何もかも全て諦めてしまったラスボス予定の悪役令息は、死に場所を探していた傭兵に居場所を与えてしまった件について

桜塚あお華

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第14話 クリス視点

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 雨の音が、夜の屋敷を静かに包んでくれる。屋根を叩く水の粒が小さく、けれど途切れることなく続いている。そのリズムが寝室の薄闇をゆるやかに揺らし、蝋燭の炎を淡く震わせていた。
 クリスはベッドの横に置かれた椅子に背を預け、微動だにしないでハイデンを見つめていた。
 ハイデンは、熱にうなされていた。額には細かな汗がびっしりと浮かび、髪の毛が肌にはりついている。呼吸は浅く、胸が上下するたびにその細い体がわずかに揺れた。

「……ったく、こんなになるまで……」

 クリスはぼそりと呟きながら、桶に沈めていた布を冷たい水から取り出し、手早く絞った。絞った布から滴り落ちる水がぽたり、と静かに桶へ落ちる。
 その布を額へそっと置く。じゅっ、と音を立てるのではないかと思うほどハイデンの身体は熱かった。
 布を押さえた指に、かすかに震えが宿っている。それが疲労なのか焦りなのか……本人にもわかっていなかった。

「――ハイデン……聞こえてるか?」

 返事はない。うわごとのような呼吸音だけが、時間の流れを示していた。
 汗でぐっしょりになった寝間着が気になり、クリスはふうと息を吐いて上体を起こさせる。力の抜けた体はとても軽く、腕の中で頼りなく揺れていた。
 指先に触れた肌は冷たく、けれど胸元は異様なほど熱くて――その矛盾がいっそう胸を締め付けた。

「……替えるぞ。濡れたままじゃこじれる」

 静かな声でそう言いながら、クリスはボタンをひとつずつ外す。布の下から現れた肌は、まるで冬の光に晒された枝のように細く、肋骨が薄く浮き出し肩には力がない。
 こんな身体で――どれだけの重荷を背負わされてきたのか。胸の奥に小さな怒りがふつふつと沸き上がる。
 寝間着を脱がせ、乾いた衣をそっとかけ、その動作ひとつひとつがやけに丁寧になってしまうのは、壊れてしまいそうなその身体のせいか、あるいは――。

(……違うな)

 乾いた衣を肩まで引き寄せ、紐を結ぶ。無防備に晒された喉元に目を落とした瞬間、あの言葉が鮮明に耳に蘇った。

『……兄様も、母様も、父様も……』
『……周りの人たちも……僕が死ぬ方が都合がいいって……』

 クリスの手が止まる。

 あの時、熱に浮かされた朦朧とした声で、確かにハイデンはそう言った。
 あれは弱音なんかじゃない。本気でそう信じ込まされてきた者の声だ。

「……クソ、ふざけるんじゃねぇよ」

 誰に向けたのでもない罵声が、喉から漏れた。
 なんでそんな顔をしなくちゃいけねぇんだ。
 なんでそんな言葉を自分の口で言わされてんだ。
 誰が、どんな奴がこいつをこんなふうにした――?
 怒りは静かだが、深く、痛いほど熱い。

「死んだっていいなんて……ついこの前まで、俺もそう思ってた」

 ハイデンの頬にかかった髪を指でそっと払いながら、呟く。彼は浅い呼吸の合間に、微かに唇を震わせていた。

「でもな……」

 言葉が喉の奥で詰まってしまった。理由はわかっている。
 言葉にするのが、照れくさい――いや、怖いのだ。

「……お前が、こんな顔してるのは……見たくねぇんだよ」

 クリスは思ったよりも弱い声が出たと自覚した。まるで熱に浮かされているのは自分の方だと言わんばかりに。
 ふと、ハイデンの指がかすかに動く。まるで何かを求めるように、虚空を探している。
 クリスは、その手をためらいなく握った。
 細くて、冷たくて、頼りない――だけど、確かに生きている。

(――守りたい)

 その思いは、最初からあった。兄であるソルを救えなかったあの日からずっと胸の奥に残っていた穴を埋めるように。
 だが今ここにある感情は、それとは違う。償いでも、罪滅ぼしでもない。

(違う……これは――)

 クリスはハイデンの寝顔を見つめる。
 涙の跡が薄く残るその目尻、熱で赤くなった頬。、無防備な唇――触れたら、消えてしまいそうなほど脆くて、それなのに、胸が苦しくなるほど愛おしい。

(ああそうか……俺は、きっとハイデンが、好き、なんだな)

 気づいた瞬間、胸の奥がひどく熱くなっていくのを感じた。
 呼吸が浅くなり、手に汗が滲む。
 戦場でさえ感じなかった種類の鼓動だった。

「お前さ……」

 クリスの声が微かに震える。

「こんな時に……気づかせてんじゃねぇよ」

 苦笑しながら、ハイデンの額にそっと唇を触れさせる。
 熱の中で、彼が生きていることを確かめるように、そこにいてくれることへ、言葉に出来ない感謝を込めるように。

 これは恋だ――認めるしかない。

「……平気になるまで、そばにいるから……ハイデンの傍を離れないから」

 それは誓いでも義務でもなく、ただクリスがそうしたいという、ひとつの願いだった。

 雨音はまだ続いている。しかし、クリスの胸の内では、静かに、確かに火が灯り始めていた。
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