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織田家の室
十三・三七の家
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年明けて、元亀二年(1571)になった。
ひどかった一年が終わり、新しい年を迎えた。信長も敵への報復を胸に、闘志を燃やしている。和睦は敵も味方も一旦帰還するための、一時的なものに過ぎない。
とはいえ、今は戦の心配もなく静かなので、各地より、新年の挨拶に岐阜にやって来る者がひっきりなしだった。
蒲生賢秀・忠三郎父子もやって来た。
「不甲斐なくも、一揆鎮圧に手間取り、敵に領内間近にまで迫られ、冬姫様の御身を危険にさらしてしまいました。しかし、お屋形様が六角父子と和睦を成立させて下されたおかげで、一揆は終息し、姫様も助かりました。謹んで御礼申し上げまする」
「いや、六角から帰参を迫る使者が再三やって来ても、相手にもせず追い返し、或いは斬り殺したと聞いている。よく近江を六角から守りきってくれた」
信長は蒲生父子を労い、褒美をやると、かなり上機嫌に忠三郎に言った。
鶴千代だった時分から、信長は忠三郎を前にすると、何故かいつも機嫌がよくなる。忠三郎はそれを見てとって、妙なことをねだった。
「近江の情勢、不安定にございますれば、それがしが日野から離れるべきでないことは重々承知しております。なれど、若輩者のそれがしは、戦を学ばなければならないのでございます。先日、稲葉様ご家中の斎藤利三なる人からも助言して頂き、このままでは駄目だと痛感致しました。近江の治安にのみ明け暮れるのではなく、戦場に赴き、生の戦を肌で学びとうございます。六角とも和睦が成った今こそ、瓶割り柴田様に師事し、実戦を通してその戦ぶりを学びたいのです。柴田様の与力にして下さいませ!」
信長の娘婿が、織田家臣の与力になりたいなどと言うのである。
思いもよらない発言だったのは賢秀も同じだったようで、忠三郎の脇で慌て出した。
「も、申し訳ございませぬ、お屋形様!」
だが、がばとひれ伏した賢秀の後頭部に、きんきんとした笑い声が突き刺さる。
「あははははは!面白い婿殿よ。我が婿殿は家臣の下風に自ら立つと言う。よかろう。望み通り権六(柴田勝家)の下につくがよい」
信長はやはりどうも忠三郎には甘い。
賢秀はへなへなと崩れそうな体を腕で支え、額の汗を床にぽつぽつ落としていた。
「時に、蒲生よ」
信長は急に真顔を賢秀に向けた。
「三七丸の父御が未だ見えぬが、日野よな?」
日野に挨拶に行ったのかというのである。
信長、賢秀、忠三郎の間に不穏な空気が流れた。
実はちょうどこの時、確かに神戸具盛夫妻は日野に来ていたのである。日野には隠居の定秀と冬姫しかいなかった。
実は娘夫婦を日野に呼んだのは定秀である。あらかじめ次兵衛には告げておいた。
それというのも。
定秀は城下の一向宗門徒の動きを憂えていた。
昨年末、信長が六角父子と和睦したことで、近江国内の一向一揆は一応収まっている。しかし、この和睦は一時的なものであること、春には再び開戦されるだろうことは、敵も味方も暗黙のうちにわかっている。
本願寺が着々と準備を整えていることは明らかだった。
日野の門徒衆は、蒲生家への思いから、一揆は起こさないと約束したが、顕如に従わないという発想はない。
蒲生領内で一揆を起こせないならば、本願寺の後方支援しかない。彼らは本願寺へ兵糧を送り、また、兵となるべく、壮年の男は本願寺へ行ってしまったのである。
(信長殿に知られれば、蒲生家の危機よ……いや、昨年奴らは実際蜂起している。次兵衛が信長殿に報告したはずや。信長殿からの沙汰はないが、また奴らが本願寺を支援しているとなれば――まずいのう)
そこで定秀は、
「お屋形様からお許しは頂いている」
と言って神戸夫妻を呼び、祝いの膳でもてなすことにしたのだ。
そして、正月の宴席となっている広間の周辺に、武装した家臣を潜めておいた。太刀に手をかけ、息をひそめる数十人の武者たち。
すっかり酒が回って、具盛が上機嫌になった頃。定秀は声高に訊いた。
「近頃、北伊勢の奴輩は願証寺の誘いに乗って、お屋形様の弟君を弑し奉り、お屋形様に楯突いたが、婿殿よ、そちはお屋形様の若君の養父だが、まさか、そちもか?」
「へっ?」
具盛は一気に酔いが醒めたように、妻と顔見合せた。
「六角承禎が誘いをかけてきたそうやな。こっちにも奴から誘いが来て、うんざりしておった。今や六角は朝倉や浅井と同心している。朝倉と浅井は茂綱(定秀次男)を殺した憎っくき仇。それと同心する六角も我が敵よ。婿殿、奴から当家を誘ってくれと頼まれているのか?」
「ま、まさか?」
「父上!今は朝倉・浅井、それに六角とは和睦して……」
「坂仙斎殿から聞いているぞ。願証寺に同心したかっ!」
娘の言葉さえ定秀は全く聞かず、声を荒げる。
「ひっ!お待ち下され!」
具盛が悲鳴を上げたのと同時に、そこら辺一帯の戸板、襖が蹴破られ、ばらばらと武者たちが躍り出てきた。抜き身の太刀を手に、神戸夫妻を取り囲む。
「父上っ!これは何の真似です?」
娘の訴えに、定秀は、
「許せ……」
と、小さく呟いた。
夫妻は抵抗する間もなく、武者たちに捕縛され、そのまま中野城内に幽閉された。次兵衛も見届けている。
次兵衛は岐阜の信長、神戸城の坂仙斎のもとに使者を出した。
次兵衛から、神戸夫妻を日野に招くから、知らぬ振りして送り出せと、事前に連絡を受けていた仙斎は苦笑した。
「蒲生は早まったのか?」
そう問う三七丸に、いや、と仙斎は首を振った。
「長島一帯の一揆勢は凄まじい勢力があり申す。このままお屋形様のご出馬がなければ、収拾がつかないほど拡大するでしょう。さすれば、北伊勢四十八家、次から次へと敵方に寝返るに相違いなく」
「今よりもっと敵方に転ぶ者が増えるのか?」
「いかにも。中でも、北伊勢の要たる関家、神戸家の動向次第によっては――」
「神戸の養父が織田を裏切るとな?」
「ないとは思いますが、絶対ないとも言い切れませぬ。神戸家が裏切れば、雪崩のように四十八家全てが敵方になる」
「養父はまだ裏切ったわけでは」
「気配皆無というわけではなかった――。蒲生の大殿は鋭過ぎるお人。怪しいものは早目に対処せねば、取り返しのつかないことにもなる故――」
「なれば、妹の身は大事ないか?蒲生家が罰せられれば、妹も苦労する」
冬姫の身を案じる三七丸に仙斎は微笑した。
「蒲生家の計略、予めそれがしも次兵衛殿も承知しており申した。次兵衛殿は神戸家乗っ取りは、それがしが直接しなくとも、蒲生家の手を汚させればよいと。それがしは神戸家を嵌めただけ。あとは蒲生家の動向を見守るだけです。それがしも心得おることですから、お屋形様が蒲生家を罰せられることはありますまい」
定秀の行動を知った信長は、恐らく適当な理由をつけ、三七丸を神戸家当主にするだろう。蒲生家を早とちりだと怒って罰することはあるまい。
(具盛のような織田家への忠義に不安要素のある者ではなく、三七丸様を当主としなければ、北伊勢は揺らぐ。お屋形様は蒲生を咎めず、かえって我が意を心得たる者とお褒めになり、具盛には言い掛かりを付けられるであろう。神戸乗っ取りが蒲生によって叶ったわけだ。本来、我ら神戸に入った者らで致すべきことだが、蒲生に手柄を持っていかれたのう。蒲生、機を見るに長け過ぎだわ、抜け目ない恐ろしい奴輩よ)
仙斎はすぐに岐阜城に使いを出した。
その時、濃姫は奥御殿で蒲生父子と談笑中であった。
三七丸の養母は賢秀の妹であるから、蒲生家は三七丸の生母と顔見知りになっておいた方がよかろう。濃姫はそこに生母の坂御前も呼んでおいた。
坂御前は三七丸と共に神戸城に入っていたが、新年の挨拶に濃姫を訪ねていたのである。
さらに、蒲生家が日野菜の桜漬を土産に持ってきていたので、お鍋も招かれていた。
濃姫に坂御前、お鍋、賢秀、忠三郎。ささやかな一時。
そこにひょっこり信長も顔を出し、蒲生父子に何か言いかけた。
「三七丸の養父母が日野に赴いたならば……」
「申し上げます!」
慌ただしく侍女が現れ、仙斎からの急使が来たと報せた。
「三七丸様の新しいご両親のことで、火急のご用とのこと。お方様に至急お目通りをお許し給りたいと――」
使者は坂御前に対面したいと言っているという。
「まあ、何事でしょう?」
坂御前は退出の許可を貰おうと、信長や濃姫を窺い見た。
鶴姫を乳母に預けて、好物の日野菜のご相伴にあずかっていたお鍋は、
(姫の名がこの鶴千代と被るなんて……)
と、随分逞しくなった忠三郎を見て、呑気にそんなことを思いながら、ため息しきりだったが、ただ事ではないと、口に入れたばかりの日野菜を丸飲みした。
「構わぬ、隣室に通すがよかろう」
濃姫は侍女にそう答えた。
侍女は小姓に伝えに表に向かったが、すぐにまた戻ってきて、今度は蒲生定秀の使者が神戸夫妻のことで話があると、蒲生父子を呼んでいるという。
「面倒な、蒲生の父の使者も、仙斎のと一緒にここに通せ。どちらも三七の親のことだというからには、同じ用件だろう。ここには身内しかおらん」
先に次兵衛から連絡を受けていた信長はそう言った。
賢秀は何事だろうと、すっかり青ざめて体を固くしている。
あの蒲生定秀という男を知り尽くしているお鍋でも、まさか三七丸の養父母を勝手に捕えるとは想像も及ばない。だが、何かとんでもないことが起きているのだろうという予感があった。
間もなく、二人の使者が入ってきた。
「おくつろぎのところ、申し訳ございませぬ」
「ま、そなたか!」
坂御前が思わず声をかけた。
仙斎の使者は小嶋民部。坂御前が前夫との間に儲けた子、つまり三七丸の異父兄であったのだ。
一方、定秀の使者は町野繁仍で、以前、忠三郎が人質としてこの城にいた時の付人だったから、信長も濃姫でさえも良く知っていた。
「どうした?」
信長も声がやわらかくなる。
町野が恭しく告げた。
「蒲生定秀入道、伊勢長島の一揆勢に加担する恐れありとて、神戸殿を捕えましてございまする。取り敢えず、城中に幽閉してございますので、お屋形様のご指示を給りたいとの由」
瞬間、一堂の目が見開かれた。
刹那、ばたっと音がして、そちらに一斉に目が向けられると、賢秀が両手をついていた。
「申し訳ございませぬ!三七様の父君を、わが父がお屋形様のご指示も仰がず勝手に……」
「蒲生!」
信長が凄んだ。
「――神戸は関の子を養子にする気でいたそうではないか?」
「……は」
突然のことに、賢秀がわけがわからず顔を上げると、忠三郎が力んで脇から代わりに答えた。
「まことです。関家の勝蔵は神戸夫妻には甥。しかも、勝蔵は吉兆の証とやら、乳を四つ持っているのです。そのため、めでたい子だとて、勝蔵を養子に迎えるつもりでいました」
「そうか。では、三七丸はいやいや押し付けられた養子というわけよな?」
信長は途中から、坂御前、次に民部へと視線を動かしていった。そのまま信長の目が民部に留まっている。
「うぬは度々、三七丸が神戸に冷遇されていると報告しておったな?」
え、という顔をして坂御前も民部を見る。民部は信長から視線を逸らさない。
「はい。左様でございます」
そういうことかと、二人のやり取りを聞いて、忠三郎は察して、信長に頭を下げた。
「神戸夫妻、関夫妻、それがしは何れの甥でもございます!叔父どもの無礼、お詫びの言葉もございませぬ!」
「まったくだ!忠三郎!神戸も関もお前の祖父の婿!責任を持って身柄を預かれと、祖父に申し伝えよ!」
「はっ!」
「はっ……?」
何故か半分疑問が混じった返事で、賢秀も息子と一緒に平伏した。
父子を見て、信長はにんまり。
「三七丸を冷遇するのは、織田への思いがいい加減な証拠だ。さような神戸具盛なれば、俺を裏切ること、あって不思議にあらず。北伊勢を一揆勢から守るために、今日より神戸家の当主は三七丸と致す!」
(つまり、神戸殿は三七丸様を賜りながら、織田家を裏切ったってこと?)
お鍋には話がいまいち見えない。
信長はまくし立てた。
「神戸具盛は隠居だ。身柄は蒲生家に預ける。三七丸を冷遇した咎だ!」
言いきるや、信長はふふふと笑っている。
(蒲生の古狐め、なかなか味な真似をする。神戸の乗っ取り、何れやろうと思っていたが。今まさにその時ゆえ、命じて実行させようと思っていたところを、俺に先んじてやってくれるとはな)
そして、ふと視界に入ったお鍋に同情的な眼差しを送った。あんな厄介な奴に隣にいられて、さぞかし大変だっただろうと。
その夜更け、濃姫と二人きりになった時、信長は自慢した。
「見たか、蒲生の古狐の業を。息子の異常な律儀さと、孫の神童ぶりと、三代に渡って最強の家だわ。冬姫をやるにこれ以上相応しい家はなかっただろう?」
「……そうですわね」
濃姫は呆れて笑う。
「しばらく近江は不安定だ。そこに冬姫を置いておくのは心配だし、そなたの気持ちもよくわかる。だが、冬姫は蒲生にいなければならん。いいな?」
「ええ」
濃姫は軽く頷いた。
「宜しゅうございました。北伊勢の動向が心配でしたもの。具盛殿はそこまで信用できませんでした。具盛殿が願証寺に同心すれば、北伊勢の衆皆が敵となるところでした。三七に神戸家を任せられたのです。もう北伊勢の裏切りはないでしょう?」
「油断はできぬが、とりあえずはな」
「それにしても、疑わしきを罰して、最悪を回避しようとは。蒲生の隠居殿は随分知恵の回る。事前に具盛殿が来たら捕えるからと、相談されていたわけではないのでしょう?」
「勝手にやった。だから、三七丸の親を勝手に捕えて申し訳ないと、賢秀の奴が冷や汗を流しておったのだ」
「勝手に。お屋形様のお望みを見通して、先に行動したわけですか。秀吉みたいな人ですね」
「ふっ、後ろ暗いことがあるんだろう?まあ構わぬ。何か仕出かせば、対処するまで」
「まあ!蒲生家には仕出かさないで欲しいと思っていらっしゃるくせに!だから、忠三郎殿を冬の婿に選んだのでしょう?」
ふっと笑って、信長は何も答えなかった。
どこの城下にも、一向宗の寺くらいあるものだ。一揆が起きても、ちゃんと鎮圧できれば構わない。一緒になって織田家に叛くことは許せないが。
「――以前から、仙斎が神戸の不審な動きについて言ってきておった。それについて、俺もそなたも仙斎も、次兵衛にしばしば注意喚起しておったからな。次兵衛か冬姫が古狐に言ったか、古狐が察したのだろうよ。俺も蒲生に命じようとしていたのだ、神戸が日野に来たならば、捕えて蒲生家でその身柄を預かれと。まさに言いかけたところで、実行したという報告がきた。だから、蒲生家に予め俺の密命が下っていたということにしておこう。さてと、寝るか」
信長は濃姫の腕を引っ張ると、そのまま寝床に引き摺り込んで眠った。
今の日野中野城は、かつて蒲生貞秀が築城したものの脇に、子孫の定秀が築いたものである。神戸夫妻は、二の丸としている昔の中野城の方へ、押し込まれた。
その後、蒲生家は関盛信夫妻をも預かることになる。全ては三七丸の地位を、北伊勢で盤石にするためであった。
俄に三七丸が神戸家の当主と決まって、お鍋は思う。
(神戸家は完全に織田家のものね。北伊勢はこれで少しは安心なのかしら?一向一揆って、よほど厄介なのね。三七丸様の新しい父上を追い出さなければならないくらいなんだもの……)
近江でも、本願寺と六角父子の呼び掛けに応じた門徒衆が大規模な一揆を起こしたばかり。六角家との和睦で、今は収束しているが。
(和睦は一時しのぎに過ぎないわ。きっとまた一揆は勃発する)
それにしても、近江は信長にとって何と治め難い地だろうか。
六角左京という、六角家の本流を戴いても駄目。
六角義治と縁のある冬姫を据えても駄目。
信長の母を六角家嫡流の姫としても駄目。
六角家縁の人間である信長には南近江を治める資格があると主張してみたところで、無理そうだ。
いくら近年は衰え、家臣達の心も離れていたとはいっても、数百年もの間、根付いていた六角家だ。その土地を他者が治めるのは難しい。
(お屋形様が六角一族だから、南近江を治める資格があると言っても、無理よね。六角が滅亡してるならまだしも、承禎も義治も生きてるんだもの。しかも、同じ南近江の甲賀郡にいるし。義治の呼び掛けに応じる人間がいるのも、仕方ないわね……作戦を転換した方が良いのかも。どの路線に切り換えれば、織田家が南近江を磐石にできるのかしら?)
織田――おだ。
(おだ……織田……おだ……小田っ!)
お鍋に急に閃くものがあった。
(確か、織田家は越前から尾張へ移ったということだけど。織田家の本貫は越前。ううん、そうだ!小田は織田に音が通じるもの。小田に何か良い話はないかしら?)
南近江の野洲郡小田。お鍋にとっては特別な場所だが。
お鍋は閃きを頭の中で整理する。
すると、どかどかと足音が響いてきて、信長がひょっこり現れた。手に玩具を持って。
「おう、姫や、父ぞお」
いったいどこの誰かという顔で、乳母の腕の中の鶴姫に媚びるように、玩具を振っている。
毎日鶴姫に会いに来る。姫も信長の顔を覚えたようで、玩具にけらけら喜んだ。
「おう、こっちへ来い。そうかそうか、姫は父が良いかあ」
むずと、まるで強奪するように乳母から鶴姫を奪った信長の顔は、本当に気持ち悪く、妙な子守唄まで歌い始めた。乳母は失笑している。
(こんなに子供が大好きならば、もっとちゃんと名前を決めればいいのに)
お鍋は姫の名前のことを、まだ根に持っているので、くすりともしない。
「なあ、鍋」
「何でしょう?」
「もっと子を産め」
「……は」
そういえば、もう一年以上、閨を共にしていない。
「そなたの産む子は綺麗だ。そなたにはもっと俺の子を産ませたい」
(今はまだお断り!)
「おい、鍋!」
「痛いっ!耳元で大声出さないでっ!」
不意に近寄られ、至近距離で喚かれたので、お鍋は痛い耳を押さえて睨んだ。
「ふんっ、いつもの仕返しだ」
信長はやったと小気味良げで。そのままさらりと言った。
「六角修理大夫(左京)殿の内室が決まらないのだが、この姫にしようか?」
「え?」
「六角家の本流だ、今は公方の側におるが、何れ近江殿として、南近江のどこぞへ移ってもらおうと思ってな。室は小倉家のそなたの娘が丁度良い」
近江を治める難しさを信長も実感しており、左京を近江の主として近江国内に配置する必要があると、考え直しているようだ。
「この子が大きくなるまで、待って頂くのですか?左京様に申し訳ない限りです」
とはいえ、六角家の旧臣だった小倉家の血を引く鶴姫は、確かに左京の相手として適している。それに――。
お鍋は先程の閃きを思った。
「わかりました。では、姫を小田へ」
「小田?」
「お屋形様は以前、未来がどうのと仰せでした。でも、過去も大事と存じます。織田家にとって大切な津田姓は、近江蒲生郡津田に縁があるからだとか。津田は織田家発祥の地。小田は野洲郡とはいっても、津田と一里もない至近距離。私がその津田と小田の地を、信用ならない六角承禎や一向宗門徒どもから、お守り致します」
信長には全く話が飲み込めず、
「織田家発祥の蒲生郡の津田……?俺が未来と言うたから、過去とな?」
と、やや目を丸くする。
「私は小倉三河守の娘ですが、実父は高畠源兵衛とて、小田にも城を持っていた人です。今は小田には私の実の姉に当たる人がおりますそうな。小田は白鳥川を挟んで津田の対岸。観音寺城からも近うございます。織田家ご発祥の津田、小田は、私が死守致しましょう。ついでに申しますと、小田の近くの篠原は、平家の棟梁・宗盛公終焉の地でございます。小田、津田と共に篠原も大事」
「……鍋が観音寺山近隣の出とは知らなんだ。てっきり小倉の本家の娘と思うていたからな。そなたは小田で生まれたか。――で、篠原の平宗盛が何だというんだ?」
「お屋形様、意外と出自は大事なものですわよ。六角家よりも先に、織田家が近江蒲生郡を、観音寺城を含む周辺一帯を治めていたのです。蒲生郡は、南近江はもともと織田家のものでした。私、津田に伝わるお話を存じておりますの。それを世に広めるべきかと存じます」
「……観音寺城に六角義治の内室を入れた故、その辺りを御台の身近な者で固めようかと思うておったが、そなたに任せるべきなのか?」
まだ話が見えない信長に、お鍋は津田の伝説を教えた。
ひどかった一年が終わり、新しい年を迎えた。信長も敵への報復を胸に、闘志を燃やしている。和睦は敵も味方も一旦帰還するための、一時的なものに過ぎない。
とはいえ、今は戦の心配もなく静かなので、各地より、新年の挨拶に岐阜にやって来る者がひっきりなしだった。
蒲生賢秀・忠三郎父子もやって来た。
「不甲斐なくも、一揆鎮圧に手間取り、敵に領内間近にまで迫られ、冬姫様の御身を危険にさらしてしまいました。しかし、お屋形様が六角父子と和睦を成立させて下されたおかげで、一揆は終息し、姫様も助かりました。謹んで御礼申し上げまする」
「いや、六角から帰参を迫る使者が再三やって来ても、相手にもせず追い返し、或いは斬り殺したと聞いている。よく近江を六角から守りきってくれた」
信長は蒲生父子を労い、褒美をやると、かなり上機嫌に忠三郎に言った。
鶴千代だった時分から、信長は忠三郎を前にすると、何故かいつも機嫌がよくなる。忠三郎はそれを見てとって、妙なことをねだった。
「近江の情勢、不安定にございますれば、それがしが日野から離れるべきでないことは重々承知しております。なれど、若輩者のそれがしは、戦を学ばなければならないのでございます。先日、稲葉様ご家中の斎藤利三なる人からも助言して頂き、このままでは駄目だと痛感致しました。近江の治安にのみ明け暮れるのではなく、戦場に赴き、生の戦を肌で学びとうございます。六角とも和睦が成った今こそ、瓶割り柴田様に師事し、実戦を通してその戦ぶりを学びたいのです。柴田様の与力にして下さいませ!」
信長の娘婿が、織田家臣の与力になりたいなどと言うのである。
思いもよらない発言だったのは賢秀も同じだったようで、忠三郎の脇で慌て出した。
「も、申し訳ございませぬ、お屋形様!」
だが、がばとひれ伏した賢秀の後頭部に、きんきんとした笑い声が突き刺さる。
「あははははは!面白い婿殿よ。我が婿殿は家臣の下風に自ら立つと言う。よかろう。望み通り権六(柴田勝家)の下につくがよい」
信長はやはりどうも忠三郎には甘い。
賢秀はへなへなと崩れそうな体を腕で支え、額の汗を床にぽつぽつ落としていた。
「時に、蒲生よ」
信長は急に真顔を賢秀に向けた。
「三七丸の父御が未だ見えぬが、日野よな?」
日野に挨拶に行ったのかというのである。
信長、賢秀、忠三郎の間に不穏な空気が流れた。
実はちょうどこの時、確かに神戸具盛夫妻は日野に来ていたのである。日野には隠居の定秀と冬姫しかいなかった。
実は娘夫婦を日野に呼んだのは定秀である。あらかじめ次兵衛には告げておいた。
それというのも。
定秀は城下の一向宗門徒の動きを憂えていた。
昨年末、信長が六角父子と和睦したことで、近江国内の一向一揆は一応収まっている。しかし、この和睦は一時的なものであること、春には再び開戦されるだろうことは、敵も味方も暗黙のうちにわかっている。
本願寺が着々と準備を整えていることは明らかだった。
日野の門徒衆は、蒲生家への思いから、一揆は起こさないと約束したが、顕如に従わないという発想はない。
蒲生領内で一揆を起こせないならば、本願寺の後方支援しかない。彼らは本願寺へ兵糧を送り、また、兵となるべく、壮年の男は本願寺へ行ってしまったのである。
(信長殿に知られれば、蒲生家の危機よ……いや、昨年奴らは実際蜂起している。次兵衛が信長殿に報告したはずや。信長殿からの沙汰はないが、また奴らが本願寺を支援しているとなれば――まずいのう)
そこで定秀は、
「お屋形様からお許しは頂いている」
と言って神戸夫妻を呼び、祝いの膳でもてなすことにしたのだ。
そして、正月の宴席となっている広間の周辺に、武装した家臣を潜めておいた。太刀に手をかけ、息をひそめる数十人の武者たち。
すっかり酒が回って、具盛が上機嫌になった頃。定秀は声高に訊いた。
「近頃、北伊勢の奴輩は願証寺の誘いに乗って、お屋形様の弟君を弑し奉り、お屋形様に楯突いたが、婿殿よ、そちはお屋形様の若君の養父だが、まさか、そちもか?」
「へっ?」
具盛は一気に酔いが醒めたように、妻と顔見合せた。
「六角承禎が誘いをかけてきたそうやな。こっちにも奴から誘いが来て、うんざりしておった。今や六角は朝倉や浅井と同心している。朝倉と浅井は茂綱(定秀次男)を殺した憎っくき仇。それと同心する六角も我が敵よ。婿殿、奴から当家を誘ってくれと頼まれているのか?」
「ま、まさか?」
「父上!今は朝倉・浅井、それに六角とは和睦して……」
「坂仙斎殿から聞いているぞ。願証寺に同心したかっ!」
娘の言葉さえ定秀は全く聞かず、声を荒げる。
「ひっ!お待ち下され!」
具盛が悲鳴を上げたのと同時に、そこら辺一帯の戸板、襖が蹴破られ、ばらばらと武者たちが躍り出てきた。抜き身の太刀を手に、神戸夫妻を取り囲む。
「父上っ!これは何の真似です?」
娘の訴えに、定秀は、
「許せ……」
と、小さく呟いた。
夫妻は抵抗する間もなく、武者たちに捕縛され、そのまま中野城内に幽閉された。次兵衛も見届けている。
次兵衛は岐阜の信長、神戸城の坂仙斎のもとに使者を出した。
次兵衛から、神戸夫妻を日野に招くから、知らぬ振りして送り出せと、事前に連絡を受けていた仙斎は苦笑した。
「蒲生は早まったのか?」
そう問う三七丸に、いや、と仙斎は首を振った。
「長島一帯の一揆勢は凄まじい勢力があり申す。このままお屋形様のご出馬がなければ、収拾がつかないほど拡大するでしょう。さすれば、北伊勢四十八家、次から次へと敵方に寝返るに相違いなく」
「今よりもっと敵方に転ぶ者が増えるのか?」
「いかにも。中でも、北伊勢の要たる関家、神戸家の動向次第によっては――」
「神戸の養父が織田を裏切るとな?」
「ないとは思いますが、絶対ないとも言い切れませぬ。神戸家が裏切れば、雪崩のように四十八家全てが敵方になる」
「養父はまだ裏切ったわけでは」
「気配皆無というわけではなかった――。蒲生の大殿は鋭過ぎるお人。怪しいものは早目に対処せねば、取り返しのつかないことにもなる故――」
「なれば、妹の身は大事ないか?蒲生家が罰せられれば、妹も苦労する」
冬姫の身を案じる三七丸に仙斎は微笑した。
「蒲生家の計略、予めそれがしも次兵衛殿も承知しており申した。次兵衛殿は神戸家乗っ取りは、それがしが直接しなくとも、蒲生家の手を汚させればよいと。それがしは神戸家を嵌めただけ。あとは蒲生家の動向を見守るだけです。それがしも心得おることですから、お屋形様が蒲生家を罰せられることはありますまい」
定秀の行動を知った信長は、恐らく適当な理由をつけ、三七丸を神戸家当主にするだろう。蒲生家を早とちりだと怒って罰することはあるまい。
(具盛のような織田家への忠義に不安要素のある者ではなく、三七丸様を当主としなければ、北伊勢は揺らぐ。お屋形様は蒲生を咎めず、かえって我が意を心得たる者とお褒めになり、具盛には言い掛かりを付けられるであろう。神戸乗っ取りが蒲生によって叶ったわけだ。本来、我ら神戸に入った者らで致すべきことだが、蒲生に手柄を持っていかれたのう。蒲生、機を見るに長け過ぎだわ、抜け目ない恐ろしい奴輩よ)
仙斎はすぐに岐阜城に使いを出した。
その時、濃姫は奥御殿で蒲生父子と談笑中であった。
三七丸の養母は賢秀の妹であるから、蒲生家は三七丸の生母と顔見知りになっておいた方がよかろう。濃姫はそこに生母の坂御前も呼んでおいた。
坂御前は三七丸と共に神戸城に入っていたが、新年の挨拶に濃姫を訪ねていたのである。
さらに、蒲生家が日野菜の桜漬を土産に持ってきていたので、お鍋も招かれていた。
濃姫に坂御前、お鍋、賢秀、忠三郎。ささやかな一時。
そこにひょっこり信長も顔を出し、蒲生父子に何か言いかけた。
「三七丸の養父母が日野に赴いたならば……」
「申し上げます!」
慌ただしく侍女が現れ、仙斎からの急使が来たと報せた。
「三七丸様の新しいご両親のことで、火急のご用とのこと。お方様に至急お目通りをお許し給りたいと――」
使者は坂御前に対面したいと言っているという。
「まあ、何事でしょう?」
坂御前は退出の許可を貰おうと、信長や濃姫を窺い見た。
鶴姫を乳母に預けて、好物の日野菜のご相伴にあずかっていたお鍋は、
(姫の名がこの鶴千代と被るなんて……)
と、随分逞しくなった忠三郎を見て、呑気にそんなことを思いながら、ため息しきりだったが、ただ事ではないと、口に入れたばかりの日野菜を丸飲みした。
「構わぬ、隣室に通すがよかろう」
濃姫は侍女にそう答えた。
侍女は小姓に伝えに表に向かったが、すぐにまた戻ってきて、今度は蒲生定秀の使者が神戸夫妻のことで話があると、蒲生父子を呼んでいるという。
「面倒な、蒲生の父の使者も、仙斎のと一緒にここに通せ。どちらも三七の親のことだというからには、同じ用件だろう。ここには身内しかおらん」
先に次兵衛から連絡を受けていた信長はそう言った。
賢秀は何事だろうと、すっかり青ざめて体を固くしている。
あの蒲生定秀という男を知り尽くしているお鍋でも、まさか三七丸の養父母を勝手に捕えるとは想像も及ばない。だが、何かとんでもないことが起きているのだろうという予感があった。
間もなく、二人の使者が入ってきた。
「おくつろぎのところ、申し訳ございませぬ」
「ま、そなたか!」
坂御前が思わず声をかけた。
仙斎の使者は小嶋民部。坂御前が前夫との間に儲けた子、つまり三七丸の異父兄であったのだ。
一方、定秀の使者は町野繁仍で、以前、忠三郎が人質としてこの城にいた時の付人だったから、信長も濃姫でさえも良く知っていた。
「どうした?」
信長も声がやわらかくなる。
町野が恭しく告げた。
「蒲生定秀入道、伊勢長島の一揆勢に加担する恐れありとて、神戸殿を捕えましてございまする。取り敢えず、城中に幽閉してございますので、お屋形様のご指示を給りたいとの由」
瞬間、一堂の目が見開かれた。
刹那、ばたっと音がして、そちらに一斉に目が向けられると、賢秀が両手をついていた。
「申し訳ございませぬ!三七様の父君を、わが父がお屋形様のご指示も仰がず勝手に……」
「蒲生!」
信長が凄んだ。
「――神戸は関の子を養子にする気でいたそうではないか?」
「……は」
突然のことに、賢秀がわけがわからず顔を上げると、忠三郎が力んで脇から代わりに答えた。
「まことです。関家の勝蔵は神戸夫妻には甥。しかも、勝蔵は吉兆の証とやら、乳を四つ持っているのです。そのため、めでたい子だとて、勝蔵を養子に迎えるつもりでいました」
「そうか。では、三七丸はいやいや押し付けられた養子というわけよな?」
信長は途中から、坂御前、次に民部へと視線を動かしていった。そのまま信長の目が民部に留まっている。
「うぬは度々、三七丸が神戸に冷遇されていると報告しておったな?」
え、という顔をして坂御前も民部を見る。民部は信長から視線を逸らさない。
「はい。左様でございます」
そういうことかと、二人のやり取りを聞いて、忠三郎は察して、信長に頭を下げた。
「神戸夫妻、関夫妻、それがしは何れの甥でもございます!叔父どもの無礼、お詫びの言葉もございませぬ!」
「まったくだ!忠三郎!神戸も関もお前の祖父の婿!責任を持って身柄を預かれと、祖父に申し伝えよ!」
「はっ!」
「はっ……?」
何故か半分疑問が混じった返事で、賢秀も息子と一緒に平伏した。
父子を見て、信長はにんまり。
「三七丸を冷遇するのは、織田への思いがいい加減な証拠だ。さような神戸具盛なれば、俺を裏切ること、あって不思議にあらず。北伊勢を一揆勢から守るために、今日より神戸家の当主は三七丸と致す!」
(つまり、神戸殿は三七丸様を賜りながら、織田家を裏切ったってこと?)
お鍋には話がいまいち見えない。
信長はまくし立てた。
「神戸具盛は隠居だ。身柄は蒲生家に預ける。三七丸を冷遇した咎だ!」
言いきるや、信長はふふふと笑っている。
(蒲生の古狐め、なかなか味な真似をする。神戸の乗っ取り、何れやろうと思っていたが。今まさにその時ゆえ、命じて実行させようと思っていたところを、俺に先んじてやってくれるとはな)
そして、ふと視界に入ったお鍋に同情的な眼差しを送った。あんな厄介な奴に隣にいられて、さぞかし大変だっただろうと。
その夜更け、濃姫と二人きりになった時、信長は自慢した。
「見たか、蒲生の古狐の業を。息子の異常な律儀さと、孫の神童ぶりと、三代に渡って最強の家だわ。冬姫をやるにこれ以上相応しい家はなかっただろう?」
「……そうですわね」
濃姫は呆れて笑う。
「しばらく近江は不安定だ。そこに冬姫を置いておくのは心配だし、そなたの気持ちもよくわかる。だが、冬姫は蒲生にいなければならん。いいな?」
「ええ」
濃姫は軽く頷いた。
「宜しゅうございました。北伊勢の動向が心配でしたもの。具盛殿はそこまで信用できませんでした。具盛殿が願証寺に同心すれば、北伊勢の衆皆が敵となるところでした。三七に神戸家を任せられたのです。もう北伊勢の裏切りはないでしょう?」
「油断はできぬが、とりあえずはな」
「それにしても、疑わしきを罰して、最悪を回避しようとは。蒲生の隠居殿は随分知恵の回る。事前に具盛殿が来たら捕えるからと、相談されていたわけではないのでしょう?」
「勝手にやった。だから、三七丸の親を勝手に捕えて申し訳ないと、賢秀の奴が冷や汗を流しておったのだ」
「勝手に。お屋形様のお望みを見通して、先に行動したわけですか。秀吉みたいな人ですね」
「ふっ、後ろ暗いことがあるんだろう?まあ構わぬ。何か仕出かせば、対処するまで」
「まあ!蒲生家には仕出かさないで欲しいと思っていらっしゃるくせに!だから、忠三郎殿を冬の婿に選んだのでしょう?」
ふっと笑って、信長は何も答えなかった。
どこの城下にも、一向宗の寺くらいあるものだ。一揆が起きても、ちゃんと鎮圧できれば構わない。一緒になって織田家に叛くことは許せないが。
「――以前から、仙斎が神戸の不審な動きについて言ってきておった。それについて、俺もそなたも仙斎も、次兵衛にしばしば注意喚起しておったからな。次兵衛か冬姫が古狐に言ったか、古狐が察したのだろうよ。俺も蒲生に命じようとしていたのだ、神戸が日野に来たならば、捕えて蒲生家でその身柄を預かれと。まさに言いかけたところで、実行したという報告がきた。だから、蒲生家に予め俺の密命が下っていたということにしておこう。さてと、寝るか」
信長は濃姫の腕を引っ張ると、そのまま寝床に引き摺り込んで眠った。
今の日野中野城は、かつて蒲生貞秀が築城したものの脇に、子孫の定秀が築いたものである。神戸夫妻は、二の丸としている昔の中野城の方へ、押し込まれた。
その後、蒲生家は関盛信夫妻をも預かることになる。全ては三七丸の地位を、北伊勢で盤石にするためであった。
俄に三七丸が神戸家の当主と決まって、お鍋は思う。
(神戸家は完全に織田家のものね。北伊勢はこれで少しは安心なのかしら?一向一揆って、よほど厄介なのね。三七丸様の新しい父上を追い出さなければならないくらいなんだもの……)
近江でも、本願寺と六角父子の呼び掛けに応じた門徒衆が大規模な一揆を起こしたばかり。六角家との和睦で、今は収束しているが。
(和睦は一時しのぎに過ぎないわ。きっとまた一揆は勃発する)
それにしても、近江は信長にとって何と治め難い地だろうか。
六角左京という、六角家の本流を戴いても駄目。
六角義治と縁のある冬姫を据えても駄目。
信長の母を六角家嫡流の姫としても駄目。
六角家縁の人間である信長には南近江を治める資格があると主張してみたところで、無理そうだ。
いくら近年は衰え、家臣達の心も離れていたとはいっても、数百年もの間、根付いていた六角家だ。その土地を他者が治めるのは難しい。
(お屋形様が六角一族だから、南近江を治める資格があると言っても、無理よね。六角が滅亡してるならまだしも、承禎も義治も生きてるんだもの。しかも、同じ南近江の甲賀郡にいるし。義治の呼び掛けに応じる人間がいるのも、仕方ないわね……作戦を転換した方が良いのかも。どの路線に切り換えれば、織田家が南近江を磐石にできるのかしら?)
織田――おだ。
(おだ……織田……おだ……小田っ!)
お鍋に急に閃くものがあった。
(確か、織田家は越前から尾張へ移ったということだけど。織田家の本貫は越前。ううん、そうだ!小田は織田に音が通じるもの。小田に何か良い話はないかしら?)
南近江の野洲郡小田。お鍋にとっては特別な場所だが。
お鍋は閃きを頭の中で整理する。
すると、どかどかと足音が響いてきて、信長がひょっこり現れた。手に玩具を持って。
「おう、姫や、父ぞお」
いったいどこの誰かという顔で、乳母の腕の中の鶴姫に媚びるように、玩具を振っている。
毎日鶴姫に会いに来る。姫も信長の顔を覚えたようで、玩具にけらけら喜んだ。
「おう、こっちへ来い。そうかそうか、姫は父が良いかあ」
むずと、まるで強奪するように乳母から鶴姫を奪った信長の顔は、本当に気持ち悪く、妙な子守唄まで歌い始めた。乳母は失笑している。
(こんなに子供が大好きならば、もっとちゃんと名前を決めればいいのに)
お鍋は姫の名前のことを、まだ根に持っているので、くすりともしない。
「なあ、鍋」
「何でしょう?」
「もっと子を産め」
「……は」
そういえば、もう一年以上、閨を共にしていない。
「そなたの産む子は綺麗だ。そなたにはもっと俺の子を産ませたい」
(今はまだお断り!)
「おい、鍋!」
「痛いっ!耳元で大声出さないでっ!」
不意に近寄られ、至近距離で喚かれたので、お鍋は痛い耳を押さえて睨んだ。
「ふんっ、いつもの仕返しだ」
信長はやったと小気味良げで。そのままさらりと言った。
「六角修理大夫(左京)殿の内室が決まらないのだが、この姫にしようか?」
「え?」
「六角家の本流だ、今は公方の側におるが、何れ近江殿として、南近江のどこぞへ移ってもらおうと思ってな。室は小倉家のそなたの娘が丁度良い」
近江を治める難しさを信長も実感しており、左京を近江の主として近江国内に配置する必要があると、考え直しているようだ。
「この子が大きくなるまで、待って頂くのですか?左京様に申し訳ない限りです」
とはいえ、六角家の旧臣だった小倉家の血を引く鶴姫は、確かに左京の相手として適している。それに――。
お鍋は先程の閃きを思った。
「わかりました。では、姫を小田へ」
「小田?」
「お屋形様は以前、未来がどうのと仰せでした。でも、過去も大事と存じます。織田家にとって大切な津田姓は、近江蒲生郡津田に縁があるからだとか。津田は織田家発祥の地。小田は野洲郡とはいっても、津田と一里もない至近距離。私がその津田と小田の地を、信用ならない六角承禎や一向宗門徒どもから、お守り致します」
信長には全く話が飲み込めず、
「織田家発祥の蒲生郡の津田……?俺が未来と言うたから、過去とな?」
と、やや目を丸くする。
「私は小倉三河守の娘ですが、実父は高畠源兵衛とて、小田にも城を持っていた人です。今は小田には私の実の姉に当たる人がおりますそうな。小田は白鳥川を挟んで津田の対岸。観音寺城からも近うございます。織田家ご発祥の津田、小田は、私が死守致しましょう。ついでに申しますと、小田の近くの篠原は、平家の棟梁・宗盛公終焉の地でございます。小田、津田と共に篠原も大事」
「……鍋が観音寺山近隣の出とは知らなんだ。てっきり小倉の本家の娘と思うていたからな。そなたは小田で生まれたか。――で、篠原の平宗盛が何だというんだ?」
「お屋形様、意外と出自は大事なものですわよ。六角家よりも先に、織田家が近江蒲生郡を、観音寺城を含む周辺一帯を治めていたのです。蒲生郡は、南近江はもともと織田家のものでした。私、津田に伝わるお話を存じておりますの。それを世に広めるべきかと存じます」
「……観音寺城に六角義治の内室を入れた故、その辺りを御台の身近な者で固めようかと思うておったが、そなたに任せるべきなのか?」
まだ話が見えない信長に、お鍋は津田の伝説を教えた。
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