77 / 164
8-3
しおりを挟む
16時半。
マンションのロビーへ降りて来た。けっこう高さのある吹き抜けの天井がロビー内を広く見せているし、開放感がある。大きな窓からは木々が見える。受付カウンターでは、宅急便の受け取りや、カードキーを渡している。便利なシステムだと思う。広い場所な分だけ、家に住んでいる気がしない。部屋は快適だし眺めがいいのに。そういう贅沢なことを考えてしまった。
「ホテルみたいだね?玄関を開けたら、門があるっていう光景に慣れているからさ」
「環境が変わって楽しめるだろう?そこを曲がれば、室内ガーデンがある。8層吹き抜けだ。後で寄ろう」
「俺にとっては別世界だよ。アンもビックリしてるよね?」
物怖じしない性格とはいえ、環境が変わるから心配している。ペット可の場所で床に降ろすと、大きな窓からの景色を眺め始めた。知らない場所なのに、寝転がってまでいる。俺とは正反対のタイプだ。
「もう慣れたのか。切り替えが早いよね?」
「お前と一緒に居るから安心している。5階の共有フロアで、定期的にコンサートが開かれているそうだ」
「聴いてみたいよ。クラシックにも興味が出たんだ」
「音楽が好きだな。……創立記念日のステージを楽しみにしている。オペラ座の怪人なら、ヒロイン役かと思っていたぞ。怪人だとは……」
「低音の方が得意なんだよ。万理の友達の愛良ちゃんが、ヒロイン役だよ」
11月の創立記念日に、オペラ座の怪人のステージを披露する。近くにある真明高校との合同だ。ヒロイン役はその学校の愛良ちゃんがすることになった。実は、俺が怪人役をするのは急に決まったことだった。怪人役の東城が怪我をして入院し、田中先生から代役をしないかと勧められて断った。でも、ジャンケンに負けたから、引き受けることになった。俺がオペラ座の怪人が好きで、DVDで舞台を観たことがあるのも理由だった。
心の片隅では、人前に出る第一歩にしたかったから、YESと頷いて良かったと思っている。何よりも黒崎に観てもらいたい。黒崎は俺が出ることには最初から賛成だったわけではない。無理をさせたくないと言っていた。でも、じゃんけんに負けたことを話すと、渋々と賛成してもらえた。
黒崎は俺が人前に出るのを嫌がるくせに、今回のステージを応援された。大勢の前だと襲い掛かって来る奴がいないからだと言っていた。それだけが理由だろうか。無理をしていないのか気になった。
社会に出さない、就職させない。その言葉の深い意味は、何だろう?表面だけで受け取って拒んだが、別の意味がある気がしている。危ない目に遭わせない為、自分の元から居なくなるのを防ぐ為。この他には、何があるだろう?どこにも行かないと繰り返しているのに、心の底では安心していないのではないかと思っている。安心するのにはまだまだ時間がかかるだろう。
(お母さんのことを思い出しているんじゃないかな?また置いて行かれるかもって。夢を見ながらママって呼ぶぐらいだもん)
外で就職しないと話してみようかと思った。それで安心するなら、そうしたいと思うようになった。黒崎が言うように、家の中で出来る仕事をすればいい。家事に限らず、いくらでもあるだろう。
企業のトップになり、メディア業界を操ることを目標にしていた。その夢はどうなったのか?優しく守られていくうちに、恨みのようなものが薄れた。このまま進めば、楽になるかもしれない。俺も万理も、未来へ向かって歩いている。振り返れば、あの時の恨みの塊が入った箱が視界に入る。その箱を開ける必要はない。どこかへ捨てることもしなくて構わない。あの時の恨みを否定しなくて構わない。許せるわけがないからだ。
これだけは分かっている。わざわざ開いて中身を確認して、腹を立てたり感情を高ぶらせたりしたくない。過去は変えられないが、未来なら変えられる。
(まだ手放せないよ。でも、黒崎さんの荷物を取ってあげたい。背負うのは無理だから、手を繋ぐことは出来る……)
こんな大事な話を思い付きで言わない。今までの事を振り返って出した答えだ。強制されていないし、俺の方からの気持ちだ。
「黒崎さん!」
「何かあったのか?」
「あの……。俺が就職しないなら、安心するんだよね?居なくならないって言っても、行動に出さないと信用できないだろ?」
「……夏樹。落ち着け」
「昨日のあんた、やっぱりおかしいもん。いつもそうだけど。特になりたいものが無いからさ。大学は行きたい。勉強をしたいからだよ。お兄ちゃんと同じ大学なら、3年生から学部選択をするシステムなんだ。それまでには、やりたい事が見つかるかも知れない。そういう考えで通わせてもらうのは、引っかかるけど。お父さん達に頼みに行くよ!だから……。黒崎さん……」
「俺のせいだな。どうして言い出した?」
「あんたが無理をしているからだよ。ステージに立つのを応援されたからだよ。直していくって言っても、ガツガツやるなよ!何を言っているのか分からなくなったーー。もういいよーー」
「外に出よう。本当に腹が減っているようだな」
「そんなことないよ。アン……。心配するなよ……」
アンを抱くように促されて両手を差し出すと、尻尾を振りながら駆け寄り飛び込んできた。そっと抱き上げると、大きな目で見上げてきた。そこには、ショゲた顔の俺が映っていた。ヘコんでいるのは黒崎の方なのに、俺の方が寂しがっているみたいだ。
温かい手で肩を抱かれて、エントランスを出た。涼しい風と一緒に、敷地内の公園からの匂いが広がり、胸のモヤモヤが薄れていった。
マンションのロビーへ降りて来た。けっこう高さのある吹き抜けの天井がロビー内を広く見せているし、開放感がある。大きな窓からは木々が見える。受付カウンターでは、宅急便の受け取りや、カードキーを渡している。便利なシステムだと思う。広い場所な分だけ、家に住んでいる気がしない。部屋は快適だし眺めがいいのに。そういう贅沢なことを考えてしまった。
「ホテルみたいだね?玄関を開けたら、門があるっていう光景に慣れているからさ」
「環境が変わって楽しめるだろう?そこを曲がれば、室内ガーデンがある。8層吹き抜けだ。後で寄ろう」
「俺にとっては別世界だよ。アンもビックリしてるよね?」
物怖じしない性格とはいえ、環境が変わるから心配している。ペット可の場所で床に降ろすと、大きな窓からの景色を眺め始めた。知らない場所なのに、寝転がってまでいる。俺とは正反対のタイプだ。
「もう慣れたのか。切り替えが早いよね?」
「お前と一緒に居るから安心している。5階の共有フロアで、定期的にコンサートが開かれているそうだ」
「聴いてみたいよ。クラシックにも興味が出たんだ」
「音楽が好きだな。……創立記念日のステージを楽しみにしている。オペラ座の怪人なら、ヒロイン役かと思っていたぞ。怪人だとは……」
「低音の方が得意なんだよ。万理の友達の愛良ちゃんが、ヒロイン役だよ」
11月の創立記念日に、オペラ座の怪人のステージを披露する。近くにある真明高校との合同だ。ヒロイン役はその学校の愛良ちゃんがすることになった。実は、俺が怪人役をするのは急に決まったことだった。怪人役の東城が怪我をして入院し、田中先生から代役をしないかと勧められて断った。でも、ジャンケンに負けたから、引き受けることになった。俺がオペラ座の怪人が好きで、DVDで舞台を観たことがあるのも理由だった。
心の片隅では、人前に出る第一歩にしたかったから、YESと頷いて良かったと思っている。何よりも黒崎に観てもらいたい。黒崎は俺が出ることには最初から賛成だったわけではない。無理をさせたくないと言っていた。でも、じゃんけんに負けたことを話すと、渋々と賛成してもらえた。
黒崎は俺が人前に出るのを嫌がるくせに、今回のステージを応援された。大勢の前だと襲い掛かって来る奴がいないからだと言っていた。それだけが理由だろうか。無理をしていないのか気になった。
社会に出さない、就職させない。その言葉の深い意味は、何だろう?表面だけで受け取って拒んだが、別の意味がある気がしている。危ない目に遭わせない為、自分の元から居なくなるのを防ぐ為。この他には、何があるだろう?どこにも行かないと繰り返しているのに、心の底では安心していないのではないかと思っている。安心するのにはまだまだ時間がかかるだろう。
(お母さんのことを思い出しているんじゃないかな?また置いて行かれるかもって。夢を見ながらママって呼ぶぐらいだもん)
外で就職しないと話してみようかと思った。それで安心するなら、そうしたいと思うようになった。黒崎が言うように、家の中で出来る仕事をすればいい。家事に限らず、いくらでもあるだろう。
企業のトップになり、メディア業界を操ることを目標にしていた。その夢はどうなったのか?優しく守られていくうちに、恨みのようなものが薄れた。このまま進めば、楽になるかもしれない。俺も万理も、未来へ向かって歩いている。振り返れば、あの時の恨みの塊が入った箱が視界に入る。その箱を開ける必要はない。どこかへ捨てることもしなくて構わない。あの時の恨みを否定しなくて構わない。許せるわけがないからだ。
これだけは分かっている。わざわざ開いて中身を確認して、腹を立てたり感情を高ぶらせたりしたくない。過去は変えられないが、未来なら変えられる。
(まだ手放せないよ。でも、黒崎さんの荷物を取ってあげたい。背負うのは無理だから、手を繋ぐことは出来る……)
こんな大事な話を思い付きで言わない。今までの事を振り返って出した答えだ。強制されていないし、俺の方からの気持ちだ。
「黒崎さん!」
「何かあったのか?」
「あの……。俺が就職しないなら、安心するんだよね?居なくならないって言っても、行動に出さないと信用できないだろ?」
「……夏樹。落ち着け」
「昨日のあんた、やっぱりおかしいもん。いつもそうだけど。特になりたいものが無いからさ。大学は行きたい。勉強をしたいからだよ。お兄ちゃんと同じ大学なら、3年生から学部選択をするシステムなんだ。それまでには、やりたい事が見つかるかも知れない。そういう考えで通わせてもらうのは、引っかかるけど。お父さん達に頼みに行くよ!だから……。黒崎さん……」
「俺のせいだな。どうして言い出した?」
「あんたが無理をしているからだよ。ステージに立つのを応援されたからだよ。直していくって言っても、ガツガツやるなよ!何を言っているのか分からなくなったーー。もういいよーー」
「外に出よう。本当に腹が減っているようだな」
「そんなことないよ。アン……。心配するなよ……」
アンを抱くように促されて両手を差し出すと、尻尾を振りながら駆け寄り飛び込んできた。そっと抱き上げると、大きな目で見上げてきた。そこには、ショゲた顔の俺が映っていた。ヘコんでいるのは黒崎の方なのに、俺の方が寂しがっているみたいだ。
温かい手で肩を抱かれて、エントランスを出た。涼しい風と一緒に、敷地内の公園からの匂いが広がり、胸のモヤモヤが薄れていった。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】少年王が望むは…
綾雅(りょうが)今年は7冊!
BL
シュミレ国―――北の山脈に背を守られ、南の海が恵みを運ぶ国。
15歳の少年王エリヤは即位したばかりだった。両親を暗殺された彼を支えるは、執政ウィリアム一人。他の誰も信頼しない少年王は、彼に心を寄せていく。
恋ほど薄情ではなく、愛と呼ぶには尊敬や崇拝の感情が強すぎる―――小さな我侭すら戸惑うエリヤを、ウィリアムは幸せに出来るのか?
【注意事項】BL、R15、キスシーンあり、性的描写なし
【重複投稿】エブリスタ、アルファポリス、小説家になろう、カクヨム
猫カフェの溺愛契約〜獣人の甘い約束〜
なの
BL
人見知りの悠月――ゆづきにとって、叔父が営む保護猫カフェ「ニャンコの隠れ家」だけが心の居場所だった。
そんな悠月には昔から猫の言葉がわかる――という特殊な能力があった。
しかし経営難で閉店の危機に……
愛する猫たちとの別れが迫る中、運命を変える男が現れた。
猫のような美しい瞳を持つ謎の客・玲音――れお。
彼が差し出したのは「店を救う代わりに、お前と契約したい」という甘い誘惑。
契約のはずが、いつしか年の差を超えた溺愛に包まれて――
甘々すぎる生活に、だんだんと心が溶けていく悠月。
だけど玲音には秘密があった。
満月の夜に現れる獣の姿。猫たちだけが知る彼の正体、そして命をかけた契約の真実
「君を守るためなら、俺は何でもする」
これは愛なのか契約だけなのか……
すべてを賭けた禁断の恋の行方は?
猫たちが見守る小さなカフェで紡がれる、奇跡のハッピーエンド。
Take On Me
マン太
BL
親父の借金を返済するため、ヤクザの若頭、岳(たける)の元でハウスキーパーとして働く事になった大和(やまと)。
初めは乗り気でなかったが、持ち前の前向きな性格により、次第に力を発揮していく。
岳とも次第に打ち解ける様になり…。
軽いノリのお話しを目指しています。
※BLに分類していますが軽めです。
※他サイトへも掲載しています。
雪解けを待つ森で ―スヴェル森の鎮魂歌(レクイエム)―
なの
BL
百年に一度、森の魔物へ生贄を捧げる村。
その年の供物に選ばれたのは、誰にも必要とされなかった孤児のアシェルだった。
死を覚悟して踏み入れた森の奥で、彼は古の守護者である獣人・ヴァルと出会う。
かつて人に裏切られ、心を閉ざしたヴァル。
そして、孤独だったアシェル。
凍てつく森での暮らしは、二人の運命を少しずつ溶かしていく。
だが、古い呪いは再び動き出し、燃え盛る炎が森と二人を飲み込もうとしていた。
生贄の少年と孤独な獣が紡ぐ、絶望の果てにある再生と愛のファンタジー
僕の恋人は、超イケメン!!
刃
BL
僕は、普通の高校2年生。そんな僕にある日恋人ができた!それは超イケメンのモテモテ男子、あまりにもモテるため女の子に嫌気をさして、偽者の恋人同士になってほしいとお願いされる。最初は、嘘から始まった恋人ごっこがだんだん本気になっていく。お互いに本気になっていくが・・・二人とも、どうすれば良いのかわからない。この後、僕たちはどうなって行くのかな?
新緑の少年
東城
BL
大雨の中、車で帰宅中の主人公は道に倒れている少年を発見する。
家に連れて帰り事情を聞くと、少年は母親を刺したと言う。
警察に連絡し同伴で県警に行くが、少年の身の上話に同情し主人公は少年を一時的に引き取ることに。
悪い子ではなく複雑な家庭環境で追い詰められての犯行だった。
日々の生活の中で交流を深める二人だが、ちょっとしたトラブルに見舞われてしまう。
少年と関わるうちに恋心のような慈愛のような不思議な感情に戸惑う主人公。
少年は主人公に対して、保護者のような気持ちを抱いていた。
ハッピーエンドの物語。
海のそばの音楽少年~あの日のキミ
夏目奈緖
BL
☆久田悠人(18)は大学1年生。そそかっしい自分の性格が前向きになれればと思い、ロックバンドのギタリストをしている。会社員の早瀬裕理(30)と恋人同士になり、同棲生活をスタートさせた。別居生活の長い両親が巻き起こす出来事に心が揺さぶられ、早瀬から優しく包み込まれる。
次第に悠人は早瀬が無理に自分のことを笑わせてくれているのではないかと気づき始める。子供の頃から『いい子』であろうとした早瀬に寄り添い、彼の心を開く。また、早瀬の幼馴染み兼元恋人でミュージシャンの佐久弥に会い、心が揺れる。そして、バンドコンテストに参加する。甘々な二人が永遠の誓いを立てるストーリー。眠れる森の星空少年~あの日のキミの続編です。
<作品時系列>「眠れる森の星空少年~あの日のキミ」→本作「海のそばの音楽少年~あの日のキミ」
【完結】毎日きみに恋してる
藤吉めぐみ
BL
青春BLカップ1次選考通過しておりました!
応援ありがとうございました!
*******************
その日、澤下壱月は王子様に恋をした――
高校の頃、王子と異名をとっていた楽(がく)に恋した壱月(いづき)。
見ているだけでいいと思っていたのに、ちょっとしたきっかけから友人になり、大学進学と同時にルームメイトになる。
けれど、恋愛模様が派手な楽の傍で暮らすのは、あまりにも辛い。
けれど離れられない。傍にいたい。特別でありたい。たくさんの行きずりの一人にはなりたくない。けれど――
このまま親友でいるか、勇気を持つかで揺れる壱月の切ない同居ライフ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる