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第13話
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夜の帳がすっかり降りた屋敷には、虫の声すら聞こえない。静まり返った空間の中でハイデンは机に積み上げた書物を黙々と読んでいた。けれど、ページをめくる手は、っきから数度も同じ段落を往復している。文字の形だけを追ってしまい、内容が頭に入ってこない。
理由は明白だ――熱が出ている。
額にじんわりと汗が滲んでいた。呼吸は浅く、喉が異様に渇く。それでも、椅子から立ち上がろうとはしない。意識が霞むたびに、裏に不快な映像がよぎる。まるで悪い夢をなぞるように。
(また……だ)
視界の端で、ろうそくの炎が不自然に揺らぐ。ありもしない風に煽られたように、ゆら、ゆらと。まるで誰かが、この空間ごと過去に引きずり込もうとしているかのように。
――君は、やがて狂う。
どこからか、聞こえた気がした。
あのゲーム《月下の誓い》で、ハイデンというキャラクターが辿った【破滅】のシナリオ。
精神を崩し、力を暴走させ、最終的には攻略対象たちに討たれる未来が――炎が、ぐにゃりと曲がったように見えた。
――君は、悪役令息だ。そうなるべき存在。
「……ちが……う……」
かすれた声が喉から漏れる。
こんな未来は、もう捨てたはずだった。
この屋敷に来てからの時間は、わずかながらも確かに【現実】だった。スプーンの感触、温かなスープの味、微かに咲いた笑い声。クリスという男が黙ってそばにいてくれるただそれだけで保たれていた均衡。
なのに、まるで邪魔をするかのようにハイデンに対して声が囁き続けてくる。
――壊れろ。
視界が歪む。机に置いた手が滑り、肘が崩れる。
ガタンッ――という音が、自分のものだと気づくのに数秒かかった。
次の瞬間、重力が反転する。椅子が倒れ、視界が傾き、すべてが暗闇に引きずられていった。
(あ……)
落ちる、何も掴めない。
頭が痛い、熱い、寒い。
「――……イデン」
誰かの声が、遠く聞こえた気がした。
でも、もう体が動かない。
薄れゆく意識の中、ハイデンはただ――自分が壊れていく音を聞いていた。
▼ ▼ ▼
「――ハイデン!!」
階下で微かな音を聞いたのは、偶然だった。
クリスはキッチンで皿を拭いていたが、反射的に体が動く。重く響いた物音――椅子が倒れたような、体が崩れたような鈍い音が聞こえた。
それが屋敷のどこからか聞こえた時、脳が嫌な予感を告げていた。
彼が向かったのは書斎だ。
案の定、扉を開けた瞬間、薄暗い部屋の中で見えたのは、倒れた蝋燭、崩れた椅子、そして――床にうずくまるハイデンの姿だった。
「……ッ、何やってやがる……!」
急いで駆け寄り、身体を抱き起こす。
触ってみるとひどく熱い。肌が火照り、汗でびっしょりだ。額に手を当てた瞬間クリスの眉が明らかに歪む。
「ふざけんなよ、お前……こんな熱、何日我慢してた……?」
応答はない――目は閉じたまま、苦しげに眉を寄せている。
床に崩れてどれほど経っていたのか。冷気が背を伝って走る。
抱きかかえるようにしてその体を引き上げると、あまりに軽い。こんなに細かったか、と腕の中で改めて気づかされる。
唇が微かに、静かに震えているのがわかった。まるで、何かを訴えるように。
「はぁ……言えよ、こうなる前に」
吐き捨てるように言葉が漏れてしまった。
怒り、というより焦りに近い――言ってくれればいい、誰かに頼ればいい。ただそれだけのことでこんな風に倒れる必要なんてなかったのに。
クリスは足早に寝室へ向かう。
階段を昇る間、息を殺すようにしてハイデンの体温を確かめ続けた。呼吸は浅く、弱々しく感じる。
けれど――ハイデンがまだ生きている事に、クリスは少しだけ安堵するのだった。
▼ ▼ ▼
ベッドに寝かせると、すぐに冷たいタオルを取りに行った。氷水を張った桶にタオルを沈め、絞っては額に当てる。それを何度も繰り返した。額から頬、首筋へと冷やしながら乱れた前髪を指で避けると、ハイデンの唇が微かに動いた。
「……っ……やだ……っ」
寝言のように、わずかに震える声。
苦しげなその表情に、クリスは思わず手を止めた。
「夢……か」
どんな夢を見ているのか、どれほどの記憶が、あいつを責めている?
ハイデンは強くなんかない。ただ黙って諦めた顔で生きてきただけだ。その表情が、あまりにも兄に似ていたから――だから、見過ごせなかった。
「苦しいなら……早く目を覚ませ」
タオルを取り替え、額に触れる。
その時、ハイデンの目がゆっくりと開かれた。
「……クリス……?」
乾いた声が聞こえ、焦点の定まらない瞳がこちらを見ている。
「ああ、俺だ。大人しくしてろ」
「僕……また……」
呟くように言ったその言葉は、恐怖と後悔がないまぜになった響きだった。
「……僕、壊れましたか?」
「バカ言うな。倒れただけだ。熱があるから寝とけ」
「……夢、見たんだ……【あれ】になって……誰かに殺される……みんな死んでしまえばいいって言ってくるんだ」
その声には、確かな震えがあった。
クリスは、言葉を返さなかった。ただ、濡れたタオルをもう一度額に当て、冷やす。
「……平気だ。もう、誰にも殺させねぇよ。お前がそう望まない限りな」
ハイデンは、わずかに目を見開いた。
そして、ぽつりと呟いた。
「……生きたい、って思っても……いいのかな」
掠れた声が、暗がりに震えている。弱々しい呼吸と、熱に浮かされた目。それなのに、そこに宿る問いだけは――あまりに痛々しいほど真剣だった。
ハイデンは枕に沈み込むようにして、喉を震わせる。
「……兄様も、母様も……父様も……」
「……」
「周りにいた人たちも……全員、僕が死ぬのを望んでた。望んでなくても……そのほうが都合がいいって……」
言葉は途切れ途切れだった。
けれど、苦しげな眉と震える息が、どれだけ長くその思いに縛られていたか、を雄弁に物語る。
「……だから……そんな僕が……【生きたい】なんて思って、いいのかな……?」
消え入りそうな声で、ハイデンは呟く。
弱くて、幼くて、誰かに判断を委ねるしかない、それはずっと押し殺してきた【本音】だ。
クリスは、一瞬だけ言葉を失った。
こんな声を、あいつに出させたのは誰だ。
どれだけ孤独と絶望の中で、こいつは一人で立っていた?
その想いの深さが、一瞬で胸を締め付ける。
そして――ほんの少しだけ、口角を上げた。
「いいに決まってんだろ」
低く、静かで、揺るぎない声で、クリスは答える。これは慰めでも励ましでもなく、ただ、事実を告げるように。
「お前がそう思うなら……俺は何度でも守ってやる」
淡々とした調子でクリスは言った。そこに嘘は一つもない。
ハイデンの呼吸が止まる――目を見開こうとして、そのまま震えた。
【守る】――その言葉が、どれだけ遠い世界のものだったか。自分には向けられないと思っていた好意。無縁だと諦めていた優しさ。胸の奥から熱が溢れた。
「……本当に……?」
か細い声――信じたいのに、信じてはいけないと今まで思い続けてきた声。クリスはため息をひとつ落とし、乱れた前髪をそっと払いのける。
「嘘つくかよ。こんな時に」
その仕草はあまりにも自然で、穏やかで――だからこそ、ハイデンは堪えきれなかった。
ぽたり、と。
頬を伝った涙がシーツに落ちていく。
高熱のせいではなく、身体の苦しさだけでは説明できない。
「……嬉しい、なんて……思ってしまった……思ってはいけないのに」
涙交じりの声に、クリスは肩をすくめる。
「だったら、そう思っとけ。遠慮すんな」
ハイデンは枕に顔を伏せ、震える息を吸い込み、そして止められない涙が静かに零れ続けた。
外では、雨がしとしとと降り始めている。冷たい雨音が屋根を叩き、孤独をなぞるように世界を包む。
けれど――この小さな寝室だけは、【温かさ】と言うモノが宿っていたのだった。
理由は明白だ――熱が出ている。
額にじんわりと汗が滲んでいた。呼吸は浅く、喉が異様に渇く。それでも、椅子から立ち上がろうとはしない。意識が霞むたびに、裏に不快な映像がよぎる。まるで悪い夢をなぞるように。
(また……だ)
視界の端で、ろうそくの炎が不自然に揺らぐ。ありもしない風に煽られたように、ゆら、ゆらと。まるで誰かが、この空間ごと過去に引きずり込もうとしているかのように。
――君は、やがて狂う。
どこからか、聞こえた気がした。
あのゲーム《月下の誓い》で、ハイデンというキャラクターが辿った【破滅】のシナリオ。
精神を崩し、力を暴走させ、最終的には攻略対象たちに討たれる未来が――炎が、ぐにゃりと曲がったように見えた。
――君は、悪役令息だ。そうなるべき存在。
「……ちが……う……」
かすれた声が喉から漏れる。
こんな未来は、もう捨てたはずだった。
この屋敷に来てからの時間は、わずかながらも確かに【現実】だった。スプーンの感触、温かなスープの味、微かに咲いた笑い声。クリスという男が黙ってそばにいてくれるただそれだけで保たれていた均衡。
なのに、まるで邪魔をするかのようにハイデンに対して声が囁き続けてくる。
――壊れろ。
視界が歪む。机に置いた手が滑り、肘が崩れる。
ガタンッ――という音が、自分のものだと気づくのに数秒かかった。
次の瞬間、重力が反転する。椅子が倒れ、視界が傾き、すべてが暗闇に引きずられていった。
(あ……)
落ちる、何も掴めない。
頭が痛い、熱い、寒い。
「――……イデン」
誰かの声が、遠く聞こえた気がした。
でも、もう体が動かない。
薄れゆく意識の中、ハイデンはただ――自分が壊れていく音を聞いていた。
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「――ハイデン!!」
階下で微かな音を聞いたのは、偶然だった。
クリスはキッチンで皿を拭いていたが、反射的に体が動く。重く響いた物音――椅子が倒れたような、体が崩れたような鈍い音が聞こえた。
それが屋敷のどこからか聞こえた時、脳が嫌な予感を告げていた。
彼が向かったのは書斎だ。
案の定、扉を開けた瞬間、薄暗い部屋の中で見えたのは、倒れた蝋燭、崩れた椅子、そして――床にうずくまるハイデンの姿だった。
「……ッ、何やってやがる……!」
急いで駆け寄り、身体を抱き起こす。
触ってみるとひどく熱い。肌が火照り、汗でびっしょりだ。額に手を当てた瞬間クリスの眉が明らかに歪む。
「ふざけんなよ、お前……こんな熱、何日我慢してた……?」
応答はない――目は閉じたまま、苦しげに眉を寄せている。
床に崩れてどれほど経っていたのか。冷気が背を伝って走る。
抱きかかえるようにしてその体を引き上げると、あまりに軽い。こんなに細かったか、と腕の中で改めて気づかされる。
唇が微かに、静かに震えているのがわかった。まるで、何かを訴えるように。
「はぁ……言えよ、こうなる前に」
吐き捨てるように言葉が漏れてしまった。
怒り、というより焦りに近い――言ってくれればいい、誰かに頼ればいい。ただそれだけのことでこんな風に倒れる必要なんてなかったのに。
クリスは足早に寝室へ向かう。
階段を昇る間、息を殺すようにしてハイデンの体温を確かめ続けた。呼吸は浅く、弱々しく感じる。
けれど――ハイデンがまだ生きている事に、クリスは少しだけ安堵するのだった。
▼ ▼ ▼
ベッドに寝かせると、すぐに冷たいタオルを取りに行った。氷水を張った桶にタオルを沈め、絞っては額に当てる。それを何度も繰り返した。額から頬、首筋へと冷やしながら乱れた前髪を指で避けると、ハイデンの唇が微かに動いた。
「……っ……やだ……っ」
寝言のように、わずかに震える声。
苦しげなその表情に、クリスは思わず手を止めた。
「夢……か」
どんな夢を見ているのか、どれほどの記憶が、あいつを責めている?
ハイデンは強くなんかない。ただ黙って諦めた顔で生きてきただけだ。その表情が、あまりにも兄に似ていたから――だから、見過ごせなかった。
「苦しいなら……早く目を覚ませ」
タオルを取り替え、額に触れる。
その時、ハイデンの目がゆっくりと開かれた。
「……クリス……?」
乾いた声が聞こえ、焦点の定まらない瞳がこちらを見ている。
「ああ、俺だ。大人しくしてろ」
「僕……また……」
呟くように言ったその言葉は、恐怖と後悔がないまぜになった響きだった。
「……僕、壊れましたか?」
「バカ言うな。倒れただけだ。熱があるから寝とけ」
「……夢、見たんだ……【あれ】になって……誰かに殺される……みんな死んでしまえばいいって言ってくるんだ」
その声には、確かな震えがあった。
クリスは、言葉を返さなかった。ただ、濡れたタオルをもう一度額に当て、冷やす。
「……平気だ。もう、誰にも殺させねぇよ。お前がそう望まない限りな」
ハイデンは、わずかに目を見開いた。
そして、ぽつりと呟いた。
「……生きたい、って思っても……いいのかな」
掠れた声が、暗がりに震えている。弱々しい呼吸と、熱に浮かされた目。それなのに、そこに宿る問いだけは――あまりに痛々しいほど真剣だった。
ハイデンは枕に沈み込むようにして、喉を震わせる。
「……兄様も、母様も……父様も……」
「……」
「周りにいた人たちも……全員、僕が死ぬのを望んでた。望んでなくても……そのほうが都合がいいって……」
言葉は途切れ途切れだった。
けれど、苦しげな眉と震える息が、どれだけ長くその思いに縛られていたか、を雄弁に物語る。
「……だから……そんな僕が……【生きたい】なんて思って、いいのかな……?」
消え入りそうな声で、ハイデンは呟く。
弱くて、幼くて、誰かに判断を委ねるしかない、それはずっと押し殺してきた【本音】だ。
クリスは、一瞬だけ言葉を失った。
こんな声を、あいつに出させたのは誰だ。
どれだけ孤独と絶望の中で、こいつは一人で立っていた?
その想いの深さが、一瞬で胸を締め付ける。
そして――ほんの少しだけ、口角を上げた。
「いいに決まってんだろ」
低く、静かで、揺るぎない声で、クリスは答える。これは慰めでも励ましでもなく、ただ、事実を告げるように。
「お前がそう思うなら……俺は何度でも守ってやる」
淡々とした調子でクリスは言った。そこに嘘は一つもない。
ハイデンの呼吸が止まる――目を見開こうとして、そのまま震えた。
【守る】――その言葉が、どれだけ遠い世界のものだったか。自分には向けられないと思っていた好意。無縁だと諦めていた優しさ。胸の奥から熱が溢れた。
「……本当に……?」
か細い声――信じたいのに、信じてはいけないと今まで思い続けてきた声。クリスはため息をひとつ落とし、乱れた前髪をそっと払いのける。
「嘘つくかよ。こんな時に」
その仕草はあまりにも自然で、穏やかで――だからこそ、ハイデンは堪えきれなかった。
ぽたり、と。
頬を伝った涙がシーツに落ちていく。
高熱のせいではなく、身体の苦しさだけでは説明できない。
「……嬉しい、なんて……思ってしまった……思ってはいけないのに」
涙交じりの声に、クリスは肩をすくめる。
「だったら、そう思っとけ。遠慮すんな」
ハイデンは枕に顔を伏せ、震える息を吸い込み、そして止められない涙が静かに零れ続けた。
外では、雨がしとしとと降り始めている。冷たい雨音が屋根を叩き、孤独をなぞるように世界を包む。
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