大人への門

相良武有

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第七話 陽炎揺れて

⑥「私、自首するわ」

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 翌日、真夏の太陽が照りつける草叢の中で、裕次と洋子は仰向けにひっくり返って空を見上げていた。風が草を鳴らして吹き抜けて行く。空へ向けている洋子の瞠った瞳を裕次は黙って凝視していた。
「何見ているの?」
「眼だよ、眼。君の眼だよ」
洋子は眼を空へ向けたままで居る。
「見れば見るほど瞳の奥が澄んでいる、黒と白のはっきりした眼・・・さざ波のようだよ」
「さざ波?」
「ああ。瞬きする度に、何と言うか、朝露をたっぷり含んだ苔のように光りながら潤んでいるその眼・・・」
洋子が真直ぐに裕次を見つめた。裕次もじい~っと見返し、二人は暫く見つめ合った。
と、矢庭に、洋子が裕次の肩に腕を回して彼をかき抱いた。
「あなたの眼も綺麗に澄んでいるわ。眼は正直ね」
二人は熱く唇を重ね合った。
激しくも優しい互いの全てを包み込むような抱擁が終わった後、裕次が静かに諭すように言った。
「此処に居てももう危ない。いつ何時、警察が来るかも知れん。安心して匿ってやれる処も無い。だから、早く逃げてくれ。これが、最後に俺が君にしてやれるせめてものことや。五十万円持って来ている。それで当座を凌いで元気になったら速く逃げてくれ。な、解ってくれるよな」
「お金は要らないわ。お金なら腐るほど有るわ」
「そんな金は所詮、全額返さなきゃならん悪銭だろう・・・最後の逃走資金は俺の綺麗な金を使って欲しいんだよ」
洋子は裕次の胸に顔を埋めてすすり泣いた。
 暫くして顔を上げた洋子が裕次の眼をじっと見つめて言った。
「もう逃げるのには疲れたわ。自首するわ、私」
「えっ?」
突然の思いも寄らぬ洋子の言葉に裕次は直ぐに言葉が継げなかった。
「私は六カ月以上もの間、誰からも隠れて逃げ廻って来たの。男と約束した最初の一カ月だけは一所に潜んでいたけど、男に裏切られ捨てられたと悟ったその後は、九州から四国、中国、近畿と渡り歩いて最後にあなたの処に来た。その間、三日と同じ所に居なかったし、一時たりとも気の休まることは無かった。いつも、いつ警察に捉まるかと、不安と恐怖に慄いていたわ」
洋子は辛く苦しい思いを一気に吐き出すかのように言葉を迸らせて、大きく息を吸い込んだ。裕次は何も言えずじっと洋子の顔を見やって次の言葉を待った。
「でも、この一月足らずの間、あなたや会長や豊子さんや、此処の女将の美紗子さん等に何の蟠りも無くほんとうに親身に接して貰って、私の心は次第に解けて来たの。漸く人間らしい思いと感情を取り戻して来たのよ。この一度蘇った安らかな心の思いはもう二度と手放したくない。あの逃げ惑う地獄の日々はもう懲り懲りだわ。私、今までの自分と人生の全てを精算して、もう一度、一から生き直したいと思っているの。だから、自首することにする。ねえ、解ってくれるわね、私の真実の気持を・・・」
「然し、本当にそれで良いのか?後悔はしないか?」
「後悔するもしないも、何もかもリセットしないと私の人生は取り戻せないと思うの」
「そうか、君がそうまで考えているのなら・・・」
裕次にはもう何も言う言葉は無かった。
「でも私、今、自首することが物凄く怖くて、警察の前まで行って引き返してしまうんじゃないかと不安で一杯なの」
「解かった。俺が一緒に出頭してやるよ」
「駄目よ。そんなことをしたらあなたや会長を初め誰もが皆、犯人隠匿の罪で捉まっちゃう。それだけは絶対に出来ないわ」
「じゃ、警察の前までなら良いだろう、な」
洋子は暫く思案したが、安堵するように首を垂れた。
「うん、有難う」
 京都府警宮津警察署の玄関前で二人は暫し黙って眼と眼を見交わし合った。無量の感が込み上げて来て言葉が出なかった。洋子の眼から見る間に涙が溢れ出た。その涙を拭おうともせず、裕次を凝視しながら、嗚咽しつつ、洋子が切れ切れに言った。
「裕次さん、ほんとうに有難う・・・あなたのことは・・・一生・・・忘れません・・・真実に・・・」
それから、思いを吹っ切るようにくるりと背中を向けて署の中へ消えて行った。
裕次はその後姿を見送りながら、心の中で洋子に呼びかけていた。
君が綺麗な躰になって戻って来るのを、俺は待っているからな・・・
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