118 / 130
118.あなたの幸せな顔を見ることが私の幸せ
しおりを挟む
ヨンキントとバッシャールは、アツリュウとリエリー王女に会うことを許された。
セウヤ王子は、バッシャール殿下を迎賓として扱うと決めたからと彼の隣を歩かせ、気さくに談笑している。話す内容はバッシャールがヒルディルドについて質問し、セウヤ王子が答える、軽い物言いをしながらお互いに棘を混ぜチクチクと刺し合う。
余裕の顔でバッシャールとの嫌味の応酬を楽しんでいるセウヤ王子を眺めて、ヨンキントは内心舌を撒いた。
ピプドゥ国という大国の王子であり、扱い方を間違えれば国の存亡にかかわるバッシャールを前にしても、セウヤ王子は余裕の雰囲気を一度として崩さない。たった18歳の王子の度量は将来どれほどのものになるか、ヨンキントは想像すると恐ろしさを感じた。
セウヤ王子は、バッシャールが連れてきた2人のピプドゥ人の従者とスオウの同行も許した。
スオウはセウヤ王子を裏切りシュロム兵士を切った男だ、スオウは死の覚悟もしていた様子だった。しかしセウヤ殿下は自らスオウに言葉をかけ「兄の代わりに私を諫めたことを感謝する。もうリュウヤ兄上に恥ずべきことはしない」と彼を許した。
ヨンキントはセウヤ王子の王族としての威厳を感じた、それは彼が王子として生きていく覚悟の上にあるものだ。リエリー様もアツリュウを失うと悟った時、蛹が蝶に羽化するがごとく劇的に変化した。彼女もまた王女としての覚悟を決めた。
己は王子としての覚悟を今までもったことがあっただろうか……
ヨンキントにとってヨウクウヒの第三王子という肩書はすぐにも脱ぎたい濡れて重い不快なだけの上着のようなものだった。体を冷やす以外何の役にも立たない。
セウヤ王子は父から兄を殺され自らも殺されかけ、歩くこともできなくなった。結果彼は正気を失いアツリュウを痛めつけ続けた。それを許せる気持ちにはなれないが、それでもこれから王子であり続けようとする彼の決意の背中を、ヨンキントは自分の境遇と重ねながら眺めた。
王宮の奥まった小さな間に通された。そこにはヨンキントが心から待ちわびた人の笑顔が待っていた。
「ヤナ!」
アツリュウが真っ先にその名を呼んでくれた時ヨンキントは今までに味わったことの無い喜びを知った。駆け寄ってアツリュウを抱きしめたいと確かに感じた。けれど、それをするには自分はあまりに大人で、分別のある人間だった。ヨンキントは静かにアツリュウに頷き返した。
アツリュウが隣に立つリエリー姫の手を繋いで嬉しそうに少し掲げる。
『あなたの幸せな顔を見るのが私の一番望むことです』
ヨンキントが告げたことを彼が自分に見せてくれているのだと、そう思うとたまらない愛しさが胸を満たした。
リエリー姫が「バッシャール」と呼んで前に出ようとしたとき、喜びに微笑んでいたアツリュウの顔が、ぎょっとして強張り、リエリー姫を勢いよく引き戻して彼の胸にしまい込んだ。
「バッシャール、おまえモーリヒルドに来たのか?」
アツリュウの帝国語を聞いて、彼の腕にがっちり閉じ込められているリエリー姫が声をあげた。
「アツリュウ聞いてください。バッシャールはあなたを助けるために来てくれたのです。彼はあなたの恩人です」
アツリュウは眉間に深い皺をよせ怪訝な顔を崩さない。
「やあ坊や、おまえの首と胴が切り離さると聞いて見物に来たのだ。死んでもいいから女を抱きたいとは呆れたが、今や私もおまえの同類だ。私は彼女の犬に成り下がった。リエリーは極上のいい女だな、お前が溺れるのもうなづける」
バッシャールの言葉は、アツリュウを荒れ狂う海に投げ入れたも同じだった。
「え? な? 何を言っている? いい女と言ったか……犬が……は?」
ヨンキントはアツリュウの頭の中で駆け巡っているであろう、様々な想像を思い浮かべ、大混乱の彼を可哀そうにと思いつつも、彼の顔が可愛くてちょっと笑ってしまった。
アツリュウは毛を逆立てた猫のように、ちょっとつつけば飛び上がりそうな顔でリエリーを覗き込んで、彼にとって決死の覚悟であろう質問をリエリー姫にした。
「リエリー、バッシャールと何があった」
「だからねアツリュウ。バッシャールはあなたを助けるために私と一緒にモーリヒルドに来てくれたのです。私の身代わりにグイド王の所へ行くと約束してくれました。彼はとっても優しいいい人です」
「いい人……て、あいつが……だがらその、リエリー、あの男に触られたりしていないのか?」
アツリュウのピンと張り詰めた糸が切れるか持ちこたえるか、狂犬を生み出すかどうかの非常に危険な返事であるとヨンキントは悟った、しかしリエリー姫はええと……とちょっと間を置いた。
「バッシャールに触られてはいないですが、ちょっと引っ張られて彼の胸に転びそうになりました」
これ以上は無理な所までアツリュウの眉が寄った。アツリュウがバッシャールに向けている雰囲気が凍りついた、ヨンキントはアツリュウの剣吞な眼差しがバッシャールを鋭く刺すのを見守った。
「心配するなミッタ―ツルギ、リエリーは触ったら死ぬというので何もしていない。そうだ、良い事を思いついた」
ビリビリするアツリュウの睨みを、むしろ嬉しそうにしながらバッシャールがセウヤに向きなおった。
「セウヤ殿下よ、一つ提案なのだがリエリー姫と私が婚姻を結ぶというのはどうだろう?」
「はあああ?」
アツリュウの盛大に不機嫌な声が部屋に響き渡った。彼はあまりにきつく腕の中のリエリーを抱きしめたので彼女は少し苦しそうにした。
バッシャールはアツリュウにお構いなしに続ける。
「私がヒルディルド滞在中はシュロム王女の婚約者という肩書があれば、ここでの地位が非常に安定する。さらに、ピプドゥとの陸路が突然できて不安になる国民も、ピプドゥ国とヒルディルド国が王族の婚姻によって結ばれたとなれば、その友好関係の証明となり、両国民ともども安心させられるだろう。リエリーはピプドゥ語も堪能だ、良い事づくめだ。どうだろう、リエリーを私にくれないか?」
すでに狂犬になっているアツリュウの目の前で、セウヤは「悪い話ではないなあ」と意地悪く彼に笑いかけてから「だが、それは私が決められることではない」と続けた。
「リエリーはグイド王から特別な権利を賜っている。彼女が選んだ男と結婚できるのだ。命を懸けた特別な戦いでアツリュウはそれを勝ち取りリエリーに捧げた。ヒルディルドの民衆が証人だ。リエリーが選んだ者しか夫になれない」
「そういうことなら、早速リエリーに求婚してみよう」
バッシャールの声に、アツリュウが「ふざけるな!」と返した。
「リエリー王女は私のものだ。誰にも渡さない!」
アツリュウの宣言が部屋に響いた後誰もなにも返さない、にやにやとバッシャールは眺めている。
アツリュウの顔がだんだん赤くなっていく、背中抱きにされているリエリーが彼の腕からするりと抜けるとアツリュウに向き直った。
「私は今こそ、アツリュウが私に与えたくれた恩赦の戦の褒章を使います。皆さん聞いてください。私はアツリュウを夫に選びます。アツリュウ私と結婚してください」
リエリーがアツリュウの手を取ると彼はすぐに跪いた。
「はい今すぐにでも喜んでお受けします。私の全てはあなたのもの。私はあなただけを愛する夫としてあり続けます」
ヨンキントの目にはその二人の姿がとても可愛らしく映った。バッシャールが子供夫婦と揶揄するが、本当に若く愛らしい夫婦だった。
アツリュウがリエリーの手を額に押し付ける。そして彼はすぐ上目にリエリーを見ると「ピプドゥにはいかせない」と心配げな声をだした。
「あのねアツリュウ。バッシャールはあなたをからかったのですよ。彼は私と本気で結婚する気はありません。そうですよねバッシャール」
「その通りだな、リエリー。私はあなたと結婚する気はない。坊やのためにわざわざ乗り心地の悪い船に乗ったからな、ちょっとおどかしてみた。それにしても可愛いなリエリーの夫殿は、リエリーをつつくとすぐに毛を逆立ててフーフー怒る。からかいがいがある」
リエリーがふふっと笑ったのでアツリュウが「ええっ」と情けない程おたおたして、立ち上がると、またリエリーを彼の腕にしまい込んだ。
「なんで? なんでリエリーそんなバッシャールと分かりあってます、みたいな感じになってるの? 嫌だ、リエリーをもうあいつに見せたくない」
ジャミルが音も無くアツリュウの前に進み出て「あなたに話がある」と帝国語で告げる。そのあまりに真剣な表情にアツリュウはリエリーを腕から解放すると彼に向き合った。
「あなたに星の導きを問う」
それは帝国語であったので、その場にいる者は皆、言葉は理解できた。しかしヒルディルドの者には意味するところは分からなかった。
「ミッタ―ツルギ、おまえはジャミルから決闘を申し込まれた。ジャミルはリエリーに心底惚れている」
アツリュウがギョッとした顔で何かを答えようとしたが、それより先にもう一人のピプドゥ人も彼の前に音も無く動いて立った。
「おい、ミッタ―ツルギ決闘候補がもう一人増えた。そいつの名前はマルワーンだ、気づかなかったマルワーン、女に興味のないお前がいつの間にリエリーに骨抜きにされたのだ」
「私はこの女に殺されたい……」
擦れる低い声で、マルワーンがささやいた。それは調子の外れた弦楽器が鳴るような、ガザガザするのに変に耳に残る不思議な魅力のある声だった。
「アツリュウ、最初の男はいいが、2番目の男とはやり合わないほうがいい、彼は強いとか強くないとかそういう次元じゃない。せっかく結婚するのにすぐに死んだらもったいない」
部屋の隅でずっと黙っていたスオウがアツリュウに声をかけた。
「リエリー、俺を助けに来てくれてありがとう。でも知らないうちにセウヤ殿下を叱り飛ばして、バッシャールを犬にして、このジャミルさんを虜にして、さらにマルワーンさんにいたっては殺されたいとまで言わせ……あ、あとスオウを自分だけの剣士にしたんだよね……リエリーってすごい……ね。ちょっと俺、もう倒れそう。」
リエリー姫が「決闘は恋人や妻の女側が了承しないとできないことで、私は絶対受けません」と慌ててアツリュウに言っている。ジャミルがピプドゥ語でリエリーに抗議すると、リエリーがきっぱりした言い方でジャミルをたしなめる。それを見てバッシャールが大きく笑った。リエリーに跪くマルワーンから彼女を遠ざけようとアツリュウが慌てている。そんなワイワイ騒いでいる様子を、ヨンキントは少し離れて眺めた。
誰かを特別に好きになるという感情を初めて知って、幸せだけでなく、失うと恐怖したときの、自分を見失う己の愚かさも知った。アツリュウに出会わなければそんな自分を一生知らずに生きただろう。
自分は幸せになってはいけないと泣きそうな顔で告げてきたアツリュウ。あの彼が自信に満ちてリエリーを誰にも渡さないと宣言した。
ヨンキントは、これで満足ではないかと己に言い聞かせる。
どこにいても、ヨンキントの心の中に今日の幸せな顔のアツリュウがいてくれるのだから。
ヨンキントの隣にスオウが来た、彼が言うことは分かっていた。
「ヨンキント殿、私はいつでも償う準備はできている」
このスオウという男がヨンキントは始めから好きではなかった。自分がグイド王と繋がっている負い目もあったかもしれない、彼の油断ならない観察してくる目が不愉快だった。
アツリュウに告白したとき、嫉妬はほとんどしないと彼に告げた。スオウがいなかったら、たぶん嫉妬はしないと言っただろう。ヨンキントは何故かスオウにだけ嫉妬する。
アツリュウがスオウを嫌がるそぶりをみせながらも、心から信頼して頼り時に可愛い顔を彼に向けているのを見ると、二人を引き離したいという欲求をヨンキントは確かに感じる。初めての気持ちにとても戸惑ったが、これを嫉妬というのだと気づいてからは、アツリュウのことを愛しているのだと自分に認めるきっかけにもなった。
「スオウ殿は私に殺されてもいいと仰いましたからね、あなたに二言はないのでしょう。でもあなたを殺したら私は神官ではいられなくなります。わたしは一生月女神さまにお仕えしたい。あなたを殺すのはやめておきます、ただ……アツリュウに手枷をしたことを許すことはできません」
スオウは無表情で頷いた。けして感情を見せなかった彼が、泣き出しそうにリエリー様に縋りついて取り乱す情けない姿を見れた。それでわだかまりをさげるとしようとヨンキントは自分に言い聞かせた。
「スオウ殿、アツリュウを守ってください」
ヨンキントはこれで彼との話が終わると思ってそう告げた。
「ヨンキント殿、すまないがそれは約束できない。私はリエリー姫君だけの剣士となることを誓った。リエリー様に全てを捧げる身となっては、時にアツリュウの側にいられないこともある」
ヨンキントは、がっかりして息を吐いた。
「いや、あなたの意味することはよく分かります。ですが、今の会話の流れからさっしていただければ、分かったと一つ頷いていただけば、私たちの話は終わるのですよ。心持ちの話です。アツリュウに大事があればスオウ殿が動くと、そういう大義の話をしています」
「……私は時々、言い方に問題があると弟達に注意をうけるのです。誠意をもって会話をしているつもりですが、時に驚くほどに人をがっかりさせてしまう。ヨンキント殿すまない。改めて誓う。アツリュウを守る」
ヨンキントはほんの少しだが、スオウへの気持ちが柔らかくなった気がした、だからスオウに微笑むことができた。
「アツリュウのことを頼みます」
セウヤ王子は、バッシャール殿下を迎賓として扱うと決めたからと彼の隣を歩かせ、気さくに談笑している。話す内容はバッシャールがヒルディルドについて質問し、セウヤ王子が答える、軽い物言いをしながらお互いに棘を混ぜチクチクと刺し合う。
余裕の顔でバッシャールとの嫌味の応酬を楽しんでいるセウヤ王子を眺めて、ヨンキントは内心舌を撒いた。
ピプドゥ国という大国の王子であり、扱い方を間違えれば国の存亡にかかわるバッシャールを前にしても、セウヤ王子は余裕の雰囲気を一度として崩さない。たった18歳の王子の度量は将来どれほどのものになるか、ヨンキントは想像すると恐ろしさを感じた。
セウヤ王子は、バッシャールが連れてきた2人のピプドゥ人の従者とスオウの同行も許した。
スオウはセウヤ王子を裏切りシュロム兵士を切った男だ、スオウは死の覚悟もしていた様子だった。しかしセウヤ殿下は自らスオウに言葉をかけ「兄の代わりに私を諫めたことを感謝する。もうリュウヤ兄上に恥ずべきことはしない」と彼を許した。
ヨンキントはセウヤ王子の王族としての威厳を感じた、それは彼が王子として生きていく覚悟の上にあるものだ。リエリー様もアツリュウを失うと悟った時、蛹が蝶に羽化するがごとく劇的に変化した。彼女もまた王女としての覚悟を決めた。
己は王子としての覚悟を今までもったことがあっただろうか……
ヨンキントにとってヨウクウヒの第三王子という肩書はすぐにも脱ぎたい濡れて重い不快なだけの上着のようなものだった。体を冷やす以外何の役にも立たない。
セウヤ王子は父から兄を殺され自らも殺されかけ、歩くこともできなくなった。結果彼は正気を失いアツリュウを痛めつけ続けた。それを許せる気持ちにはなれないが、それでもこれから王子であり続けようとする彼の決意の背中を、ヨンキントは自分の境遇と重ねながら眺めた。
王宮の奥まった小さな間に通された。そこにはヨンキントが心から待ちわびた人の笑顔が待っていた。
「ヤナ!」
アツリュウが真っ先にその名を呼んでくれた時ヨンキントは今までに味わったことの無い喜びを知った。駆け寄ってアツリュウを抱きしめたいと確かに感じた。けれど、それをするには自分はあまりに大人で、分別のある人間だった。ヨンキントは静かにアツリュウに頷き返した。
アツリュウが隣に立つリエリー姫の手を繋いで嬉しそうに少し掲げる。
『あなたの幸せな顔を見るのが私の一番望むことです』
ヨンキントが告げたことを彼が自分に見せてくれているのだと、そう思うとたまらない愛しさが胸を満たした。
リエリー姫が「バッシャール」と呼んで前に出ようとしたとき、喜びに微笑んでいたアツリュウの顔が、ぎょっとして強張り、リエリー姫を勢いよく引き戻して彼の胸にしまい込んだ。
「バッシャール、おまえモーリヒルドに来たのか?」
アツリュウの帝国語を聞いて、彼の腕にがっちり閉じ込められているリエリー姫が声をあげた。
「アツリュウ聞いてください。バッシャールはあなたを助けるために来てくれたのです。彼はあなたの恩人です」
アツリュウは眉間に深い皺をよせ怪訝な顔を崩さない。
「やあ坊や、おまえの首と胴が切り離さると聞いて見物に来たのだ。死んでもいいから女を抱きたいとは呆れたが、今や私もおまえの同類だ。私は彼女の犬に成り下がった。リエリーは極上のいい女だな、お前が溺れるのもうなづける」
バッシャールの言葉は、アツリュウを荒れ狂う海に投げ入れたも同じだった。
「え? な? 何を言っている? いい女と言ったか……犬が……は?」
ヨンキントはアツリュウの頭の中で駆け巡っているであろう、様々な想像を思い浮かべ、大混乱の彼を可哀そうにと思いつつも、彼の顔が可愛くてちょっと笑ってしまった。
アツリュウは毛を逆立てた猫のように、ちょっとつつけば飛び上がりそうな顔でリエリーを覗き込んで、彼にとって決死の覚悟であろう質問をリエリー姫にした。
「リエリー、バッシャールと何があった」
「だからねアツリュウ。バッシャールはあなたを助けるために私と一緒にモーリヒルドに来てくれたのです。私の身代わりにグイド王の所へ行くと約束してくれました。彼はとっても優しいいい人です」
「いい人……て、あいつが……だがらその、リエリー、あの男に触られたりしていないのか?」
アツリュウのピンと張り詰めた糸が切れるか持ちこたえるか、狂犬を生み出すかどうかの非常に危険な返事であるとヨンキントは悟った、しかしリエリー姫はええと……とちょっと間を置いた。
「バッシャールに触られてはいないですが、ちょっと引っ張られて彼の胸に転びそうになりました」
これ以上は無理な所までアツリュウの眉が寄った。アツリュウがバッシャールに向けている雰囲気が凍りついた、ヨンキントはアツリュウの剣吞な眼差しがバッシャールを鋭く刺すのを見守った。
「心配するなミッタ―ツルギ、リエリーは触ったら死ぬというので何もしていない。そうだ、良い事を思いついた」
ビリビリするアツリュウの睨みを、むしろ嬉しそうにしながらバッシャールがセウヤに向きなおった。
「セウヤ殿下よ、一つ提案なのだがリエリー姫と私が婚姻を結ぶというのはどうだろう?」
「はあああ?」
アツリュウの盛大に不機嫌な声が部屋に響き渡った。彼はあまりにきつく腕の中のリエリーを抱きしめたので彼女は少し苦しそうにした。
バッシャールはアツリュウにお構いなしに続ける。
「私がヒルディルド滞在中はシュロム王女の婚約者という肩書があれば、ここでの地位が非常に安定する。さらに、ピプドゥとの陸路が突然できて不安になる国民も、ピプドゥ国とヒルディルド国が王族の婚姻によって結ばれたとなれば、その友好関係の証明となり、両国民ともども安心させられるだろう。リエリーはピプドゥ語も堪能だ、良い事づくめだ。どうだろう、リエリーを私にくれないか?」
すでに狂犬になっているアツリュウの目の前で、セウヤは「悪い話ではないなあ」と意地悪く彼に笑いかけてから「だが、それは私が決められることではない」と続けた。
「リエリーはグイド王から特別な権利を賜っている。彼女が選んだ男と結婚できるのだ。命を懸けた特別な戦いでアツリュウはそれを勝ち取りリエリーに捧げた。ヒルディルドの民衆が証人だ。リエリーが選んだ者しか夫になれない」
「そういうことなら、早速リエリーに求婚してみよう」
バッシャールの声に、アツリュウが「ふざけるな!」と返した。
「リエリー王女は私のものだ。誰にも渡さない!」
アツリュウの宣言が部屋に響いた後誰もなにも返さない、にやにやとバッシャールは眺めている。
アツリュウの顔がだんだん赤くなっていく、背中抱きにされているリエリーが彼の腕からするりと抜けるとアツリュウに向き直った。
「私は今こそ、アツリュウが私に与えたくれた恩赦の戦の褒章を使います。皆さん聞いてください。私はアツリュウを夫に選びます。アツリュウ私と結婚してください」
リエリーがアツリュウの手を取ると彼はすぐに跪いた。
「はい今すぐにでも喜んでお受けします。私の全てはあなたのもの。私はあなただけを愛する夫としてあり続けます」
ヨンキントの目にはその二人の姿がとても可愛らしく映った。バッシャールが子供夫婦と揶揄するが、本当に若く愛らしい夫婦だった。
アツリュウがリエリーの手を額に押し付ける。そして彼はすぐ上目にリエリーを見ると「ピプドゥにはいかせない」と心配げな声をだした。
「あのねアツリュウ。バッシャールはあなたをからかったのですよ。彼は私と本気で結婚する気はありません。そうですよねバッシャール」
「その通りだな、リエリー。私はあなたと結婚する気はない。坊やのためにわざわざ乗り心地の悪い船に乗ったからな、ちょっとおどかしてみた。それにしても可愛いなリエリーの夫殿は、リエリーをつつくとすぐに毛を逆立ててフーフー怒る。からかいがいがある」
リエリーがふふっと笑ったのでアツリュウが「ええっ」と情けない程おたおたして、立ち上がると、またリエリーを彼の腕にしまい込んだ。
「なんで? なんでリエリーそんなバッシャールと分かりあってます、みたいな感じになってるの? 嫌だ、リエリーをもうあいつに見せたくない」
ジャミルが音も無くアツリュウの前に進み出て「あなたに話がある」と帝国語で告げる。そのあまりに真剣な表情にアツリュウはリエリーを腕から解放すると彼に向き合った。
「あなたに星の導きを問う」
それは帝国語であったので、その場にいる者は皆、言葉は理解できた。しかしヒルディルドの者には意味するところは分からなかった。
「ミッタ―ツルギ、おまえはジャミルから決闘を申し込まれた。ジャミルはリエリーに心底惚れている」
アツリュウがギョッとした顔で何かを答えようとしたが、それより先にもう一人のピプドゥ人も彼の前に音も無く動いて立った。
「おい、ミッタ―ツルギ決闘候補がもう一人増えた。そいつの名前はマルワーンだ、気づかなかったマルワーン、女に興味のないお前がいつの間にリエリーに骨抜きにされたのだ」
「私はこの女に殺されたい……」
擦れる低い声で、マルワーンがささやいた。それは調子の外れた弦楽器が鳴るような、ガザガザするのに変に耳に残る不思議な魅力のある声だった。
「アツリュウ、最初の男はいいが、2番目の男とはやり合わないほうがいい、彼は強いとか強くないとかそういう次元じゃない。せっかく結婚するのにすぐに死んだらもったいない」
部屋の隅でずっと黙っていたスオウがアツリュウに声をかけた。
「リエリー、俺を助けに来てくれてありがとう。でも知らないうちにセウヤ殿下を叱り飛ばして、バッシャールを犬にして、このジャミルさんを虜にして、さらにマルワーンさんにいたっては殺されたいとまで言わせ……あ、あとスオウを自分だけの剣士にしたんだよね……リエリーってすごい……ね。ちょっと俺、もう倒れそう。」
リエリー姫が「決闘は恋人や妻の女側が了承しないとできないことで、私は絶対受けません」と慌ててアツリュウに言っている。ジャミルがピプドゥ語でリエリーに抗議すると、リエリーがきっぱりした言い方でジャミルをたしなめる。それを見てバッシャールが大きく笑った。リエリーに跪くマルワーンから彼女を遠ざけようとアツリュウが慌てている。そんなワイワイ騒いでいる様子を、ヨンキントは少し離れて眺めた。
誰かを特別に好きになるという感情を初めて知って、幸せだけでなく、失うと恐怖したときの、自分を見失う己の愚かさも知った。アツリュウに出会わなければそんな自分を一生知らずに生きただろう。
自分は幸せになってはいけないと泣きそうな顔で告げてきたアツリュウ。あの彼が自信に満ちてリエリーを誰にも渡さないと宣言した。
ヨンキントは、これで満足ではないかと己に言い聞かせる。
どこにいても、ヨンキントの心の中に今日の幸せな顔のアツリュウがいてくれるのだから。
ヨンキントの隣にスオウが来た、彼が言うことは分かっていた。
「ヨンキント殿、私はいつでも償う準備はできている」
このスオウという男がヨンキントは始めから好きではなかった。自分がグイド王と繋がっている負い目もあったかもしれない、彼の油断ならない観察してくる目が不愉快だった。
アツリュウに告白したとき、嫉妬はほとんどしないと彼に告げた。スオウがいなかったら、たぶん嫉妬はしないと言っただろう。ヨンキントは何故かスオウにだけ嫉妬する。
アツリュウがスオウを嫌がるそぶりをみせながらも、心から信頼して頼り時に可愛い顔を彼に向けているのを見ると、二人を引き離したいという欲求をヨンキントは確かに感じる。初めての気持ちにとても戸惑ったが、これを嫉妬というのだと気づいてからは、アツリュウのことを愛しているのだと自分に認めるきっかけにもなった。
「スオウ殿は私に殺されてもいいと仰いましたからね、あなたに二言はないのでしょう。でもあなたを殺したら私は神官ではいられなくなります。わたしは一生月女神さまにお仕えしたい。あなたを殺すのはやめておきます、ただ……アツリュウに手枷をしたことを許すことはできません」
スオウは無表情で頷いた。けして感情を見せなかった彼が、泣き出しそうにリエリー様に縋りついて取り乱す情けない姿を見れた。それでわだかまりをさげるとしようとヨンキントは自分に言い聞かせた。
「スオウ殿、アツリュウを守ってください」
ヨンキントはこれで彼との話が終わると思ってそう告げた。
「ヨンキント殿、すまないがそれは約束できない。私はリエリー姫君だけの剣士となることを誓った。リエリー様に全てを捧げる身となっては、時にアツリュウの側にいられないこともある」
ヨンキントは、がっかりして息を吐いた。
「いや、あなたの意味することはよく分かります。ですが、今の会話の流れからさっしていただければ、分かったと一つ頷いていただけば、私たちの話は終わるのですよ。心持ちの話です。アツリュウに大事があればスオウ殿が動くと、そういう大義の話をしています」
「……私は時々、言い方に問題があると弟達に注意をうけるのです。誠意をもって会話をしているつもりですが、時に驚くほどに人をがっかりさせてしまう。ヨンキント殿すまない。改めて誓う。アツリュウを守る」
ヨンキントはほんの少しだが、スオウへの気持ちが柔らかくなった気がした、だからスオウに微笑むことができた。
「アツリュウのことを頼みます」
0
あなたにおすすめの小説
冷酷総長は、彼女を手中に収めて溺愛の檻から逃さない
彩空百々花
恋愛
誰もが恐れ、羨み、その瞳に映ることだけを渇望するほどに高貴で気高い、今世紀最強の見目麗しき完璧な神様。
酔いしれるほどに麗しく美しい女たちの愛に溺れ続けていた神様は、ある日突然。
「今日からこの女がおれの最愛のひと、ね」
そんなことを、言い出した。
私が行方不明の皇女です~生死を彷徨って帰国したら信じていた初恋の従者は婚約していました~
marumi
恋愛
「あら アルヴェイン公爵がドゥーカス令嬢をエスコートされていますわ」
「ご婚約されたと噂を聞きましたが、まさか本当だとは!」
私は五年前までこの国の皇女エリシアだった。
暗殺事件に巻き込まれ、幼なじみで初恋の相手だった従者――アルヴェイン公子と共に命からがら隣国、エルダールへ亡命した。
彼の「必ず迎えに来る」その言葉を信じて、隣国の地で彼を待ち続けた……。
それなのに……。
やっとの思いで帰国した帝国の華やかなパーティー会場で、一際目立っているのは、彼と、社交界の華と言われる令嬢だった――。
※校正にAIを使用していますが、自身で考案したオリジナル小説です。
※イメージが伝わればと思い、表紙画像をAI生成してみました。
悪役令嬢と誤解され冷遇されていたのに、目覚めたら夫が豹変して求愛してくるのですが?
いりん
恋愛
初恋の人と結婚できたーー
これから幸せに2人で暮らしていける…そう思ったのに。
「私は夫としての務めを果たすつもりはない。」
「君を好きになることはない。必要以上に話し掛けないでくれ」
冷たく拒絶され、離婚届けを取り寄せた。
あと2週間で届くーーそうしたら、解放してあげよう。
ショックで熱をだし寝込むこと1週間。
目覚めると夫がなぜか豹変していて…!?
「君から話し掛けてくれないのか?」
「もう君が隣にいないのは考えられない」
無口不器用夫×優しい鈍感妻
すれ違いから始まる両片思いストーリー
短編【シークレットベビー】契約結婚の初夜の後でいきなり離縁されたのでお腹の子はひとりで立派に育てます 〜銀の仮面の侯爵と秘密の愛し子〜
美咲アリス
恋愛
レティシアは義母と妹からのいじめから逃げるために契約結婚をする。結婚相手は醜い傷跡を銀の仮面で隠した侯爵のクラウスだ。「どんなに恐ろしいお方かしら⋯⋯」震えながら初夜をむかえるがクラウスは想像以上に甘い初体験を与えてくれた。「私たち、うまくやっていけるかもしれないわ」小さな希望を持つレティシア。だけどなぜかいきなり離縁をされてしまって⋯⋯?
学園では婚約者に冷遇されていますが、有能なので全く気になりません。〜学園でお山の大将されてても、王宮では私の方が有能ですから〜
織り子
恋愛
王都カラディナにある国立魔術学園では、満十六歳の生徒たちの社交界デビューを兼ねた盛大なパーティーが開かれていた。
侯爵令嬢タレイア・オルトランは、婚約者である第二王子アスラン・オグセリアの迎えを待つも、結局ひとりで会場へ向かうことになる。
学園では身分の差がないとはいえ、アスランが公然とタレイアを侮辱し続けてきたことで、彼女は生徒たちから冷笑と蔑視の的となっていた。しかしタレイアは、王城で政務を担ってきた聡明さと矜持を失わず、毅然と振る舞う。
虐げられた私が姉の策略で結婚させられたら、スパダリ夫に溺愛され人生大逆転しました。
専業プウタ
恋愛
ミリア・カルマンは帝国唯一の公爵家の次女。高貴な皇族の血を引く紫色の瞳を持って生まれたワガママな姉の陰謀で、帝国一裕福でイケメンのレナード・アーデン侯爵と婚約することになる。父親であるカルマン公爵の指示のもと後継者としてアカデミーで必死に勉強してきて首席で卒業した。アカデミー時代からの恋人、サイラスもいる。公爵になる夢も恋人も諦められない。私の人生は私が決めるんだから、イケメンの婚約者になど屈しない。地位も名誉も美しさも備えた婚約者の弱みを握り、婚約を破棄する。そして、大好きな恋人と結婚してみせる。そう決意して婚約者と接しても、この婚約者一筋縄ではいかない。初対面のはずなのに、まるで自分を知っていたかのような振る舞い。ミリアは恋人を裏切りたくない、姉の思い通りになりたくないと思いつつも彼に惹かれてく気持ちが抑えられなくなっていく。
魔法師団長の家政婦辞めたら溺愛されました
iru
恋愛
小説家になろうですでに完結済みの作品です。よければお気に入りブックマークなどお願いします。
両親と旅をしている途中、魔物に襲われているところを、魔法師団に助けられたティナ。
両親は亡くなってしまったが、両親が命をかけて守ってくれた自分の命を無駄にせず強く生きていこうと決めた。
しかし、肉親も家もないティナが途方に暮れていると、魔物から助けてくれ、怪我の入院まで面倒を見てくれた魔法師団の団長レオニスから彼の家政婦として住み込みで働かないと誘われた。
魔物から助けられた時から、ひどく憧れていたレオニスの誘いを、ティナはありがたく受ける事にした。
自分はただの家政婦だと強く言い聞かせて、日に日に膨らむ恋心を抑え込むティナだった。
一方、レオニスもティナにどんどん惹かれていっていた。
初めはなくなった妹のようで放っては置けないと家政婦として雇ったが、その健気な様子に強く惹かれていった。
恋人になりたいが、年上で雇い主。
もしティナも同じ気持ちでないなら仕事まで奪ってしまうのではないか。
そんな思いで一歩踏み出せないレオニスだった。
そんな中ある噂から、ティナはレオニスの家政婦を辞めて家を出る決意をする。
レオニスは思いを伝えてティナを引き止めることができるのか?
両片思いのすれ違いのお話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる