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1話 エステルは呪われている
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白亜の美しい石造りの街の隅で、幼子と少女が手を取って笑い合っていた。天からは柔らかな光が降り注ぎ、二人の周りを優しく包みこんでいる。
「坊やは隠れるのがお上手ですわね」
「エステルの探し方が下手なんだよ」
坊やの歳の頃は七、八歳頃だろうか。十代中程の少女から見れば可愛らしい、年の離れた弟のような存在だった。二人共、裏街の雰囲気にそぐわない立派な服を身にまとっている。お互いに気になるところではあったが、お忍びという名目でこっそりと遊ぶ仲であるので、指摘をし合うことは断じてなかった。
「坊や。お伝えしなければならないことがあるの」
膝を折って坊やの目線に合わせた少女──エステルの、サマーグリーンのドレスの裾が地に触れる。にこりと微笑むと形の良い眉がスッと下がった。
「今日でお別れです」
「えっ……! どうして?」
「お父様の仕事が終わって、明日の朝この国を立つのです」
「そんな……せっかく仲良くなれたのに……」
坊やの青い瞳が揺らぐ。泣くまいとシャツの袖で顔を擦るが、意味をなさなかった。
「きっとまた会えますわ。泣かないで?」
エステルは坊やを抱き寄せ、そっと抱きしめた。その光景を少し離れたところから見ている不気味な影が一つあることに二人は気が付くはずもなく──……
「……」
建物の陰で、不気味な黒い影がゆらりと揺れる。
「あの小娘……なんと妬ましい……!」
漆黒のドレスに身を包んだ細身の女は、大きな三角帽を頭に乗せて顔を歪めた。
「羨ましい……わしだって……!」
女は魔女だった。顔を歪ませたままの魔女は、建物の影からスッと姿を現した。そしてエステルを指差すと、指の先端から鈍い光が扇のように広がり、突き進んだ。
「危ないっ!」
悪意の込められた鈍い光にいち早く気が付いたエステルは、坊やを突き飛ばす。全身で光を受け止めたエステルはそのまま──
◇
「……夢?」
本を読みながら、机に突っ伏し眠ってしまったようだ。広さだけは十分にあるエステル私室の本棚には、本がぎっしりと詰め込まれている。壁一面に収まりきらない本たちの残りは、隣部屋の書庫に押し込められていた。
窓の外から差し込む西日が、エステルの髪を照らした。
エステル・クレマンは不幸にも、少女時代に魔女の呪いを受けてしまった辺境伯令嬢だ。
魔女の悪趣味が色濃く滲んだ呪いは、『その目で顔を見つめた人物の心を読む』、という彼女の人生を狂わせるには十分なものだった。
(昔の夢をみるなんて……もしかして)
乱れた髪を撫でつけながら、大きな溜め息をついた。この夢を見た時には決まって父がエステルを呼びつけるのだ。
「お嬢様」
「……はぁ。ほらね」
私室の扉がノックされ、エステルは立ち上がる。扉の前で立ち止まると、背を向けて「どうぞ」と声を張り上げた。
「し……失礼します」
扉の把手を引いた若い侍女は、手に持った布をエステルの手元に差し出した。これで目隠しをしろという、父からの命令であった。
(いつものことよ。もう慣れたわ)
布で目元を隠して頭の後ろできつく結ぶと、侍女が手を引いてくれる。呪いを受けた十二年前のあの日から、父がエステルを呼び出すときは必ず目隠しをするよう言いつけられていた。
顔を見ねば心は読めぬと何度言っても信じてはもらえなかった。父は余程心の中を覗かれると都合が悪いらしい。
(お父様が何を隠しているかなんて、心を覗かなくても知っているのに)
エステルの受けた呪いの秘密を隠すために、父が人を使って何人も葬ってきたことを知っていた。今更何をとも思ったが、もしかすると父は他にも隠していることがあるのかもしれない。
二階のうんと隅の部屋から一階の執務室への道のりを、侍女に手を引かれながら歩く。最初の頃はよく階段で足を踏み外していたが、回数を重ねるうちに慣れていった。
「お嬢様」
「ありがとう」
父 クレマン辺境伯の執務室に到着すると、侍女が扉をノックする。目隠しをされたままのエステルは、侍女に手を引かれ執務机の前で立ち止まった。
(……怖い)
父の存在は、エステルにとって恐怖でしかなかった。
幼い頃はエステルの美しさや能力の高さを自慢気に吹聴していた父だったが、呪いを受けてからは一転。「手塩にかけて育てたというのに呪いなど受けおって!」から始まった攻撃は留まる所を知らず、呪いを受けた当時は汚い言葉で罵られ、酷い扱いを受けた。屋敷のうんと隅の部屋に追いやられ、次第に存在すら消されたかのように、父はエステルに関わらなくなった。
(……それなのに、この呪いを利用したい時だけは呼びつけるのよね)
溜め息をなんとか飲み込み、エステルは黙って父の言葉を待った。緊張と恐怖で、悪寒と吐き気がエステルを襲う。
「来たか」
「はい」
「お前の嫁入りが決まった」
「……は、何を」
恐怖で声が上ずる。目隠しをしていても、侍女たちの緊張がビリビリと伝わってきた。
「嫁入りだ。お前には外に嫁いてもらう」
「……」
婚期を過ぎて何年が経っただろう。エステルも今年で二十九になった。そんな行き遅れを娶りたいなど、一体どこの物好きだろうか。
「国王様直々の 命なのだ、断ることは許されぬ」
「命……?」
「お前のその力を欲している国があるらしい。あのハルヴェルゲン王国だ」
「……ハルヴェルゲン王国」
ハルヴェルゲン王国といえば、国土が広く自然豊かで資源にも恵まれている大国だ。このアルリエータ王国とも貿易をしており、木材においては百%輸入頼みだということくらいの知識はエステルにもあった。
それとは別にもう一つ。ハルヴェルゲン王国は十二年前にエステルが魔女の呪いを受けた国であった。
「そのハルヴェルゲン王国が、闇色の魔女の呪いにかかってしまったらしい。国民全てが、だ」
「なんてこと……!」
先程夢でみたばかりの──闇色の魔女。
気まぐれで各地に呪いを残すという習性がある、たちの悪い魔女だ。エステルもデビュー直前の十七の時、外交で赴いたこの国で魔女に目をつけられて呪われたのだ。
「詳しいことは伏せられていて私も知らないのだが、どうやら国民たちは言葉を上手く使えなくなってしまったようだ。そこでお前だ、エステル」
「……そういうことですか」
「王家に嫁入りして、国政の手助けをしてほしいそうだ」
「……王家?」
思いもよらぬ嫁ぎ先に、エステルは布の下で目を丸くする。
(わたくしのような行き遅れに縁談など……何かあるとは思ったけれど、まさか王家とは……)
もしかすると、この家に留まるより良い暮らしができるかもしれない。一瞬そのような考えが浮かんだが、すぐに首を横に振った。心を覗く呪いにかかった女など、誰が歓迎するだろうか。きっと必要な時だけ呼び出され、軟禁されるに違いない。
「なるべく早く来てほしいとのことなのだ、準備を急ぎ進めなさい」
「承知しました」
「今夜には立ちなさい」
「……はい」
なんとも急な話だ。たった数時間で国外に嫁ぐ準備をしろだなんて。普通では考えられない事態だが、行き遅れの呪われた軟禁令嬢ともあれば話は別なのだろう。
「ハルヴェルゲンからは何も持参しなくてよいと言われている」
「……はい」
別れを告げる友人も、持っていく荷物もほとんどないのだ。私室や書庫の本は何度も何度も読んだせいか、頭の中に刷り込まれている。持っていく必要はないだろうし、あれだけたくさんのものを持っていけるはずもなかった。
「下がってよい」
「……失礼します」
エステルが父に頭を下げると、すぐに侍女に手を掴まれた。冷たく震える侍女に手を引かれ、執務室をあとにする。
「お嬢様」
「ええ、ありがとう」
「では……」
執務室の扉が閉じると同時に、侍女がエステルの手を離す。足音が遠退いて行くのを待ってから、目隠しを解いた。
「……はぁ」
目隠しを外すと、明るいブルーグレーの髪がさらさらと揺れる。露わになった金の瞳は、月光のような光を放っている。
(お父様……本当に自分勝手な人ね。使用人たちのことは考えていないよう)
執務室に来る時は、万が一のことを考えて目隠しをしろという命令であった。しかし父との面会のあとは、部屋を出れば目隠しを取ってもいいと言われていた。エステルが目隠しを外せば、当然使用人たちは恐れをなして逃げてゆく。
(まあ……誰も心の中を覗かれたくはないわよね)
エステルは自室へと続く廊下を進む。彼女の前を歩く使用人は誰もいない。ふとした拍子に振り返り顔を見られてしまえば、心の中を覗かれてしまうとあっては皆が避けるのは必然であった。
この家の廊下の角や部屋の出入口の前には、身を隠すための観葉植物や大きな振り子時計が多い。思いがけずエステルに出会った時のために身を隠す為のものだ。
(トラウマものよね……)
自室を出ると、エステルの短い溜め息ばかりが廊下に立ち込める。使用人たちはエステルが私室から出る際、情報の共有でもしているのだろうか──不思議なことに、誰とも出くわすことなく階段まで辿り着く。自分が呪いのせいで恐れられている自覚はあるので、そうだと言われても納得ができた。
(早く戻って準備をしないと……あ、そうだわ)
この家で唯一、きちんと別れを告げなければならない相手がいることを思い出す。この時間であれば、きっと裏庭で剣を振るっているだろう。くるりと向きを変え、歩き出そうとしたその時だった。
「あっ、お嬢様~!」──『お嬢様だ!』
エステルの正面からやってきたのは、エステル専属騎士のベルナールだった。波がかった飴色の髪に、ペリドットのように輝く瞳。頭の上で手を振りながら駆けて来る姿は忠実な犬のようだ。
「お出かけですか?」──『こんな時間に珍しい! どこに行くのかな?』
「違うわ……お別れよ、ベルナール」
ベルナールは、心の声を覗かれても気にしない屋敷で唯一の男だった。覗いたところで声と心が大体一致しているので、なるほどこれは覗かれても気にしないわけだ、とエステルは腑に落ちていた。
「お嬢様、お顔が暗いですよ?」──『そんなお顔も美しいのですが! まあ僕のほうが美しいけれど!』
「話があるの」
ベルナールの自己肯定感高めの心の声はいつものことなので、そこは無視をする。いつもと違うエステルの態度を不思議に思ったのか、ベルナールは眉を持ち上げて首を傾げた。
「何かありました?」──『お別れとは?』
「……国外に嫁げですって。今夜立つわ」
「なんと急なお話」──『準備を急がないと』
「今までありがとう、ベルナール」
ハルヴェルゲンはこの国からは遠い。エステルが嫁ぐ際、共に来てくれる侍女などいないだろう。幼少から世話を焼いてくれていた侍女も、呪いを受けたのを期にエステルから離れていったのだから。
おまけに普段世話を焼いてくれる侍女すらいないのだから、結婚を期に着いていきます!だなんて勇敢な者などいないはずだ。
「何処の国です?」──『楽しい国かな?』
「ハルヴェルゲン王国」
「ハルヴェルゲン!?」──『やった~! 嬉しい! ハルヴェルゲン!』
周りに人がいないのをいいことに、ベルナールは腕を上げて大喜びの様子。
「何故あなたが喜ぶのよ」
「ハルヴェルゲンは食事も美味しいですし、文化も勉学も優れた国です! 僕の美しさを理解してくれる人も大勢いるはずです!」──『僕の美しさは万国共通のはずだから!』
「ちょ……ちょっと待ってベルナール」
エステルは右手で額を打った。ベルナールの声がうるさすぎて、集中できないのだ。
「なに、あなたもしかしてついてくるつもり?」
「勿論じゃないですか!」──『お嬢様を一人にはしません!』
「え……」
「お嬢様を一人にはしませんよ?」──『僕もハルヴェルゲン行ってみたいし!』
「あなた、家族はどうするのよ」
ベルナールはエステルより五つ年下だが、婚約者はいないという。三男坊であるため、ある程度の自由は利くと言っていたが、遠く離れた国に行くと聞けば、家族だって黙ってはいないだろう。
「家族?」──『……家族だなんて、あんな人達』
「……」
「僕は生涯独身でもいいと思っているのです、大丈夫ですよお嬢様。どこまでもお仕えします」──『美しい僕の心を射止める方がいれば、考えなくもないけれど』
片膝をついたベルナールが、エステルの指先を摘み上げる。スッと目を閉じると、グローブの嵌ったエステルの手の甲に額を押し当てた。これはアルリエータ王国において、敬意を現すものであった。
「本当にいいの? 後悔しない?」
「当たり前ですよ!」──『ああ、僕と同じくらい美しいお顔が歪んで……泣いてしまわれる』
「泣いてないわよ、ばか」
ぷい、と視線を窓の外に移す。窓の外では青く茂った草花が、ゆらゆらと風に遊ばれていた。
「坊やは隠れるのがお上手ですわね」
「エステルの探し方が下手なんだよ」
坊やの歳の頃は七、八歳頃だろうか。十代中程の少女から見れば可愛らしい、年の離れた弟のような存在だった。二人共、裏街の雰囲気にそぐわない立派な服を身にまとっている。お互いに気になるところではあったが、お忍びという名目でこっそりと遊ぶ仲であるので、指摘をし合うことは断じてなかった。
「坊や。お伝えしなければならないことがあるの」
膝を折って坊やの目線に合わせた少女──エステルの、サマーグリーンのドレスの裾が地に触れる。にこりと微笑むと形の良い眉がスッと下がった。
「今日でお別れです」
「えっ……! どうして?」
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「そんな……せっかく仲良くなれたのに……」
坊やの青い瞳が揺らぐ。泣くまいとシャツの袖で顔を擦るが、意味をなさなかった。
「きっとまた会えますわ。泣かないで?」
エステルは坊やを抱き寄せ、そっと抱きしめた。その光景を少し離れたところから見ている不気味な影が一つあることに二人は気が付くはずもなく──……
「……」
建物の陰で、不気味な黒い影がゆらりと揺れる。
「あの小娘……なんと妬ましい……!」
漆黒のドレスに身を包んだ細身の女は、大きな三角帽を頭に乗せて顔を歪めた。
「羨ましい……わしだって……!」
女は魔女だった。顔を歪ませたままの魔女は、建物の影からスッと姿を現した。そしてエステルを指差すと、指の先端から鈍い光が扇のように広がり、突き進んだ。
「危ないっ!」
悪意の込められた鈍い光にいち早く気が付いたエステルは、坊やを突き飛ばす。全身で光を受け止めたエステルはそのまま──
◇
「……夢?」
本を読みながら、机に突っ伏し眠ってしまったようだ。広さだけは十分にあるエステル私室の本棚には、本がぎっしりと詰め込まれている。壁一面に収まりきらない本たちの残りは、隣部屋の書庫に押し込められていた。
窓の外から差し込む西日が、エステルの髪を照らした。
エステル・クレマンは不幸にも、少女時代に魔女の呪いを受けてしまった辺境伯令嬢だ。
魔女の悪趣味が色濃く滲んだ呪いは、『その目で顔を見つめた人物の心を読む』、という彼女の人生を狂わせるには十分なものだった。
(昔の夢をみるなんて……もしかして)
乱れた髪を撫でつけながら、大きな溜め息をついた。この夢を見た時には決まって父がエステルを呼びつけるのだ。
「お嬢様」
「……はぁ。ほらね」
私室の扉がノックされ、エステルは立ち上がる。扉の前で立ち止まると、背を向けて「どうぞ」と声を張り上げた。
「し……失礼します」
扉の把手を引いた若い侍女は、手に持った布をエステルの手元に差し出した。これで目隠しをしろという、父からの命令であった。
(いつものことよ。もう慣れたわ)
布で目元を隠して頭の後ろできつく結ぶと、侍女が手を引いてくれる。呪いを受けた十二年前のあの日から、父がエステルを呼び出すときは必ず目隠しをするよう言いつけられていた。
顔を見ねば心は読めぬと何度言っても信じてはもらえなかった。父は余程心の中を覗かれると都合が悪いらしい。
(お父様が何を隠しているかなんて、心を覗かなくても知っているのに)
エステルの受けた呪いの秘密を隠すために、父が人を使って何人も葬ってきたことを知っていた。今更何をとも思ったが、もしかすると父は他にも隠していることがあるのかもしれない。
二階のうんと隅の部屋から一階の執務室への道のりを、侍女に手を引かれながら歩く。最初の頃はよく階段で足を踏み外していたが、回数を重ねるうちに慣れていった。
「お嬢様」
「ありがとう」
父 クレマン辺境伯の執務室に到着すると、侍女が扉をノックする。目隠しをされたままのエステルは、侍女に手を引かれ執務机の前で立ち止まった。
(……怖い)
父の存在は、エステルにとって恐怖でしかなかった。
幼い頃はエステルの美しさや能力の高さを自慢気に吹聴していた父だったが、呪いを受けてからは一転。「手塩にかけて育てたというのに呪いなど受けおって!」から始まった攻撃は留まる所を知らず、呪いを受けた当時は汚い言葉で罵られ、酷い扱いを受けた。屋敷のうんと隅の部屋に追いやられ、次第に存在すら消されたかのように、父はエステルに関わらなくなった。
(……それなのに、この呪いを利用したい時だけは呼びつけるのよね)
溜め息をなんとか飲み込み、エステルは黙って父の言葉を待った。緊張と恐怖で、悪寒と吐き気がエステルを襲う。
「来たか」
「はい」
「お前の嫁入りが決まった」
「……は、何を」
恐怖で声が上ずる。目隠しをしていても、侍女たちの緊張がビリビリと伝わってきた。
「嫁入りだ。お前には外に嫁いてもらう」
「……」
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「国王様直々の 命なのだ、断ることは許されぬ」
「命……?」
「お前のその力を欲している国があるらしい。あのハルヴェルゲン王国だ」
「……ハルヴェルゲン王国」
ハルヴェルゲン王国といえば、国土が広く自然豊かで資源にも恵まれている大国だ。このアルリエータ王国とも貿易をしており、木材においては百%輸入頼みだということくらいの知識はエステルにもあった。
それとは別にもう一つ。ハルヴェルゲン王国は十二年前にエステルが魔女の呪いを受けた国であった。
「そのハルヴェルゲン王国が、闇色の魔女の呪いにかかってしまったらしい。国民全てが、だ」
「なんてこと……!」
先程夢でみたばかりの──闇色の魔女。
気まぐれで各地に呪いを残すという習性がある、たちの悪い魔女だ。エステルもデビュー直前の十七の時、外交で赴いたこの国で魔女に目をつけられて呪われたのだ。
「詳しいことは伏せられていて私も知らないのだが、どうやら国民たちは言葉を上手く使えなくなってしまったようだ。そこでお前だ、エステル」
「……そういうことですか」
「王家に嫁入りして、国政の手助けをしてほしいそうだ」
「……王家?」
思いもよらぬ嫁ぎ先に、エステルは布の下で目を丸くする。
(わたくしのような行き遅れに縁談など……何かあるとは思ったけれど、まさか王家とは……)
もしかすると、この家に留まるより良い暮らしができるかもしれない。一瞬そのような考えが浮かんだが、すぐに首を横に振った。心を覗く呪いにかかった女など、誰が歓迎するだろうか。きっと必要な時だけ呼び出され、軟禁されるに違いない。
「なるべく早く来てほしいとのことなのだ、準備を急ぎ進めなさい」
「承知しました」
「今夜には立ちなさい」
「……はい」
なんとも急な話だ。たった数時間で国外に嫁ぐ準備をしろだなんて。普通では考えられない事態だが、行き遅れの呪われた軟禁令嬢ともあれば話は別なのだろう。
「ハルヴェルゲンからは何も持参しなくてよいと言われている」
「……はい」
別れを告げる友人も、持っていく荷物もほとんどないのだ。私室や書庫の本は何度も何度も読んだせいか、頭の中に刷り込まれている。持っていく必要はないだろうし、あれだけたくさんのものを持っていけるはずもなかった。
「下がってよい」
「……失礼します」
エステルが父に頭を下げると、すぐに侍女に手を掴まれた。冷たく震える侍女に手を引かれ、執務室をあとにする。
「お嬢様」
「ええ、ありがとう」
「では……」
執務室の扉が閉じると同時に、侍女がエステルの手を離す。足音が遠退いて行くのを待ってから、目隠しを解いた。
「……はぁ」
目隠しを外すと、明るいブルーグレーの髪がさらさらと揺れる。露わになった金の瞳は、月光のような光を放っている。
(お父様……本当に自分勝手な人ね。使用人たちのことは考えていないよう)
執務室に来る時は、万が一のことを考えて目隠しをしろという命令であった。しかし父との面会のあとは、部屋を出れば目隠しを取ってもいいと言われていた。エステルが目隠しを外せば、当然使用人たちは恐れをなして逃げてゆく。
(まあ……誰も心の中を覗かれたくはないわよね)
エステルは自室へと続く廊下を進む。彼女の前を歩く使用人は誰もいない。ふとした拍子に振り返り顔を見られてしまえば、心の中を覗かれてしまうとあっては皆が避けるのは必然であった。
この家の廊下の角や部屋の出入口の前には、身を隠すための観葉植物や大きな振り子時計が多い。思いがけずエステルに出会った時のために身を隠す為のものだ。
(トラウマものよね……)
自室を出ると、エステルの短い溜め息ばかりが廊下に立ち込める。使用人たちはエステルが私室から出る際、情報の共有でもしているのだろうか──不思議なことに、誰とも出くわすことなく階段まで辿り着く。自分が呪いのせいで恐れられている自覚はあるので、そうだと言われても納得ができた。
(早く戻って準備をしないと……あ、そうだわ)
この家で唯一、きちんと別れを告げなければならない相手がいることを思い出す。この時間であれば、きっと裏庭で剣を振るっているだろう。くるりと向きを変え、歩き出そうとしたその時だった。
「あっ、お嬢様~!」──『お嬢様だ!』
エステルの正面からやってきたのは、エステル専属騎士のベルナールだった。波がかった飴色の髪に、ペリドットのように輝く瞳。頭の上で手を振りながら駆けて来る姿は忠実な犬のようだ。
「お出かけですか?」──『こんな時間に珍しい! どこに行くのかな?』
「違うわ……お別れよ、ベルナール」
ベルナールは、心の声を覗かれても気にしない屋敷で唯一の男だった。覗いたところで声と心が大体一致しているので、なるほどこれは覗かれても気にしないわけだ、とエステルは腑に落ちていた。
「お嬢様、お顔が暗いですよ?」──『そんなお顔も美しいのですが! まあ僕のほうが美しいけれど!』
「話があるの」
ベルナールの自己肯定感高めの心の声はいつものことなので、そこは無視をする。いつもと違うエステルの態度を不思議に思ったのか、ベルナールは眉を持ち上げて首を傾げた。
「何かありました?」──『お別れとは?』
「……国外に嫁げですって。今夜立つわ」
「なんと急なお話」──『準備を急がないと』
「今までありがとう、ベルナール」
ハルヴェルゲンはこの国からは遠い。エステルが嫁ぐ際、共に来てくれる侍女などいないだろう。幼少から世話を焼いてくれていた侍女も、呪いを受けたのを期にエステルから離れていったのだから。
おまけに普段世話を焼いてくれる侍女すらいないのだから、結婚を期に着いていきます!だなんて勇敢な者などいないはずだ。
「何処の国です?」──『楽しい国かな?』
「ハルヴェルゲン王国」
「ハルヴェルゲン!?」──『やった~! 嬉しい! ハルヴェルゲン!』
周りに人がいないのをいいことに、ベルナールは腕を上げて大喜びの様子。
「何故あなたが喜ぶのよ」
「ハルヴェルゲンは食事も美味しいですし、文化も勉学も優れた国です! 僕の美しさを理解してくれる人も大勢いるはずです!」──『僕の美しさは万国共通のはずだから!』
「ちょ……ちょっと待ってベルナール」
エステルは右手で額を打った。ベルナールの声がうるさすぎて、集中できないのだ。
「なに、あなたもしかしてついてくるつもり?」
「勿論じゃないですか!」──『お嬢様を一人にはしません!』
「え……」
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ベルナールはエステルより五つ年下だが、婚約者はいないという。三男坊であるため、ある程度の自由は利くと言っていたが、遠く離れた国に行くと聞けば、家族だって黙ってはいないだろう。
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「……」
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片膝をついたベルナールが、エステルの指先を摘み上げる。スッと目を閉じると、グローブの嵌ったエステルの手の甲に額を押し当てた。これはアルリエータ王国において、敬意を現すものであった。
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「当たり前ですよ!」──『ああ、僕と同じくらい美しいお顔が歪んで……泣いてしまわれる』
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