何もかも全て諦めてしまったラスボス予定の悪役令息は、死に場所を探していた傭兵に居場所を与えてしまった件について

桜塚あお華

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第19話 リリア視点

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 学園の鐘が最後の時を告げ、寮の廊下に静寂が戻った夜。
 リリアは自室のベッドの上でノートを開きながら、軽く頬杖をついていた。白磁のティーカップからはまだ湯気が立っているが、その香りすら意識の外にある。
 彼女の瞳は、紙に走らせたメモの一行一行を追っていた。筆記体で書かれた名前と好感度の数値、イベントの発生時期、選択肢の傾向、そして――《ハイデン・ヴァルメルシュタイン》
 その名だけが、空白のままだった。

(……おかしい。イベントが、起きていない)

 リリアは窓辺に立ち、薄暗い部屋の中で小さく息を吐いた。
 既に、アレン、ライオネル、そしてカミル――主要な攻略対象たちとの接触は一通り終えている。
 会話の選択肢も、言動も、全てプレイヤーとして覚えていた通り。発言のタイミングも好感度の調整も、何一つ間違えていない。

(攻略フラグは、ちゃんと立てているし反応も悪くない。なのに……)

 問題は、【彼】だった。

(……どうして、ハイデンが出てこないの?)

 本来なら、この時期には舞台に姿を見せているはずだった。学園周辺での奇妙な事件、貴族たちのざわめき、そして偶然の再会――そうしたイベントを通して、ラスボスであるハイデン・ヴァルメルシュタインが登場する。彼との邂逅は、物語の分岐点となる重要なイベントであり、そこから一気に本筋が展開していく。

 彼が現れなければ――物語は、進まない。

 この世界は《月下の誓い》というゲームの中。
 リリアはそこに【転生】したプレイヤーであり、物語の中心であるヒロイン。その彼女が、いまだ本来のルートに乗れていないことは――。

(私が……幸せになれない)

 リリアはきつく唇を噛んだ。
 どんなに優しい言葉をかけられても、甘い時間を過ごしても、それはまだ仮の幸福でしかない。
 正しい順序を踏み、ラスボスを乗り越え、攻略対象たちと絆を深めた先にこそ――彼女が目指す真のハッピーエンドがある。

「……待ってるだけじゃ、ダメなのね」

 ぽつりと呟き、リリアは机の前に座る。
 鏡に映る自分の顔を見つめながら、目元に力を込めた。
 自分は普通の少女ではない。この物語の中心であり、導く者であり、選ばれし【ヒロイン】だ。
 だからこそ、物語を正しい形に戻さなくてはならない。この世界がどれだけ【ズレ】を見せようと、自分がそれを修正する。
 歪みを正し、予定通りの幸福を掴み取る――それが、この世界に生きるヒロインだ。

(私が幸せになるためには、正しく進んだ物語が必要なの!)

 自分だけが知っている未来。
 自分だけが知っている本来の展開。
 その記憶があれば、きっと辿り着ける。
 この世界で、自分だけは最後に笑える。
 そのために――何が必要かは、わかっていた。

(そう……彼が動かないなら、きっかけを作ってあげればいい)

 リリアは、ふと思い出す。
 ゲーム内で一度プレイした、ハイデンとの対決イベント。あれは確か、カミルが偶然彼と接触したことがきっかけだった。その偶然を演出すれば、イベントは自然と始まる。

(運命を待つんじゃない。私は……私の手で、引きずり出さなきゃ)

 すっと立ち上がり、リリアはカーテンを押し開け、夜空の風が部屋に入り込み、薄いドレスの裾を揺らす。
 見下ろす庭園は静寂に包まれ、どこまでも整然としていた。
 その静けさの中に、彼女は違和感を感じている。本来なら、ここには嵐が吹き荒れていなければならないのだ。

「……なら、私が動いてあげるわ」

 唇が、低く囁くように言葉をこぼす。
 それは祈りにも似た決意であり、命令にも似た響きを持っていた。

「この物語を、元通りに――そして、私を幸せに導いてよ」

 その目に浮かぶのは、ヒロインとしての【意志】。
 自分の幸せのために、正しく、物語を動かす。
 それがこの世界に生きる唯一の意味なのだと、彼女は信じていた。

 それは、自信のある【主役】の言葉でありながら――同時に、【正しさ】にすがるしかない少女の叫びでもあった。
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