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第02話
しおりを挟むあの男の行動はそれから数日続いた。
最近では昼も夜も変わらぬ、灰色の屋敷の廊下、静寂が染みついたその空間にぽつんと――ひとつの皿が置かれている。
ハイデンは、部屋の扉を開けてすぐにそれを見下ろした。
粗末な木皿に、スープが盛られている。微かに湯気が立ちのぼっており豆と野菜が素朴な香りを立てていた。
傍らに、小さなパン。柔らかくはないが、焼きたての香ばしさがまだ残っている。
「……また、置いていったのか」
声に出しても誰も答える事はない。ハイデンは辺りを見回しても廊下には人気がなかった。足音も、気配も、何もない。
皿が置かれていたのは、これで三度目だった。
最初の二回は、ただ廊下に放置されていた。冷めきったそれをハイデンは無言で棚の上に片付けていた。
そもそもハイデンに食べる気はない。全てをあきらめるようになってから食事は最低限しかとる事はなかった。だから、皿があったところで、自分には関係のないことだと思っていた。
そのはずなのに――今日は、少しだけ香りが強かった。
皿から立ちのぼる湯気の中に、微かな塩とハーブの香りが混ざっており、そして腹が鳴ったわけではない。ただ喉の奥が、ひくりと動いた。
ハイデンは静かに扉を閉め、皿を両手で持ち上げてみる。重くもないのになぜか少し緊張する。
暗い部屋の中で、蝋燭を灯すこともせず彼は窓際の椅子に腰を下ろす。
スプーンはなかったが、代わりにパンの端をちぎり、スープに浸して口元へ運ぶ。
一口目――熱はもう、ほどほどに冷めていた。それでもじんわりと温かい塩気が、舌の上をゆっくりと広がる。
「……思ってたより、マシ」
それは誰に向けた言葉でもなかった。独り言というよりむしろ心の中に零れ落ちた呟きのようなモノだ。
案外、素朴な味だった。
だが、丁寧に火を通された野菜と骨付き肉から出た自然な出汁。野暮ったいがまっすぐな味だった。
(……こんな食事、いつぶりだろう)
記憶を辿ろうとしたが、思い出せなかった。
誰かが自分のために用意してくれた食事を、自分の意志で口にしたのは――たぶん、この世界では初めてだった。
そして、いつの間にか食べ終える頃には皿もスープもすっかり空になっていた。
ハイデンはぼんやりと、その木皿を見下ろす。
「……なぜ、こんなことをするんだ?」
声に出しても、やはり返事はなかった。けれど、どこかで誰かが自分に食事を作ってくれると言う事をお、思っていたよりもずっと奇妙だが、悪くなかったのだ。
──翌朝、曇天の光が窓から差し込んだ頃。
ゆっくりと身体を起こしたハイデンは、昨日と変わらぬ冷えた空気の中でためらいがちに扉へと歩を進めた。微かに胸の奥がざわついているのは、昨夜のスープのせいかそれとも自分の反応に対する後悔か。
扉に手をかけて開けると、案の定、廊下の片隅に今朝もまた――ひと皿の食事が置かれていた。
今度は薄く焼いた卵と黒パンの小さな塊。脇には野菜と芋の温かいスープが湯気を立てている。器は粗末な木製だが、きちんと布を敷いて置かれていた。
ハイデンは無言でそれを見下ろしたまま、数秒間、動かなかった。
昨日より香りが強いように感じる。いや、気づこうとしたから香ったのかもしれない。
「……また、置いたんだ」
思ったよりも、声はかすれていなかった。それが、ほんの少しだけ自分でも意外だった。
木皿をそっと持ち上げ、ゆっくりと扉を閉め、そのまま窓際の椅子に腰掛け机の上に並べた。
パンをちぎり、スープに浸す。舌に広がる味は昨日と変わらず素朴だったが、なぜかほんの少しだけ優しく感じられた。
周りはとても静かだった。屋敷の中には、自分以外に人がいるはずなのに音ひとつない。
それでも、この【一皿】が、誰かが生きていて自分の存在を一瞬でも思い出した証のように思えた。
──そして、次の朝も。
そのまた翌日も。扉を開けるたびに、そこには一皿の食事が置かれていた。
誰にも会わず、名も交わさず。それでも、確かに続いていく【何か】が、そこにはあったのだった。
▼ ▼ ▼
ある日の夜。雨の止んだ空に、雲が重くたれ込めていた。窓を閉め切った室内は湿り気を帯び、空気は妙に重く皮膚にまとわりつくようだった。
ハイデンはベッドの上で、毛布を胸元まで引き上げていた。
何でもない、ただの夜のはずだった。だが――身体の芯が熱を持ち、骨の奥がずきずきと軋んでいる。
喉は渇き、目の奥がじんじんと痛む。手足の指先が冷たいのに、額にはじっとりと汗が滲んでいた。
(……また、だ)
魔力の暴走――それは、幼い頃から身体に宿る【病】のようなモノだ。
ヴァルメルシュタイン家に代々受け継がれる魔術の才は、強力すぎるゆえに代償も大きい。特にハイデンはその中でも最も制御が困難と診断されていた。使わなくてもただ生きているだけで魔力は蓄積し、定期的に身体を蝕んでいく。
以前は、従者や侍医がそばにいて抑えてくれていた。しかし、今のハイデンには誰もいない。
ただ、熱にうなされ、布団の中で唇を噛みしめるしかなかった。
「……っ、……ぅ……」
視界が滲み、口内に鉄の味が広がる。身体が勝手に震え、息が浅くなる。
このまま眠れば、目が覚めないかもしれない――そんな考えが、ふと頭をかすめた。
──そのときだった。
ガンッ!!
突然聞こえていた大きな音、それは間違いなく扉が軋むような軟弱な音ではなかった。
「……っ!? 」
反射的に目を見開く。けれど視界は滲み、空気が乱れて冷気が部屋になだれ込む。
気配と、荒い息。そして足音に雨の匂い。
「……なんで鍵までかけて倒れてんだよ、クソ……」
その声に、ハイデンの喉がひくりと震えた。前に、庭で出会った男だ――名前すら知らない傭兵。
「誰が……っ、許可を……っ」
「こんな状態で鍵閉めてんのが悪い」
遠慮のない物言いを見せながらベッド脇に膝をついた彼は、濡れた外套を脱ぎ捨て、次の瞬間には冷たい布を額に押し当てていた。
ひやりとした感触に、ハイデンは思わずまぶたを閉じる。
「……どうして……ここに……」
喉は焼けるように痛んだが、それでも絞り出すように問いかける。だが彼は水差しのふたを開ける手を止めず、簡潔に返した。
「……あんたの部屋、あまりに静かだったからな。気になっただけだ」
「勝手に……踏み込むのが、気になった程度の理由、ですか?」
「そう。俺は基本、勝手なんでな」
淡々としたその声音に、苛立ちも悪意もない。ただ自分の判断で動いたという事実だけを、静かに告げている。
コップに注がれた水が、カタリと揺れた。
「飲めるか?」
問いかけに、ハイデンは唇を動かす余裕もなく、目線だけで答えた。それだけで男は黙って手を添え、ぬるい水をゆっくりと口元へ流し込んでくる。
喉を焼くような渇きが、一滴ずつ潤っていく。体の奥が、わずかに落ち着いていくのがわかった。
ハイデンは目の前の男に、静かに声をかける。
「……なぜ、来たんですか」
再度の問いは、弱々しいが、確かな意志を含んでいた。すると男はしばらく黙っていたが、ふと口を開いた。
「放っておくには、お前、ちょっと不憫だったんだよ」
「不憫……?」
「そんな顔で寝てるやつ、俺の【兄貴】以来だ」
その一言に、ハイデンの目がかすかに揺れた。
兄――かつて誰かに、そう呼んでいた存在。それを【顔】で思い出させるほどの壊れた表情を自分がしていたのだと気づいた。
「……あなたはずいぶんと、お節介なんですね」
「言われ慣れてる」
「……誰に」
「死んだ兄貴。あと、生きてる奴にもちょいちょい」
どこか淡く、切なさの混じる声だった。
そのままハイデンは、ふと視線を外して天井を見上げる。
「……僕も、こんなふうにされるのずっと前に終わったと思っていました」
誰かに触れられること。
水を飲ませてもらうこと。
ただそばに誰かがいてくれること――それらは、もう遠い昔に閉ざされたものだと思っていた。
すると男はそのままハイデンの頭を撫でて、言う。
「寝ろ……死ぬほど疲れてる顔してるぞお前」
男のその言葉が、不思議と心に染みた。冷たさよりも、そこに含まれた温もりが焼けついた胸の奥に染み込んでいく。
いつの間にかハイデンの瞼がゆっくりと閉じる。
「……勝手、ですね……」
「そう言っただろ、お前」
最後に交わしたそのやり取りのあと、静かな沈黙が訪れた。
けれどそれはいつの間にか不安など感じていなかったのかもしれない。
▼ ▼ ▼
──翌朝。
熱は嘘のように引いていた。
枕元には、空の水差しと、丁寧に畳まれた濡れ布。そして、テーブルの上には冷めかけたスープと小さな黒パンが置かれていた。
まわりには誰もいなかった。
けれど、ハイデンは無言のまま、その食事をゆっくりと手に取る。彼にとってそれが今朝最初のぬくもりだった。
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