尽くして、頭がすこしぐらぐらした。そのまま石の床に体を横たえた。青い空に雲が流れていく、雲はとても速く流れてちぎれて、高い空では風が吹いているのだろうと思った。あんな風に俺の体も引き延ばされて、ちぎれて小さくなって、青空に消えてしまえばいいのに。

「アツリュウ殿」
 ヨンキントの声に体がびくりと反応した。姫様がいるのだろうかと咄嗟とっさにそちらに顔を上げたが、彼女の姿は無かった。

「姫様は部屋で休んでいます。あなたには会いたくないそうです。カーリン嬢がエイヘッドの作業場にいるそうなので、使いをやって迎えにきてもらうことにしました」

 アツリュウは起き上がり、壁を背に座った。いつものようにヨンキントが隣に並ぶように座る。
「何があったのですか?」

 穏やかに問う声に、彼の目を見た。どうしたの? といういつもの優しい目を見るのが辛くて下をむいた。
「姫様から聞かなかったのですか?」
「彼女はずっと泣いて、その後は月女神さまにお祈りしていました。何も話しはしませんでしたよ」

 アツリュウは今更ながら、自分が彼女にしたことを恥じた。それをヨンキントに告げねばならない。

「三日前に自分の寝室に賊をおびき寄せました。捕まえることには失敗しましたが、私はさっきまで作戦が成功したことは喜んでいました……でも、それを聞いた姫様がとても悲しんだ……怒っていた」

 アツリュウは深く息を吐いた。

「姫様が俺に教えてくれた情報を使って、俺は自分を餌に賊をおびき寄せた。姫様はエイヘッドに来るために全てを失ったと言いました、大切な侍女も失ってしまったと、それでも俺の命を守りたかったと……そうまでして教えてくれた情報を使って、俺は自分の命を危険にさらしました。傷つけたんです、これ以上ない程に、ひどいやり方で、姫様の思いを踏みにじったのです」

 目を閉じて頭を抱えた。言葉にすると、よりはっきりと己の過ちが見えた。

「確かにやり方には賛同できませんけど、あなたには代行としての責務があったのでしょう。ねえ、アツリュウ殿、あなたがリエリー様を傷つけているというならば、それは彼女がエイヘッドに来てくれたあの日から、あなたがたった一つのことをしない、そのことが原因のように思いますよ」

 よろよろと頭を上げた。
「たった一つのこととは何ですか?」
 ヨンキントは「仕方がないなあ」というふうに、優しく微笑んだ。

「どうして抱きしめてあげないの」

 言わないでくれと心で叫んだ。抱きしめたいんだ、でもできないんだ。馬鹿みたいな考えだと思ったけれど、代わりにヨンキントに抱きつきたかった。さっきの姫様みたいにすがって泣きたかった。

「……できません」
 微かな声をやっとの思いで出した。

 ヨンキントがやれやれと言いながら「どうして?」と尋ねた。
 それは、穏やかな、大人が子供に「叱らないから言ってごらん」というような優しい声だった。
 
「セウヤ殿下があなたを殺すから?」
 彼の問いに答えずに、目をきつく閉じる。
 ヨンキントは静かに隣で座って返事を待っている。長い沈黙が流れた。
 
「俺は道で残飯をあさったこともある人間なんです。6歳の時、死にかけたところを、ミタツルギ家で救ってもらって育ててもらった。だから、おれは貴族でも無い、ただの」
 それきり、何と言葉を繋げてよいかわからなかった。

「ただの、何です?」
 ヨンキントが静かに問うた。

「あなたは、いきさつはどうあれ、ミタツルギ家のご子息として育てられた。貴族として公に認められて、さらに王様から栄誉の剣名まで賜った。充分姫様の結婚相手としての条件はそろえてらっしゃいますよ。恩赦の戦までして、それを勝ち取ったのでしょう。まあ、私からすれば、平民だろうが、貴族だろうが、王家だろうが、結婚したければだれでも好きな相手とすればいいと思いますけどね。あなたも知ってるでしょ、神官はそういう立場で物をいうって」

 彼が歌うように諳んじ始めた。
「人は月神さまの元にみな平等。身分の差にかかわらず。男も、女も、子供も、老人も、罪びとも、あまねく月神さまのご慈悲はそそがれて…… 」

「罪人も? 」
 どうしてそんなことを聞いてしまったのか自分でも分からないままアツリュウはかすかなささやきで尋ねた。
 彼は覗き込むように彼を見て、「罪びとも、あまねくすべての人を」と即答した。

「私たちは皆、等しく全て、月女神さまの愛し子です」
 神殿にもうでるとまず聞かされる。幼子の時から知る言葉を、彼は繰り返した。

「あなたが、彼女を抱きしめられないのは、殺されるからでもない、身分の差でもない」
 ヨンキントの声は必死に隠している、見せたくない心の場所を開けようとする。

「それはあなたが、そう決めているからでしょう」
 はっきりと言い切られた言葉は、さばきを言い渡されたようだった。

「……なんで……、そんなことを言うんです」
 これ以上、俺の心をかき回さないで。
 ヨンキントを見上げた、彼の顔はすぐ近くに合った。

「あなたには、理由があるんでしょう。姫様を抱きしめられない理由が。人には色々な事情というものがありますよね」

 でも、だからといって……と言葉を続けながらヨンキントは、厳しい目をした。

「あなたの気持ちを安心させるためなら、彼女を傷つけてもいい?」
 返す言葉は何も見つからなかった。
 
 そばにいたら傷つけるばかりだ。だから逃げ出したい、でも守りたい。
 姫様を守りたい、傍にいてその瞳を見られたら他にはなにも望まない。それなのに、どうして上手くいかないのだろう。

 怖いのだ、姫様がどんどん近づいてくる。でも自分では彼女を幸せにできない。
 
 表情を取りつくろうこともできない、苦しくて、壁に頭を打ち付けたい気持ちになった。
「困った猫殿ですねえ」
 ヨンキントはアツリュウの頭をよしよしと撫ぜた。

「抱きしめるのが無理なら、こうやって頭を撫ぜてあげたら?」
 アツリュウは自分の手のひらをじっと見た。

 彼女を撫ぜる?
「できませんか? 」
「できない、俺は汚れてる」
 ヨンキントは盛大なためついた。

「めんどくさいですねえ」
 彼はさらに続けてめんどくさい、ああめんどくさいと連呼した。
 ヨンキントを恨めしい思いで、見返した。
 あなたには分からないんだ。俺がどんなに苦しいか。

「めんどくさいですけど、一応聞いてあげます。どうして汚いと思うんです」

「俺の父親がおぞましいから」

 あまりにヨンキントが簡単なことのように言うので、恨めしさと、悔しさで、アツリュは吐き捨てるように言った。汚い汚いあいつの血で造られたこの体で生きていく。誰にも分ってもらえない。でもどうしようもない。

「ああ、そういうことだったのですね。ありますよね、子供がそういう思考になってしまう典型的なのが、親が極悪人とか、不義で出来た子だとか、自分とは関係のない親のことで、罪悪感の塊みたいになる人」
 ああ、めんどうですねえ、と彼はまた言った。さっきまでの彼の優しさは消えて、突き放した冷たい言い方だった。

 下を向いて、自分の髪を力いっぱいぐしゃぐしゃかき混ぜた。この場から立ち去りたいのに、でも言わずにおれなかった。奥歯を強く噛んで、どうしても苦しくて、そして告げた。

「俺の母親は、たった13歳で強姦された。それでできたのが俺だ」

 しばらく彼は何も言わなかった。

「それを、あなたは誰から聞いたんです」
「俺の父親だという男がある日現れた、それからオルゴンに聞いた」
「それは、あなたが何歳のとき?」
「……15歳」
 
「そうでしたか……」
 ヨンキントは真っすぐに視線を合わせて見つめてきた。そこには何の感情もなく、もっと同情的な目をされると思ったからアツリュウは意外だった。

「でも、分かった気がします、恩赦の戦いなんて、正気の人間がすることじゃない。あなたは、自分を傷つけたいんだ。こんな自分は死んでもいいと思ってる」
 アツリュウは大きく頷いた。

「こんなけがれた体で、彼女に触れることなんてできない」

「穢れた体……ねえ。 随分ずいぶんとひどい言葉だ。そんなことを言われるあなたの体は、あなたに虐められて、虐められて、虐めれ続けて、かわいそうなことだ」

 ヨンキントは馬鹿にしたような顔で「どれどれ、そのかわいそうな体を見てあげましょう」と呆れた感じで言って、彼の体をじろじろと見まわした。

 ムッときて睨みつけた。
「健康的で、よく鍛えられた、大変立派な体ですよ、おまけに顔はなかなかの男前だ、うらやましいですね、これが、あなたのいうところの、穢れた体ですか?」

「ふざけたいいかたはやめてくれ?」
「ええ、ふざけていますよ。あなたがね、あなたがふざけたことを言うから、私があなたに合わせてあげているんですよ」

「俺はふざけてなどいない」
「気が付いていないんですよ、自分がどれだけふざけたことを言っているか。では、私の質問に答えてください」
 馬鹿にされているようで苛々としながらも、アツリュウは無視することができなかった。ヨンキントが真剣な顔で問うてくる。

「あなたの生い立ち、お母さんは凌辱りょうじょくされ、そしてあなたが生まれた。では想像してみてください、リエリー様も、あなたと全く同じ生い立ちで、同じ境遇だと。リエリー様があなたにこう言います。『私の体はけがれています。だから私なんて死ねばいい』はい答えて、どんな気持ち?」

 ぐっと、悔しさに似た怒りがこみ上げた。しかし正直に答えた。
「そんなことはない、彼女は穢れてないし、死ねばいいなんて……そんなことは、思って欲しくない」

「次の質問ですよ。ある日リエリー様はこう言われます。『汚らわしい、お前なんて生きている価値はない、殺してやる』それで殴られて殺されそうになります。あなたそれを見てどうしますか?」

「ぶち殺す」
「彼女を?」
「ちがう、殺そうとする奴を」
「どうして? 彼女は私なんて死ねばいいっていってるんだから、丁度いいじゃないですか」
「ふざけたことを言うのはいいかげんにしてくれ、何が言いたいんだ。俺のことに彼女は関係ないだろ」

「彼女が傷つけられると想像しただけで、怒ってしまうんですね、本当に彼女が好きなんですね。自分でも分かっているんでしょ、自分が言っていることが、どれだけ間違っているのか。彼女でなくてもいいんです。ほかの誰でも、想像してください。自分のことを汚らわしくて、死ねばいいと言っている人に、あなたは何と声を掛けたいんです。そう思いながら、懸命に生きている人に、あなたは、そうだね、だったら死ねばいいと、そういいたいですか?」

 そういうことじゃないんだと言い返したかった。けれどヨンキントの言っていることに反論できないことも頭では理解していた、他人はそうかもしれない、でも自分にはそんなふうに思えない。

「あなたは優しい人だ。無下に他人を傷つけないと私は知っています。他人にはしないことを、どうして自分にはするんです」

 ヨンキントはアツリュウの肩に手を置いた。
「他人の心や体を傷つけないのと同じように、自分の心と体も、傷つけてはいけない」

「でも……」
「さあ、始まった。でも… が、あなたみたいな人はね、救うの難しいんですよ。だって本人が好きでやってるんだから、だからめんどくさいと申しました。さて、話はここまでにしましょう。あなたみたいな人と付き合うのは疲れますからね。勘弁かんべん、勘弁、ではこれにてさらば」

 古い時代もののせりふのような言い回しで、ヨンキントは立ち上がった。お尻をポンポンと軽く叩いて衣からほこりを落す。軽く笑うと、では、と手を1度振り、立ち去ろうとアツリュウに背をむけた。

「待ってくれ」
 自分の言った言葉に驚いた。
 彼に、去られては困ると思った。ヨンキントに、今まで誰にも話せなかった、自分の恥部ちぶのような部分を見せられるような気がした。

「なんですか?」
 彼が戻ってきてアツリュウの目の前にしゃがんだ。
「あなたから見ればふざけているように感じるのかもしれないが、それでも、俺は……」

 喉までその言葉が来ている。けれど口に出すのはとても抵抗があった。
「アツリュウ殿大丈夫、言ってごらん」

「俺はどうしたらいいんだ」

 自分の生まれの苦しみで、誰かに助けを求めたのは初めてだった。

あめって知ってます? 」
 思いもよらない言葉が降ってきて「え?」と聞き返して瞬きをしてしまった。

 ヨンキントは、手のひらの上で、棒をぐるぐる回して飴を練る真似をして「これです、練り飴、知ってます?」と繰り返した。
 アツリュウはぎこちなくうなづいた。

「こうやってね、ぐるぐる飴を練るんです。手を止めたら、飴が固まってしまいますからね、このドロッとしたかたまりを回し続けます。止めちゃあいけない、というか止められない」
 彼はてのひらの上で、縦に握った手をぐるぐる回す。

「あなたはね、汚らわしい体だとか、自分なんて死ねばいいとか言いながら、でもそうだと言い切るのも怖い、飴が固まってしまうのが怖い。でもね、だからと言ってそう考えることを止められない、同じ考えをひたすら繰り返して、ぐるぐる、ぐるぐる飴を練る、どんどん飴は大きくなっていくばかり」

 彼は手を止め、アツリュウにきっぱりと告げた。

「あなたはね、そうやって、頭の中で飴を練るのが好きなんですよ。穢れてるとか、死にたいとか、ぐるぐる考えているのが好きなんです。だから好きなだけやってください。どうすればいいか? あなたのやりたいことをすればいいんです。あなたの飴を好きなだけ練るといい」

「好きでやってなどいない」
 どうしてそんな言い方を彼がするのか分からない。こんなにも苦しいのに、逃げ場などないのに……

 ヨンキントは「しょうがないですね」と優しくつぶやきながら、アツリュウを目の前に立ちあがらせた。

「さあ、やってみて」
 胸に手を当てて、ヨンキントは深呼吸して見せた。
 アツリュウは素直に、彼と同じように片手を胸に当てて深く息を吐いた。

 彼が目を閉じるように促す。
 アツリュウはしばらく目を閉じたまま、深く呼吸した。
 微かな風が頬を撫ぜる。遠くに聞こえる城内の騒めき。小鳥のさえずり。
 目を閉じていても、陽の光を感じた。
 
「あなたの大切なリエリー様。その存在を強く胸に感じてみて」

 彼の静かな声に促され、アツリュウは彼女の姿を思い浮かべる。何度もそうしてきたから、その姿はすぐに鮮明な姿で現れる。サラサラと揺れる銀の髪。長いまつ毛に縁どられたすみれの瞳。驚くとまん丸になる瞳。笑うときは、小さくふふっと息をもらして肩が揺れる。
 小首をかしげて見上げてくる「アツリュウ」と呼ばれる時の胸の高鳴り。
 そして……その微笑みは、心が溶けてしまうほどに愛しい。

「彼女に幸せになってほしい?」
 迷うことなくアツリュウは深く頷いた。

「それと同じように、自分のことも幸せにしたいと、そう強く思ってみてください」
 彼の言葉に、はっと目を開けた。

 首を大きく振った。
 それはできない。

「どうしてできないの?」
「そんなこと、思ってはいけない気がする」
「どうして?」
「俺が、悪い人間だから。母さんを傷つけた、悪い人間だから」
「あなたのお母さんんが、そう言ったのですか?」
 首を横に振る。
「だったら、あなたのお母さんに直接聞いてみたら?。僕は悪い子ですか? あなたを傷つけましたか? と」

「そんなことはできない」
「どうして? お母さん健在けんざいで居場所も知ってるのでしょう、会いに行けばいいじゃないですか。簡単に聞けますよ」
 首を否と振った、とうてい不可能なことに思われた。

 ヨンキントは優しく笑った。
「そういう、ああ、無理だとなってしまうときのコツを教えてあげますよ。逆に考えてみるんです。あなたのお母さんが、こう考えています。私は悪い母親だ。息子のアツリュウを傷つけた。だから自分はけして幸せになってはいけない」

 強い衝撃を受けた、母さんにそんなことを思わせるなんて想像すらしたことが無い。

「お母さんになんて言ってあげたいの」
「そんなことはない、そんなことは、けして…… 」

 大好きな母さん。俺を心から愛してくれた。たくさん抱っこしてくれた。美味しい物を作ってくれて一緒に笑って食べた。手を繋いで散歩した。アツリュウ大好きといつでも言ってくれた。
 母さんが自分を責めるなんてことは、絶対にしてほしくない。 

 ただ、幸せでいてほしい。それだけでいい。

 泣いてしまいそうになった。
 けれどけして泣くわけにはいかなかった、奥歯を噛みしめて耐えた。

「あなたがお母さんに幸せになってほしいように、お母さんだってあなたの幸せを願っていますよ。だって、あなたを生んで、育てたんだから。違いますか?」
「でも、俺は……」

 ふふふと彼は笑って、済みません笑ったりして。と謝った。
「手強いですよね、分かりますよ。飴をね、練りたくなっちゃうんですよ。止められないんですよ。ふふふ、あ、また笑ってしまった」

 必死に我慢するのに、目はじわじわとうるんでくる。アツリュウは笑われて、抗議の目でヨンキントを見返した。
 彼は馬鹿にしていない、その目は優しかった。

「アツリュウ殿、この前私達が話したことを覚えていますか?あなたは、言葉を聞いた瞬間に映像を思い浮かべてしまう性質があると、お伝えしました」

 アツリュウは深く頷いた。あの後思い当たることがいくつもあり、自分はそういう性質だと思うようになった。

「あなたが辛いお母様の話を聞いた時、恐らくそれがあなたの頭の中で起きたのでしょう。話を聞くだけでも相当な衝撃です。ですがあなたはそれ以上に、追体験とも言うべき、恐ろしい映像を頭の中で見てしまった」

 それを聞いてしばし記憶が昔に飛んだ、そうだ俺はまるでその場に居るかのように感じた。母さんが傷つけられているのをこの目で見たかのように記憶している。今だってそれが頭に浮かぶ。
 アツリュウはゆっくりと頷いて彼が言っていることが正しいと伝えた。

「15歳という年齢もよくない。性に対して意識が向き始める大切な時期に、そんなものを見せられたら、性に対する忌避感きひかんはどれほどのものでしょう。15歳の少年が受け止めるには、あまりにむごい話です」
 
 ヨンキントは両肩に手を置いた。
「でもあなたは生きのびた。そして19歳になったのだ。愛する人もいる」

「でも……」
 何を言いたいのか分からない、頭の中がぐるぐるしてきて倒れそうだ。置かれた手を上から握って、もう一度「でも」とつぶやく。ヨンキントの手は思ったより硬くて、しっかりと肩をつかんで動かなかった。

「15歳の時、あなたは深く傷ついた。19歳の今のあなたが、15歳の少年に言ってあげなさい。辛かったなと、よく頑張ったなと。そして自分のことを知るのです。映像を見てしまうこと。一人で心の中で飴を練り上げてしまうこと。そして……自分を汚いと思ってしまうこと。人ともっといろんな話しをするといい、外から自分を見てごらん。15歳の時はまだ子供で出来なかったかもしれない、でも大人になった今、あなたはずっと強くなった。違う答えを出せるかもしれない。もう一度このことに向き合ってみたどうですか?」

「もう一度向き合う」
 言葉に出したが、それは無意味に思えた。何をどう聞いたところで、事実はくつがえらない。この自分のままならない体から逃げる方法はどこにもないのだ。
 首を左右に振った。

「急がなくてもいいのですよ。あまりに頑張りすぎて今は力がでないのでしょう」

 彼が肩から手を外し、少しかがんで同じ目線に降りてきて微笑んだ。

「あなたはね、もうずっと幼い頃から、ただひたすらにたった一人でよく頑張っています。がんばって、がんばって、がんばり続けて、もうクタクタだ。そりゃあ、嫌にもなります」

「苦しいですか?」

 とうとう、その言葉を彼に吐いた。

「苦しい」

「だったら、もう一人で頑張るのをやめたらいいんじゃないですか? 苦しいから助けてくださいと彼女に言ってみたら?」

 とても簡単なことのように軽く彼は言った。その言葉の意味を正しく理解るすまでに、かなり時間がかかった。じわじわと、何と形容していいか分らない、快なのか不快なのか、訳の分からないかたまりのどもとにせりあがった。心臓がドクドクと胸を叩く。

 俺が彼女に?
 助けてと……言う?

 姫様の優しい顔が見えた。

 なんてことを言うのだこの人は、そんなこと、無理だ、絶対に無理だ。死んでもできない。

「彼女はきっと喜んで、あなたを抱きしめてくれると思いますよ」

 ヨンキントの声と同時に、脳裏に彼女が微笑んで両手を広げる姿が広がった。
 それは鮮明な映像だった。アツリュウと名を呼んで、ギューッと強く抱きしめてくる。

 それは確信。間違いなくそれが起きると分かった。
 なぜなら、彼女がそういう人だと知っている。
 『助けてくださいと、抱きしめてくださいと』と、そうすがったら間違いなく彼女は自分を優しく包んでくれる。

 あの瞳が、繰り返し伝えたくれた。

 あなたを想っていると。

 命を懸けてエイヘッドまで追いかけて来てくれた。
 危険なことをするなと怒って泣いた。

 『アツリュウを守りたいと』
 
 すみれの瞳が真っすぐに思いを伝えてくる。
 己が胸に、濁流となって流れ込んでくる。

 『あなたが好きと』

 ああ、でも、そんなことは無理だ。
 絶対にしてはいけないことだ。あなたに触れるなんてできないんだ。

 ヨンキントが急に離れて、階段の方に行ってしまった。
 かろうじて見える背中から「あ、アツリュウ殿、リエリー様が上がってきてくれる」と大きな声で言った。

 頭にりをうけたような衝撃を受ける。鳥肌がぶわっと腕を覆った。

 振り返ると彼は「ちょうどいい、今ここで彼女に早速言ってみましょう!」と嬉しそうに笑った。

 え? 今何と言った。姫様がここに来る。それで、何を言うというのか、え?

「大丈夫、大丈夫、私が手伝ってあげますから。勢いですよ、こういうことは」

「む、無理だ!」

 大きな声が出た。うろたえて、アツリュウは逃げ場を探して無様ぶざまに後ずさって壁に背を張り付けた。
 感情むき出しの、情けない自分の顔。

 今彼女に来られたら、平気な顔をするのはとうてい無理だ。
 こんな俺を見せられない。どうすればいい。逃げるのか、隠れるのか? 
 
 ああ、どうすれば!
 口を押えた。顔がぼっと熱を噴き出し、耳まで熱くなるのが分かった。

「いやいや、冗談。リエリー様はいません」

 壁に張り付いていた背から全身の力が抜けて、アツリュウは床にへたり込んだ。

 信じられないことに、ヨンキントは上からアツリュウを見下ろして爆笑した。
「やばいな、最高にかわいいな」と侮辱ぶじょくこのうえないことを言って、腹を抱えて大笑いし続けた。
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