不器用な僕とご主人様の約束

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不器用な僕とご主人様の約束

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 ピンクと紫のネオンが妖しく光る。今日もここ『CLUB HONEY』の店内にいると、深夜一時なのをすっかり忘れてしまいそうだ。古いビルのワンフロアに充満する低音の音楽と酒の匂いの中、僕は黒い革張りのソファーに座りながら、隣で酒を飲んでいる男性に身体を倒した。

良男よしお~っ。僕もう酔っぱらっちゃった~」
ゆき、大丈夫? もっとこっち来な」
「んぅ……。ね、今日泊めてよぉ」
「だーめ。今日は別の子と約束してんの。雪とはこないだヤったろ?」

 力強く僕の肩を引き寄せた彼、良男と僕はいわゆるヤリ友だ。



 この世界には、第二の性と呼ばれるダイナミクスがある。支配的なDom・支配されたいSub・どちらにも属さないNeutral─その中で僕はSubの性質を持っている。

 現代では薬でのコントロールも可能だが、基本的にDomもSubもCommandを使ったPlayとよばれるもので欲求を満たさなければならない。Domは自分の物にしたいSubに証としてCollarを送り、それによってSubは精神的な安定を得ることができる。

 いわゆるパートナーというやつを拒んで僕がヤリ友関係を望むのは、長ったらしい関係が肌に合わないからで、良男はそういう意味で気楽に付き合える人だった。



「雪も固定パートナー作らない派なら、俺が空くまで我慢しててな」
「うー、わかった……じゃあ連絡頂戴ね。僕だって他にいい人できたら居なくなっちゃうんだから」
「はいはい」

 ちゅ、と軽い口づけを僕の額に落とした良男は微笑む。



「楽しんでおられますか?」

 ふと声をかけられて、僕は視線を持ち上げた。そこに光沢のあるスーツを着た一人の男性が立っていた。その人は綺麗に流れた黒髪から、ひとふさ垂れた前髪をなおしている。中性的で整った顔、長いまつ毛に囲まれた瞳は黒々としているが、どこかぼんやりとして別世界を見ている様子だった。

「えっと……?」

 目を泳がせると、良男が「あっ」と声を出して身を乗り出す。

「オーナーの華藍からんさんじゃないっすか! 珍しい~」
「ご無沙汰しております」

 ペコリとお辞儀をする華藍は穏やかにまつ毛を伏せる。

「雪は初めてか。ここのオーナーの華藍さん」
「あっ、どうも……はじめまして」

 微笑みつつも僕に向いた鋭い視線。真っ黒な彼の瞳と目が合うと、瞬時に彼もまたDomであると直感する。

「初めまして、華藍です。随分、酔われているようですね。タクシーをお呼びしましょうか? Subの方だと危険も多いですから」
「あっ、スミマセン。大丈夫です、帰れます……」
「……失礼。最近よく来ていただいているのでご挨拶をと思って。良ければ奥のバーカウンターで一品頼んでください。私の奢りです」

 盛り上がる良男と反対に、静かにほほ笑んだ華藍は、すっと店の奥へ歩いて行ってしまった。早速バーでカクテルを注文するものの、なんだか味がしない。

「雪? おーい」
「んあ……」

 脳内にこびりついた華藍の瞳を思い出していると、グラスの向こうで良男が手を振っていた。

「マジで酔ってるみたいだな。ほら、水飲んどけ」

 差し出されたジョッキを掴んで、冷たい水で唇を濡らす。

「ありがと……ねえ、あのオーナーの人っていつも居るの? また挨拶に来るかなあ」
「はぁ? あんま来ないよ。雪も今日初めて会っただろ」
「そっか。なんかさぁ、不思議~な人だったね」
「あ? まあ美人だけどな……よく知らねえ。なに、気になんの?」

 僕の顔を覗き込んできた良男の瞳がギラついて、少し腰が跳ねる。

「ち、違うよぉ。だって僕のタイプは良男みたいな男らしい人だもんー」
「はは。まあ、確かオーナーもDomだから、なんか感じんのかもな」

 僕の頭をワシワシ撫でる良男に笑いつつ、冷たい水を飲みこむ。

「んじゃ、俺はこのままバーで待ち合わせだから。雪は気を付けて帰りな。今日も俺の奢りでいいから」
「えっ、マジ? さすが~」

 抱きつこうとした腕をかわされ、ソファーに倒れそうになる。僕の着ているパーカーのフードを掴んで、良男は僕を立たせた。

「……じゃ、またねー。ごちそうさま!」

 明るく笑いながら、ふらふらと手を振る。良男は一瞬だけ僕に笑顔を向けると、持っていたスマートフォンに夢中になっていた。




 店を出た僕はふと空を見上げた。ぐるりと視界を囲むビルの光は、真っ黒な夜空を打ち消している。

「街の灯りがぜーんぶ消えたら、夜ってどんくらい暗いんだろ? そしたら、星ってどんくらい見えるんだろ」

 僕は目をつぶり、酔っぱらった頭で闇を想像すると、ふと華藍の瞳が浮かんだ。先ほどの騒がしさが噓のように、辺りは静かで少し寒い。僕はパーカーのポケットに手をいれて、住んでいるアパートに戻ることにした。



 ___




 それからあまり日が経たない内に、僕はもう一度『CLUB HONEY』を訪れていた。商店街から一本外れた道にある、古びたビルの入口。リュックの肩ひもを握りしめながら、ネオンの看板に照らされたドアを開くと重低音の音楽が身体に響いた。

「いらっしゃいませ~。何にします?」
「あ……っと、カンパリオレンジを」

 金髪の若いウェイターに声をかけられて、注文をいれる。天井のシャンデリアをみつつ、バーカウンターに腰かけると、運ばれてきたオレンジ色のカクテルに口をつけ、店内に視線を移した。

 薄暗い室内。それぞれの黒いテーブルには酒が並んで、どの席もお客たちはお互いの身体を触り合い談笑している。

「居ない、か」

 ふいにスーツ姿の男性を探すが見つからない。

 カウンターにも好みのタイプはいないし、二、三杯飲んだら帰ろう。そう思ってグラスを一気に傾ける。時々スマートフォンを覗いてみるが、アプリの通知だけが淡々と届いた。

 二杯目はジントニック。強い炭酸に混ざるすっとしたライムの香りに舌を浸していると、後ろの方で歓声が上がった。

「ハッピーバースデー!!」

 クラッカーの弾ける音と、拍手に耳を傾けながら、僕はスマートフォンをなんとなく触る。カレンダーを開けば、ずいぶん前に連絡を取らなくなった友達の誕生日がまだ登録されている。生活も変わって、自分から連絡する人は殆ど居なくなってしまった。最近は身体が辛い時に良男を呼ぶくらいしかメッセージアプリも使っていない。

「今夜はお一人ですか?」
「えっ」

 アプリの履歴を遡っていると聞こえた声にはっとする。顔を上げた先には、華藍がニッコリ笑って立っていた。

「あっ……っと。この間はどうもすみません! 今日は、時間が空いたので……」

 笑ってみるけど、喉が一瞬にして乾く。スマートフォンを急いで閉じ、僕は身体ごと華藍に向いた。僕に向けられるガラス細工のような瞳は、照明を反射して光っている。

「いえ、無事に帰られたようで良かったです。この前、お名前を伺うのを忘れていましたね」
「えっ、っと。ゆきっていいます。字は、そのまま天気のやつ」
「雪さん。素敵なお名前ですね。この店はダイナミクスの制限をしていません、危ない時は遠慮なく誰かに声をかけてくださいね。従業員はNeutralですから安心してください」
「あっ、わかりました。ありがとうございます……あの」

 裏返りそうになる声を抑えて、僕は会話に集中した。

「あの、えっと。華藍からんさん、でしたっけ」
「覚えてくれたんですね」
「っ!!」

 ふわりとした大人っぽい声に、我慢できないと言わんばかりの身体が、椅子から立ち上がった。そして華藍のピカピカに磨かれた革靴の前で、両足を開いて座り込み、ぺたりとお座りの態勢になる。

「……雪さん?」

 聞こえた声は困惑していた。僕はお座りのままじっと動かずに顔を俯かせる。

「……Stand Up」
「っあ」

 重力に逆らうように立ち上がる身体が震える。そこに見えた華藍は眉をひそめ、ため息を吐いた。

「Kneelとは言っていませんよ。いきなりのCommandは危険です。何故……」
「っ! ごめんなさい!! 良男はこれで、喜んで、くれたから……」

 言いながら、ひどく胸が痛む。

「Domは、Kneelで服従を示されるのが嬉しいって……僕、変な、事しましたか?」

 華藍の顔を覗き込んで感じたのは、Domが不機嫌な時に発する威圧感─Glareだった。おそらく一瞬だけ、ほのかなものだったが、それでも僕の身体を硬直させるには十分だ。

「私にはパートナーがいます」

 熱のこもらない、読み上げたような声に僕の頭はうなだれる。

「……申し訳ありません」

 頭を下げたまま固まっていると、肩を軽く叩かれる。僕が姿勢を戻す頃には、華藍は無言のまま別テーブルへ行ってしまった。後に残るほのかな香水の香りを求めながら、倒れるように椅子に座りこむ。

 グラグラする頭をしばらく抱えていると、合図のようにトントンとカウンターの端をたたく指が見えた。

「だ、大丈夫っすか」

 そこには、初めに声を掛けてくれた金髪の若いウェイターがいた。カウンターの向こうから、カクテルを作る銀のシェーカーを片手に、眉をハの字にして僕を見ている。

「僕、やっちゃいました……」
「えと、まあ。元気出してください。あ、ブラッディメアリーとかどうっすか? スッキリしますよ」
「ありがとう……お願いします。タバスコ多めで」

 はあ、と大きな息が肺からこぼれる。

 華藍には付き合ってる人がいたのに、僕は勝手に服従した。許してもいない相手からKneelを見せられた彼はどう思っただろうか。おそらく、とんでもなく呆れたのではないか。

 そんな風に思っている間に、金髪のウェイターがグラスに氷を入れながら話しをしてくれた。

「すいません、ちょっと聞こえちゃって。とにかくオーナーは優しい人なんで大丈夫っすよ。亡くなったパートナーさんのこと、ずっと想い続けてるだけで、雪さんは悪くないっす」
「えっ。それは……なおさら」

 頭からさっと血が抜ける感覚に、カウンターにひじをつく。

「あまり話さないんすけど……特別っす」

 苦笑いのウェイターが、ウォッカとトマトジュースを混ぜてカウンターに置くと、僕の方へずらす。

「……僕はなんてことを」

 グラスを取る気力はなく、注がれた真っ赤なトマトジュースをしばらく見つめた。周囲の賑わいや、誰かを祝う声もどこか遠くて、やっと口をつけて飲み干す頃には、いつの間にか三時間も過ぎた頃だった。






 少し間が空いて、二週間過ぎた頃。久しぶりに良男からメッセージがきた。また『CLUB HONEY』で飲もうと言われ、乗り気になれなかったけど、そろそろ寂しさもあって行くと返信した。

 あれから僕は、一度も店へ行っていない。良男と待ち合わせして夜の街を通り過ぎ、ネオンの看板の入り口に入ると、なぜか少し懐かしいと思った。

「いらっしゃいませ~」

 金髪のウェイターが愛想よく挨拶してくれ、軽く会釈する。先を歩く良男は前と同じ席のソファーに向かうと、首を傾げた。

「あれ~、こんなラグマットあったっけ」
「あ……」

 僕も思わず声を出す。ソファーの端には、小さなふかふかのラグマットが敷かれている。グレー色で毛羽立ったそれは綺麗に掃除され、新品のようだ。

「あー、これKneel用のやつかな? ほら、ホテルとかに置いてあるやつじゃん。よかったな雪」

 ソファーに座った良男の声を聞きながら、僕はラグマットに吸い寄せられた。椅子や机の近くに、よくSubが”お座り”するためのラグマットを敷いているホテルがあるが、まさかそれなのだろうか。ゆっくりと上に座ってみると、ふわふわの毛先が指先に当たる。

「ん……うれしいかも」

 そうしていると、水を運んだウェイターがやって来て僕の前で屈んだ。

「あの後、オーナーが追加したっす」

 僕に聞こえるくらいの囁きと同時に、彼はウインクした。僕は、うっかり高速でラグマットを撫でてしまう。それを横に、良男はメニューを眺める。

「雪、そんな嬉しいんなら今日はずっとそこに座ってな。俺、ビール」
「あ……うん。僕は、今日はウーロン茶でいっかな……」
「はー? 飲まねえのめずらしいな。奢るから気にすんなよ」

 注文をしつつ、僕はラグマットの毛先を何度も整えた。やんわり辺りを見たが、華藍の姿は無い。

「なあ、雪。この後ホテル行くべ?」
「え? あ、わかった……」
「どした? なんか変だぞお前。もしかして、すねてんの?」

 良男のゴツゴツした手に撫でられるが、僕は顔を俯けてラグマットを見つめた。

「だ、だって。二週間も放置されてたんだよー?」
「ははー。後でたっぷりケアしたるって」

 本当はそんな気分じゃなかったけど、いつも通り振舞ってみると良男は笑ってくれた。



 数分後、開いたグラスがテーブルに並んでいく。酔っぱらった良男はバケットから、フライドポテトを摘まむとケチャップをつけた。

「ほーら、雪。あーん」
「んむー。もうポテトいらないもん」
「でもあーんしてもらいてーだろ? ほら」

 つん、と突き出されたフライドポテトを見て渋々口を開ける。運ばれたものが口内に入ると、ケチャップの味が広がった。

「おいひい」
「だろ。はー、おもろ」

 僕を見ながら良男はジョッキを傾ける。そんな時、ぬっと大きな影が横に現れた。一瞬、華藍かと思ったが、そこには体格のいい男性がタンクトップ姿で立っていた。おまけに顔は真っ赤で、オシャレなクラブの中でその存在は明らかに浮いている。

「うおー。超タイプのSubみっけ! 餌付けされてんの? かっわいー」

 大きな声で、かなり酔っている様子だ。目がギラギラしていて暑っ苦しいので、僕はフライドポテトを飲みこむと良男に視線を戻した。

「ちょっと、アンタ誰。これ、俺のツレなんだけど?」

 ドン、とテーブルにジョッキを置いた音が響く。少しめんどくさそうに舌打ちをした良男は、ソファーに座ったままGlareを出した。

「あ? 知らねえよ。ってかCollarつけてねーし、いいじゃん別に」

 僕の腕を引きながら、良男よりも嫌な感じのGlareをタンクトップの男性が放つ。ぞわぞわした感覚が腕を伝って、鳥肌が立った。それを見て焦りだした良男が早口で続ける。

「っあ……ま、まあ。そうなんだけどさ。多めにみてくんね? 頼むからさ」
「弱いGlareしか出せない奴は黙ってろよ」
「ちょっ。それは……」
「声ちっさ。ほら、こんな奴と遊ぶより、俺のとこ来い。楽しませてやるから」

 ぐい、と太い腕に掴まれて立ち上がる僕は良男に叫ぶ。

「よ、良男?!」
「っ……好きにしろ!」
「そんなっ」

 良男は明らかに僕から視線を外すと、ジョッキを持ち上げてビールを飲み始めてしまった。

「ま、待って。やっ……」
「あんた、パートナーいないんだろ? いいじゃん。俺と飲み直そうぜ」
「そうだけど……今はっ」

 引っ張られる力の方に腕を伸ばすが、まるで抵抗になっていない。喉が詰まって呼吸が難しい。

「たっ、助けて!」

 咄嗟の声は、普段流れている音楽にかき消される。ぐんぐん引っ張られた身体が、やがて少し離れた席に到着すると、投げ飛ばされるようにソファーに座らされた。

「とりあえず、もっと近くで顔見せてよ」
「ま、待って……」

 近づいた男性が、僕の胸をゆっくり撫でた。酒で熱くなった手は洋服の上からでもその存在がしっかり伝わる。

「へぇ、意外と身体引き締まってんね? もしかして遊んでるタイプ? この後どう?」
「やっ。さ、触んないでっ。あっ」

 胸を撫で終えた手のひらが今度は太ももを這う。付け根までひと撫ですると、大胆に僕の股間を緩く掴んだ。

「俺、上手いからさ」
「っ」

 酒臭い息が頬に当たる。固く眼を閉じて身体に力を入れている僕に、涼しげな声が聞こえた。



「楽しんでおられますか?」

 席の前に華藍が立っている。

「お。オーナーじゃん。見てよこの子可愛くね? ナンパしちゃった」

 タンクトップの男性は楽しげに語った。それを聞きながら、華藍は穏やかに黒い瞳をスっと細めた。

「それはそれは。ところで、当店ではDomからSubへの強引なお誘いは禁止しておりますが……」
「あ?」

 びり、と空気が揺れるようなGlareの気配に僕は強張る。

「一応確認したく。……雪さん、同意されてますか?」


「……っあ。して、ない」

 額に汗を浮かべながら絞り出した声に、華藍が動き出した。


「ですって。彼を離してあげてください」

 華藍の腕に引き上げられながら、僕が席を立とうとすると反対から腕が伸びた。

「手、離せよ。オーナーだからって勝手な事すんな。この店はSubとの交流も許してねーわけ?」
「……同意が前提です。ご理解ください」
「そんなの後から何とでも言えるだろ!!」

 ソファーに引き戻されそうになった身体は中途半端なところで止まる。僕は首を横に振って抵抗した。それから一瞬で、華藍が強い眼差しを男性に向ける。

「離せ」

 華藍の低い声に、僕は恐怖を感じた。横で石膏のように固まった男性から離れると、力なくラグマットの上でお座りの態勢をとる。そうすることで、何とか身体からGlareを逃したかった。固まったままの男性を無視し、華藍は僕の方へ向く。表情はすっかり元通りで、ふわりとほほ笑んだ彼の右手が僕の頭に乗った。

「Good boy」
「っ……」

 ぽんぽん、と軽く触れられただけで魔法のように硬直が解ける。

「雪さん、先にお戻りください」
「は、はい……」

 僕はよたよた立ち上がると、良男の席へ戻ることができた。



「……ただいまぁ」
「……あ、おう」

 座ったままビールを飲んでいた良男の声は小さかった。とりあえず隣に座ってみるが、沈黙が続く。

「雪、悪かったな……飲み直す?」
「ん。ありがと……」

 先に声を出した良男は、メニューを見せてくれた。先ほどのことは忘れようと、メニュー表を手に取ってみるが、まだ微かに指先が震ている。

「ごめん。やっぱ僕、今日は帰る。なんか、Playする気分じゃなくなっちゃって……」
「あー。うん。そうだな……気にすんな。別の奴呼ぶし」
「うん……ごめんね」

 小さく言葉を交わすと、急いで店の出口に向かった。すでに華藍の姿はどこにもなかく、タンクトップの男性も静かになっていた。僕は自分の胸をぎゅっと押えながら、帰り道を進んだ。



 ___




 それきり良男からの連絡もなく、一ヶ月が過ぎた。ある日、自宅のアパートでコンビニ弁当を食べているときだった。

「はあ、そろそろPlayしないとヤバいんだけどな」

 お弁当がなんだか味気なくて、体調不良の気配を感じる。片手にお箸を持ったまま、もう片手でスマートフォンを起動しては消してを繰り返した。

良男よしお、どうしてんだろ。どうせ別の子と遊んでそうだけど」

 それでも別にいいのだけど。と内心で付け加える。もともと会いたいときだけあっていただけだ。と、最近はこんなことをずっと部屋の中で考えていた。

「……久しぶりに行ってみようかな」

 脳内には『CLUB HONEY』のネオンが浮かぶ。騒動があってから更に行く気になれず、お店の事も忘れかけていた。一人で飲んでいる客もそこそこ居た気がするし、タイミングが良ければ良男とも会えそうだ。

 夕方になると、重たい足を何とかごまかしながら、人もまばらの商店街を進む。道を一本外れた古いビルの前に、相変わらず光る看板が見えてほっとした。

「いらっしゃいませ……って、あっ。ゆきさん!」

 バーカウンターに腰を下ろすなり、いつもの金髪のウェイターが駆け寄ってきた。

「お久しぶりっす! 丁度よかった、困ったことがあって……」
「え?」

 眉を寄せながら身を屈めた彼がヒソヒソ耳打ちした。

「実は……オーナーなんすけど」
華藍からんさんがどうしたんです?」
「その、最近ずっと二階の事務所に引きこもってて。皆心配してるんす。まかない持って行っても半分くらいしか食べないし。もしよければ、雪さん見舞いに行ってもらえませんか?」
「ぼ、僕がですか?」
「そうっす……その、これは僕の推測なんすけど。オーナーは雪さんのことちょっと気になってる気がするんす」
「……」

 カウンターに視線を落とした僕は、言葉に詰まった。

「いいえ、僕はきっと困らせる客なんで……会ったところでまた負担になるかと……」
「そんなことないっす! 案内するんで、頼みます」
「……わかりました。心配、ですもんね」

 これ以上誰かを困らせるのも辛い。ウェイターの必死そうな言葉に、つい僕は頷いた。ぱっと明るくなった彼は僕を二階に案内してくれた。

 一階の関係者扉から階段を上がってすぐの所に、事務所の扉があった。落ち着いたオレンジ色の照明に照らされた廊下に、黒い扉が一つ。迷いなく足をすすめたウェイターは、一呼吸おいてノックする。

「オーナー。雪さんが見舞いに来てくれたっす!!」

 間もなく向こう側から鍵の外れた音がする。少しだけ開いた扉の隙間から、こちらを覗いた華藍の姿を見て言葉が出なくなる。セットしていない髪の毛とワイシャツ姿は、まるで帰宅直後のような疲弊感だ。

「あ、あの。調子、どうですか?」
「ありあとうございます……ご心配をおかけしました」

 僕の問いに答えたのは、弱弱しい声だった。華藍が眉間にしわを寄せたのを見て、僕は思わず一歩足を出した。

「あのっ! 部屋でお話していいですか?」
「雪さん?」

 身を乗り出した僕に驚いたのか、華藍の身体はビクリと動く。

「ごめんなさい勝手に……その、苦しそうだから」

 どんな顔でそう言ったか分からない。俯いていると、ゆっくりと扉が開いた。

「……ありがとう」

 もう一度お礼を言った華藍が、向こう側に現れる。クラブ内で見ていた優雅な姿の面影もなく、どこかやつれている。金髪のウェイターは僕たち二人を見て「お任せするっす」と言い残し階段を下りて行った。


 ビルの構造のせいで、あんなにうるさいクラブの音楽も、二階にはくぐもって殆ど聞こえてこない。それがやけに静かに感じて、僕は不安になる。

「入ってもいいですか? お、お酒とか飲みながら話します?」
「すみません。体調が悪くて……とりあえず、どうぞ」
「そうでしたよね! ごめんなさい。おじゃまします」

 事務所として二階一面を使用しているようで、入ってみると大きな部屋だった。扉の先は玄関になっていて、僕は靴を脱いで横の棚におく。広い部屋は、照明から絨毯まで黒で揃えられている。どれも見事な家具なのが見て取れて、まるで豪華なホテルの一室のようだ。

「こんなに、広かったんですね」
「ええ。一階のホールと同じくらいですからね。あ、コーヒーでいいですか?」
「お構いなく……」

 静かに案内された先のソファーに腰かけると、華藍が慣れた動作でキッチンにあるコーヒーメーカーを操作した。

「殆どここで生活しているようなもので。汚くてすみません」
「そんなことないです! 素敵な家具ばかりですし、部屋だって綺麗で……僕の家とは全然違いますし」

 テーブルに置かれた二人分のマグカップに視線を落とす。

「……あの、ほんとに華藍さんにはごめんなさいという事ばかりで……この間のお礼もせず、すみません」
「いえ、あの日は大丈夫でしたか? 私も不用意な威圧を出してしまって、驚かせてしまいました」
「そんなことないです。急なGlareで固まっちゃうのは、全然よくあるんで」

 マグカップを両手に持ってゆっくり飲みこむと、ほろ苦い味の後にとてもいい香りがした。

「その前も、急にKneelしてしまって。だけど、ラグマット追加してもらって嬉しかったです。ウェイターさんから、少しだけ華藍さんの事聞いたんです。パートナーの方を大切にされていると聞いて。本当に申し訳ないことをしてしまいました」
「……お気になさらず。ロアはちょっとお喋りなので」
「あっ、ロアさんって言うんですね。金髪で若い感じの……なんか子犬っぽくて、声かけてもらって僕が助かりましたよ」

 聞いていた華藍は、クスリと笑いながらコーヒーを一口飲んだ。

「よ、よかった。笑ってくれて……」
「雪さん……?」
「あっ! すみませんっ」

 彼の黒い瞳がじっと僕を見ていて、顔が熱い。

「えとその、今日は僕が、華藍さんを助けられるかなって」
「……どうしてそこまで考えてくるのですか?」
「始めて会った時から……気になると言うか。体調不良もPlay不足だったりしないかなと思って。そんな大したことできないですけど! 一応わかるつもりだし、わ、割とPlayはなんでも、いけるから……」

 最後の方は勢いで言い切った。廊下では聞こえていた音楽もここまでは届かず、時計の音が聞こえた。華藍は僕の方をじっと見て、やがて目を伏せる。

「……不思議ですね。私も、雪さんの事になるとこんなに考え込んでしまって」
「え?」
「Glareばかり出して、貴方に嫌われてしまわないか不安で……それに、別のDonが隣に居る事が許せなくて」
「……っ」

 下を向いて話していた華藍は、組んでいた手に力を込めていた。

「近くに座ってもいいですか?」
「もちろん……」

 ギシ、とソファーが鳴った。立ち上がった華藍が僕の隣に座ると、細長い指先でゆっくり僕の前髪を撫でる。

「……少しだけ、懐かしいです」
「っ……!!」

 囁かれて耳元がくすぐったい。急に心臓が口から出てしまいそうなくらい動いて、思わず口をつぐんでいる間に、震える肩にしなやかな指が触れた。

 僕は視界いっぱいに華藍を見た。彼の瞳には自分の影が映っている。徐々に近づく顔に息を呑みこみながら目を閉じると、ふわりと甘い香りが漂った気がした。

「あっ……んっ」
「……っふ」

 僕たちの唇は重なり、離れていく。

「私を許してくれますか?」
「貴方は……なにも、してないから」
「……雪さん、セーフワードは?」
「っ!」

 漏れる吐息を抑えて「パートナー」と呟いた。



「なるべく、抑えます」

 そう言いながら、僕の腰を引き寄せた華藍は息を吐いた。僕は緊張の中で首を振った。

「それじゃ、治んないから……」
「……っ。ベッドへ行きましょう」

 華藍の強い視線に無言で頷く。僕は肩を支えるように抱きしめられて、そのまま部屋の奥にある寝室へ向かった。

「んんっ……ふ、あ……ちょ、キス上手いっ」
「……ふ、雪さん、顔が赤くなって……可愛い」
「雪って呼んで。あっ」

 僕の熱い目元を、ぺろりと湿った舌が舐める。

「……雪。Roll」

 薄暗い室内のベッドへ倒れるように身体を投げると、上から華藍が見下ろしてくる。その姿にゾクゾクと背中が震えた僕は、自分の洋服をまくらせていた。露になる肌を見せつけるように、身体を反らせてみれば僕の湿った腹筋の上にしなやかな手が乗る。

「Good boy」
「ああっ」

 僕は目を閉じ、脳みそが震えるような嬉しさに浸っていく。

「癒されます」
「んっ」

 腹筋をツっと指先でなぞられ、そのまま洋服が上も下も脱げていく。

「っ。触って……後ろも。いけるから……」

 僕は華藍の手を掴み下半身に導く。ぴくりと動いた腕が、そのまま僕のペニスをやんわりと握り込んだ。華藍は僕をじっと見ながら、長い指で形を確かめている。

「初めての人にここまで晒してしまうのですか?」
「っ?!」

 その指は繊細な動きでペニスの上を滑る。

「っあ?! な、なにっ?!」
「どう? 気持ちいいですか」
「だって、あっ、ん。な……!!」

 固定された足の間に華藍が座り、熱を持ったものを擦られると脳が沸騰していく。

「優しくされるのに弱いです?」
「っ?! 知らないっ、こんな……っあ!」

 水音を立てながら、華藍が目を細めた。刺激されっぱなしのペニスは、眠りからたたき起こされたかのようにバチンと大きく跳ねて、先端からカウパーを滴らせる。手の動きは容赦なく、あっという間に限界が近づく。

「嘘っ。も、出そう……っあ」
「いいですよ、自分のタイミングで出して。足は開いて、全部見せてくださいね」
「っ、Command欲しいっ、あ、あああっ、も、どうしてっ……いつもはっ、こんな、簡単に、イかないのにっ」

 亀頭部分を細かく弄られ、時々爪の先でくすぐられると腹筋に力が入る。首を振って快感をどうにか流そうとするが、密着した華藍の手がそれを許してくれない。頭は、一つの単語を待ちわびている。

「あっ、お願い。Commandでイかせてっ……!」

 叫びながらペニスを扱く華藍を見つめた。奉仕が足りないのかもと、自分で太ももを持ち上げて腰を突き出す。そこにようやく、彼の声が聞こえた。

「Cum」
「?! あ、あああっ」

 弓なりに身体が反る。数秒置いて、ペニスから勢い良く飛んだ白い精液が顔にかかった。がくりと身体から力が抜け、情けないガニ股姿を晒す。

「……っあ。なんか……僕」

 荒い息に胸を上下させながら、びくびくと痙攣する。僕の上でほほ笑んでいた華藍が屈み、抱きしめられながらじんわりと濡れた首筋を暖かい舌で舐められる。それだけで、また下半身がずくんと脈打った。接近した耳元に、華藍の色っぽい声が聞こえてくる。

「Good boy. 上手にイけましたね。たっぷりご褒美あげないと……溜まってたんですか? まだ硬い」
「んあ、そんな握ったら、またすぐ……」

 出したばかりの敏感な先っぽをつつかれ、腰が浮く。

「Subがトロトロになっていくのはたまらないですね」
「っ、そんな……されたらっ、ちんこ壊れるって……ひあっ?! ま、まっへ……ふわふわ、する……。まじでっ、だめっ。さっきより。気持ちいい……っ」

 再び華藍の手が僕のペニスを擦りあげれば、一度目の余韻ですぐに反応してしまう。ぬちゅり、と粘着質な音をたてながら一度目の射精が助けになって、擦る動きはよくなった。一度達した身体が微細な刺激に耐えられる訳もなく、びくびくと痙攣した身体はあっけなく二度目の射精を迎える。

「とっても、いい子」
「っはーっ、はっ……い、いい子……」

 糸が切れたようにベッドに倒れた僕を眺める華藍は、濡れた自分の手を舐めている。

「急でしたし、ここまでにしましょうか」
「えっ……ん。いいけど……あ、まって。おしっこ……でそう」
「気が抜けちゃいました? ここでしていいですよ」
「っふ……あ。だめっ」

 よく分からないまま否定の言葉が出る。しかし、華藍の手のひらはゆっくりと僕の腹筋の上に添えられて、軽い力で押し込んだ。

「っ、あ。ほんとにでちゃ……」
「ふふ、いいんですよ。甘えられるのは好きですから」

 僕に降ってきた優しい声に思わず目を細める。そして僕は両足を持ち上げ、大股で放尿し始めたのだった。





 目が覚めると、見慣れない黒色の天井があった。暖色系のルームライトに照らされた寝室のベッドには僕一人が寝ていた。綺麗に整えられたシーツは肌触りが心地よくて、何事もなかったように暖かい。

「……夢?」

 寝返りを打ち、ぼーっと壁を見ながら目をこする。

「って、ここ華藍さんの寝室だよね……!」

 勢いよく身体を起こすと全裸だ。そっと寝室から広い部屋のほうへ顔を覗かせると、ソファーに座っている華藍の横顔が見えた。そして、その向こうにある窓の外はすっかり早朝の色をしている。

「えっと、おはようございます……」
「あ、おはようございます」

 立ち上がった華藍は下着姿だった。白いシャツの下に細身の綺麗な筋肉が見えて、ごくりと喉が鳴る。

「あの、まさか僕って気絶しました?」
「放尿した後にガックリと。よく眠っていましたよ」
「……っ!! ワスレテクダサイ!!!」

 胸を抑えて屈みながら込むと、慌てて駆け寄ってきた華藍に背中をさすられる。

「だ、大丈夫ですか。こちらとしてはご馳走様でしたから」
「っ……ごめんなさいっ。あれはっ。あんなのは今までやったことないし趣味じゃないんで!! なんか、あの時は頭がふわふわして……」
「ふふ、かわいい子ですね」
「……!」

 ぎゅっと抱きしめられたかと思うと、頭にキスが落ちる。

「とりあえず、着れるものを探しますね。ベッドと身体は綺麗にしたのですが、洋服はまだ洗濯中なので」
「っ、わざわざそんな……」
「気にせず。お水は冷蔵庫にペットボトルがあるので、適当にくつろいでください」

 触れた肌はなぜかいい香りがする。華藍の体温に甘えていると、そのうち離れて行ってしまった彼は僕に背を向けて、クローゼットを開け始めた。

「そう言えば、スマホが鳴ってましたよ」
「えっ。あ……」

 ソファー近くのローテーブルに放置していたスマートフォンを手に取ると、画面には良男からの電話とメッセージが来ていた。内容は、久しぶりだけど飲まないか。というものだったが、僕はその文面を見ただけで画面を消した。

「あ、これこれ。サイズ違いを貰ったまま置いててよかった」
「わっ」

 華藍はクローゼットから紙袋を取り出すと、僕の前に差し出した。受け取ってみると、ブランドロゴの入った紙袋の中に洋服が入っている。

「え、こんな……着れないです」
「ここに裸でいてくれるということですか?」
「……っ、とりあえず着ますっ」

 熱くなった顔を横に振って、僕は紙袋を握りしめる。中にはスウェットが入っていたので、ありがたく着用する。大きめの白い服は、着るとワンピース姿のように見えてしまった。そんな僕を見ながら、華藍が自分の顎を撫でた。

「うーん、彼シャツ感が」
「ちょっ、ダメですよ。とりあえず洋服はありがとうございます……」
「ふふ。身体は大丈夫ですか?」
「はい……おかげさまで。でも、大事なのは華藍さんなんで。昨日は、余裕なくて確かめられなかったけど……」

 スウェットの裾をぎゅっと握りしめて彼を見る。

「Playのおかげで、かなり身体が軽くなりました。結構相性がいいのかもしれませんね」

 笑顔を向けられるが、耐えられず顔を反らす。華藍は空いた紙袋を片付けるとソファーに座った。

「雪、Come」
「ん」

 声色で甘えられてるんだな、と感じると自然に笑みがこぼれた。華藍を追いかけるようにソファーに座ると、僕は彼の胸に飛び込む。バランスを崩さない華藍の腕に掴まると、抱き寄せられ額にキスされた。

「Good boy」

 そのまま力を抜いて身体を預ける。華藍は僕の身体を横にして、膝に頭を乗せた。急な膝枕というやつに目を丸くしつつ、上向きにソファーに寝転がる。しなやかな指先が僕の首筋をなぞって、まるで動物を撫でるように首を柔く掻いた。

「くすぐったい……」
「……雪は、Collar付けないんですか?」
「あっ。えと」

 見上げると、どこか寂しげな華藍の瞳が僕をじっと見ている。

「ん、別に。今までいい人が居なくて」
「そうなんですか。こんなにいい子なのに」
「うう……」

 僕は噓をついた。Collarを貰えば、その人が僕のDomになる。特定の人とずっと付き合うなんて、なんだか大変だと思っていただけだ。

 だけど、頭の中は別の事で一杯になった。膝枕のまま、視線を曖昧にさせながら僕は呟いた。

「華藍さんからなら欲しい……だから寂しそうな顔しないで。悲しくなるから」

 ぎゅっと彼のシャツを握ると、僕の額に暖かい手のひらが触れた。

「そんな風に見えましたか。ただ、雪を見ていただけですよ」
「ん、そう? じゃあ気にしないけど……」
「ふふ。まだ朝早いですし、もう少しゆっくりしましょうかね」
「……ん」

 頭を撫でられていると、段々瞼が落ちていく。

「華藍さんと一緒にどこか遊びに行きたい」
「……私と?」
「植物園とか似合いそう」
「いいですね。休みが取れたら行きましょうか」
「ほんと? 僕も予定空けますからね。ぜったいですよ」
「はい」

 だらんとしていた片手を動かして華藍の手を握る。伸ばしたお互いの小指が鎖のように交差した。意識が落ちる前に、僕はなんとか口を開いた。

「約束」



 ___




 自宅アパートに帰る頃にはそれから三日も過ぎていた。華藍の事務所で洗濯された洋服からは知らない香りがする。僕は帰宅してすぐスマートフォンを取り出し、華藍へ無事に帰ったと連絡した。

「っ、やば。もう会いたいんだけど」

 メッセージを送信すると同時に、快く連絡先を交換してくれた彼を思い出してにやける。そのままスマホを触っていると突然電話がかかってきたので、僕は反射で通話ボタンを押してしまった。

「えっもしもし?!」
 ”お、ゆき~。やっと連絡とれた”
「なんだ……良男よしおか」

 スマホを持ち直して敷きっぱなしの布団に座る。電話の向こうでは久しぶりの声がした。

 ”なんだとはなんだよ。最近どーしてんのかと思って連絡してやったのにさー。返事返せよな”
「ごめんごめん。忙しくてさ」
 ”噓つけ。どうせチンコでかい男でも見つけたんだろ”

 馬鹿にするような声にむっと口をつぐむ。

 ”まあいいんだけどさ。それより、俺の奢りで久しぶりに飲まねー? また最近いいクラブみつけたんだよ。DomSub用のプレイルームもあるし色々遊べるぜ”
「えっ……でも。CLUB HONEYがあるし」
 ”あー、あそこも良かったけど。ずっと同じとこだと飽きるじゃん。んで、来るだろ?”

 習慣で”行くよ”と言いかけた僕は止まる。

「……そう。うーん、僕はいいや。なんか気分乗らない」

 言うと、電話の向こうが静かになって良男がため息をついた。

 ”どうしたんだよ、テンション低くね? なんかつまんねーんだけど”

 不機嫌な声を聞きながら、僕は考えていた。確かに、今まですぐに遊びに行った気がする。自分でもこんなに態度が変わってしまうのかと、戸惑いもある。

「そうかもね。僕、つまんなくなっちゃったのかも。だからごめん、もう連絡するのやめる。声かけてくれてありがとうね。一緒に居て楽しかったよ」

 華藍のような優しい声で言ってみる。

 ”は? マジで言ってんの? いっつもわかった~っつって来てたじゃん”
「……もう何回聞いても断ると思う」
 ”なんだよそれ。また寂しいって連絡してきても知らねーからな!”
「うん……」

 数回のやり取りの後、ようやく話は終わった。電話を切る間際に向こうから小さく舌打ちが聞こえた。

「……どうしちゃったんだろ。僕」

 切れた電話をそのままにして、布団に転がる。だけど気分はそこまで悪くない。目を閉じて深呼吸すると洋服の柔軟剤が香った。



 ___




 季節の変わり目、どの場所にも冷房がつきはじめた頃。予定を合わせて僕と華藍は出かけた。電車を乗り継いで数時間、到着した駅を出ですぐに広がった青空に、思わず僕は声を出した。

「わー! 海もみえますよ」

 約束通り、2人で海の近くにある植物園へやって来た。潮風を感じながら振り返ると、晴れた空と緑色の木々に囲まれて歩く彼がいる。

「綺麗な場所ですね」
「うん。今日の華藍からんさん、撮影みたいで似合ってるよ。モデルみたい」

 僕の後ろをついてくる華藍は、ジーパンとTシャツにサングラスをかけている。ラフな格好だが、腰の位置が高いので様になっている。僕はちょっとだけ嫉妬しながら、ほぼスーツ姿しか見てなかったので新鮮に思った。

ゆきのパーカーは、お気に入りなんですね。初めて会った日もそれを着ていた気がします」
「えっ。そうだけど。すごい、覚えてたんだ……」
「まあ、そんな事は置いておいて。さ、行きましょう」

 髪を風に揺らす華藍と手を繋ぐ。隣接する公園をゆっくりと歩いて、やがて植物園に入る。外より暑くないが、熱帯の植物を育てているらしい温室の中はほんのり暖かい。

「天井、めちゃ高い!」

 真上にあるドーム状の天井を見上げながら進む。

「わ、すごい大きい葉っぱ! 旅人の木だって。華藍さんみて!!」
「見えてますよ。雪、走っちゃだめです」
「えーっ……あ、こっちは何だろ。これ花かな?草?」

 深い緑の草木に囲まれた細い道を進んでいく。

「雪、ちょっとstop. 少し混んでるから危ないですよ」
「あ……ごめん」

 少し離れた所からの声も僕の耳は逃さなかった。動きを止めると、後ろから追いついた華藍に、申し訳なく呟いた。

「ごめ。僕、はしゃぎすぎた……そう言えばデートだし」
「Good boy. 手、また繋いでおきましょうね」

 頷く僕の手を、華藍がそっと握る。

「順路が終ったところにカフェがあるみたいです。寄ってみましょうか」
「ん、行く!」

 レンガ道の終わりにある自動ドアを抜けた先はロビーだった。すぐにカフェの看板を見つけ、その方向へ歩いていく。広いカフェは植物園の木々が見える大きな窓の前に、白いテーブルがいくつも並んでいた。

「華藍さん、コーヒー飲みましょ。あと、僕カレーが食べたい。なんかお腹すいちゃった」
「いいですね」

 白い椅子に座る僕たちはメニューを開いた。

「おや、自家製ハーブのジェラートがあるらしいです。雪もどうですか?」
「うーん、ちょっと不味そうじゃない?」
「まあまあ。思い出に注文してみましょう」

 僕は眉を寄せたけど、華藍が楽しそうなので黙った。簡単に注文を済ませてもらい、僕たちはカフェの席に落ち着く。

 タイミングを伺いながら、僕はもぞもぞと自分の鞄を漁る。何も言わず不思議そうに見ていた華藍の前に、ぱっと掴んだものを取り出した。

「じゃん! 実はプレゼントがありますっ」
「えっ、そんな……いいのに」
「へへーん。この前の洋服、結局貰っちゃったお返しです」

 僕は用意したラッピングを誇らしげに渡す。

「ありがとうございます。開けてもいいですか?」
「もちろん! 早く見てください!」

 僕のプレゼントを両手で受け取った華藍は、リボンを解いていく。

「……ネクタイを選んでくれたんですね。よく使うので助かります」
「へへ。華藍さん、いつもクラブではスーツだからこういうのいいかな~って」
「ふふ、アニマル柄で可愛いです。今度つけます」
「うっ。早く見たいかも……」

 悶える僕の反対側で、華藍はプレゼントを包み直すと優しく鞄にしまった。

「雪、実は私からもプレゼントがあるんです」
「えっ?! あっ、すいません大きい声出して……他の席に人いるんだった」

 苦笑いしながら、目を覚ますように僕は顔を振る。

「今日、無理に受け取らなくてもいいので」

 華藍はそんな言葉と共に、小箱を鞄から取り出す。

「……首輪?」

 白いテーブルの上でそれを開けると、中には人間用の首輪があった。黒色で革製、おしゃれな細いデザインで、中央に丸い銀の輪が付いている。

「えっ、でも。だってCollarなんて、恋人に贈るやつじゃ……」
「まだ、重すぎますかね」

 しばらくの間、僕は首輪を見たまま固まっていた気がする。

「僕でいいの?」
「……もちろん」

 その返事を聞いて、頬に熱い涙が一粒落ちていた。

「……付けてほしいですって言ったら、図々しいですか」
「ふふ。もっと頭を上げて」

 泣きそうになるのを堪えるように、冗談っぽく話した。華藍は承諾して、箱から首輪を取り出してベルトを外している。僕がゆっくり顎を持ち上げると、首に程よい重さが巻きついていく。

「よく似合ってる」

 金具で留まった首輪をなぞりながら、華藍は頷いた。

「っ、華藍さん。僕、嬉しくてどうしたらいいか分からないや」

 にこり、と顔を緩めた華藍が僕の頭を撫でた。軽く首輪の金具が揺れると、身体のてっぺんからつま先まで鳥肌が立った。暖かい手のひらに頭を擦り付け、温もりに触れる。

「んう……きもちい」
「ふふ。雪、少しだけいいですか?」

 すっと頭から手を離した華藍は、自分のスマートフォンを操作して一枚の写真を表示した。僕が覗き込むと、ツーショット写真が写っている。背景は海だろうか、華藍の隣に笑顔で映る男性がいた。彼も華藍に負けず美しい顔をしていて、切れ長の眉毛が凛とした印象だった。

「……綺麗な人。この人が華藍さんのパートナー?」
「ええ。当時は人目を惹いたものです。なんとなく、雪にも見てもらいたくて」

 華藍は目を伏せながらスマートフォンの画面を消す。

「いつか戻って来るのを待っていた気がします。だけど彼は行ってしまいました」
「……」
「なんだか雪の目は、ちょっと似てるかもしれません」
「……そっか」

 少し上に視線を向けると、華藍の真面目な顔が見えた。

「華藍さん。僕、一番のいい子には選ばれないかもしれませんけど、変わりとかじゃなくていいんで、もしよかったら……

 どんな時も、隣に居たいです」


 微笑んだ華藍の瞳に、もう寂しさは見えない。




 その日食べたハーブのジェラートは、意外と美味しかった。





 fin.
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