大人への門

相良武有

文字の大きさ
3 / 67
第十話 永遠の愛

③美恵、恋人の下条忠と諍う

しおりを挟む
 或る日の夜、中本興治はバー「スイート・ハート」で若いカップルの諍っている様子をかれこれもう一時間もじっと眺めて居た。女の方はあの上野美恵で、先刻からかなり昂ぶった様子で激しく喋り続けている。相手の男は拗ねたような表情と、彼女を無視したような仕草と、人を責め立てるような細い眼をして座っていた。二人ともお互いに吐き合った辛辣な言葉の数々に自分自身を一層がんじがらめにしてしまったのか、まるで周囲の人間やその視線などには全く気付いていない様子だった。
男は眼を上げると、食い縛った歯の間から何やらボソボソと呟いてから、トイレの方へ歩いて行った。残された美恵は絶望に顔を歪め、じっと座ったままで其処に居た。
 その時、興治は徐に立ち上がって、美恵に話し掛けた。
「何処か、店を変えて、呑み直そうか?」
美恵は顔を上げて興治を見詰め、その垂れた前髪までがキチンと整えられたヘアースタイルときりりとネクタイを結んだ三つ揃いの背広姿を素早く観察した。
「わたし、全然知らない人とは飲みに行ったりしないわ」
「それは冷たい言い方だね。三月の雪の降る晩に此処で逢って話しただろう、君の姉さんと俺の友達と、五人で、さ」
美恵はもう一度、興治を繁々と見やって、漸く思い出したように言った。
「ああ、あなた、あの時の・・・」
「やっと思い出してくれたか・・・別に怪しい者じゃ無いよ、俺はこういう者だ」
興治はそう言いながら、内ポケットの名刺入れから名刺を一枚抜き取って、美恵の前に差出した。
彼は誰もが知る有名な大企業の営業部員だった。美恵の顔に安堵の表情が浮かんだ。
「君がどうやら少し困っているようだから、河岸を変えた方が良いんじゃないかと思ってさ。俺は君のような可愛い女性が困っているのを素知らぬ顔で黙って見過ごす訳には行かないんだよ」
興治が美恵の澄んだ黒い眼とシミ一つ無い滑らかな肌と、量感のある唇と栗色の巻き毛の髪を、ひとつひとつ確かめている間に、美恵の方も興治を隈なく観察した。
「良いわ」
美恵は先刻の男が戻って来ないのを確かめてから、そう言って、カウンターに置いたハンドバッグを手に取った。
「さ、行きましょう」
 その男、下条忠がカウンターに戻った時には、美恵と興治は既にタクシーに乗り込み、四条通りを木屋町に向かって鴨川の橋を渡っている最中だった。
「君は大学の修士課程で経営学を専攻しているんだったね。で、幾つなの、歳は?」
「二十三歳よ、来年の春には大学院も修了だわ」
「住まいはこの近くだって言っていたよな?」
「ええ、川端四条を少し上った処のマンションよ」
「なるほど、それは近いや。で、先ほどの彼は君の恋人なのか?」
「そうね、交際って一年ほどになるかしら。彼は文学部の修士課程で仏文学をやっているわ。百万遍の学生会館でルームメイトと暮らしているのよ」
「文学者の卵って訳か、なるほど・・・」
 話している間に車は西木屋町の高瀬川畔にあるバー「ワインリバー」の前に到着した。
二人は混み合っているカウンター席を避けて奥のボックスシートに背を凭せかけるように並んで深く腰かけた。ミニの裾から伸びた美恵の脚は太からず細からず、白くて艶やかだった。興治は少し欲情を催した。
それから水割りとマティーニ―を注文した後、二人は再び話の続きを始めた。
「で、喧嘩の原因は、彼の焼き餅ってところかな?」
「焼き餅どころじゃないわ」
「図星、当りかよ?」
「もっと悪いのよ!」
美恵が続けた。
「わたしが買い物に出れば、店に良い男が居るんじゃないか、って騒ぎ立てるし、テストで“優秀”を取ると教授と寝たんじゃないかと疑う。徳島の実家へ帰れば、昔のボーイフレンドと怪しいと思う。そういう男なのよ、彼は。夜の十二時や朝の六時に電話を架けて来ては、私がちゃんとマンションに帰っているかどうかを確かめるんだから・・・どう?信じられる?」
「それは酷いね」
「全くよ、真実に酷いでしょう」
 興治が美恵をマンションの近くまで送り届けると、入口の近辺に下条忠が立って居るのが見えた。二人は裏口へ廻り、美恵は足音を立てずに非常階段を登って部屋へ帰って行った。別れ際に興治は美恵の電話番号を教えて貰った。
下条忠は興治に気付かなかった。興治が自分の恋人をマンションまで送り届けたことなど全く知る由もなった。彼は其処に立ったまま、美恵の帰りを待つ心算なのであった。
興治は川端四条の角まで歩いてタクシーを拾った。彼は入口で待ち続ける男のことを哀れんだ。ほんのガキなんだなぁ、未だ。可哀相なガキだよ、全く・・・。 
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

旧校舎の地下室

守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。

ビキニに恋した男

廣瀬純七
SF
ビキニを着たい男がビキニが似合う女性の体になる話

処理中です...