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196 イシュマ
しおりを挟むーー イシュマ ーー
結局名前を聞くことはできなかった。
やはり混乱しているようだ。
僕の腕の中で眠る彼女は眠りながらも少しの間泣いていた。
可哀想に……
それにしても…………
彼女を見つけたときのことを思い出す。
今思い出しても夢だったのではないかと思ってしまう。
家の近くの湖へ馬を連れていつものように散歩に行くとキラキラとした光の粒が降り注いでいた。
湖にはほぼ毎日行くけれどこんなことは今までなかった。
日の光が湖に注ぎキラキラと水面が反射しているのではなく光の粒が空からではなく水面に近い空中からフワフワと……
光の粒は水の中まで続いていてとても美しくて……
けれども水面にはブクブクとまるで何かが溺れているよう……な?
光の粒の中、水中から水面に手を伸ばす彼女を見たときはとても驚いた。
急いで湖に飛び込み彼女の元へ泳いでいき岸へと連れていった。
こんな冷たい湖で一体何を……
彼女を引き上げてまずい、と思った。
冷たい水と同じくらいに彼女の身体は冷えてしまっていた。
ケホケホと咳き込み少し水を吐いた彼女を抱き上げて急いで家に戻り部屋を暖めたが彼女の震えは止まらず唇も真っ青なままだった。
一瞬ためらったが濡れた服を脱がさなければいけないと思いワンピースのボタンを外す。
脱がせる前に僕のシャツを肩にかけてなるべく肌を見ないように気を付けたけれど……
ワンピースのポケットに巾着が入っていてその中に何か入っていたが開けずにそのまま乾かすことにした。
ソファーを暖炉の前へ移動して上着を脱いで彼女を抱いたまま横になり毛布を被る。
彼女の震えが少しずつ小さくなり顔色も良くなっていった。僕は寝ている彼女の顔を見つめた。
艶やかな長い髪に長いまつ毛、瞳は何色だろうか。
こんなに若い女性がこの家に来るのは初めてだ。
というか僕が成人してからは時々しかここへ来ない家族と年配の先生以外に人が来るのは初めてだ。
抱き締めたのも……女性とはこんなにも華奢で柔らかくて小さくて……そっと触れないと壊れてしまいそうなのにいつまでも腕の中に閉じ込めておきたくなる……
なんだろう……こんな気持ち初めてだ。
兄上達に聞いたらわかるだろうか……でも……彼女を見たら取り上げられてしまうかもしれない。
彼女は僕のものだ。隠しておかなければ。
彼女が規則正しく寝息をたて始めた頃、僕はそっとソファーから抜け出して一番奥の今まで使っていなかった部屋の掃除をしてベッドを整えた。
彼女の隣に戻りしばらくすると彼女の呼吸が浅く早くなる。熱がある。
すぐにさっき整えたベッドに移動して寝かせる。
確か熱が出た時に飲むように言われた薬があったはずだ。
探しだして彼女に飲ませたけれど少し落ち着いてまたすぐに熱が上がった。
僕が熱を出したときは……冷たいタオルを額にのせてくれたときは気持ち良かった。
あとは汗をかいた身体を拭いてもらったり着替えさせてもらったり……
とりあえずタオルを濡らして彼女の額にのせると気持ち良さそうにホゥ……と息を吐く。
まただ……この気持ち……
水が飲めないから清潔な布に水を染み込ませ唇を湿らせる。少しだけ布に吸い付くような感触があった。
少しだけ……ほんの少しだけ指で彼女の唇に触れた。
柔らかい……
後ろめたい気持ちになったけれどその日は同じベッドに入り彼女を抱き締めて眠りについた。
朝になっても熱は下がらなかった。
辛そうな彼女をみていると堪らなくなる……
早く元気になって欲しい、早く彼女と話がしたい。
気のせいかもしれないが彼女の髪の色が濃くなっているような気がした。髪だけではなくまつ毛も……
光の加減かとも思ったけれども翌朝、気のせいではないと知った。
不思議だ……どういうことだろう……この色……
艶やかな黒髪……目を縁取るまつ毛も涙で濡れているような艶に深い黒……
家族やここへ来る数少ない人や持って来てくれた本の中にもいなかった黒髪。
僕の髪は真っ白だから羨ましくもありとても美しいと思った。同時に彼女が目覚めて僕のこの髪を見たら……どう思うのか……黒い髪は初めて見たけれどとても綺麗だと思う。
黒髪の彼女は僕の真っ白い髪をどう思うのだろう。
ただでさえ僕の存在は不吉……なのに……
彼女もそのことを知ったら出ていってしまうのだろうか。
また一人になってしまうくらいならこのまま彼女が目覚めなくても……
いや、僕は彼女の瞳の色が知りたい、彼女と話がしたい。
早く元気になって欲しい。
翌朝、隣で寝ている彼女がわずかに微笑んだ気がした。
それがすごく可愛くて嬉しくて……
それから少し難しい顔をして何かを探すように手探りを始めた。どうしたのだろう……彼女の手を握ろうかと思ったけれど様子を見ることにした。
彷徨っていた手が僕の髪に触れると思いの外強い力で抱き寄せられて……彼女の胸に顔を埋める体勢になってしまった。
っや……柔らかい…………
それから彼女は僕の頭を撫で続けた。
それがあまりにも心地よくて僕は動くことができなかった。
彼女の顔を見上げるとまだ目を閉じて難しい顔をしていた。
けれども、ゆっくりと瞼が上がり目が合う。
…………すごい…………
吸い込まれそうなほどの黒い瞳に僕が映っている。
「だ、誰ですか!? 私の部屋で何をっ」
彼女は動揺して慌てていた。
「ど、どこですか!? 何!? どうして一緒にっ」
知らない場所で知らない人とベッドにいたら驚くのも無理はない。
熱があり、もう身体が冷えている訳ではなかったがくっついていたかった……いなくなってしまわないか不安だった……
喉が渇いているからか少し声がかすれていたけれど僕は彼女の声が聞けて嬉しかった。
怖がらせないようにゆっくりと話し名前も名乗ったけれどそんなことよりも彼女には気になることがあったようだ。
ミケネコサン……そんな変わった名前の猫と一緒だったらしい。
彼女を連れて帰ってから何かあるかもしれないと思い湖の周りを歩いてみたけれど何もなかった。
彼女は泣きながら探しに行こうとするけれど熱もあり立ち上がれない。
どうやら熱が出ていることに気づいていないようだった。
こんなに必死で……よほど大切な猫なのだろう。
僕が湖の周りを見てくるからと言い、嫌がる彼女を無理矢理抱き込み眠らせようとすると、抵抗しているとは感じられないほど弱々しい力で胸に手を当てられた。
それすら嬉しく思えて彼女を守らなくてはと強く思った。
眠りについた彼女を抱き締めて、ここに来る誰にも彼女の存在を知られないようにすると決めた。
父上はもう長いことここへは来ていないし母上が来るときは先に知らせが届く。
僕が向こうの家に行くことも……というか呼ばれることもない。時々食糧を持って来てくれる人がいるけれど外の小屋に置いていく事が多いから会うことはない。
問題は兄上達だ。
大体の間隔は掴めているけれど突然ふらりとやって来ることもある。一人で来ることもあるし二人で来ることもある。
嫌なことがあったときや誰にも見つかりたくないときに本やお菓子を持ってここへくることもある。
僕の知らないことを自慢気に話したり教えてくれたりする。
あまりここへ来ることは良くないことだとわかっているから、兄上達が来るときはきっとこっそり誰にも見つからないように来ているのだと思う。
ミケネコサンとはどんな猫なのだろう。彼女に確認する前に眠らせてしまった。
兄上達や他の誰かに見つかる前に彼女の元へ帰してあげたい。
湖にはほぼ毎日行っているから見かけない動物を見たらわかるだろう。
その猫が見つかれば彼女は落ち着いてくれるだろうか。
名前を教えてくれるだろうか。
僕にも興味を持ってくれるだろうか。
僕とずっと一緒に……ここにいてくれるだろうか……
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