何もかも全て諦めてしまったラスボス予定の悪役令息は、死に場所を探していた傭兵に居場所を与えてしまった件について

桜塚あお華

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第01話

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 雨の音が、屋敷の古い壁に静かに打ちつけている。
 どこかで壊れかけた雨樋が水をこぼしているのだろうか、ぽた、ぽたと一定のリズムで水音が響きハイデン・はその音をただ耳に流していた。
 部屋の中は暗い。カーテンは閉じられ、蝋燭はもう数日前に使い切ったまま。だが、不便ではなく、そもそも誰も訪れないこの部屋で時間は意味を持たない。

 この世界は物語と言って良いのだろうか――既に決められた運命が待っていると言う事を考えると、考えるだけで恐ろしい。

 それを知っていたのは、彼が――【カノ アキヤ】だった頃の記憶を持っていたからだ。

 高校生の頃、彼は乙女ゲーム『月下の誓い』をプレイしていた。妹に勧められて軽い気持ちで始めた恋愛ゲーム。
 だが物語の後半に登場する【悪役令息】である、【ハイデン・ヴァルメルシュタイン】の壮絶な最期を見て、妙に心に残ったのを覚えている。
 ゲームのラスボスとして、主人公のヒロインと攻略対象たちに断罪され、そして冷たく切り捨てられる悪役の姿。その表情はどこか、哀しげのように見えてしまった。
 そして気がついた時には、アキヤはその【悪役令息】として生きていた。
 前世の記憶が戻ったのは十三の頃だった。世界の違和感と攻略対象たちの顔、彼らが次に何をするのかまで、頭に浮かぶようになった。

「……やがて、僕は破滅するんだ……」

 それが【物語】として決まっているなら、抗う理由も、意味もない。
 いつか迎えるその瞬間まで、ただ静かに、誰にも関わらずに過ごせばいいと考えた。それが一番楽だったのかもしれない。

 呼吸は浅く、まぶたの裏には重い灰色がこびりついている。そんな朝に部屋の外から微かに足音がした。

(……使用人が通るような場所じゃない、あそこは)

 屋敷の裏庭は、もはや放棄されたようなものだった。人も通らず、草は伸び放題だ。気のせいかと思ったがまた、ぴしりと何かを踏みしめる音がする。
 面倒だな、と思いながらも、ハイデンはベッドを抜け出した。長く着替えてもいない薄手のシャツのままで窓辺へと足を引きずる。
 ゆっくりとカーテンを少しだけ引くと、そこには雨に濡れながら立つ男の姿があった。

 無造作に垂れた銀灰色の髪。分厚い外套。背に剣。粗末な装備ながら、ち姿に迷いはなかった。
 明らかに傭兵のような姿だ。それなのにどうしてこの屋敷の庭に入っているのだろうか?
 男はゆっくりと上を見て、まっすぐにこちらを見上げる。
 その目には驚きもなければ、敵意もなかった。ただ、彼は口を動かして言った。

 ――雨の音が、遠ざかって聞こえた気がした。

「……ここで死んでも、誰にも見つからねぇかと思ってな」

 その声には、投げやりな響きも涙のような哀しみもなかった。ただ事実を述べた、というだけの音のように聞こえた。
 ハイデンはしばらく沈黙し、ゆっくりと目線を下ろした。薄く開けた窓の向こうに何もささず、灰色の外套を濡らした男がこちらを見上げている。目は鋭いがどこか空っぽのように、まるで自分を見ているかのように感じてしまった。。

「……この家は墓地ではありません」
「墓標も建てなくていい。邪魔はしねぇよ」

 あまりに自然に返ってきた言葉に、ハイデンは眉を寄せることすらしなかった。
 ただ、無関心な口調で言い放つ。

「離れなら空いてます。どうぞ、好きに使ってください」

 男はわずかに目を細めた。

「いいのか?」
「死にたいなら、誰に許可を取る必要もないでしょう……それとも、止めてほしかったんですか?」

 皮肉でも挑発でもない。ただ本当に問いかけているだけだ。
 男は少し黙って頭をかき、雨に濡れた髪が額に張り付いている。

「いや……そう思ったなら、やっぱここで良かったんだろうな」

 その言葉に、ハイデンは小さく笑った。
 乾いた、音のない笑みだった。

「……どうぞ、好きに使ってください」

 それだけを言うと、男は静かに一礼した。
 無駄な礼も、言葉もなく。水音を踏んで庭の奥――離れの方へと歩いていった。

(……彼は、【誰】なのだろうか?)

 あのような男、【ゲーム】では見た事がなく、普通に考えれば多分【モブ】のような存在なのかもしれない。ハイデンはそんな事を考えながら、いつの間にか消えてしまった彼がいた場所を再度見つめる事しか出来なかった。


  ▼ ▼ ▼


 屋敷の中が、わずかに騒がしい気がした。
 もちろん、実際に大きな音がするわけではない。だが、昨日まではなかったはずの気配が空気の奥に確かに存在していた。
 窓を閉め切った自室の中でハイデンは薄い毛布にくるまりながら、ぼんやりと耳を澄ます。

 ――コツ、コツ、と、廊下を歩く足音。

 誰も通らないはずの西翼の回廊だ。あのあたりはもう何年も手入れされていない道。使用人たちも、今や数えるほどしか残っておらず、彼らも極力ハイデンに関わろうとはしない。それが暗黙の了解であり静かな均衡だったのだ。
 だがその均衡は、昨日、庭に入り込んできたあの傭兵によって崩れた。
 彼の名も知らないし、職も目的もなぜここに来たのかさえ聞いていない。
 
『……ここで死んでも、誰にも見つからねぇかと思ってな』

 あのような申し出にハイデンは興味もないまま許可を出した。それは、どうでもよかったからだ。
 どうでもよかったはずだった。
 窓の隙間から、ほんの少しだけ風が流れ込む。その風に乗って微かに香りが混ざっている。
 肉を焼く匂い、香草、炒めた玉ねぎ――屋敷の厨房ではもう誰も料理をしていないはずなのに。

(……離れで、作ってるのか?)

 傭兵のくせに随分と手の込んだことをしている。そう思った瞬間、ぐう、と腹の底が鈍く鳴った。
 ハイデンは眉間を押さえて、溜息をつく。

「……馬鹿らしい」

 身体が勝手に反応しただけだ。空腹なんて、忘れていたはずだったのに。
 窓際の椅子に座り、足を投げ出す。静寂だったはずの屋敷の中に、人の気配が戻ってくるのは妙に耳障りだった。それは、長い間引きこもっていた心に水滴がひとつ落ちるような感覚。
 ハイデンは、それを無視しようとした。これまで通り何も感じないフリをして心を閉じていればいいのだ。
 だが、それでも――不意に聞こえる物音や、鼻先をかすめる温かな香りは彼の中の何かをゆっくりと溶かしていくようだった。

(……侵略されはじめているように感じる、なんでだろう)

 人が笑うことも、語ることもない。ただ朽ちていくだけの建物にあの男だけが、まるで無理やり灯りをつけるかのように歩き回っている。
 そもそも、死ぬためにここを選んだのではないだろうか?
 無言の侵略者にハイデンは拳を握りしめる。
 ふと、自分の膝の上に手を落とし、力を抜いた。

「――どうせすぐ飽きる」

 そう言い聞かせるように呟いた声が、部屋の壁に反響して微かに返ってきた。その声が、どこか寂しげに響いたのはきっと雨のせいだと、ハイデンは思うようにした。
 それでも、あの男がもういない庭を想像すると――何故かほんの少しだけ物足りない気がした。
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