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第06話
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(僕は、何をしているのだろう……?)
薄く光が射し始めた朝――東の空が白み始める頃、ハイデン・ヴァルメルシュタインは食卓の椅子にぼんやりと腰かけていた。
目の前に並んでいるのは、木の皿と湯気の立つスープ。軽く焼き色のついたパンに、素焼きのマグには香り高いハーブ茶。
どこまでも静かで、あたたかく――だが、ほんの少しぎこちない、そんな朝の風景。
奥の台所では、男が無言のまま鍋をかき回していた。
彼の所作はいつも通り、無駄がなく、簡潔だ。だが火加減や食材の様子にまで気を配るその手元には雑さなど微塵もない。
男の名前を聞いた。
男の名は クリス・ラウゼと言うらしい。
(あんなに色々と良くしてくれていた?のに名前も聞かないなんて、バカだろう僕……)
そんな事を考えながらハイデンはスプーンを手に取り、静かにスープをすくった。一口すすると口の中にやさしい旨味が広がる。
「……ちゃんと、火は通ってる」
ぽつりと、呟くように言った。
すると、背を向けていたクリスが、手を止めずに返す。
「――文句は食ってから言え」
「も、文句を言っているわけではないです……ただ……いえ、なんでもありません」
ぶっきらぼうだが、どこか淡々とした言葉で、思わず反撃したかったのだがハイデンはそれ以上言うのをやめる。同時に、クリスの言葉が何処か心地よいと感じてしまった自分がいる。
気を遣われたわけでも、従われたわけでもない。ただ、そこにいる【人間】として返ってきた当たり前のやり取りだった。
「じゃあ、なおさら黙って食え」
クリスの言葉に、ハイデンは少しだけ唇を歪めた。笑ったわけではないが、確かにそれは【反応】でもあった。
ほんの一年前まで、こんな朝など考えたこともなかった。
血筋、魔力、家名、政略――それだけで存在価値を測られ、ただ破滅の【駒】として、生きながらえていた日々。スープの湯気も焼き立てのパンの香りも、そこにはなかった。
静かにマグを手に取り、ハーブ茶を口に含む。少しだけ目を伏せて胸の奥にある微かな感覚に耳を澄ませる。
(……この時間が、壊れなければいいなぁ)
それは、誰にも聞かせたくないほど小さな願いだった。
食後、ハイデンは無言で外套を手に取り出かける準備を始める。
「出かけんのか?」
食器を拭いていたクリスが、横目でそう言った。
「ええ、その……読み終わってしまったので本屋と……少しだけ、買い出しも」
「顔、隠せよ。髪も目も派手すぎんだろ」
「わかってます……あなたに心配されるとは思いませんでした……」
「誰も心配してねぇよ。トラブルが面倒なだけだ」
「……はいはい」
フードを深く被りながら、ハイデンは小さく息を吐く。こうして交わされる短い会話のひとつひとつが、何故かハイデンにとって、居心地がよかった。
▼ ▼ ▼
王都の中心、石畳の広場では、朝市が開かれていた。
香辛料の匂い、果物の甘い香り、焼き立てのパンから立ち上る蒸気。誰 かが笑い、誰かが値切り、誰かが駆けていく。喧騒と匂いと温もり――その全てが、生きている人々の営みそのものだった。
だが、ハイデン・ヴァルメルシュタインにとって、それはただの【雑音】に近い。
フードを深くかぶり、視線を落としながら、人波の隙間を縫うようにして歩く。できる限り目立たずに誰にも触れず、存在を薄く保つように。
(余計な目立ち方はしない。必要なものだけ取って、さっさと帰る)
それが、自分がこの世界で生きていくための【最低限のルール】だった。
向かうのは、小さな裏通りにある古書店。
古ぼけた木の看板と、色褪せた扉がある。けれどハイデンは、この静けさが好きだった。店主は無駄に話しかけてこないし、棚の整理も丁寧で、なにより――店内に満ちる紙とインクの香りが落ち着く。
扉を開けると、鈴の音が控えめに鳴った。奥から現れた店主は軽く頷くだけで何も言わず、カウンターの下から取り置きの包みを差し出す。
「……ありがとう」
低く呟くように言って、ハイデンは受け取った本の包みに目を落とす。
今回の予約分は三冊。
そのうち一冊は、古代魔術に関する希少な翻訳書。あとの二冊は、王国の歴史書と詩集――やや意外な組み合わせに思えるかもしれない。
(この詩集、たしか……【失われた街】を詠んだ一節があったはず)
ふと、手が勝手にページをめくりかけるが、すぐにやめる。人の視線がある場所で立ち読みをする気にはなれなかった。
(これは、家に帰ってから……)
中身は帰ってから。屋敷の静かな部屋で、一人きりでのんびりと読めばいい。
品定めもせず、再び包みを鞄に押し込み、軽く頭を下げて店を出る。
――本当は、もっとゆっくり眺めていたかった。静かに棚をめくって偶然の出会いに心を躍らせるような時間を、もう一度過ごしてみたかった。
けれど、今の自分にそれは許されていない気がしていた。
(こんな姿を、知っている誰かに見られたら)
(……いや、それ以前に、誰かに話しかけられるのが面倒だ)
だからこそ、滞在時間も最短に。本だけを受け取ったら、すぐに帰る――そう決めていたはずだった。
「……っ」
足が止まる。
ふと、広場の奥に目をやった瞬間、貴族の馬車が並ぶあたりにひときわ目を引く少女の姿があった。
明るい金の髪、王家のエンブレムが輝く制服。まるで誰にも揺るがされないような眼差しで、こちらをまっすぐに見ている。
(まさか……)
呼吸が詰まりかけた。
その笑顔を、知っている。
記憶の底に焼き付いていた――【あの】終盤で見た、勝者の顔。
リリア・セントマリアーー《月下の誓い》の主人公であり、【悪役令息】であるハイデンを破滅へと導いた存在。
目が合ったその瞬間、彼女は唇を動かした。
――やっぱり……いた。
小さく、けれど確かに、そう言った。
背中を冷たいものが這い上がってくる。頭では理解できなくとも、本能が叫んでいた。
(【運命】が……また回り出した)
フードをさらに深く被り、足早に群衆の中へ紛れ込むように、一秒でも早くこの【舞台】から退きたかった。
帰路の途中、ハイデンは何度も背後を振り返った。誰もついてきていないはずだのだが、その確信が持てない。
そして、屋敷が見えた時、ようやく肩の力が抜けたはずなのに――胸の奥が、重く沈んでいく。
「……始まった、んだな」
誰に向けるでもなく、そう呟く。それはただの独り言であり――否定しようのない、運命の音だ。
シナリオがスタートしたのだと、すぐに理解する事が出来た。
(ここで終わるはずだったのに)
(どうして、まだ……物語が続いていくんだ)
ハイデンの中に、【物語】が再び忍び寄ってくる。静かだった日々の背後に、冷たい影が差し始めていた。
薄く光が射し始めた朝――東の空が白み始める頃、ハイデン・ヴァルメルシュタインは食卓の椅子にぼんやりと腰かけていた。
目の前に並んでいるのは、木の皿と湯気の立つスープ。軽く焼き色のついたパンに、素焼きのマグには香り高いハーブ茶。
どこまでも静かで、あたたかく――だが、ほんの少しぎこちない、そんな朝の風景。
奥の台所では、男が無言のまま鍋をかき回していた。
彼の所作はいつも通り、無駄がなく、簡潔だ。だが火加減や食材の様子にまで気を配るその手元には雑さなど微塵もない。
男の名前を聞いた。
男の名は クリス・ラウゼと言うらしい。
(あんなに色々と良くしてくれていた?のに名前も聞かないなんて、バカだろう僕……)
そんな事を考えながらハイデンはスプーンを手に取り、静かにスープをすくった。一口すすると口の中にやさしい旨味が広がる。
「……ちゃんと、火は通ってる」
ぽつりと、呟くように言った。
すると、背を向けていたクリスが、手を止めずに返す。
「――文句は食ってから言え」
「も、文句を言っているわけではないです……ただ……いえ、なんでもありません」
ぶっきらぼうだが、どこか淡々とした言葉で、思わず反撃したかったのだがハイデンはそれ以上言うのをやめる。同時に、クリスの言葉が何処か心地よいと感じてしまった自分がいる。
気を遣われたわけでも、従われたわけでもない。ただ、そこにいる【人間】として返ってきた当たり前のやり取りだった。
「じゃあ、なおさら黙って食え」
クリスの言葉に、ハイデンは少しだけ唇を歪めた。笑ったわけではないが、確かにそれは【反応】でもあった。
ほんの一年前まで、こんな朝など考えたこともなかった。
血筋、魔力、家名、政略――それだけで存在価値を測られ、ただ破滅の【駒】として、生きながらえていた日々。スープの湯気も焼き立てのパンの香りも、そこにはなかった。
静かにマグを手に取り、ハーブ茶を口に含む。少しだけ目を伏せて胸の奥にある微かな感覚に耳を澄ませる。
(……この時間が、壊れなければいいなぁ)
それは、誰にも聞かせたくないほど小さな願いだった。
食後、ハイデンは無言で外套を手に取り出かける準備を始める。
「出かけんのか?」
食器を拭いていたクリスが、横目でそう言った。
「ええ、その……読み終わってしまったので本屋と……少しだけ、買い出しも」
「顔、隠せよ。髪も目も派手すぎんだろ」
「わかってます……あなたに心配されるとは思いませんでした……」
「誰も心配してねぇよ。トラブルが面倒なだけだ」
「……はいはい」
フードを深く被りながら、ハイデンは小さく息を吐く。こうして交わされる短い会話のひとつひとつが、何故かハイデンにとって、居心地がよかった。
▼ ▼ ▼
王都の中心、石畳の広場では、朝市が開かれていた。
香辛料の匂い、果物の甘い香り、焼き立てのパンから立ち上る蒸気。誰 かが笑い、誰かが値切り、誰かが駆けていく。喧騒と匂いと温もり――その全てが、生きている人々の営みそのものだった。
だが、ハイデン・ヴァルメルシュタインにとって、それはただの【雑音】に近い。
フードを深くかぶり、視線を落としながら、人波の隙間を縫うようにして歩く。できる限り目立たずに誰にも触れず、存在を薄く保つように。
(余計な目立ち方はしない。必要なものだけ取って、さっさと帰る)
それが、自分がこの世界で生きていくための【最低限のルール】だった。
向かうのは、小さな裏通りにある古書店。
古ぼけた木の看板と、色褪せた扉がある。けれどハイデンは、この静けさが好きだった。店主は無駄に話しかけてこないし、棚の整理も丁寧で、なにより――店内に満ちる紙とインクの香りが落ち着く。
扉を開けると、鈴の音が控えめに鳴った。奥から現れた店主は軽く頷くだけで何も言わず、カウンターの下から取り置きの包みを差し出す。
「……ありがとう」
低く呟くように言って、ハイデンは受け取った本の包みに目を落とす。
今回の予約分は三冊。
そのうち一冊は、古代魔術に関する希少な翻訳書。あとの二冊は、王国の歴史書と詩集――やや意外な組み合わせに思えるかもしれない。
(この詩集、たしか……【失われた街】を詠んだ一節があったはず)
ふと、手が勝手にページをめくりかけるが、すぐにやめる。人の視線がある場所で立ち読みをする気にはなれなかった。
(これは、家に帰ってから……)
中身は帰ってから。屋敷の静かな部屋で、一人きりでのんびりと読めばいい。
品定めもせず、再び包みを鞄に押し込み、軽く頭を下げて店を出る。
――本当は、もっとゆっくり眺めていたかった。静かに棚をめくって偶然の出会いに心を躍らせるような時間を、もう一度過ごしてみたかった。
けれど、今の自分にそれは許されていない気がしていた。
(こんな姿を、知っている誰かに見られたら)
(……いや、それ以前に、誰かに話しかけられるのが面倒だ)
だからこそ、滞在時間も最短に。本だけを受け取ったら、すぐに帰る――そう決めていたはずだった。
「……っ」
足が止まる。
ふと、広場の奥に目をやった瞬間、貴族の馬車が並ぶあたりにひときわ目を引く少女の姿があった。
明るい金の髪、王家のエンブレムが輝く制服。まるで誰にも揺るがされないような眼差しで、こちらをまっすぐに見ている。
(まさか……)
呼吸が詰まりかけた。
その笑顔を、知っている。
記憶の底に焼き付いていた――【あの】終盤で見た、勝者の顔。
リリア・セントマリアーー《月下の誓い》の主人公であり、【悪役令息】であるハイデンを破滅へと導いた存在。
目が合ったその瞬間、彼女は唇を動かした。
――やっぱり……いた。
小さく、けれど確かに、そう言った。
背中を冷たいものが這い上がってくる。頭では理解できなくとも、本能が叫んでいた。
(【運命】が……また回り出した)
フードをさらに深く被り、足早に群衆の中へ紛れ込むように、一秒でも早くこの【舞台】から退きたかった。
帰路の途中、ハイデンは何度も背後を振り返った。誰もついてきていないはずだのだが、その確信が持てない。
そして、屋敷が見えた時、ようやく肩の力が抜けたはずなのに――胸の奥が、重く沈んでいく。
「……始まった、んだな」
誰に向けるでもなく、そう呟く。それはただの独り言であり――否定しようのない、運命の音だ。
シナリオがスタートしたのだと、すぐに理解する事が出来た。
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