何もかも全て諦めてしまったラスボス予定の悪役令息は、死に場所を探していた傭兵に居場所を与えてしまった件について

桜塚あお華

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第12話 クリス視点

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 陽が中天に昇り、屋敷の裏庭には乾いた金属音が静かに響いている。その中でクリスは芝生の上に腰を下ろし、膝に横たえた剣の刃を砥石でゆっくりとなぞっていた。
 古びた木々がわずかに葉を揺らし、その合間を縫うように、小鳥のさえずりが遠くから聞こえる。整えられた静かな庭――それは嘗ての自分には縁遠かった、あまりにも穏やかすぎる時間だった。

 ――今では、信じられないほどに。

 砥石の動きを止め、クリスは刃をわずかに傾ける。
 陽を受けて光ったその表面に、小さな欠けを見つけると彼は再び砥石を滑らせた。何度も、何度も、そこだけを丁寧になぞる。まるで【傷】そのモノもなかったことにしようとするかのように。
 無心になろうとするたび、胸の奥からせり上がる声がある。

『……お前は、生き残れよ、クリス』

 乾いた喉の奥に、張りつくような痛みが広がる。
 それは最後の命令だった。否、命令にすらなっていなかったかもしれない。ただ――兄が遺した、最期の願い。
 視界の端に、戦場の幻が重なる。血に濡れた大地と耳をつんざく叫び。断末魔と、火の粉。その中心で、ひときわ大きな背中があった。クリスの実の兄――ソルの姿。短く刈った黒髪にくたびれた革鎧、それでも彼の背中は、あの時世界で一番大きく見えた。

『前を見ろ、剣を振る手を止めるな。守れ。自分でも、誰でも構わない』

 幼いころから、ずっと兄の背中を見ていた。物心ついた時には戦場にいて、剣の振り方も死体の見分け方も飯の分け方も全部、兄に教わった。剣より、嘘のつき方より、最初に教えられたのは――【生き残れ】だった。
 その命令に従って、兄は死に、クリスだけが生きた。だからこそ、今も思う。

(俺は、本当は生き残っちゃいけなかったんじゃないかって)

 どれだけ命を繋いでも、あの時背中に伸ばせなかった手の重さが消えることはなかった。戦いが終わっても、体から血の匂いが消えても自分だけが立っている現実が罪に思えてしまう。
 兄が死んだ後、あれから何度も死に場所を探しまくった。自分が死んでも良いと思える所に何度も足を踏み入れた。
 無謀な戦地、荒くれの仕事、護衛任務――けれど、死ぬには理由が薄すぎ、生きるには動機がなさすぎた。
 ただ、どこにも帰る場所がないままに流れて――気がつけばあの男の傍にいるようになっていた。

「……何してんだ、俺は」

 ぽつりと独り言が漏れる。砥石の手を止めて、剣を握りしめる。

 この剣は、誰を守るためのものだ?
 誰のために、磨いている?
 それを考えた瞬間、無意識に頭に浮かんだのはあの青年の姿だった。

 ――ハイデン・ヴァルメルシュタイン。

 初めて出会ったとき、彼の目は、完全に死んでいた。
 光はなく、希望も怒りも、憎しみさえもなかった。そこにあったのは、ただ静かに朽ちていくのを待っているような、空の器のような目。まるで、何かを諦めているかのように。呼吸こそしていたが、魂がどこにも繋がっていない――そんな男だった。
 けれど、今はどうだ。

「……最近、顔が変わったんだよな」

 砥石の動きを止めながら、ポツリとこぼし、そう口にしたことで、ようやく気づいた。
 ハイデンは、ほんの少しずつ――けれど確実に生きようとしている。
 朝の食卓で、スープに文句を言わなくなった。ハーブ茶にも、眉をひそめながらも口をつけるようになった。詩集を大事そうに鞄へしまい、街へ出る時にはほんのわずかに緊張を浮かべる。そんな変化を、誰が気づくだろう。けれど、クリスは見逃さなかった。
 それは、嘗て自分が見たことのある【光】だったからだ。

 ――ソル。兄貴の背中。

 戦場で血を浴び、肉を裂かれ、それでも前に進み続けた男の背中。誰よりも人を助けようとし、誰よりも命を軽んじた。あの愚直で、強くて馬鹿みたいに優しい兄の姿と、ハイデンの背中がどこか重なって見えた。
 似てるわけがない。血のつながりも、過去も違う。
 だが――それでも。

「……まったく、なんで似てんだよ。お前と兄貴」

 低く笑い、砥石を布に包んで手を止める。目を閉じ、風の音に耳を澄ませてみる。葉が鳴り、小鳥が遠くでさえずる。どこまでも穏やかすぎる午後――守るものなんて、もうないと思ってた。
 傭兵をやめた時、命なんてどうでもいいと思ってた。この屋敷に来たのも、どうせなら誰かに見届けてもらいたいと言う気持ちもあったのかもしれない。
 けれど今――ようやく、自分の剣を向ける【理由】が出来始めている。
 それは贖罪じゃなく、兄の代わりでも過去の埋め合わせでもない。誰かの命令でも、義務でも、義理でもない。

(……もし、あいつが、生きたいと思ったなら……俺はその望みのために剣を振る事が出来るな、きっと)

 そんな事を考えていたその時、屋敷の奥から咳き込むような小さな音が聞こえた。息を詰まらせるような気配を見せている――ハイデンだ。
 クリスは立ち上がり、背に剣を括り直す。砥石を布に包んで腰に収めながら、小さく息を吐いた。

「さて……どうせまた、無茶してんだろ」

 独り言のように呟き、屋敷の扉を押し開ける。

「手間のかかる男だな、本当に……」

 口調こそ皮肉めいていたが、その声音に刺はない。
 足取りに迷いはなく、その背中にはもう、死に場所を探していた男の影はない。クリスはいつの間にか生きる意味を見つけていたのかもしれない。
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