婚約破棄で、おひとり様になれるはずだったのに!?

パリパリかぷちーの

文字の大きさ
2 / 28

2

しおりを挟む
夜明け前。

世界がまだ薄墨色の静寂に包まれている時間帯。

一台の馬車が、ヴァイオレット公爵邸の裏門からひっそりと滑り出した。

見送りはいない。

なぜなら、ルシアンが誰にも気付かれないよう、忍び足で屋敷を抜け出してきたからだ。

御者台に座るのは、古株の御者であるハンスだけ。

彼は手綱を握りながら、何度もハンカチで目元を拭っていた。

「……ううっ、お嬢様。本当によろしいのですか? こんな、夜逃げのような真似をして……」

馬車の中から、ルシアンの冷静な(しかし内心はウキウキした)声が響く。

「ハンス、言葉を慎みなさい。夜逃げではありません。『戦略的撤退』兼『早期リタイア生活の開始』です」

「ですが、公爵様にも挨拶せずに出立だなんて……。これではまるで、罪人の流刑ではありませんか」

「挨拶などすれば、お父様のことですもの。『やはり護衛をつけよう』だの『侍女を連れて行け』だの、余計なオプションをつけてくるに決まっています」

ルシアンは窓のカーテンを少しだけ開け、遠ざかる王都の街並みを眺めた。

まだ眠っている街。

騒音のない街。

(ああ、なんて美しいのかしら)

彼女は深く息を吸い込んだ。

アラン王子の高笑いも、ミナの猫なで声も、夜会の不協和音も、すべてが過去のものとなりつつある。

「ハンス、馬を急がせて。太陽が昇りきって、人々が活動を始める前に、人里を離れたいのです」

「お嬢様……。そのように急いで王都を離れたいほど、お辛いのですね……」

ハンスは盛大な勘違いをして、鼻をすする音を大きくした。

「アラン殿下にあのような恥をかかされ、社交界の噂になるのが耐えられないのでしょう……? 分かります、分かりますぞ。私がもっと若ければ、殿下に決闘を申し込んでいたものを!」

「……ハンス、お願いですから静かに運転してください。あなたの鼻をすする音が、今の私にとって最大の騒音です」

「申し訳ございませんっ! このハンス、涙と共に音も飲み込みます!」

「……ええ、そうしてください」

ルシアンは窓を閉め、シートに深く身を沈めた。

(さあ、目指すは北の果て。地図にも載っていないような森の奥深く)

彼女が向かうのは、ヴァイオレット家が所有する領地の中でも、最も辺鄙な場所にある『旧別荘』だ。

かつては狩猟用の館として使われていたらしいが、十年以上放置され、今では地元民ですら近寄らない廃墟と化しているという。

(最高じゃない)

ルシアンは口元を緩ませた。

幽霊屋敷? 大歓迎だ。

幽霊は喋らないし、物理的な干渉もしてこない。

人間よりも遥かに良識的なルームメイトになり得るだろう。



馬車は半日ほど走り続け、やがて舗装された街道を外れた。

鬱蒼とした森の中へ続く、獣道のような砂利道を進んでいく。

木々の枝が馬車の屋根を擦り、ガサガサという音を立てる。

鳥の鳴き声すら聞こえない、深い緑の闇。

一般の令嬢ならば恐怖で震え上がるような光景だが、ルシアンにとっては極上の癒やし空間だった。

「お、お嬢様……本当にこの道で合っているのでしょうか? 先ほどから、背筋がゾクゾクするのですが……」

ハンスの声が震えている。

「合っていますよ。お父様の書斎から盗ん……拝借した地図によれば、この一本道の突き当たりです」

「く、熊とか出ませんかね?」

「出たら出たで構いません。熊は言葉を喋りませんから」

「そういう問題ではございません!?」

そんな不毛な会話を交わしているうちに、視界が開けた。

「……あ、ありました。あれですね」

ハンスが馬車を止める。

ルシアンは期待に胸を膨らませ、馬車の扉を開けて飛び降りた。

「到着しましたのね! 私の楽園――」

言葉が途切れる。

目の前にそびえ立っていたのは、想像を絶する『物件』だった。

石造りの二階建て屋敷。

屋根瓦は半分以上剥がれ落ち、壁には巨大な蔦が絡まりつき、窓ガラスは割れ、玄関の扉は斜めに傾いている。

庭は雑草が背丈ほどまで伸び、どこからか「ヒュオオオ……」という風切り音が聞こえてくる。

まさに、絵に描いたようなホラーハウス。

「……ひ、ひぃぃッ!!」

ハンスが短い悲鳴を上げる。

「お、お嬢様! 無理です! これは無理です! 人が住める場所ではありません! 今すぐ引き返しましょう!」

しかし、ルシアンの反応は違った。

彼女は頬を紅潮させ、うっとりとした瞳でその廃墟を見上げていた。

「……素晴らしいわ」

「はい!?」

「見て、ハンス。あの蜘蛛の巣。あれほど見事な幾何学模様、芸術作品だわ。それにあの傾いた扉。誰の侵入も拒むという、強い意志を感じる」

「お嬢様、正気ですか!? あれはただの老朽化です!」

「そして何より……」

ルシアンは両手を広げ、周囲の空気を抱きしめるようにした。

「人の気配が、微塵もない」

「そりゃあそうでしょうよ! こんな化け物屋敷に住む物好きはいません!」

「ここに決めました。いえ、ここが私の終の棲家です」

ルシアンは荷台から自分のトランクを下ろすと、地面にドンと置いた。

「ハンス、あなたは帰りなさい。長い道中、ご苦労様でした」

「お、置いていけるわけがありません! こんな場所に、お嬢様をお一人にするなんて!」

「命令です」

ルシアンの声色が、スッと低くなる。

王城の夜会で見せた、あの『氷の悪役令嬢』のトーンだ。

「私は一人になりたいのです。誰の目も、誰の声も届かない場所で、静かに朽ちていきたいのです(比喩ではなく願望)。……分かってくれますね?」

「お嬢様……」

ハンスは涙ぐみ、そして諦めたように肩を落とした。

「……分かりました。ですが、一ヶ月に一度、物資を届けに来ます。それだけは譲れません」

「……分かりました。ただし、玄関前に置いてすぐに帰ること。インターホン(鐘)は鳴らさないでください。私が驚くので」

「どこまでも頑なですね……。では、どうかご無事で!」

ハンスは後ろ髪を引かれる思いで馬車を回頭させ、逃げるように森の奥へと去っていった。

遠ざかる馬蹄の音が完全に聞こえなくなるまで、ルシアンはその場に立ち尽くしていた。

そして。

完全なる静寂が訪れた。

「…………ふふ」

笑みがこぼれる。

「あはははは! やった! やったわ! 一人よ! 完全なる孤独よ!」

ルシアンは誰もいない荒れ放題の庭で、くるくると回った。

誰に見られる心配もない。

無表情を保つ必要もない。

彼女はトランクを引きずり、傾いた玄関の前までスキップで移動した。

「さあ、まずは現状確認ね。今日からここが、私の城(サンクチュアリ)――」

ギギギ……と不気味な音を立てて、扉を開ける。

中は薄暗く、埃の匂いが充満していた。

床板は腐りかけている場所もあるが、骨組みはしっかりしているようだ。

「掃除しがいがありそうね。……うん?」

ふと、ルシアンは違和感を覚えた。

廊下の奥。

埃が積もっているはずの床に、何かが引きずられたような跡がある。

いや、それだけではない。

階段の手すりが、一部分だけ妙に綺麗だ。

まるで、つい最近、誰かが触れたかのように。

(……動物?)

ルシアンは首を傾げた。

(狸か、狐か。……まあいいわ、彼らとなら共存できる)

彼女は気にせず、まずは寝室を確保しようと二階へ上がろうとした。

その時だ。

二階の窓の外。

割れたガラスの隙間から、何かが動くのが見えた。

鳥ではない。

もっと大きな――人影?

ルシアンは足を止めた。心臓が嫌なリズムで跳ねる。

(まさか、浮浪者? それとも山賊?)

もし人間がいるのなら、楽園計画は白紙撤回だ。

ルシアンは音を立てずに階段を上り、気配のする部屋へと近づいた。

一番奥の部屋。

かつての主寝室だろうか。

ドアは開け放たれている。

ルシアンは壁に背をつけ、そっと中の様子を伺った。

そこには。

「…………」

一人の男がいた。

黒髪に黒い瞳。

長身痩躯で、飾り気のない黒い服を身に纏っている。

彼は窓枠に腰掛け、壊れた屋根の隙間を、金槌と釘を使って黙々と修理していた。

カン、カン、カン。

リズミカルで、しかし必要最小限の音しか立てない、職人のような手付き。

(……誰?)

ルシアンは混乱した。

泥棒にしては堂々としているし、修理をしているという意味がわからない。

何より、彼の纏う空気が異常だった。

彼からもまた、自分と同じ匂い――『他者を拒絶する静寂』が漂っていたのだ。

男がふと、手を止める。

そしてゆっくりと、ルシアンが隠れているドアの方へと顔を向けた。

視線が交差する。

「…………」

「…………」

沈黙。

永遠にも感じる数秒間。

普通なら「誰だ!」と叫ぶ場面だろう。

あるいは女性なら悲鳴を上げる場面だ。

しかし、ルシアンは言葉を発しなかった。声を出せば、静寂が壊れるからだ。

そして男もまた、一言も発しなかった。

彼は無表情のまま、再び金槌を振り上げ、屋根の修理を再開したのだ。

カン、カン、カン。

(……無視、された?)

ルシアンはその場で瞬きをした。

追い出すでもなく、挨拶するでもなく、ただ『そこにいること』を自然現象として受け流されたような感覚。

(この人……私より、コミュニケーション能力が死んでいるのではなくて?)

幽霊屋敷に住み着いていたのは、幽霊よりもタチの悪い、無口すぎる不審者だった。

ルシアンの『完全なるおひとり様ライフ』に、早くも暗雲が立ち込めていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

婚約破棄される前に、帰らせていただきます!

パリパリかぷちーの
恋愛
ある日、マリス王国の侯爵令嬢クロナは、王子が男爵令嬢リリィと密会し、自分を「可愛げのない女」と罵り、卒業パーティーで「婚約破棄」を言い渡そうと画策している現場を目撃してしまう。 普通なら嘆き悲しむ場面だが、クロナの反応は違った。

王太子殿下から婚約破棄されたのは冷たい私のせいですか?

ねーさん
恋愛
 公爵令嬢であるアリシアは王太子殿下と婚約してから十年、王太子妃教育に勤しんで来た。  なのに王太子殿下は男爵令嬢とイチャイチャ…諫めるアリシアを悪者扱い。「アリシア様は殿下に冷たい」なんて男爵令嬢に言われ、結果、婚約は破棄。    王太子妃になるため自由な時間もなく頑張って来たのに、私は駒じゃありません!

謹んで、婚約破棄をお受けいたします。

パリパリかぷちーの
恋愛
きつい目つきと素直でない性格から『悪役令嬢』と噂される公爵令嬢マーブル。彼女は、王太子ジュリアンの婚約者であったが、王子の新たな恋人である男爵令嬢クララの策略により、夜会の場で大勢の貴族たちの前で婚約を破棄されてしまう。

婚約破棄、承りました!悪役令嬢は面倒なので認めます。

パリパリかぷちーの
恋愛
「ミイーシヤ! 貴様との婚約を破棄する!」 王城の夜会で、バカ王子アレクセイから婚約破棄を突きつけられた公爵令嬢ミイーシヤ。 周囲は彼女が泣き崩れると思ったが――彼女は「承知いたしました(ガッツポーズ)」と即答!

私が生きていたことは秘密にしてください

月山 歩
恋愛
メイベルは婚約者と妹によって、崖に突き落とされ、公爵家の領地に倒れていた。 見つけてくれた彼は一見優しそうだが、行方不明のまま隠れて生きて行こうとする私に驚くような提案をする。 「少年の世話係になってくれ。けれど人に話したら消す。」

私が嫌いなら婚約破棄したらどうなんですか?

きららののん
恋愛
優しきおっとりでマイペースな令嬢は、太陽のように熱い王太子の側にいることを幸せに思っていた。 しかし、悪役令嬢に刃のような言葉を浴びせられ、自信の無くした令嬢は……

10回目の婚約破棄。もう飽きたので、今回は断罪される前に自分で自分を追放します。二度と探さないでください(フリではありません)

放浪人
恋愛
「もう、疲れました。貴方の顔も見たくありません」 公爵令嬢リーゼロッテは、婚約者である王太子アレクセイに処刑される人生を9回繰り返してきた。 迎えた10回目の人生。もう努力も愛想笑いも無駄だと悟った彼女は、断罪イベントの一ヶ月前に自ら姿を消すことを決意する。 王城の宝物庫から慰謝料(国宝)を頂き、書き置きを残して国外逃亡! 目指せ、安眠と自由のスローライフ! ――のはずだったのだが。 「『顔も見たくない』だと? つまり、直視できないほど私が好きだという照れ隠しか!」 「『探さないで』? 地の果てまで追いかけて抱きしめてほしいというフリだな!」 実は1周目からリーゼロッテを溺愛していた(が、コミュ障すぎて伝わっていなかった)アレクセイ王子は、彼女の拒絶を「愛の試練(かくれんぼ)」と超ポジティブに誤解! 国家権力と軍隊、そしてS級ダンジョンすら踏破するチート能力を総動員して、全力で追いかけてきた!? 物理で逃げる最強令嬢VS愛が重すぎる勘違い王子。 聖女もドラゴンも帝国も巻き込んだ、史上最大規模の「国境なき痴話喧嘩」が今、始まる! ※表紙はNano Bananaで作成しています

断罪中、味方が多すぎて王子が孤立している件について

夏乃みのり
恋愛
バーンスタイン伯爵家の令嬢ラミリアは、魔力も剣の才能もない「ごく普通」の地味な女性。 ある日のパーティーで、婚約者であるジェラルド第二王子から「地味で無能で嫉妬深い」と罵られ、身に覚えのない罪で婚約破棄を突きつけられてしまう。 しかし、断罪劇は予想外の展開へ。

処理中です...