鄧禹

橘誠治

文字の大きさ
79 / 81
第四章 洛陽編

光武帝

しおりを挟む
 そしてついにこのときが来た。
 封禅の儀をおこなったその次の年、劉秀が病にせったのだ。年齢からいっても死病であろうことは誰もが察せられた。


 鄧禹もその一人であり、それを誰よりも望まず、そして誰よりも劉秀の心情を感得していた人物かもしれない。
 劉秀は自分の為すべきことをすべて終えたと感じているのだ。
 戦乱に傷つき、病み衰えた国土を、劉秀は適正な政で快復させてきた。
 それが一定の成果を見せたからこそ鄧禹たちは封禅を勧めたのだが、そのことが返って劉秀に満足を与えてしまったのかもしれない。
「だとすれば我らは救いがたい不忠の臣よ…」
 鄧禹はそうも考えるが、同時にどこか安堵の想いもあった。臣下として許されないことだが、ようやく劉秀自身が休憩を与えられる。そんな気がしたのである。


 一日、鄧禹は劉秀に呼び出された。
「見舞いにも来ぬとは薄情なやつめ」
 しょう(寝台)に横たわる劉秀が笑いながら鄧禹にかけた言葉は当然諧謔かいぎゃくである。
 公務でもないのに皇帝を尋ねるなど、臣下の身で許されることではない。そうでなければ鄧禹は毎日でも劉秀を訪ねていただろう。
 劉秀が鄧禹や他の臣下を呼びつけなかったのは、彼らが激務の中にあるとわかっていたからである。もともとの重責に加え、自分が臥せってしまった以上、すべきことはさらに増えてしまっているに違いないのだから。
 それが理解できる明晰さを失っていない劉秀が自分を呼んだ意味。そのことを思うと鄧禹には皇帝の諧謔にすら恐れを覚えていた。


「申し訳ございませぬ…」
「まあ構わぬ」
 それだけを告げた後、二人はしばし黙った。語ろうと思えばいくらでも語り合えることがある。それはどれだけ時間があっても足りないもので、だがその時間がもう劉秀にはない。それゆえ何も話せなかったのだ。
「…荘を頼む。おぬしは朕より少しばかり若いゆえ、まだあれのそばにいられよう。たすけてやってくれ」
 荘――劉荘は劉秀の息子で皇太子である。当然、劉秀の死後は皇帝になる。
「御意にございます。非才の身なれど全力で…」
「おぬしに才がないならこの世に才ある者など一人もいなくなってしまうわ」
 力なく劉秀が笑うことに、鄧禹は長安で初めて彼と会った頃を想起していた。
 劉秀は鄧禹には見極められないものを持っていた。それが何だったのか、当時はわからなかったが、今はわかる。それは鄧禹だけでなく、漢に生きる者すべてが理解していることだった。


「…陛下、感謝いたします。陛下のご功業の末端にでも関われたこと、生涯の誉にございます」
「おぬしはもう一度最初から学問をしなおした方がよさそうだな。中心と末端を間違えるようではどうしようもない」
 万感の想いをこめての鄧禹の感謝を笑って受け容れる劉秀も、やはり出逢った頃を思い出していたのだろう。学問などという単語が出てきたことがそれを感じさせる。それゆえか、劉秀は語を継いだ。
「…おぬしがぎょうに現れてくれたこと。あれが天命をつかむ契機だったと今なら理解できる。朕こそ礼を言わねばな。ありがとう、仲華」
 更始帝の命令で河北を転戦していたとき、駐屯していた鄴に鄧禹は現れた。そして劉秀にとっての天命は天下を得ること。鄧禹が仕えてくれたからこそ天下を取ることができた。劉秀はそう言っているのである。
 そしてそれが理解できない鄧禹ではなかった。
「陛下…」
 才あることを証明し続けてきた鄧禹にして、このときこの場ではこれ以上何も言えず、ただ落涙するのみだった。


 建武中元二年(西暦57)二月五日。
 劉秀は崩御した。享年六十三。
 廟号びょうごうは世祖。
 諡号しごうから歴史上光武帝こうぶていと称される、後漢ごかん王朝初代皇帝である。
 中興にして創業。名将にして名君。大器にして温柔。
 加えて文才においても歴史に名を遺す、五千年を誇る中国史上でも他に類を見ない、独得ユニークで、優秀や有能という言葉では表現しきれない叡智や器量を持つ皇帝であった。 

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

17歳男子高生と32歳主婦の境界線

MisakiNonagase
恋愛
32歳主婦のカレンはインスタグラムで20歳大学生の晴人と知り合う。親密な関係となった3度目のデートのときに、晴人が実は17歳の高校2年生だと知る。 カレンと晴人はその後、どうなる?

熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)

MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~

bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

『続・聖パラダイス病院』

菊池昭仁
現代文学
『聖パラダイス病院』の続編です。こんな病院なら入院生活も悪くはありません。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

処理中です...